第10話:規格外の迷宮主と、解析される死角
『あちらは、この階層にいるはずのない迷宮主です』
ふざけたトーンを完全に消し去ったマリアの冷徹な声が続く中、暗闇の奥から巨大な影がぬるりと姿を現した。
「な、なんだよ……あれ……!」
最初に見えたのは、岩石のようにゴツゴツとした太い腕だ。
続いて、天井に届くほどの途方もない巨体が、地面を軋ませながらゆっくりと立ち上がる。
そしてその顔の中央には、俺たち全員をまとめて見下ろす、巨大で濁った一つ目がぎょろりと開いていた。
その圧倒的な存在感を頭で理解するより早く、巨人が再び大きく吠えた。
「グオオオオオオオオオッ!!」
生臭い突風が吹きつけ、空気そのものが震動する。
骨の髄まで響くようなプレッシャーに、俺は思わず後ずさった。
だが、真の絶望はここからだった。
パキィンッ!
ガラスが割れるような鋭い音が、背後から弾けた。
振り返ると、強制リタイアとなって迷宮の外へ転送されかけていた上位陣の足元で、淡い光を放っていたレスキュー用の魔法陣が激しく明滅し、ひび割れている。
巨人の咆哮と異常な魔力圧に、空間の転送術式が耐えきれずに砕け散ったのだ。
「ば、馬鹿な……! 転送陣が……!」
「いやだ! たすけ、たすけて……ッ!」
撤退が遅れ、光の輪と共に消滅しかけていた上位陣のエリートたちが、顔面を蒼白にしてへたり込む。
先ほどまで俺を肉の盾にしようとしていた傲慢な態度は跡形もなく、ただ死の恐怖に歯の根を鳴らしていた。
逃げ道が、完全に断たれた。
「嘘、だろ……」
隣を見ると、アリアが観察ノートを取り落としたまま息を呑み、セドリックも祈るために組んでいた両手を震わせている。
背後の通路は、先ほどの崩落トラップで完全に塞がっている。
俺は反射的に、対岸にいるヴァルター教官を見た。
先ほど一瞬だけ顔色を変えた死神教官の銀縁眼鏡の奥の目は、今やわずかに見開かれている。
そしてその頬には、はっきりと一筋の冷や汗が伝っていた。
「……想定外だ」
彼から低い声が落ちた直後、巨人がこちらへ向かって一歩踏み出した。
ズンッ!
迷宮全体が大きく揺れ、天井から細かな砂埃がぱらぱらと降り注ぐ。
前門の巨人、後門の奈落。
俺の膝は、ガクガクと情けない音を立てて震え始めていた。
魔力値2の俺が、あんな化け物にどう立ち向かえばいいのか。
自分でも情けないと思うが、それでも身体が勝手に後ろへ下がり、踵が瓦礫にぶつかって止まった。
巨人の巨大な一つ目が、逃げ場を失った俺たちを、ゆっくりと、そして確実な殺意を持って捉えた。
◆ ◆ ◆
「グオオオオオオオオオッ!!」
空間そのものを引き裂くような咆哮と共に、巨人が岩山のような太い腕を振り上げた。
狙いは、俺の後ろの足場でへたり込んでいるセドリックとアリアたちだ。
彼らは恐怖で完全に硬直しており、逃げるそぶりすら見せられない。
「ちぃっ……!」
対岸で鋭く舌打ちをしたヴァルター教官が、黒いローブを翻して地を蹴った。
だが、崩落した巨大な空間が間に横たわっている。
いかに死神教官といえど、この絶望的な距離からでは防御魔法も迎撃も絶対に間に合わない。
(終わった……!)
