失楽園
その日、教区の集会は長引いた。
ヨハネスは会議室の窓から差し込む夕陽を見ながら、少し苛立ちを覚えていた自分に気づいた。早く帰りたい。エレナとトマスが待っている。ただそれだけのことが、その日はやけに待ち遠しかった。
集会が終わったのは、予定より一時間近く遅れてからだった。彼は足早に教会を出て、家路を急いだ。
家の前に着いたとき、何かがおかしいことにすぐ気づいた。
玄関の扉が、開けっ放しになっていた。
「エレナ?」
返事はなかった。
彼は玄関先に散らばった買い物袋を跨ぎ、家の中に足を踏み入れた。廊下には、見覚えのない靴跡が点々と続いていた。土に濡れた、大きめの足跡。
「エレナ、トマス?」
声が微かに震えていた。まだこのときは、最悪の想像はしていなかった。ただの胸騒ぎだと、自分に言い聞かせようとしていた。
リビングの扉を開けた瞬間、彼の思考は完全に止まった。
床に、エレナが倒れていた。その傍らに、トマスの小さな体が横たわっていた。
部屋の中は静まり返っていた。壁の時計の針が時を刻む音だけが、やけに大きく響いていた。
彼はしばらくの間、その光景の意味を理解できなかった。まるで自分が、誰か他人の悪夢を覗き込んでいるような感覚だった。これは現実ではない。そうであってほしい。そう願う自分と、目の前の光景を否応なく理解していく自分が、頭の中でせめぎ合っていた。
やがて、膝から力が抜け、彼はその場に崩れ落ちた。
「エレナ」
声にならない声で、彼は妻の名を呼んだ。冷たくなったその手を握り、何度も、何度も呼び続けた。返事はなかった。トマスの小さな体を抱き上げても、あの温もりはもう戻らなかった。
どれくらいそうしていただろうか。
気づけば、外はすっかり暗くなっていた。近隣住民の誰かが異変に気づき、警察を呼んだらしい。サイレンの音が近づいてくるのを、彼はどこか遠い場所の出来事のように聞いていた。
警察官に何かを聞かれても、彼はほとんど答えることができなかった。ただ、エレナとトマスの体が運び出されていく様子を、放心したまま見つめていた。
その夜、彼は気づけば教会の祭壇の前に跪いていた。誰がそこへ連れて行ったのかも、どうやって辿り着いたのかも覚えていなかった。
「なぜですか」
声を絞り出すように、彼は初めて神に向かって問いかけた。
「私は、あなたの教えの通りに生きてきました。誰も憎まず、誰も裁かず、ただ愛しなさいというあなたの言葉だけを信じて生きてきました。それなのに――なぜ、あの二人を奪ったのですか」
答えは、なかった。
ステンドグラスの向こうには、月明かりがぼんやりと滲んでいるだけだった。祭壇の蝋燭の炎が、風もないのに小さく揺れていた。
彼は夜が明けるまで、その場から動くことができなかった。
涙は、不思議と出なかった。ただ、胸の中にぽっかりと開いた穴の底に、冷たい何かが静かに沈んでいくのを感じていた。




