くるりと回れば 昨日の敵も 今日の情けに 絆されて
宿屋『一期一会』の「共生の間」に、世にも奇妙な二人連れがいた。
一人は、身の丈八尺を超え、額に折れた一本角を持つ老鬼・羅刹。その肌は岩のようにひび割れ、数多の勇者を屠ってきた凶悪な爪は宿の調度品を容易く切り裂く。
対するは、風が吹けば折れそうなほど細い体躯の少女・お光。彼女は死装束のような真っ白い着物を纏い、顔色の悪さを隠すこともなく、淡々と鬼の杯に酒を注いでいた。
この宿の中では、いかなる殺生も禁じられている。
鬼はお光を食うことができず、お光もまた、隠し持った懐刀で鬼の心臓を突くことは叶わない。
「……食わぬなら、注ぐだけ無駄か」
お光が掠れた声で呟くと、羅刹は鼻で笑った。
「貴様の注ぐ酒など、美味くもない。だが、注ぐのを止めれば、その瞬間に貴様の首を噛みちぎりたくなる。……続けろ、供物」
羅刹の言葉は残酷だが、その瞳にはお光を「獲物」として見る冷徹さの中に、どこか彼女の「命の灯火」の儚さを面白がっているような、奇妙な色が浮かんでいた。二人はただ、宿の窓を叩く激しい雨音を聞きながら、通い合わぬ視線を交差させ、終わりのない夜をやり過ごしていた。
お光の村では、百年に一度、山に棲む羅刹に若い娘を捧げる掟があった。
だが、お光はただの犠牲者ではなかった。彼女は生まれつき肺を病んでおり、長くは生きられぬ身であった。村の長老たちは、彼女の血に「遅効性の猛毒」を数ヶ月かけて混ぜ込み、羅刹が彼女を喰らった瞬間に、その内側から内臓を焼き尽くす計略を立てたのだ。彼女は村を救うための「英雄」としてではなく、羅刹を殺すための「毒餌」として磨き上げられてきた
。
「食え、鬼。私の肉は柔らかいぞ。私の血は、お前の渇きを癒やすだろう」
村の祠で羅刹にまみえたとき、お光は震える声でそう誘った。
だが、羅刹は彼女の細い手首を掴み、その脈動のあまりの弱さに、不快そうに鼻を鳴らした。
「……死にかけの肉など、泥を食うのと変わらん。貴様、死に場所を探しているのか」
「私は……お前に食われるために生きている」
「野暮なことを。俺は、不味い肉を食らって腹を壊すのは、鬼の面汚しだと知っている。……貴様、まともな飯を食ったことがあるのか?」
羅刹はお光を食い殺す代わりに、彼女を抱え上げ、この境界の宿へと連れてきた。
宿の主人が運んできたのは、温かな蜂蜜酒と、季節の野菜をふんだんに使った煮込み料理だった。お光は、生まれて初めて口にする「まともな飯」の味に、自分が「生きている人間」であることを思い出し、不覚にも涙をこぼした。
「……食ってから死ね。その方が、鬼の腹も膨れるというものだ」
それは羅刹なりの、残酷で奇妙な「情け」であった。お光は、自分を道具として扱った人間たちよりも、自分を「獲物」として扱いながらも、人間らしい食事を与えてくれた鬼に、皮肉にも感謝さえ覚えていた。
お光の視線が、部屋の壁に刻まれた無数の詩を辿る。
そこには、遥か昔からこの部屋を通り過ぎていった者たちの、言葉にならない叫びが染み付いていた。
お光は、自分の指先を見つめた。
毒に侵された自分の身体。自分を道具として差し出した村。そして、あえて自分を生かし、温かな食事を買い与える宿敵。
「……可笑しいね。あんなに憎んでいたのに、お前に注ぐ酒が、少しも苦くない」
お光は、羅刹が蜂蜜酒の酔いで居眠りを始めた隙に、懐から錆びついた懐刀を取り出した。それは本来、羅刹の心臓を突くためのものではなかった。羅刹が自分を喰らわないと悟った瞬間に、自らの喉を突いて「毒餌としての役目」を全うするための、最後の手段だった。
「……錆びた鉄の匂いだ。私の命も、この鉄と同じ」
お光は激しく咳き込み、口元を真っ赤に染めながらも、刀の先を壁に当てた。
病人の細い腕では、石壁を削るのは容易ではない。彼女は自らの命を削るように、切っ先で石を「掘り進める」ようにして、一文字、また一文字と刻んでいく。その度に、カチ、カチという、命の期限を刻むような音が、静かな部屋に響いた。
彼女は知っている。宿を出れば、自分は死ぬ。羅刹に食われれば彼を殺し、食われなければ病で朽ちる。どちらに転んでも、この「情け」が報われることはない。
夜明け。雨は雪へと変わり始めていた。
羅刹は目を覚まし、壁に刻まれた新しい詩を黙って見つめた。
「……野暮なことを。俺はただ、獲物を太らせたかっただけだ」
羅刹はそう言い捨てると、お光を再び背負い、宿の裏口から山へと向かった。
山の境界に着いたとき、お光の息は絶え絶えだった。彼女の視界は白く滲み、羅刹の顔さえ見えなくなっていた。時折、血混じりの咳が混じる。
「……行け、鬼。山へ帰れ。……私は、お前の獲物にはなれない」
「何を今更。貴様は村が差し出した供物だろうが」
「……違う。私は、お前を殺すために設えられた『毒』だ。私の血を啜れば、お前の腹は内側から焼け爛れる。……村の奴らが、そう仕込んだんだ」
お光は、自分の正体を明かした。鬼を討つという村の悲願を裏切り、自らの存在意義を否定してまで、彼女は羅刹の命を優先したのだ。
「……だから、私を食うな。泥以下の、薄汚い毒餌として、ここで朽ちさせてくれ」
羅刹は足を止めなかった。彼は鼻で笑い、お光を森の入り口にある古びた社の軒下に、静かに下ろした。
「……知っている。貴様の血が、腐った水の匂い以上に酷いことなど、最初から分かっていた」
羅刹は、お光の告白を「野暮だ」と言わんばかりに一蹴した。彼は毒だと知りながら、彼女をここまで運び、最期の飯を食わせたのだ。
「俺は、毒を食らうほど落ちぶれてはいない。……だが、貴様という毒を預かったことだけは、忘れてやらん」
羅刹は自らの角を一本、根元から力任せに折り取った。凄まじい生血が雪を赤く染める。彼はその折れた角を、お光の冷たくなった手に握らせた。
「これを持っていれば、村の奴らもお前に手出しはできん。……死ぬまで、俺の所有物(獲物)として、そこで眠っていろ」
お光は、羅刹の流した血の色と、自分の毒に染まった血の色が、雪の上で混ざり合うのを見つめていた。
彼女は村の英雄にも、鬼の食い扶持にもなれなかった。だが、一人の男の命を救い、その男の体の一部を抱いて逝く。それは、毒餌として生まれた娘が辿り着いた、最も贅沢で、最も「粋」な裏切りだった。
宿の壁に残された新たな想い。
くるり回れば 昨日の敵も 今日の情けに ほだされて
それは、殺すべき相手を愛してしまった、哀れな猛毒の少女の、最期の真実であった。




