第十一章 桃源郷
――新潟上越地方、とある城下町。
美姫は普通電車を降りると、駅の改札口を通り抜けて、駅前の駐輪場に止めてあった自転車をこぎ始めた。自転車のカゴには、日本酒の一升瓶が二本入っている。
駅前の路地を右に曲がると小さな歓楽街があって、スナックや飲食店の看板が通りの左右に所狭しと立ち並んでいる。それぞれの店の前には雪除けの雁木が設置されていて、赤錆た雪国の古い街並みから昭和の匂いが漂っている。
美姫は歓楽街の中を自転車で走ると、通りの真ん中あたりで自転車のハンドルを切って、古い料亭の前の小道を通り抜けた。小道を抜けると直ぐに小川が流れていて、美姫はその川沿いに自転車を走らせた。
「桜が凄く綺麗だわ」
美姫が川沿いの風景を眺めながら自転車をこぐ。
川沿いに植樹された桜が北国の遅い春を待ちわびて満開に咲いている。そして、桜の花びらが雪解け水の上にひらひらと舞い落ちて小川の水面を華やかに飾っている。
「まるで、桜の絨毯ね」
美姫は自転車にブレーキをかけて、川岸から薄桃色の美しい水面を眺めた。
――しばらくして。
美姫は自転車から降りると、店の勝手口を開けて、日本酒の一升瓶を床の上にそっと置いた。
「裕二おじさん! 買って来たわよ! 雪中梅!」
※雪中梅は新潟県の三大銘酒で、越の三梅と呼ばれる日本酒のひとつ。
「ああ、美姫、ご苦労だったね、重かっただろう」
「大丈夫よ、裕二おじさん、平気、平気」
叔父の真藤裕二が店の奥から美姫に声を掛けると、美姫は自転車を片付けながら、裕二に右手を小さく振って答えた。
「さすが、美姫は若いね」
「当り前じゃん、花も恥じらうピチピチの十八歳ですからね」
「確かに、ジーンズのヒップサイズがピチピチだな」
「エッチ」
「あはは」
美姫が片手で自分のお尻を隠すと、裕二は笑いながら、勝手口に置かれた日本酒を手に取って眺めた。
「おい、輝月君! これを店のカウンターに並べてくれ!」
「はーい、分かりました!」
アルバイトの深見輝月が店の奥から裕二に元気よく答える。
「美姫、冬になったら自転車では買い出しが出来ないから、今のうちに普通免許を取れよ」
「うん、そうするわ、裕二おじさん」
「教習所のお金は俺が出してやるからさ」
「いいわよ、裕二おじさん、自分の給料で払うから」
「美姫らしいな、でも普通免許は仕事で必要だから、教習所の費用は必要経費として払ってやるよ。それに必要経費には税金が掛からないから、俺も損は無いさ」
「本当?」
「ああ、本当さ」
美姫は自転車を片付て、裕二の顔を覗き込んだ。
「それでは、お言葉に甘えまして、ありがとう、裕二おじさん」
「どういたまして」
「あはは」
裕二が冗談を言うと、美姫は楽しそうに笑った。
真藤裕二は美姫の父の弟で、この街で小さな居酒屋を経営している。年齢はもう四十路に入っているが、今だに独身で結婚はしていない。ただし、モテない男ではない。裕二はかなりの男前で、俳優になってもおかしくない風貌をしている。
美姫は、この春から裕二の店に住み込みで働いている。ただし、仕事は二年間の約束だ。その理由は大学に行くための資金を稼ぐ為である。京都の三島夫婦は美姫に大学への進学を勧めたが、美姫はその勧めを断った。両親が死んでから、二年間も面倒をみてもらった上に、大学にまで行かせてくれると言う三島夫婦の気持ちは、涙が出る程に嬉しかったが、その気持ちに甘える気はしなかった。美姫は自分の力で大学に行くと決意を固めていた。
店には裕二と美姫の他にアルバイトの深見輝月がいる。輝月は二十歳でイラストレーターを目指すフリーターだ。彼は今年の三月の初旬にふらりと店に現れて、いきなり裕二に「仕事をさせて下さい」と頼んだらしい。輝月は笑うと頬に笑窪が出来て、とても愛らしい顔をしている。
隠れ居酒屋『桃源郷』
これが裕二の店の名前だ。
桃源郷は真に隠れ居酒屋で店の入口には看板が無く、歓楽街の路地裏ビルの二階でひっそりと営業をしている。
「美姫ちゃん、料理の仕込みをするから手伝って!」
店の奥から輝月が美姫を呼ぶ。
「美姫、輝月君が呼んでいるぞ」
「はーい」
裕二が美姫に声を掛けると、美姫は勝手口から店の中に入り、階段を駆け上がって二階のキッチンに向かった。




