花の香りの裏で(一)
ルーを部屋に戻してのち、ローラントはふと少年の頃に遊んだ秘密の場所へと足を運んだ。
「あまり人が来ないものなのか」
フロリア宮殿中央庭園からやや離れた場所に飾られている巨大な架空遺跡。大きな石柱や朽ちたように作られた石の壁が面白く、秘密基地として宝を置いていたものだ。
何気なく歩きながら眺めていると、不意に声を掛けられた。
「何か面白い物を見つけたかい?」
壁の影に背を預けている声の主は、ローラントのよく知る人物だった。
「兄上……」
普段と変わらぬ柔らかな表情のフレデリクが一人佇んでいた。
「ここで会うのは子供の頃以来かな」
なぜ今、ここにいるのか。来るのを見られていたのか。疑念はあれどローラントは平静を繕う。
「そんなこともありましたね。探検気分で偶然見つけた秘密基地……と。ですが、兄上は明るい庭園の方がお好きかと記憶しておりました」
武芸以外は何もかも兼ね備えている兄。あのゾフィー妃から生まれてきたとは思えないほどの穏やかな気性で、政敵であっても幼い頃は時折親しく遊んでいた。
「息が詰まるからね、王宮は。一人でいたいと散策しながら従者を撒いてここに、ということさ」
ふわりと花の香りが漂う。これは……バイオレット。
「たまには人目に付かず立ち話もいいね。ところでおまえはルディカと婚約すると聞いたが、本当かい?」
まだ正式に決まってはいないが、噂ぐらいはたいていの者が知っていてもおかしくない。
だが、この兄の口からルディカの名が出た途端、ローラントの胸がざらりと舐められる。
フレデリクはそれを見透かしたように、静かに笑う。
「単に聞いただけだよ。ただ……」
ふと落ちている小石を拾い、手のひらで転がし眺める。まるで愛おしいものを見るように。
「マリエル妃に良く似ていて驚いたよ。あの方の再来かと思うほどなのに、謁見では凛々しく、戦う姿は猫のように俊敏で。本当に……」
強く手を握り、小石を胸に抱える。
「邪魔が入った時には、残念で仕方なかった」
爽やかな微笑み。漂うバイオレットの香り。
柔らかな口調には敵意もない。それなのに危険だと頭に警鐘が鳴る。
邪魔が入った? ルーを気に入っているのなら、あの時真っ先に案じるのは、彼女の命だ。
「兄上がマリエル妃を恋い慕っている、と話しておられたことが懐かしいです」
ローラントは意図して話を逸らした。
マリエル妃が身ごもり伏せるようになる少し前、二人で物陰から妃を眺めていた。それに気付いた妃は二人を呼び寄せ、巫女の歌を歌い聞かせてくれたのだ。
「ああ、懐かしいね。女神のような人だと思ったよ」
その後、フレデリクはゾフィー妃に見つかり無理矢理引き離された。
ゼラフィーナ妃がマリエル妃と親しいことで、ローラントだけが交流を持つようになった。
離宮に行った時には、この兄に度々様子を聞かれたものだ。ローラントも心優しい兄の気遣いを素直に受け取り密かに伝えるようにしていた。
ある時までは。
「もし妃にするなら、あの方のように全てを包み込んでくれる美しい女性、と考えていたが……そんな人は実在しないものだとウンザリするね」
互いに許嫁を持つ話が登った頃、二人ともルディカのことだと考えていた。
だが、ローラントは国内の有力貴族令嬢と婚約した。まだルディカが1歳の頃でローラントも9歳。
婚約者の少女は明るい娘で、遊んでいて楽しかった。時折、フレデリクも混ざり遊んでいた。
「あの時のようにですか?」
ローラントが13歳の頃、それは起きてしまった。
婚約者はフレデリクに身を穢され、自害したのだ。当初事故死とされていたのをローラントが事実を知ったのは、彼女の侍女が密かに託されたという手紙を渡され読んだからだ。
