殺戮天使(二)毒使いベル
遡ること一年前。
ベルがカフェ・マリエルで働き始めてより幾日か過ぎた頃、本来の雇い主に報告を終え、気疲れしながらもアパルトマンの扉を開くと、ルーが椅子に腰掛けていた。驚く間もなく、ベルは笑顔を取り繕った。
「人の家に勝手に入るのは感心しないわね」
「うん、普通はしないよ。そんなことするの殺る時くらいだよね」
ルーの顔は暗がりで判らなかったが、その声はいつもの明るさだった。……親しみすら感じる。
その声で「殺る」と言ったのだ。
ベルは咄嗟に構えたが、ルーは素早く背後に回り、口を塞いで片腕を締め上げた。
呻きかけると、打って変わった真剣な声で囁かれる。
「殺りに来たんじゃないよ。おねーさんのこと調べさせてもらった。あの雇い主はやめた方が良い。僕は君が気に入ったから死なないで欲しいんだ」
(死なないで欲しい? どういうこと? いえ、鵜呑みにするのは……)
「本当のことだよ。君がリンツァを調べに来たのなんてとっくにマスターは知ってた。泳がせてるだけ。僕らは背景が知りたかっただけだから、用が済めば始末するつもりだった。でも、僕はおねーさんのこと好きだよ」
そう告げるとルーはベルを解放し、軽く距離を置く。肩を押さえながら、ベルはかろうじて短く問い掛けた。
「逃がすの?」
「ううん、守るの」
「どういう……」
意味? と言った時には、もうルーはいなかった。緊張が一気に解け、ベルは壁にもたれ掛かる。
初めから全て知られていた?
それにしては彼女は決定的な言葉を何も言わなかった。
カマを掛けられたのか? それでは何のためにここに。
──守るの
「それはどういう意味なの?」
もういないであろうルーに再び問いかける。
彼女が言う通り、雇い主からの依頼でリンツァギルドを調査していた。メンバーについてあらかた知ることができ、ある特別な依頼主の指示で動いていることまでは突き止めたが、それが誰かまでは掴めていない。
「潜入がバレたなら、もう撤退ね」
誰に言うでもなく独りごちるベルは、最低限の荷物をまとめ、本宅へ退避する。
主へ任務中止の報告もしなければ。ベルは細心の注意を払い雇い主の元へ向かった。
「そうか。つまり失敗というわけだね」
舐めるような下品な目つきはいつ見ても慣れない。
ベルは全てを報告しなかった。ルーに気付かれ、別宅で警告されたとしか話していない。
守る、と言われたことだけは、こんな奴に聞かせたくなかったのだ。それより……ベルは主の背後、カーテン裏の揺れに一瞬目を向けた。あからさまな気配が気になる。
「君ともあろう者が、まんまと利用されているのにも気付かなかったか。面白い」
もったいつけて手を上げる主。カチンと木が組み合わさる音が鳴った。
カーテンの隙間に、鈍い光が閃く。
「ちっ!」
咄嗟に飛び退いたが、避けきれず、腕に重苦しい衝撃が走る。矢が刺さっていた。
小心者の主が単なる牽制で置いていた護衛だとばかり思い、油断していた。
考えている間に足がもつれ、床に膝を付く。
(麻痺毒か……さすがは小者。念入りなことね)
主は悦に入り、誰かを招く仕草をした。豪奢で悪趣味なカーテンを重く揺らし、見覚えのある顔が現れる。
そこそこ名の通った賞金稼ぎ紛いの殺し屋だ。
「そんな姿も美しいな、ベルティナ。だが、君の報酬はいささか高い。あぁ、しかし口封じをするのは惜しいものだ」
床に崩れながらベルはルーの言葉を思い出す。「あの雇い主はやめた方がいい」と確かに言っていた。
(本当にあなたの言う通り。雇い主は選ぶものね……)
たった一週間、リンツァで過ごした日々。穏やかなマスター、可愛いのに残酷なルー、家族のように仲の良いメンバー。
だが、闇に生きる人間に選べる道もない。王都から移住し、ツテもなかったベルを拾ったのがこの主だった。恩を装って鎖を掛けるように。
(帰りたい。でも、裏切っておいて虫が良すぎるわね)
殺れ、と命じる声が聞こえた。
麻痺が全身に回り始めた。覚悟に目を閉じかける。
ふっ。風を感じた。誰かが自分の脇を通り抜ける気配に、ベルは目を開く。
その直後とも言うべき素早さで、人間1人分の重みがドサリと床から伝わった。
「ひぃぃ! 待ってくれ!」
「待たない」
僅かに上げることができた顔で見たのは、血溜まりに浸るボウガンと、見覚えのある小柄な靴。
──この靴可愛いでしょ! 気に入ってるんだ!
「ルー……」
手を伸ばそうと震える指を動かすと、誰かに抱き上げられた。
その時、目に映った光景。
堂々たる上段の構え。
神聖さを感じるほど、白く輝く剣。鍔には王族にのみ刻印を許される、三ツ麦穂の紋章。
(あなたは……)
「汝、守護大精霊のもと、成敗する」
ルーの厳かな声が波紋のように広がり、空気を一瞬で清めた。
ベルの意識が消えかける中、主の最期の言葉が聞こえた。
王家の、と。