振り下ろされる丸太のような剛腕。
その影だけで俺たちの視界が暗く塗り潰される。
あの一撃が直撃すれば、間違いなく全員が肉片と化す。
俺は恐怖のあまりパニックに陥り、頭を抱えてしゃがみ込もうとした。
その瞬間、脳内でカチリと冷たい音が鳴った。
『……先生のテスト対象外です。これより、生存のための戦闘を推奨します』
いつものふざけた幼児向けトーンが、完全に消え去っていた。
感情を一切廃した、無機質で冷徹なシステム音声。
マリアの『戦闘推奨コール』が脳内に響き渡った瞬間。
俺の身体から、ガクガクと震えていた恐怖も、絶望的な焦燥感も、すべてがすーっと波が引くように消え去った。
(逃げれば確実に死ぬ。ならば、戦うしかない)
丸まっていた猫背が、誰かに引っ張られたようにスッと真っ直ぐに伸びる。
握りしめていた拳の力が抜け、荒れていた呼吸が一定のリズムへと落ち着く。
耳に入っていた上位陣の悲鳴も、巨人の咆哮も、すべてが驚くほど遠くへと退いていった。
パニックに陥っていた思考は信じられないほどクリアになり、視界に映る巨人の肩、振り上げられた腕の筋肉の隆起、周囲に散らばる瓦礫の配置までが、異様なほど鮮明に見え始める。
そして、俺の灰色の瞳の奥に、淡い金色の光がスッと走った。
怖い。
ついさっきまで、死ぬほど怖かったはずなのに。
今は、何も感じない。
恐怖も焦りも、すべての感情を切り離した『冷徹な戦闘マシーン』へのスイッチが、完全にオンになった。
残ったのは、ただ冷たく静まり返った思考だけ。
どう避けるか。どう倒すか。
何をすべきかが、驚くほど鮮明に見えている。
絶対的な静寂の中で、俺はゆっくりと息を吐き出す。
そして、無表情のまま、頭上から迫り来る巨人の腕を静かに見上げた。
◆ ◆ ◆
「リオ君! 逃げて!」
「リオ様ぁぁっ!」
背後でアリアとセドリックの絶望的な悲鳴が響く。
だが、その声は俺の耳には届かない。
冷え切った思考のまま、俺は地を蹴った。
魔力値2の貧弱な筋力からは考えられない、一切の無駄を省いた神速の動き。
崩れた瓦礫の上を滑るように移動し、俺は絶望してへたり込む上位陣と仲間たちの前に、音もなく立ちふさがった。
巨大な腕が空気を押し潰し、凄まじい風圧が俺の前髪を激しく揺らす。
直撃すれば全員が挽肉になる。
だが、俺の心は恐ろしいほどに凪いでいた。
『オカン。弱点は?』
背中を向けたまま、頭上に迫る剛腕を見上げて俺は短く問う。
視界にはすでに、巨人の輪郭をなぞるように淡い光が幾重にも重なって表示されている。
『おめめの裏側が、ちょっぴり痛いみたいですね♪』
戦闘推奨モードへと完全に切り替わったことで、マリアの声にもいつものふんわりとした余裕が戻っていた。
一つ目の奥。脳髄へと繋がる神経節。
なるほど。
「了解。十分だ」
「なっ……魔力も練らずに、どうする気だ!」
「逃げろ! 死ぬぞ!」
俺の背後で、上位陣のエリートたちが涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で叫ぶ。
その見苦しいほどの絶望と悲鳴を完全に無視して、俺は腰へ手を伸ばした。
魔力値2。
強力な攻撃魔法など、何一つ使えない。
だからこそ、必要なのはこれだけだ。
腰の鞘から、実習用に配られた剣をゆっくりと引き抜く。
キィン――。
静かな金属音が、轟音が鳴り響く広大な迷宮の奥底で、不思議なほどはっきりと響き渡った。
魔力伝導率の低い、刃こぼれだらけの鉄の剣。
魔力値2の俺が両手で柄を握っても、刀身は一ミリも光らない、ただの鉄の塊だ。
だが、今の俺にはこれで十分すぎる。
俺は淡い金色の光を宿した瞳で、頭上から振り下ろされる巨大な剛腕――その奥にある単眼の『死角』を、ただ無表情のまま真っ直ぐに見据えた。
★★★ 全知の聖母あとがきシステム ★★★
読んでいただき、ありがとうございます♪
予想外の「迷宮主」が登場しちゃいました♪
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