明けの明星 消えゆくまでは 醒めぬ夢だと 言い聞かせ
窓枠の隙間から差し込む一筋の白光が、寝台のシーツを鋭く切り裂いた。
アルカード――影に棲む吸血鬼にとって、それは愛しい者の剣よりも、ずっと冷酷に別れの時を告げる断頭台の刃だ。
「……野暮な星が、光りだしたな」
アルカードは、影の濃い部屋の隅で、銀の杯を弄びながら呟いた。
喉を焼くのは、この宿の名物である『竜の血』。燃えるようなアルコールが、吸血鬼の冷え切った体温をわずかに押し上げる。
寝台の端には、重厚な白銀の甲冑が置かれていた。その持ち主である聖騎士・リアンは、今はまだ深い眠りの中にいる。昨夜、降りしきる魔力の雪を避けてこの宿『一期一会』に逃げ込んだ二人は、宿の魔法契約――「この屋根の下では、あらゆる闘争を禁ず」という古の法に守られ、束の間の安息を得たのだ。
昨夜の光景が、酒の香りと共に脳裏をかすめる。
境界の森は、猛烈な魔雪に閉ざされていた。視界を奪う白銀の世界で、アルカードは深手を負い、雪に膝をつくリアンを見つけた。彼女の白いマントは返り血で汚れ、その手には、吸血鬼の天敵たる聖剣が握られていた。
本来ならば、絶好の機会だった。動けぬ宿敵の喉元に牙を立て、その清廉な血を啜り尽くせば、アルカードの力はかつてないほどに高まっただろう。
だが、彼はそうしなかった。
吹雪の中、彼は倒れゆく彼女の身体を抱きとめた。冷え切った彼女の体温が、厚いコート越しに伝わってくる。彼女は薄れゆく意識の中で、彼を討とうと剣を微かに震わせたが、アルカードはその冷たい指先を、自らの長い指で優しく包み込んだ。
「今はよせ。こんな雪の中で死ねば、お前の魂まで凍りついて、天国への道を見失うぞ」
皮肉を投げかけながら、彼は彼女を背負い、この宿へと辿り着いた。
宿主である『蝶の翅を持つ魔族』は、無言で彼らを「共生の間」へと案内した。この宿だけは、種族の業も、神への信仰も、すべてが「粋」という名の沈黙の下に棚上げされる。
アルカードは、再び現在の部屋へと意識を戻した。
部屋の隅に置かれたサイドテーブルには、前の客が忘れていったのか、先端の欠けた古い木製の杖が一本、立てかけられている。その側には、何十年も前に書かれたであろう、文字の擦れた手紙がひとつ。
この宿には、こうした「忘れ物」が至る所にある。主人はそれを片付けようとはしない。それらはすべて、この部屋を通り過ぎていった、名もなき恋人たちや仇敵たちの執着の残骸なのだ。
アルカードの視線が、壁に刻まれた無数の落書きに留まる。そこには、独特なリズムの詩が、様々な言語で刻まれていた。
『惚れて通えば 千里も一里 逢えぬ一日は 千年も』
誰かの切実な恋心が、長い年月を経て今もなお、壁の中で疼いている。
吸血鬼は、ナイフのような鋭い爪を立てた。壁の隅、これまでの客たちの言葉が途切れた場所に、新たな文字を刻み込む。
自分は、彼女を救いたかったのか。それとも、単に彼女という「獲物」を、誰の手にも渡したくなかっただけなのか。
執着、と呼ぶにはあまりに虚しく。
愛、と呼ぶにはあまりに毒が強い。
アルカードは、眠るリアンの寝息を聞きながら、自嘲気味に微笑んだ。
聖騎士である彼女は、目覚めれば再び、彼を滅ぼすべき悪として追うだろう。彼はそれから逃げ続け、いつか彼女の剣に貫かれる日を、心のどこかで待ち望んでいる。
それこそが、彼なりの「粋」な終わらせ方なのだ。
窓の外、紺碧の空が白み始め、一際明るい『明けの明星』がその輝きを強めた。
夜が死んでいく。
アルカードは、眠るリアンの頬に触れようとして、指を止めた。夜明けの微光に触れた指先が、じり、と音を立てて煙を上げる。
彼は痛みを感じることもなく、ただ愛おしそうにその指を見つめた。
「醒めぬ夢だと言い聞かせても、明星は容赦をしてくれないらしい」
彼は残りの酒を煽ると、椅子にかけていた漆黒の外套を羽織った。
部屋の壁には、新たに刻まれた言葉が残っている。
明けの明星 消えゆくまでは 醒めぬ夢だと 言い聞かせ
アルカードは、外套の裾から糸を一本引き抜き、それをリアンの枕元に置いていった。それは、彼がここに存在した唯一の、そして最も野暮な証拠だった。
宿の扉を閉める時、背後の部屋から、かすかな衣擦れの音が聞こえた。
リアンが目を覚ましたのかもしれない。
だが、彼は振り返らない。
宿を出れば、また「食うか食われるか」の運命が動き出す。
カマキリと蝶の、追いかけっこ。
この宿の一室に、蝶の鱗粉のような微かな酒の香りと、消えない文字だけを残して、吸血鬼は朝霧の影へと消えていった。




