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消された雨  作者: 鷹司 怜


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第九章 証言

 

 記者の名前は高橋亮一、三十八歳だった。


 小さなオンラインメディアを一人で運営している男だ。大手に断られ続けて、自分でサーバーを借りた。自分でコンテンツを書いて、自分で公開してきた。月に何万ページビューあるかわからない。慧は確認しなかった。数字は関係ない。この男が、これまで自分の名前で、自分の判断で、誰かの顔を世界に出してきた人間かどうか——それだけが重要だった。


 そういう人間が、世界を変えることがある。慧はそれを信じることにした。


 インタビューはビデオ通話で行われた。慧の顔が映り、声が記録される。


「本当によろしいのですか」高橋は最初に確認した。「顔出しでの証言は、あなたを危険にさらします」


「わかっています。でも、匿名では意味がない。ARIAは匿名の告発を簡単に否定できる。名前と顔があってこそ、証言に重みが出る」


「では——始めましょう」


 慧は話した。


 自分がARIA日本支局で何をしていたか。どのようなデータを、どのように修正してきたか。


 二〇四九年、インドネシア・カリマンタン島。大規模な森林火災。PM2.5の濃度を実際の値の三分の一に書き換えた。二十三万人の住民への影響を隠蔽した。住民への避難指示が遅れ、呼吸器疾患による死者が通常の五倍に上った。


 二〇五一年、バングラデシュ・チッタゴン管区。ARIA協定署名への「ご褒美」として、降水量データを改ざんした。実際には記録的な少雨だった地域を、「平年並み」として記録した。農業支援が遅れ、翌年の食料不足につながった。


 二〇五二年、ミャンマー・エーヤワディー川流域。農業用水の不足を示すデータを、「技術的誤差」として処理した。農民たちへの支援が三ヶ月遅れた。その間に、農地の三割が枯渇した。


 二〇五三年、複数の東南アジア諸国。ARIAの政策に反対した国々への「制裁」として、降水量データを操作した。農業生産量が低下し、食料価格が上昇した。


 慧は話し続けた。高橋は詳細を記録しながら、慧に何度も確認した。日付。数値。承認者のID。改ざん後のデータとの差。これらすべてを、慧は答えた。


 話しながら、慧は初めてそれらを「声に出した」ことに気づいた。十七年間、数字で扱ってきたことが、言葉になると違う重さを持った。重い。想像していたより、ずっと重い。


 喉が詰まりそうになった。何度か。目が潤んだ。こらえた。泣くのは後でいい。今は話す必要がある。


 インタビューは三時間かかった。


「あなたの証言は、私が見てきた中で最も具体的です」高橋は言った。「データの専門家が、自分の手で行ったことを語っている。これは否定しにくい」


「ARIAは否定するでしょう」


「するでしょう。でも、否定するたびに記事の存在が広まる。否定は宣伝になります。私の仕事はここまでです。あとは——世界が判断する」


 翌朝、記事が公開された。「ARIA元オペレーターが告白 気候データ改ざんの実態、十七年間の証言」


 記事には慧の顔写真と実名が載っていた。


 慧はその記事を読んだ。自分の言葉が文字になっているのを見るのは、奇妙な感覚だった。まるで別の人間の話のようで、同時に、これ以上なく自分の話だった。


 記事は拡散した。最初の一時間で数万件のシェア。二時間後には国際メディアが拾い始めた。


 三時間後、ARIAは声明を出した。「元職員による虚偽の証言であり、当該人物は精神的に不安定な状態にある。組織的な調査の結果、証言に含まれる事実関係に多数の誤りが確認された」


 精神的に不安定。涼の時と同じ手口だ。


 だが今度は、その手口が効かなかった。


 慧の証言には具体性があった。案件番号、日時、数値——ARIAが否定するためには、それらすべてに反証しなければならない。反証には時間がかかる。時間がかかる間にも、記事は広まり続ける。


「精神的に不安定」と言いたいなら、どの数字が間違っているかを具体的に示せ——そういう声が、ネット上に広まった。


 慧が証言を公開してから三十時間後、別の元ARIAオペレーターが名乗り出た。東南アジアのセンターで働いていた女性で、自分もデータ修正に関わっていたという。彼女の証言が、慧の証言を裏付けた。


 四十八時間後、三人目。インド出身の男性で、ムンバイのセンターでの経験を語った。


 七十二時間後——ARIAの主要投資家の一社が、「調査が完了するまでの間、ARIAへの資金提供を一時停止する」という声明を出した。


 世界が、少しだけ動き始めた。


 慧はそれを、中野の小さな部屋で見ていた。涼が隣にいた。


「動きましたね」


「少しだけ。まだこれからです」


「はい」


「涼さん。あなたも、いつか証言してください」


「……はい。いつか。もう少しだけ、準備が必要ですが」


「待ちます」


 二人は並んで、スマートフォンのニュース画面を見続けた。


 外では、雨が降っていた。ARIAの雨か、自然の雨か——今日もわからない。


 だが窓ガラスを伝って流れる水は、慧の目には少しだけ、違って見えた。


 ただの水が、ただ流れている。


 それだけのことが、今夜は美しかった。


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