第9話:最恐教師の抜き打ちテストと、無慈悲な落とし穴
駆けつけた教官陣のレスキュー魔法陣が、背後でまばゆい光を放っていた。
自業自得とはいえ、悲鳴を上げながら迷宮の外へ強制転送されていく上位クラスの連中を見送るのは、あまり気分の良いものではない。
俺はキリキリと痛む胃を押さえたまま、迷宮のさらに奥へと歩みを進めた。
魔力値2の俺を肉の盾にしようとした連中だ、同情する気も起きない。
ただ、後ろを歩くセドリックとアリアからの、【崇拝:100】という異常な熱を帯びた視線だけが背中を焦がすように痛かった。
しばらく進むと、これまでの区画とは明らかに違う巨大な空洞に出た。
魔物の気配も、罠の気配もない。
ただ、幅の広い石造りの吊り橋がかけられたその中央に、黒いローブを着た男が立っていた。
「……想定より遅いな、ゴミ共」
低く平坦な声が、空洞に響き渡る。
銀縁眼鏡の奥から放たれる氷のような視線が、真っ直ぐに俺を射抜いていた。
死神教官、ヴァルターだ。
「えっ……先生? なんでこんな最奥に……」
こんな場所に実技教官がいるはずがない。
混乱する頭で状況を飲み込もうとした瞬間、ヴァルターは無表情のまま、右手の杖をノーモーションで石畳に突き立てた。
ゴゴゴゴォォォッ!!
轟音と共に、俺たちの立っている巨大な石造りの足場が、吊り橋ごと一斉に崩落を始めた。
「なっ……!?」
足元から重力が完全に消え失せる。
視界が急速に反転し、底の見えない真っ黒な奈落が大きく口を開けて俺を飲み込んでいった。
冗談だろ。生徒を試すトラップのレベルじゃない。
胃の腑がせり上がり、風を切る轟音が耳を劈く。
魔力値2の俺がこんな高さから落ちれば、防御魔法を展開する間もなく肉塊に変わる。
心臓が縮み上がり、俺は死の恐怖で完全に涙目になった。
本気で殺しに来ている。
その絶体絶命の宙空で、脳内にどこまでも明るい声が響き渡った。
『まあ! 足を運んで抜き打ちテストまでご用意くださって♪ 限界突破のご期待に応えましょう♪』
絶望に染まる俺の脳内で、オカンがふざけた効果音と共に能天気な解説を入れる。
(いや、助けてオカン!落ちたら死ぬ!)
声にならない悲鳴を上げる俺の視界の中で、ゆっくりと崩落していく巨大な岩石の破片が、次々と淡い光で縁取られていった。
『さあ坊っちゃん。あそこの出っ張りに足をかけて、次はあの崩れる岩を蹴って♪』
死にたくない一心で、俺はボロボロと涙をこぼしながら、示された光の足場へ向かって無我夢中で宙を蹴った。
「うわぁぁぁあっ!」
風を切る轟音と、底知れない奈落の闇。
俺は情けない悲鳴を上げながら、崩落していく巨大な石造りの足場と一緒に落下していた。
『さあ坊っちゃん! アスレチックのお時間です♪ まずはあの岩の出っ張り、次は崩れていく柱を蹴ってピョンピョンしますよ♪』
絶望の真っ只中で、マリアがふざけたテンションのまま無茶苦茶な指示を出してくる。
だがその声と同時に、俺の視界には暗闇の中で沈んでいく瓦礫の数々が、次々と淡い光で縁取られていった。
それは、空中に散らばる絶対に踏み外さない安全な足場のルートだった。
「んな無茶苦茶なっ!」
俺は涙目で呻きながら、必死に足を伸ばした。
つま先が、指示された岩の出っ張りにミリ単位で引っかかる。
そこを支点にして身体を捻り、今度は反対側の崩壊していく巨大な柱の残骸を思い切り蹴り飛ばした。
ガンッ、という硬い音と共に、俺の身体は奈落の底へ落ちる軌道から外れ、空中で鋭く跳躍する。
『お上手♪ 次は上から落ちてくる石像の頭を足場に、対岸へ向かって大ジャンプ!』
「え?上から??」
物理法則を無視した指示に絶叫しながらも、俺の身体は勝手に動いていた。
落下する石像の頭頂部に、俺の靴底がピタリと吸い付くように着地する。
一瞬だけ体重を預け、石像が完全に沈み込む前に、その反発力を利用して弾かれたように空へ舞い上がった。
俺の異常な反応速度は、マリアの狂った計算を寸分の狂いもなく実行してしまっている。
『素晴らしい♪ 先生からの期待値も鰻登り♪ あ、すでに限界突破してましたね♪』
「俺の鼓動が限界突破。破裂するぅっ!」
崩れ落ちる岩。
傾く足場。
横から迫る石塊。
その全部の隙間を縫うように、俺の身体が勝手に宙を舞っていく。
