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境界の宿「一期一会」~壁に刻まれた粋と野暮~  作者: サハラ


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軒の下に 未練預けて 一期一会

 境界の宿『一期一会』。

 外の景色は、霧に包まれた深い森とも、果てしない荒野とも見える。ここには確かな時間は存在せず、ただ客が訪れ、そして去っていくまでの「一晩」だけが、永遠に繰り返される場所であった。


 宿の主人は、誰もいなくなった「共生の間」に入り、使い込まれた雑巾で卓を拭き上げた。

 主人の名は、誰も知らない。ただ、古びた着流しを粋に着こなし、片方の目には深い傷跡がある。彼は人間でも、エルフでも、魔族でもなかった。この世界の境界そのものが擬人化したような、得体の知れない静謐さを纏っている。


 主人の視線は、壁一面を埋め尽くしたいつくもの情念に注がれた。

 もはや消えかけ文字も判然としない、夜明けに消えた吸血鬼の呪いから、つい先ほど刻まれた、老いた忠臣の夢まで。

 壁に深く刻まれた文字たちは、月光を浴びて、まるで生きているかのように微かに脈打っている。



 主人は、かつてはこの壁の向こう側にいた男だった。

 何千年も昔、彼は世界を統べる王であり、あるいは世界を滅ぼす魔王であったかもしれない。彼は、あまりに多くのものを愛し、あまりに多くのものに執着した。


「……しがみつくのは、苦しいものだ」


 彼は独りごちた。

 かつての彼は、愛する女を死から連れ戻そうとして、世界の理を壊そうとした。その結果、彼は生と死の狭間、この「境界」に永遠に閉じ込められることになったのだ。


 神は彼に、一つの役目を与えた。


『この宿を訪れる、迷える魂たちの『重荷』を預かれ。彼らが自らの意志で、執着という名の垢を壁に刻み捨てたとき、初めて彼らは本当の居場所へ帰ることができる』


 主人はそれ以来、数えきれないほどの「未練」を見てきた。

 ある者は愛に溺れ、ある者は復讐に焦がれ、ある者は己の種族の運命を呪った。

 彼はただ、黙って酒を出し、料理を運び、彼らが自分の心と向き合うための「一晩」を提供し続けてきた。壁に刻まれた詩は、客たちが自らの魂を削り、ここに置いていった「重荷」の残骸なのである。


 主人は、壁に刻まれた詩を一つずつ指でなぞった。


 独り闇に消えた吸血鬼の、孤独な矜持。

 悠久の時を捨てたエルフの、熱い鼓動。

 偽りの中に、ただ一つだけ真実の愛を秘めた詐欺師。

 飛ぶことをやめた翼人の、静かな安らぎ。

 共倒れを選んだ魔女と王子の、湿った情念。

 老騎士と聖女の、爽快な哄笑。

 想い人を追って走り出した魔術師の、枯れた涙。

 清々しく別れた剣客と女の、凛とした沈黙。

 鬼の命を救って逝った少女の、切ない祈り。

 ようやく鞘に収まった、歪な献身の熱量。



 主人は、小さく、喉の奥で笑った。

 世を去る者たちは、皆一様に、未練を捨てて潔く散ることこそが救いだと口にする。だが、この宿を見守り続けてきた彼だけは知っていた。

 本当に魂を輝かせるのは、その身が焼け落ちようとも、最後まで何かに――愛に、憎しみに、あるいはただの執着に――しがみつき、泥を啜ってでも自らの意志を貫こうとする、その無様で猛々しい姿なのだと。

 


「……さて。私もまた、この長すぎた一夜を終えるとしよう」


 主人は懐から、一振りの、手入れの行き届いた小刀を取り出した。

 それは、彼がこの境界の番人となる前、自らの胸に突き立てようとして果たせなかった、遠い日の後悔の証。彼はその刀身を、宿の主としての誇りとともに、壁の最後の一角へと当てた。


 彼もまた、救いたかった女の面影に、何千年もしがみついていたのだ。この宿を営み、他人の未練を預かり続けることで、自らの未練を正当化してきた。だが、無数の魂が壁に残していった壮絶な「生」の跡が、彼の止まっていた時間を、静かに、だが力強く動かし始めていた。


ガリ、と石を削る重い音が、静寂に響く。

 自らの最後の執着を、この壁に預ける儀式。


のきの下に 未練預けて 一期一会


刻み終えた瞬間、壁に刻まれたすべての都々逸が、激しい白光を放った。

 石壁に染み付いていた、これまでの客たちの溜息、叫び、笑い声、そして酒の匂いが、一つの巨大な奔流となって部屋を駆け抜ける。


 主人は、手に持っていた小刀を、ゆっくりと鞘に収めた。

 カチリ、という静かな、だが確かな音が響く。

 その音は、この宿屋『一期一会』の結界が解ける合図でもあった。

 壁は崩れ、屋根は霧へと還り、主人の体もまた、足元から透き通っていく。


 主人の姿が完全に消える直前、彼は見た。

 霧の向こう側、かつて彼が愛し、救えなかった女が、穏やかに手を差し伸べているのを。

 彼はようやく、何千年もしがみついていた「境界」という名の檻から解き放たれ、本来の場所へと帰っていく。



 朝。

 霧が晴れた野原には、風に揺れる名もなき花々が咲き乱れていた。

 そこには、かつて宿があったことを示すものは何もない。ただ、大きな岩肌に、誰が刻んだとも知れぬ詩が、雨に洗われて白く輝いている。

 通りかかる旅人は、その詩を読み、なぜか自分の胸の奥にある「忘れかけていた執着」を思い出し、少しだけ背筋を伸ばして歩き出す。


 『愛とは、しがみつくもの』


 もとの鞘へと収まるその日まで、人は誰もが、何かにしがみついて、輝きながら夢を見る。

最後までお付き合い頂きありがとうございました。

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