シーン1『サインは、内容をよく読んでから』
薄暗い雑居ビルの一室に、蛍光灯の不快なブーンという羽音が低く響いていた。
壁紙はところどころ剥がれかけ、窓の外には、怪しく発光するダンジョン『大穴』の巨大な輪郭が、街のネオンを濁らせるように佇んでいる。
お世辞にも清潔とは言えないその事務所のソファに、城ヶ崎湊は緊張で身体を極限まで硬くして座っていた。
「緊張しなくていいのよ、ミナト君。私たちはもう、ビジネスパートナーなんだから」
対面に座る女性――千歳薫が、形の良い唇を艶やかに歪めて微笑んだ。
二十代後半。緩くウェーブがかった漆黒の髪が、彼女の抜けるように白い肌を妖しく引き立てている。切れ上がった切れ味の鋭い瞳は、見る者を射すくめるような冷たさと、すべてを包み込むような包容力が奇妙に同居していた。胸元の開いたシャツから覗く鎖骨が、雑居ビルの安っぽい明かりの下で異様な色気を放っている。
彼女の膝の上には、黒く武骨な塊――ダンジョン専用の高規格撮影カメラが、主人の肉体の一部であるかのように静かに鎮座していた。
(綺麗だ……。信じられないくらい、綺麗な人だ……)
十九歳になったばかりの湊は、完全に圧倒されていた。これまでダンジョンの一階層で泥にまみれ、ゴブリン相手に大剣をがむしゃらに振り回すだけの日々を送ってきた若者にとって、薫のような洗練された大人の女性は、まるでおとぎ話の住人のように見えた。彼女の甘い香水が鼻腔をくすぐるたび、頭がぼうっと熱くなり、まともな思考が霧散していく。
「あ、はい……っ。すみません、千歳さん。僕、こういう事務所に来るの初めてで……」
「薫、でいいわ。これからダンジョンの中では、二人きりで命を預け合うのよ? そんなに畏まられたら、寂しいじゃない」
薫は身を乗り出し、湊の顔を覗き込んだ。長い睫毛が揺れ、彼女の瞳が湊の視線をまっすぐに捉える。
湊は心臓が口から飛び出そうになるのを必死に堪え、真っ赤になった耳を隠すように視線を落とした。自分の膝の上、衣服に隠れた安物の防具が、急に酷くみすぼらしいものに思えてくる。
「じゃあ……薫、さん。よろしくお願いします」
「ええ、よろしくね」
薫は満足げに微笑むと、机の上に一枚の書類を滑らせた。上部に『ダンジョン配信・撮影配信業務委託契約書』と印字された、数枚にわたる書類だ。
「これが今回の契約書よ。一応、形式的なものだから目を通してちょうだい。一番最後のページにサインをすれば、私たちは晴れて正式なチームよ」
「わかりました」
湊は書類を受け取った。しかし、文字が全く頭に入ってこない。
法律用語や細かい数字が並ぶ紙面よりも、書類を持つ自分の手に触れそうな、薫の細く白い指先ばかりに意識が向かってしまう。彼女の爪に塗られた深い赤色が、どうしても視線を釘付けにするのだ。
それに、何よりも湊には時間がなかった。
故郷の田舎で、重い病を患いながら自分を育ててくれた母親。その母に一刻も早く高額な治療費と、仕送りを送りたかった。一攫千金――そのためには、この美しいプロのカメラマンである薫の力を借りて、ダンジョン配信で一気にバズるしかなかった。
「あの、薫さん。僕、どうしても稼がなきゃいけないんです。母さんを、楽にさせたくて……。ダンジョンでいくら危険な目に遭っても、死ぬ気で戦いますから」
「まあ。お母さん想いの、素敵な男の子なのね」
薫の瞳が、まるで聖母のように優しく細められた。彼女は湊の硬直した大きな手を、自分の両手でそっと包み込んだ。温かく、驚くほど柔らかい手のひらだった。
「安心しなさい、ミナト君。あなたのその純粋な想い、私が一番近くで、世界中に届けてあげる。私のカメラワークにかかれば、あなたはすぐにトップスターよ。お母さんにも、すぐに美味しいご飯を食べさせてあげられるわ」
「はい……! ありがとうございます!」
薫はうさぎのキャラクターの顔がついたペンを湊に渡す。
湊の胸は、言い知れぬ高揚感と、彼女への深い信頼――そして、淡い独占欲に似た憧れで満たされた。この人の前で、絶対に無様な姿は見せられない。大剣を振るい、立派な男として認められたい。
湊は、書類の中身を、特に後半の小さな文字で書かれた「特約条項」を一切確認することなく、最後のページにペンを走らせた。
『城ヶ崎 湊』
力強い筆跡で書かれた名前を見て、薫の唇の端が、ほんのわずかに吊り上がった。
その瞬間、薫の黒髪に飾られた、小ぶりな黒いヘアピン型の隠しカメラのレンズが、湊のサインを鮮明に捉えていた。
薫の耳に仕込まれた極小のインカムから、事務所の別室、あるいは別の安全な高層ビルの一室にいるであろう男の、軽薄な笑い声が流れる。
『あーあ、可哀想に。お母さん想いの純情ボーイ、お姉さんの顔と胸に目を奪われて、中身を一行も読まずにサインしちゃったよ。薫ちゃん、本当に男の転がし方が天才的だねぇ』
声をかけてきたのは、配信の総責任者であるディレクターの栂野だ。薫は湊に気づかれないよう、髪を耳にかけるふりをしてインカムを軽く叩いて「了解」の合図を送る。
続いて、別の低く無機質な女性の声がインカムに混ざる。テクニカルオペレーターの千早だ。
『城ヶ崎湊のサイン受領。ギルドの個人口座のバックアップおよび、ロスト時の資産自動差し押さえプログラムの同期を完了しました。いつでもいけます、薫さん』
(お疲れ様、二人とも。最高の『商品』が手に入ったわね)
薫は心の中でだけ冷酷な笑みを浮かべ、表情には一切出さずに立ち上がった。
膝の上のメインカメラを慣れた手つきで構え、湊に向かってウインクをしてみせる。
「さあ、ミナト君。善は急げよ。早速、第一層のゲートへ向かいましょうか。準備はいい?」
「はい! いつでもいけます!」
湊は背中に背負った大剣の重みを確かめ、誇らしげに胸を張った。
薫が手元のスイッチを入れ、カメラのレンズの脇で、小さな赤いランプが血のように赤く点灯する。配信開始の合図だ。
「さあ、リスナーのみんな、お待たせ! 今日の主役の登場よ! お母さんのために命を懸ける、期待の超新星、ミナト君です!」
薫の声のトーンが、一瞬で「人当たりの良い、頼れる美人カメラマン」のものへと切り替わる。
レンズの向こうで、湊はカメラに向かって、少し緊張しながらも真っ直ぐな、最高の笑顔を見せた。
それが、自分を奈落の底へと引きずり下ろす、合法的な処刑台への一歩だとも知らずに。
「配信を見てくれてありがとう! カメラマンの千歳薫よ。
『続きを読みたい!』と思ってくれた画面の前のそのこあなた!
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さあ、ミナト君のこれからに期待して――次回配信『カメラの裏側へようこそ、親愛なるリスナーさん』を楽しみにしててね♡」




