第十二章 夜の帳
――夜の帳が下りて、歓楽街の看板に明かりが灯り始めると、美姫は路地ビルの表口から階段を登って、二階の入口に掛かっている《準備中》と書かれた小さな札を裏返した。そして、自動ドアを通り抜けて店の中に入った。
「裕二おじさん、お店開けるわよ」
美姫が入口から声を掛けると、裕二は右手を上げて「OK」と答えた。
キッチンの中では裕二と輝月が料理の準備をしている。
隠れ居酒屋『桃源郷』の店内は奥行が長くて開放感に溢れている。長屋と呼ばれるこの地域独特の細長い建屋を壊して作られた路地ビルの敷地面積は結構広く、築二十五年の古い建屋だが、店の中は西洋風の洒落た作りになっていて、居酒屋と言うよりはラウンジに近い雰囲気だ。フロアーの中央にはアナログレコード式のジュークボックスがあって、店内にはスローテンポなモダンジャズミュージックが流れている。
「輝月君、イカを多めに揚げておいてくれよ。最近、注文が多いからな」
「はい、分かりました。裕二さん」
輝月はメモに書かれたレシピを見ながら裕二に答えた。
「輝月君、私も手伝うわ」
「うん、頼むよ、僕はイカを揚げるから、美姫ちゃんは鳥肉を串に刺してよ」
「OK」
美姫はカウンターを通り抜けてキッチンの中に入ると、頭に巻いたバンダナをキュッと締めて、輝月の横で焼き鳥用の鳥肉を串に刺し始めた。
裕二はキッチンの流しで手を洗うと、ポケットから煙草を取り出して換気扇の前で一服ふかし始めた。
「お前達、お似合いだな」
裕二がにやけた顔で二人を冷やかす。
「そうでしょう、裕二おじさん」
美姫は手を止めて振り向くと、右目を軽く閉じてはにかんだ。
裕二が煙草の煙にむせてゴホゴホと咳をする。
「おいおい、美姫、否定しろよ。冗談なんだからさ」
「あはは、私も冗談よ、裕二おじさん」
美姫が笑いながら裕二に答える。
「こりゃ、まいったな」
裕二が頭を掻いて美姫の顔を見ると、輝月はイカを揚げながら「冗談じゃない方がいいけどね……」と小さな声で呟いた。
「なんか言ったか、輝月君?」
「いいえ」
輝月は裕二に返事をすると、少し微笑んで頬に笑窪を作った。
――しばらくすると、入口の自動ドアが開いて、女連れの客が店の中に入って来た。
「いらっしゃいませー!」
みんなが一斉に大きな声で客に挨拶をすると、着物姿の小綺麗な壮年の女が裕二に声を掛けた。
「マスター、こんばんは」
「こんばんは、ママ、今日は着物かい、いいね」
「マスター、これ似合ってるかしら?」
「もちろん、ママは何を着ても似合うさ」
「まあ、お上手ね。そんなに褒めても何も出ないわよ」
女は嬉しそうに笑って裕二に小さく手を振った。
裕二の店には、歓楽街で働く水商売の女達が出勤前後によくやって来る。同伴している男の客達は店のお得意さんや愛人が多い。隠れ居酒屋である裕二の店には一般客があまり来ないので、彼女達にはとても都合のいい店である。
彼女達が窓側のフロアー席に座り始めると、美姫は流しで手洗いをしてから、注文票を持って客席に向かった。
――一時間後、あちらこちらの席から注文が入って、美姫はあわただしく動き回った。
「輝月君、イカの唐揚げと、造りの盛り合わせ、それと生ビールを二丁お願い」
「はーい」
輝月がレシピを見ながら、注文の料理をてきぱきと裁いて美姫に渡す。
「それで、あなた、そのオカマと一発やったの?」
「もちろんやったさ、俺のマグナムを連射してやったぜ」
「きゃははー、もうやだー、この変態野郎!」
派手な赤いドレスを着たホステスの女が、楽しそうに男の肩をバシバシと叩く。
フロアー席の客達は、酒が入って卑猥な会話で盛り上がっている。
(お前も一発やってやる)(腰がガタガタになるまで)(俺のマグナムをぶち込んでやるからな)
(キスだけで一ヶ月引っ張ってやるわ)(一千万円は固いわね)
(足を広げて)(声を出させてやる)(うなじにキスして)(後ろから)(イカせてやる)
(マンションを買ってもらう)(それなら一発やってもいいか……)
客の心の声が美姫には聞こえた。
この店の中には大人の欲望が貪欲に満ちている。
最近、美姫は精神感応のタイミングを自由に操れる様になった。感応したくない時は心のカーテンをさっと閉じることが出来る。しかし、美姫は心のカーテンをほとんど閉じていない。最初のうちは頻繁に心のカーテンを開け閉めしていたが、そのうちに慣れて来て、大人達の考えや感情が理解出来る様になったからだ。僅か一ヶ月の間に、美姫の心は少女から大人の女へと確実に成長した様だ。
美姫は料理をテーブルの上に置くと、次の注文を取りに別のテーブルに向かった。
――入口の自動ドアが開いて、一人の男が店の中に入って来た。
「いらっしゃいませー!」
輝月が来客に気付いて、入口の男に挨拶をする。
「まいど」
男は右手を上げて輝月に声を掛けると、カウンター席の真ん中に座った。
「おおっ、占い師じゃないか、久し振りだな」
「お久し振りです。裕二さん」
「今日は、一人かい?」
「いえ、後で連れが二人来ます」
「そうか、何か飲むかい?」
「生ビールを下さい」
男は裕二に注文を出すと、フロアー席の方に振り向いた。
「随分と盛り上がってますね。あれ何処のお客さんですか?」
「あれは、“エスコートクラブL”の連中さ」
「エスコートクラブL?」
「名前の通り同伴クラブだよ」
「店の外でホステスと同伴出来るクラブですね」
「そうだ、この辺ではちょっと名の知れた高級クラブだな」
「高級クラブか、景気いいですね」
「あの店には昔からお得意さんがあるからな、不景気知らずなんだよ」
「お得意さんって、何処ですか?」
「自衛隊と立川重工業だ」
「立川重工業……」
男が目を細めて首を少し傾げる。
「自衛隊って、景気いいんですかね?」
「自衛隊は公務員だから景気には左右されないんだよ、だから安定した顧客なのさ。まあ、自衛隊といっても幹部クラスの連中が多いけどな」
「なるほどね。あと、立川重工業は?」
「立川重工業は政府御用達の軍事企業だ。俺の兄貴が勤めていた会社さ」
「と言うことは、美姫ちゃんのお父さんの会社ですね?」
「そうだ、俺の兄貴の会社は東京の本社だけど、ここの工場は自衛隊の戦車とかトラックの部品を作っているんだ」
「へぇー、そうなんだ。ここにも立川重工業の工場があったのか……」
男はそう言うと、ポケットから煙草を取り出してライターで火をつけた。