踏み込む。蹴る。跳ぶ。身をひねる。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、俺はただ生き延びるためだけに、示された光の足場を飛び移り続けた。
それは傍から見れば、一切の魔力を使わずに、崩壊していく無数の瓦礫の軌道を完全に計算し尽くし、空中に見えない階段があるかのように優雅に宙を舞う神業の絶対回避だった。
だが、本人からすれば、瞬き一つ分の猶予すら与えられない地獄の綱渡りだ。
「先生に殺される……!」
足元で巨大な吊り橋が完全に奈落へと飲み込まれていく轟音を聞きながら、俺は最後の光の道標である対岸の岩棚へ向かって、決死の跳躍を見せた。
◆ ◆ ◆
「つ、着いた……!」
対岸の岩棚へ転がり込むように着地した瞬間、俺の膝から完全に力が抜けた。
両手をついて荒い息を吐く。心臓は破裂しそうなほど激しく打ち鳴らされ、全身の震えが止まらない。
踏み込みが靴底一枚分でもずれていれば、俺は確実に真っ逆さまだった。
「先生、マジで殺す気かよ……っ!」
涙と冷や汗でぐしゃぐしゃになった顔のまま対岸を振り返る。
遠く離れた崩落の跡地では、黒いローブを着た死神教官ヴァルターが無表情でこちらを見下ろしていた。
「……無駄が多い。まだお前の全力を引き出せていないな」
距離があるにも関わらず、魔力を帯びたその冷徹な声ははっきりと鼓膜を打った。
だが、俺の視界には、彼の頭上に浮かび上がった血のように赤い極太の文字が、チカチカと狂ったように明滅しているのが見えていた。
【歓喜・期待値:限界突破!】
(めちゃくちゃ喜んでるじゃないか!)
『照れ屋さんですね♪』
俺が心の中で絶叫している横で、遅れて着地していたアリアが、震える手で猛烈な勢いでノートにペンを走らせていた。
ふと見ると、彼女の鼻からツツーッと一筋の赤い血が流れている。
「……全部、計算されてる……」
「え?」
「崩壊する足場の軌道、落下速度、自重のベクトル……そのすべてを刹那のうちに完全計算して、魔力を一切使わずに空を舞うなんて……尊い……!」
鼻血を拭おうともせず、アリアは爛々と輝く翠の瞳で俺を見つめている。
いや、拭けよ。そして計算なんかしてない。俺はオカンに言われた通りに跳んだだけだ。
『指示通りに動けた坊っちゃんは凄いんです♪ さすが私の最高傑作♪』
(紙一重で死んでたけどな!?)
「これぞ我らがリオ様! 神の如き御業、しかとこの目に焼き付けましたぞおおおっ!」
反対側では、セドリックが感極まって天を仰ぎ、両手を組んで本格的な祈りを捧げ始めていた。焦げ跡だらけの制服も気にせず、感涙にむせんでいる。
彼ら二人の頭上にも、【崇拝:100】という異常な数値が燦然と輝いていた。
限界突破して歓喜する鬼教師と、俺を拝む狂信者、そして鼻血を流したまま興奮するヒロイン。
完全に狂っている。この地獄の狂信空間に、俺の理性がゴリゴリと削られていくのを感じた。
俺はただ、必死に生き延びようとしただけなのに。
(こいつら、俺がどれだけ紙一重だったか絶対に分かってない……)
「……帰って寝たい……」
深く胃を痛めながら、俺が両手で頭を抱えた、その時だった。
ズズンッ……!
突然、迷宮の奥底から、腹の底を揺さぶるような想定外の巨大な地鳴りが響き渡った。
空気そのものが震える。
さらに奥。迷宮の遥か深部から、とてつもなく大きな獣の咆哮がこだました。
ゴオオオオオオオオオッ!!
「…………え?」
俺はゆっくりと、音のした暗闇を見つめた。
遠く離れた対岸で腕を組んでいた、あの絶対的な余裕を崩さないヴァルター教官の顔色が、一瞬だけ鋭く変わったのを見逃さなかった。
『——アラート。テスト対象外の存在を検知しました』
脳内に響いたマリアの声から、いつものふざけたトーンが完全に消え失せていた。
★★★ 全知の聖母あとがきシステム ★★★
読んでいただき、ありがとうございます♪
ヴァルター先生、また学園長にお灸据えられないか心配しちゃいますね♪
「坊っちゃんのピョンピョンお遊戯可愛いからいいじゃん♪」と思った方、坊っちゃん好き好き同盟として、
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