第23話:S級の朝練と、冷えていく朝の特製パン
「全員、1歩目から死ぬ覚悟で前へ出ろ」
地を這うようなヴァルター教官の声が、薄暗い空間に響き渡った。
昨日の狂乱の胴上げから一夜明け、今日から平穏な日常を取り戻せるという俺の淡い期待は、無惨にも打ち砕かれた。
気がつけば俺を含むFクラスの全員が、見渡す限りの致死トラップが敷き詰められた地獄のど真ん中に放り込まれていた。
刃のような魔道具が鈍い音を立てて回り、地面には不自然な亀裂が走っている。
ほんの少し身じろぎした生徒の頬を、見えない刃が掠めて一筋の血が飛んだ。
周囲のクラスメイトたちは青ざめ、ガチガチと歯の根を鳴らして立ち尽くしている。
ここは卒業生でも泣いて逃げ出すという、Sランク指定の特別演習場だ。
だが、俺の胃袋を雑巾のように絞り上げる絶望の原因は、迫り来る死の危険ではなかった。
しの先生の特製焼きたてパンが、完全に冷え切ってしまうじゃないか。
保健室の特任校医が、早朝の怪我人だけのために焼いてくれるあのふかふかの特製パン。
魔力値2の貧弱な俺にとって、あれをタダで好きなだけ食えるのは、学園生活において絶対に逃してはならない至高の利益なのだ。
パンが冷めれば、焼きたてという価値が暴落してしまう。
育ての親から損得勘定を徹底的に叩き込まれた俺にとっては、致命的な大赤字である。
刻一刻とパンの温もりが失われていく焦燥感。
それに加えて、瞬き一つ分の猶予すら許されない演習場の重圧。
2つの恐怖が混ざり合い、胃壁をズタズタに引き裂くほどの痛みを引き起こしていた。
『坊っちゃん、空腹は最高のスパイスです♪ 先生の愛情たっぷり特訓で腹ペコになれますよ! 張り切って行きましょう♪』
脳内で響くマリアのポジティブすぎる言葉に、俺は心の中で血の涙を流した。
狂った愛のムチなど知ったことか。
問題は、あの黄金色に輝くパンの表面から、熱い湯気が消え去ろうとしていることだけだ。
視界の端で、ヴァルター教官の頬がぴくりと痙攣した。
杖を握る手が、ワナワナと震えている。
怒っている。絶対に怒っている。
ここで足が止まったら間違いなく殺される。
恐怖と焦りが限界を突破したせいで、俺の顔の筋肉は完全に麻痺していた。
周囲の悲鳴を一切気に留める余裕もなく、氷のように冷徹な無表情のまま前を見据えている状態になっている。
肌を刺すような冷たい風が吹き抜け、死臭のする暗がりから鋭い鉄の擦れる嫌な音が響いた。
俺は腹の底からこみ上げる痛みを押し殺し、ただひたすらに温かいパンを口に放り込むためだけに、まっすぐに右足を踏み出した。
『坊っちゃん、そのまま横へ。そのままだと首が飛びますよ♪』
脳内で弾む楽しげなマリアの声。言っていることとのギャップが凄いが、ツッコミは入れずに素直に従い、俺は上半身だけを左へ滑らせた。
直後、数本の髪が宙に舞い、巨大な鉄刃が鼻先を掠めていく。
金属が空気を切り裂く冷たい風圧が頬を叩いたが、俺は歩みを止めなかった。
貧弱な動体視力では、暗がりから迫る死の軌道など全く見えない。
ただ、黄金色のパンの熱が失われていくという致命的な焦りだけが、俺の両足を機械的に前へと進ませていた。
『深く沈み込んで。焼きたて坊っちゃんができあがりますよ♪』
言われた通りに姿勢を低くすると、頭上を凄まじい熱風が通り過ぎた。
焦げた匂いが鼻を突き、背中を滝のような冷や汗が流れていく。
左が危険なら右。右が駄目なら前。
俺はただ、マリアの声と浮かび出る光るルートが示す場所へ、無心に身体を運んでいく。
「全部……避けてる」
「違う。避けてるんじゃない……」
「最初から、安全な場所だけを選んで進んでる……?」
銀髪のアリアの震える声と、狂ったようにペンを走らせる音が背後から聞こえた。
だが、恐怖のあまり完全に麻痺した俺の顔の筋肉は、一切の感情を外に漏らすことはない。
ふと視界の端に、ヴァルター教官の姿が映った。
額に青筋を立て、頬の肉をヒクヒクと痙攣させている。
魔杖を握りしめるその手は、ワナワナと激しく震えていた。
「す……無駄が……な……」
地を這うような低い呟きが途切れ途切れに聞こえ、俺は一気に血の気が引いた。
怒っている。絶対に激怒している。
用意したトラップにあっさり掛からず、もたもたしている俺に対して怒り狂っているのだ。
これ以上、教官の逆鱗に触れれば、今度こそ直接風の刃で切り刻まれる。
『先生ったら、嬉しすぎて震えが止まらないんですね♪』
どこがだ。激怒しているに決まっている。
俺は胃袋がひっくり返るほどの恐怖を押し殺し、一切の無駄を省いた歩行装置になりきって、さらに歩調を速めた。
ふと視線を横にやると、セドリックたちFクラスの面々が、その場に縫い止められたように立ち尽くしていた。
全員が息を呑み、まるで信じられないものを見るような目で俺の足元を凝視している。
みんな、早く来てよ!
