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境界の宿「一期一会」~壁に刻まれた粋と野暮~  作者: サハラ


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7/11

みだれ髪さえ 直さず急ぐ 逢えぬ一日は 千年も

 宿屋『一期一会』の「共生の間」には、静かな空気が漂っていた。

 窓の外では風が吹き、木の葉が舞っているというのに、この部屋の中にだけは、死のような静寂が横たわっている。


 部屋の中央、古びた椅子に浅く腰掛けているのは、旅装に身を包んだ男、ゼノだ。彼は「時の観測者」として知られる禁忌の魔術師であり、その指先ひとつで一秒を永遠に引き延ばし、あるいは一昼夜を瞬きに変える力を持っていた。

 だが、今の彼の表情には、万物を操る者の傲慢さなど微塵もない。あるのは、取り返しのつかない過ちを犯した者特有の、焦燥と絶望だけだった。

「……また、間に合わなかったのか」

 ゼノは掠れた声で呟き、卓上に置かれた冷え切った紅茶を見つめた。

 湯気すら立っていないが、そのカップの縁には、つい数分前まで誰かがそこにいたことを示す、淡い紅の跡が残っている。



 ゼノには、この宿で待ち合わせをしている女性がいた。名をセラという。

 彼女は普通の人間であり、ゼノのように悠久の時を生きる術は持たない。二人はかつて、この宿のこの部屋で、十年に一度だけ再会するという約束を交わした。

 ゼノにとっての十年は、魔術の研究に没頭すれば数時間の感覚で過ぎ去る。

 だが、セラにとっての十年は、指折り数えて待つ三千六百五十日の孤独だ。


 前回の再会の時、セラは少しだけ寂しそうに笑って言った。


「ゼノ様。あなたにとっての一瞬が、私にとっては一生の重さなのです。……次は、どうか遅れずに来てくださいね」


 ゼノはその言葉を胸に刻んだはずだった。

 今回、彼は約束の日の数日前から、あらゆる時間魔法を駆使してこの宿へ急いだ。乱れた髪を直す間も惜しみ、喉を焼くような焦燥感に突き動かされ、彼は空間を跳躍した。

 だが、彼が時間軸の計算を僅かに誤ったのか、あるいは運命が彼を試したのか。

 彼が宿の扉を開けたとき、宿主は悲しげに首を振った。


「セラ様は、先ほど発たれました。……『もう、待てません』と仰って」


 ゼノが辿り着いたのは、彼女が去ったわずか五分後の世界だった。

 魔術師にとっての五分。それは彼が普段ならゴミのように捨てている、取るに足らない時間だ。だが、その五分が、彼と彼女の間に取り返せぬ隔絶を生んでしまった。


 ゼノはふらりと壁に歩み寄った。

 そこには、彼が来るよりもずっと前から、この部屋を訪れた「何者か」たちが残した詩が、幾層にも重なって刻まれている。


 嘆き、覚悟、真実、安らぎ、執着、叫び。


 それらはすべて、彼とは違い、「今」という一瞬に命を燃やし、しがみついて生きた者たちの声だった。

 ゼノは、自分が時間を操りながらも、実は一番時間を粗末に扱っていたことに気づかされる。


「一日は、千年……。ああ、彼女はこれほどまでに重い時間を、一人で担っていたのか」


 彼は震える手で、彼女が残したカップの横に爪を立てた。

 時間を巻き戻す魔法は、この「共生の間」の契約によって禁じられている。ここで起きたことは、取り返しのつかない「真実」としてのみ刻まれるのだ。


 ゼノは、壁の余白に文字を刻んでいく。


 それは魔術の術式ではなく、ただの男としての、血を吐くような後悔の言葉だった。


 みだれ髪さえ 直さず急ぐ 逢えぬ一日は 千年も


 彼が書き終えた瞬間、窓の外で止まっていた木の葉が、ふわりと動き出した。

 宿の主人が部屋に入ってきて、静かに告げる。


「彼女は、西の岬へ向かいました。……今から馬を飛ばせば、もしかしたら」


 ゼノは目を見開いた。魔術を使わず、自分の足で、自分の鼓動と共に時間を刻む。それは彼にとって、生まれて初めての「野暮」で「一生懸命」な行為だった。


「……ありがとう」


 彼は乱れた外套を翻し、部屋を飛び出した。

 魔術師としてのプライドも、時間の計算もすべて捨てて。

 一秒という時間の重さを知った男は、今度こそ、彼女の「千年」を埋めるために走り出す。


 壁に残された七つ目の詩。

 それは、すれ違い続けた二人が、初めて同じ「今」を共有するための、祈りの歌であった。

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