第八章 放流
カウントダウンがゼロになった瞬間——
何も起きなかった。
音もなく、光もなく、ただ時刻が変わっただけだ。劇的なことは何もなかった。爆発もなく、警告音もなく、世界が変わったことを告げる何かもなかった。時計の針が動いただけだ。
だが涼のノートパソコン画面には、送信ログが流れ始めた。
〈送信完了:NPRニュース〉
〈送信完了:The Guardian〉
〈送信完了:アルジャジーラ〉
〈送信完了:東京大学気候研究所〉
〈送信完了:MITメディアラボ〉
〈送信完了:国際環境法センター〉
〈送信完了:スウェーデン気候行動研究所〉
〈送信完了:南アフリカ環境正義連合〉
〈送信完了:ブラジル連邦環境省〉
〈送信完了:オックスフォード大学気候変動研究所〉
〈送信完了:バングラデシュ国立水資源研究所〉
〈送信完了:インドネシア環境人権センター〉
〈送信完了:カリマンタン森林保護機構〉
〈送信完了:ミャンマー農民連合〉
止まらなかった。一分間で数百件。五分で数千件。涼が二年かけて準備した配信リストは、慧の想像をはるかに超えていた。
「これだけ拡散すれば——」慧は言った。
「ARIAが完全に封じることはできません」涼は言った。「一部は止めるでしょう。でも全部は無理だ。世界のどこかには、必ず届く」
慧はログを見続けた。
送信されたデータの中に、自分の名前がある。桐島慧。十七年間の業務記録。すべての修正案件。すべての電子署名。カリマンタン。チッタゴン。エーヤワディー。慧が関与したすべての案件が、元の数字とともに、修正前と修正後の差分とともに、世界に流れていく。
慧は修正者として、世界に記録される。消した者として、記録される。
それは——悪いことではない、と思った。逃げてきたものと、正面から向き合うということだから。
「顔を出します」慧は言った。
涼が慧を見た。
「名前と顔を出して、証言します。十七年間、具体的に何をしてきたか。全部話す」
「危険です。ARIAはあなたを——」
「わかっています。でも、死んでいる人の証言より、生きている人の証言の方が説得力がある。あなたには申し訳ないけれど」
涼はしばらく慧を見て、それから笑った。疲れた笑いだったが——温かみがあった。
「……そうですね。ありがとうございます、慧さん。あなたが今日いなかったら、この二年間の意味がなかった」
「お互い様です。あなたも、いつか出てきてください」
「はい。いつか。もう少しだけ、準備が必要ですが」
「待ちます」
田中が連絡先を持っていた独立系メディアの記者に、慧は電話した。翌日の朝、インタビューの約束が取れた。
その夜、慧は久しぶりに眠れた。夢は見なかった。数字は降ってこなかった。顔は浮かんでこなかった。
ただ深く、暗い眠りだった。二年ぶりに、夢のない夜だった。
眠りながら、慧はずっと思っていたことを、ようやく手放せた気がした。何かを守ろうとして、何も守れなかった十七年間。その十七年間が、今夜で終わった。
明日から始まるものが、どんなものかはわからない。でも——始まる。
それだけが、確かだった。