あの時、ローラントから問い詰められたフレデリクはこう言った。
『愛せると思ったけど、ただのメスに過ぎなかった。あんな女がおまえの婚約者でなくなって本当に良かった』
まるでローラントのために試食をしておいた程度の口ぶりだったことは、今でもよく覚えている。
二人が道ならぬ恋仲だとの噂自体は立っていた。彼女の行動は分かりやすく、明らかにフレデリクを慕っていたからだ。
そんな彼女をローラントは気にも留めなかった。余計な噂で彼女の家の評判を落とす前に、こちらで融通を効かせ兄の妃とすればよい。自分はルディカとの婚約のために動く、と考えていた。
ローラントにとって、ルディカの方が遥かに気掛かりだったからだ。幼い考えであった。
自分にも非があったというのに、兄だけを責めることは……できなかった。
「あの時とは? すまない、どのことを言われているのかすぐに忘れてしまうから」
フレデリクに気に入られ、床を共にすると、家を引き立ててもらえる。そんな噂が流れていても、実際に女の気配はない。婚約は全て断っていると聞く。
だが、ローラントは兄の異常なまでの固執をよく知っている。
兄を慕い兄だけを見、包み込む優しさを持つ女性。マリエル妃の面影を探し、それに愛されたいのだとしか思えない。
婚約者はマリエル妃に似てはいなかった。共通点があるとすれば瞳の色だろう。深く青い優しい目をしていた。
ルーはもっと深い濃紺。黙っていればマリエル妃に生き写しのようだが、表情はだいぶ変わる。
「王位継承者も序列も決まっておりませんが、私は兄上を長子と敬っております。行動は慎まれた方がよろしいかと」
「優しいね、昔から。同じ母から生まれていたらどんなに良かっただろう。まあ、ここはややこしい話になるから、あまり言わないでおくけれど」
そんな話も昔はよくしていた。
兄はゾフィー妃の癇癪にずっと耐えて育ってきた。マリエル妃はそんな兄にとって女性像を覆すまさに女神だったのだろう。
ローラントがそんなことを考えていると、一瞬兄の目付きが変わった。
「気に掛けてくれるなら、ルディカを私に譲ってくれないかな? あの子なら、きっと……」
ローラントの脳裏に、ルーの笑顔と元婚約者の笑顔が重なる。
「いえ、渡しません」
頑なな言葉に、そっか、と残念そうに笑うフレデリクは、普段通り穏やかな表情に戻り、立ち去りかけて足を止める。
ゆっくりと上を向く彼の表情が、ローラントからは見えない。
「でも、決まったことではないよね。ルディカを望んでいるのは、おまえだけではないと肝に銘じておくといい。ユリアンだっているのだからね」
鼓動が強く跳ね上がった。ローラントは黙したまま去り行く兄の背を見送った。
(随分と分かたれてしまったね。おまえとはずっと仲の良い兄弟でいたかった)
何も言わないことがローラントの答えだと受け止め、フレデリクはその場を後にする。
ルディカ……マリエル妃と姿形は生き写しであるのに、本質は異なる美しい姫。そうであっても、心惹かれる存在となるとは。フレデリク自身が驚いている。
(この気持ちをどう伝えれば良いのか。ああ、そういえば母達が邪魔だな。だが、まだ使える内は放っておこう。ルディカ、私が君に恋したと打ち明けたならどんな顔をしてくれる?)
拒絶でもきっと美しい。堂々たる謁見も戦う姿も、様々な表情のどれもに、生きる輝きと美を感じた。
フレデリクは両腕を抱き目を閉じ微笑む。愛しさが体を駆け巡る心地良さに、そっと目を開いた。
夜は王族の晩餐会。できるだけ長く続いてくれたなら、ルディカを存分に眺めることができる。
フレデリクは、気もそぞろに部屋へと戻る道筋を進んでいった。




