シーン35『懐かしき鼻歌、シナリオを拒む誓い』
都会の赤橙色の夕暮れが、冷たいアスファルトの上に二つの影を長く落としていた。
新しく買い揃えた初心者用の片手剣と頑丈な盾を重そうに抱えながら、小鳥遊澪は薫の少し斜め後ろを、地元の頃と同じようにトボトボと歩いている。
「ねえ、薫お姉ちゃん。お姉ちゃんってさ、普段の晩御飯いっつもどうしてるの?」
澪がクリクリとした目を上に向けて、何気なく尋ねてきた。薫はいつもの完璧な聖母の笑みを向けたまま、滑らかに応じる。
「どうしてるって、普通にちゃんとお家で作って食べてるわよ?」
「――はい、嘘!」
澪はピタリと足を止めると、抱えた盾の隙間から薫をビシッと指差した。
「お姉ちゃんが嘘言ってる時の、ちょっとだけ声が優しくなる雰囲気、私くらいになれば一発で見抜けるんだからね! 居候させてもらうんだから、晩御飯は私が毎日作ります! ほら、そこのスーパー寄っていこ!」
「え? ちょっと、澪ちゃ――」
引き止める間もなく、澪は小柄な体を躍らせて、駅前のスーパーの自動ドアへと滑り込んでいってしまった。薫は、今や自分の左手小指を締め付ける、二つの輪が合わさったギメルリングを見つめ、小さくあずき色の唇を噛んだ。
(本当に……無鉄砲で、生意気なんだから)
カゴの中に賑やかに並んでいく都会の食材を二人で眺め、二人は薫のマンションへと帰宅した。
生活感が綺麗に削ぎ落とされた、デザイナーズマンションのリビング。
「わあ……オシャレだけど、やっぱり冷蔵庫の中、お水しかないじゃん!」
キッチンで怒る澪の声を背中に受けながら、薫はそわそわと、彼女の斜め後ろを落ち着かない様子で行ったり来たりしていた。
「あの、澪ちゃん。私、何か手伝うことは――」
「お姉ちゃん、そこにいるとすっごく邪魔だから大人しく座ってて!」
「……あ、そう。ご、ごめんなさい」
薫は少しだけ肩をシュンとすぼめると、リビングの奥にある大きなベッドの端へ、ちょこんとおとなしく腰を下ろした。
トントントン、と小気味いい包丁の音が、静まり返っていた部屋に優しく響き始める。
やがて、キッチンからは地元の懐かしい鼻歌が聞こえてきた。地元にいた頃、隣の家からいつも聞こえていた、あの無邪気な歌声。
(……前にも、同じようなことがあったな)
薫はベッドの上で長い足を抱え込み、顎を膝に乗せながら、料理を作る澪の小さな背中をじっと見つめていた。
カネの計算も、ロスト後の資産計算も、ファインダーの光軸もない。ただ、胸の奥底からじんわりと、驚くほど温かい熱が広がっていくのを、薫は一人の女の子として静かに噛み締めていた。
「はーい、お待たせ! 特製肉じゃがの完成だよ!」
澪が大きめの皿をガラステーブルへと運び、二人はベッドの端に並んで座って箸を動かした。
「美味しい……すごく、温かいわ」
「でしょ? 味が染み込んでるんだから!」
澪は嬉しそうに笑いながら、ふと、テーブルの隅に視線を止めた。
「ねえ、お姉ちゃん。それ、どうしたの? その可愛いウサギの髪留め。それと、そのハンドクリーム……なんか、洗面所のゴミ箱にオシャレな新しいボトルがポイって捨ててあって、中身がこっちの古いガラスの小瓶に移し替えられてるの見えちゃったんだけど」
澪のクリクリとした目が、薫の顔を真っ直ぐに見つめる。
薫は、一瞬だけ息を詰めた。
自らの左手小指。そこにある、知恵の輪のようにピタッと噛み合ったギメルリングへ、右手の指先がそっと触れる。銀の冷たさが、じっと指に染み込んできた。
「……これね、本当に、大切な人たちにもらった物なのよ」
