原罪
犯人が捕まったのは、事件から十日後のことだった。
名は、レイモンド・ハウザー。三十代後半の男で、かつて教会の炊き出しに何度か顔を出していたことがあると聞かされたとき、彼――ヨハネスは自分の耳を疑った。見覚えがあった。あの、いつも隅の方でうつむいて食事を受け取っていた男。何度か声をかけたこともあった。「調子はどうですか」と。男は曖昧に頷くだけだった。
あの男が、エレナとトマスを。
警察の説明によれば、動機は判然としないという。近隣住民への聞き込みでは、ハウザーが以前から「誰かに監視されている」「声が聞こえる」といった言動を繰り返していたという証言が複数得られていた。
裁判が始まったのは、それから三ヶ月後だった。
ヨハネスは毎回、傍聴席の最前列に座り続けた。憎しみのためではない――そう自分に言い聞かせていた。ただ、真実を知りたかった。なぜ、あの二人が選ばれなければならなかったのか。その答えが、法廷のどこかにあると信じていた。
弁護側は一貫して、被告人の精神鑑定結果を主張の柱に据えた。統合失調症による重度の妄想状態。犯行時、被告人には是非弁別能力が著しく欠如していた、と。
精神科医の証言が続いた。専門用語が飛び交う中、ヨハネスにはただ一つのことだけがはっきりと理解できた。
――この男は、罰せられないかもしれない。
判決の日。法廷は静まり返っていた。裁判長が判決文を読み上げる声だけが響く。
「被告人は、犯行当時、心神喪失の状態にあったと認められる……よって、被告人を無罪とする」
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。周囲がざわめき始めても、ヨハネスはただ座ったまま、裁判長の口元を見つめていた。
無罪。
その言葉が、頭の中で何度も反響した。エレナの最後の笑顔が、トマスの小さな寝息が、その二文字によって塗りつぶされていくようだった。
傍聴席を出て行くハウザーの姿が見えた。護送される様子もなく、弁護人に付き添われて静かに法廷を後にする。その表情に、罪の意識は見当たらなかった。ただ、どこか安堵したような、力の抜けた顔をしていた。
ヨハネスは、その場から動けなかった。
やがて、彼は教会に戻り、祭壇の前に立った。何百回、何千回と祈りを捧げてきた場所。しかし、その日初めて、彼は祈ることができなかった。
「あなたは、本当にいるのですか」
声は震えていた。
「いるのなら、なぜあの男を裁かないのですか。私はあなたの教えを信じ、赦しを説き、愛を語ってきました。それなのに――赦されるべきでない者が赦され、愛されるべき者が奪われる。これが、あなたの正義なのですか」
答えはなかった。いつものように。
ステンドグラスの光は、その日も変わらず美しかった。だが、その美しさはもう、慰めにはならなかった。
ヨハネスは跪いたまま、長い間動かなかった。涙も、もう出なかった。ただ、胸の内側で何かが静かに、しかし確実に砕けていく音を聞いていた。
――神がいないのなら。
――裁きを下さないというのなら。
その夜、彼は生まれて初めて、聖書を閉じたまま眠りについた。そして翌朝、目を覚ましたとき、彼の中には既に、これまでとは違う何かが芽生え始めていた。
誰も気づかなかった。信者たちは相変わらず彼を「聖人」と呼び、彼もまた、いつもと変わらぬ穏やかな笑みで彼らを迎えた。
だが、その笑顔の裏側で、彼は静かに、レイモンド・ハウザーの居場所を調べ始めていた。




