もとの鞘へと 収まる夜は すべてが夢の 中のこと
宿屋『一期一会』の最奥、月光さえも遠慮がちに差し込む「共生の間」
中央に置かれた円卓には、雪のような白さのテーブルクロスが掛けられ、一客のティーカップだけが、主を待つように鎮座していた。
その席に座らされているのは、暗殺者の少女・ナハト。彼女は三十年前に没したはずの王女と瓜二つの容貌を持つというだけで、今、身の丈に合わぬ豪奢な絹のドレスを纏わされ、人形のように据え置かれていた。
老執事エドワードは、彼女の背後に立っている。
彼はナハトの背後に影のように寄り添い、彼女の髪の乱れを銀の櫛で整え、冷めた紅茶を音もなく取り替える。その仕草は献身的でありながら、ナハトにとっては逃げ場のない檻のようでもあった。
この宿の外では、王国の名前すら歴史の塵に埋もれている。だが、エドワードの瞳に映る世界だけは、あの日、城が落ちる直前の「黄金の黄昏」で止まっていた。
三十年前、エドワードは主君を火の海から救い出せなかった。
彼はその罪悪感という猛毒に中てられ、自らの正気を半分だけ捨てた。以来、彼は主君の面影を求めて大陸を彷徨い、ようやく見つけ出したのが、主君を殺した一族の末裔であり、かつ皮肉にも主君の生き写しである暗殺者の少女、ナハトだった。
エドワードはナハトを捕らえ、殺す代わりに「教育」した。
言葉遣い、歩き方、そして、かつての主君が好んだ紅茶の温度。ナハトは当初、彼を殺す機会を伺っていたが、エドワードが自分に向ける視線が「自分自身」を一切見ておらず、ただ背後の亡霊だけを追いかけていることに、底知れぬ孤独と安らぎを覚えてしまった。
誰からも顧みられない路地裏の犬だった自分を、偽物であれ「王女」として扱い、命を懸けて仕える狂人。ナハトもまた、その歪な献身にしがみつかなければ、自分が何者であるかを見失うほどに毒されていたのだ。
ナハトの視線が、部屋の石壁を這う。
そこには、これまでこの部屋を通り過ぎていった先人たちが遺し、しがみつくような想いの詩が月光に浮かんでいた。
「……皆、死んだものに、あるいは終わったものに、しがみついている」
ナハトが掠れた声で零すと、エドワードは彼女の肩越しに、銀の果物ナイフを差し出した。
盆に載せられたそれを、ナハトが戸惑いながら手に取る。
「左様でございます。人は、何かにしがみつかなければ、この境界の霧の中に消えてしまう。……私は、あの日、あの方を失った瞬間に、私の魂という刃を収める『鞘』を失いました。今の私は、抜身のまま錆びていく、惨めな抜け殻でございますよ」
エドワードはナハトの背後から、彼女がナイフを握る手に、自らの節くれ立った大きな手をそっと重ねた。
主従の距離を越えた不遜な触れ合い。だが、それはエドワードにとって、亡霊を現実へと引き留めるための必死の儀式だった。
「閣下。いや、ナハト様。……せめて最後は、この夢のままで終わらせてください。私が戻るべき場所を、ここに刻ませていただきたい」
エドワードはナハトの手に力を込め、彼女を操るようにして、ナイフの先を石壁の余白へと導いた。背後から抱きすくめるような形となり、二人の心臓の鼓動が、重厚なドレス越しに重なり合う。
ナハトの指先を通して、エドワードの生涯をかけた「執着」が壁へと伝わっていく。
ガリ、ガリと石が削れる音は、エドワードの喉から漏れる嗚咽のようでもあった。ナハトは抵抗せず、ただ彼に身を任せ、共に文字を掘り進めた。
もとの鞘へと 収まる夜は すべてが夢の 中のこと
刻み終えた瞬間、エドワードはナハトの背中に額を預け、震える吐息を漏らした。
彼が刻みたかったのは、現実という冷たい鞘に戻ることへの拒絶であり、偽りの幸せの中で朽ち果てることへの賛美だった。
「……ありがとうございました。これで、私はようやく、あの方の元へ帰れます」
エドワードはナハトの手を離し、再び一歩下がって、完璧な礼を見せた。
夜明け。
エドワードはナハトを伴い、宿の裏口から深い霧の中へと消えていった。
ナハトは最後までナイフを振るわなかった。彼女は、エドワードという男がしがみついた「夢」を守り抜くことを、自らの新しい使命にしてしまったのだ。たとえそれが、死へと続く道であっても。
それは、現実という鞘を捨て、永遠の「未練」の中に生きることを選んだ、一人の忠臣と、彼に選ばれた影の少女の、最後の言葉であった。