薫は、小指のリングの噛み合わせの溝をなぞりながら、どこか遠くを見つめるような、痛ましくも悲しい、だけど酷く懐かしそうな雰囲気を唇の端に浮かべて静かに呟いた。
そのただならぬ空気に、澪の目がさらに丸くなる。
「……待って! お姉ちゃん、もしかして彼氏いる!?」
「えっ!?」
「嘘! 私、お邪魔だった!? 二人きりのラブラブな部屋に、私が居候して邪魔しちゃったの!?」
澪がベッドの上で大声を上げて跳び上がった。薫は一瞬で耳の根元まで真っ赤に染め上げ、クッションを抱え込みながら激しく首を振った。
「ち、違うわよ! 彼氏なんか、いたことないわよ! この小指の指輪は、お友達にもらったの!」
「本当ぉ? じゃあ、そのハンドクリームは?」
澪がニヤニヤとした意地悪な笑みを浮かべて顔を近づけてくる。薫はたまらなくなって、持っていたクッションを自分の顔面にバフッと強く押し当てた。真っ赤になった顔を完全に隠したまま、こもった、消え入りそうな声を絞り出す。
「……大好きだった人から、もらったの。……すごく、すごく……大切なのよ」
「キャーーーッ!!! なにそれ! そんな人いたんだ!? 付き合わなかったの!? どんな人だった!? 見た目は? 性格は!?」
澪は完全に恋バナモードに突入し、薫の肩をガシガシと揺さぶって興奮している。薫はクッションを少しだけずらし、潤んだ瞳で、消えそうな声を漏らした。
「……年下で、可愛くて。……私のことを、いつも、命懸けで守ってくれたのよ」
「うわぁ……最高じゃん! え、じゃあさ、お姉ちゃん。その人とは、その……したの?」
「し、してないわよっ……!!! ……したこと、ないし……っ」
薫の顔は、本気で血が噴き出しそうなほど真っ赤になった。それを見た澪が、今度は本気で度肝を抜かれたように口をあんぐりと開ける。
「え……? 薫お姉ちゃん、したことないの……?」
「な、なによ……」
「私だって、田舎にいる時に経験あるよ?」
「ええぇぇぇッッッ!!!?? 澪ちゃん、経験あるのっ!!???」
薫はクッションを放り出し、この日一番の凄まじい絶叫をリビングに響かせた。あのいじめられて泣いていた妹分が、自分を追い抜いて大人になっていたという、あまりの衝撃。
「ふふーん! 初めて薫お姉ちゃんにリードしちゃった!」
澪は勝ち誇ったように胸を張り、有頂天になって笑っている。薫はただただ顔を真っ赤にしたまま、ベッドの上で小さくなって縮こまることしかできなかった。
◇
夜が更け、贅沢で温かい日常の余韻のなか、澪は大きめのシルクのパジャマに身を包み、大きなベッドの中で小さな健やかな寝息を立てて深い眠りに落ちていった。
静まり返った深夜の寝室で、薫は一人、リビングのガラス机の前に座り、自らの左手小指に嵌まったギメルリングを強く握りしめた。
視線の先には、今日買ったばかりの頑丈な盾が、ベッドの脇へ立て掛けられている。そのすぐ隣では、澪が何も知らずに穏やかな寝息を立てていた。
(……死なせない。絶対に)
薫の指先に力がこもる。眠る澪の横顔を見つめ、それからもう一度、ベッド脇の盾へ視線を移した。
(私が、強くする)
そのまましばらく澪の寝顔を見つめていた薫は、やがて何かの気配を感じ取ったように、ふっと顔を上げた。
「……何を見ているのよ」
冷え切った極寒の瞳が、暗闇の向こうを真っ直ぐに射すくめる。
「あんたたちが望んでいる、あの結末になんか……絶対に、させないから」
薫は左手の小指を、もう一度強く握り込んだ。
「本当に澪ちゃんは、昔と変わらずいい子ね。変わったのは私だけ…。」