そんなところで固まっていたら、しの先生のパンが完全に冷え切っちゃうよ!
叫んだが、誰一人として一歩も動こうとしない。
『坊っちゃん。声になってませんよ!』
この紙一重の状況で、声にならない声で叫んだだけだった。
俺は危険に満ちた演習場を、たった一人、無表情のまま突き進み続けた。
「そこまでだ、底辺に洗脳された我が家の恥め!」
突然、演習場の入り口の暗がりを乱暴に払いのけ、聞き慣れない男の怒声が響き渡った。
◆ ◆ ◆
怒声と共に姿を現したのは、豪奢な金糸の刺繍が入った黒い外套を纏う長身の男だった。
胸元には、王都の精鋭だけが許されるS級査察官の銀の徽章が輝いている。
「目を覚ませ、セドリック! 魔力値2の平民などに傅くとは、名門の顔に泥を塗る気か!」
男は罠など気にも留めず、泥だらけになって立ち尽くす弟をにらみつけた。
『セド君のお兄様はイケメンのイケズですね♪』
(まったくもって正論だけど……)
俺の平穏な学園生活のために、ぜひセドリックを説得して矯正してほしい。
それに、急げばまだしの先生のパンに微かな温もりが残っているかもしれない。あとは兄弟2人に任せて、この朝練が解散になれば……。
俺は一刻も早くこの場から逃げ出したくて、無表情の下で必死に祈りを捧げていた。
だが、セドリックは兄の言葉に萎縮するどころか、ゆっくりと顔を上げた。
泥に塗れたその顔には、かつての傲慢な貴族の面影は欠片もない。
代わりに宿っていたのは、血走った両眼をギラギラと輝かせる、狂信者のそれだった。
「兄上こそ、その薄汚い口を慎んでいただこう……!」
「なっ……兄に向かってなんだ、その口の利き方は!」
激昂する長兄に対し、セドリックは喉が裂けんばかりの絶叫で言い放った。
「貴方には何も見えていない! リオ様は戦場の神だ! この地獄のような罠を、瞬き一つせず最短距離で踏破されるお姿が見えなかったのか!」
今来たばかりだから、見ていなくて当然だ。
とツッコミを入れたいところだが……面倒事に巻き込まれたくない。俺はただ、パンを食うための安全な道を歩いていただけだ。
「俺は生涯、リオ様の鞄持ちとして生きると決めたのだ! 邪魔をするなら、たとえ肉親であろうと容赦はしない!」
「目を覚ませと言っているだろうが!」
「目を覚ますのは兄上のほうだ! 見よ、ご自身の命など歯牙にもかけず、ただ静かに佇むあの絶対者の姿を!」
(胃が痛すぎて1歩も動けないだけ……!)
高位貴族の兄を真っ向から煽るセドリックの姿に、俺は胃壁が完全に崩壊するのを感じた。
あまりの恐怖と胃の痛みに、俺は一切の表情を失ったまま、ただ虚空を見据えて固まることしかできない。
なんだ、この異常な空間は。
誰かこの勘違いを止めてくれ。
弟の異様な狂気に当てられ、長兄はハッと息を呑んだ。
激怒していたはずの男の顔から、サッと血の気が引いていく。
「セドリック……お前、本当に狂ってしまったのか……?」
男の声が微かに震えている。
彼は血走った目で睨みつけてくる弟の気迫に完全に気圧され、ジリッと一歩後ずさった。
なんで逃げるんだよ。S級なんだから、さっさと弟を説得してこの朝練を終わらせてくれ……!
俺の切実な願いとは裏腹に、長兄は震える手を掲げ、背後に控える精鋭たちに何かの陣形を組ませようとしていた――。
★★★ 全知の聖母あとがきシステム ★★★
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