妻の還魂
これで二度目、前世から数えると三度目。
おれは再び地獄に行くことになった。
中年の真っただ中、独り者のおれは深い暗い森の中にいた。
それを小説に描写したらダンテの〝神曲〟冒頭部分とほぼ同じ内容になった。
自分はダンテに似ていると思って気を良くした。
違うのは案内人だった。
森を抜けて視界が開けた所に忽然と朧気に現れたのは、まさかの大天才・芥川龍之介だった。
写真で見た通り和服を着ていた。
おれは大正期の学生のような格好だった。
日本で地獄といえばこの作家、しかしどうみても機嫌が悪そう。
「あるお方に頼まれた。やつがれが地獄を案内いたす」
「思いがけぬ幸せ。依頼者はどなた?」
「極楽におられる。名を言うのは憚られる」
「分かりました。私のようなアマチュア小説家はあなた方にとっては塵芥川」
「龍之介は気が変わりやすい。気が変わればすぐ消えるぞ」
うっかりおれは余計なことを言った。
「気が変わりやすいとは、脳の回転速度が異常に早いということですな」
「さよう」
彼はもうイライラしていて短く答え、向きを変えた。
龍之介は彼の小説に出てくるいろいろな地獄名所を案内してくれた。
「ここが蜘蛛の糸の舞台。蜘蛛が糸を垂れた池」
お釈迦様が覗いた美しい極楽の朝の池ではなく、糸が降りて来た血の池地獄だった。
昔からの疑問をぶつけた。
「先生。蜘蛛の糸の主人公はカンダタですが、インド人にそのような名の者はおりません。何人ですか?」
龍之介はむすっとして返事をせず別の場所に案内した。
そこは地獄変の着想を得た場所だと言う。
芸術至上主義がテーマという小説だ。
「先生。最後の方で絵師の娘が車ごと焼かれるとき飼い猿が娘を救いに炎の中に飛び込みましたな。そのあと救出に成功した猿めに娘も惚れたに違いない。愛の契りを結び半人半猿の子が産まれたのですか?」
「そんなことしか興味ないのか」
もう我慢できないというように龍之介はすっと姿を消した。
ぼんやりしていると妻だという鬼女が喜びながら走ってきた。
外見がまるで違っていたので気づかなかった。
若々しく美人に見えた。
体型も若返ったようだ。
ここはどんなことをしても下に落ちることは無い地獄だと思って、いきなり夫婦の営みを挑んだ。
するとまさに本当の妻だった。
妻に聞くと、あのとき姪と交代して菊嬢天女になったが顔がイマイチと言われるので阿弥陀様に頼むと昔から憧れたとびきりの美女に変えてくれた。
それだけではなく体も女性らしく出るべきは出て引っ込むべきは引っ込んだという。
亡者の世界では個体識別に顔は意味がなく、外見は好きなように融通できるという。
その結果モテすぎてオシッコを我慢することが増えて体調を壊した。
再び阿弥陀様に相談すると、後釜の心配は要らないから地獄にいって処女鬼女の担当になれ、と言われたそうだ。
それで妻は地獄にいたのだ。
悪いことをしたのではなかった。
名前からするとおれ以外の男とは交わっていないようだ。
地獄はどうか、と聞けば悪くないという。
あれ、そうなのか。
オシッコを我慢するより授乳を我慢する方が自分には合っている、といった。
娑婆にいたとき重度の貧乳だったのに、それを得意種目にするとは。
「地獄にやってくる男達を見ていたら、あなたの良さが分かったの。そこで閻魔様に相談したら、あなたの功績に報おう。二人で娑婆に帰らせよう、と言ってくれたのよ」
「ああ……そう。じゃあ、現代の日本に帰るか」
怒った気の短い案内人は既にいない。
はて、どうしたら帰れるのか。
新任の閻魔代務者の所に二人で行った。
彼はハリウッドスターのG.クルーニーによく似ていた。
大変男らしいが丁寧で、声を聞くだけでも気持ちいい。
「あなたの功績は聞いています。ご褒美として御内儀の望みを叶えてさしあげましょう。注意点ですが、帰り道では妻は必ず夫の後にいなければなりません。しかも途中で振り返って妻を見るとすべて水泡に帰すことになります」
「ああ、日本神話のイザナギやギリシャ神話のオルフェウスと同じだね。十分承知。大丈夫だよ!」
おれには振り返らない自信があった。
閻魔代務者はこのあと別室で短時間妻とだけ話した。
部屋を出てきた妻の顔から笑顔が消えていた。
「どうしたんだ? 何かされたのか」
「いえ、何も。少し話を聞いただけ」
二人は出発した。
後ろの妻の足音が聞こえている。
何も問題は起こらない。
よし、絶対振り返らないぞ。
なかなか出口が見えない中、黙々と歩いて行って終に地獄とこの世の境目に来た。
うれしさのあまりおれは明るい娑婆に飛び出した。
もういいだろう、振り返ったらそこに通って来た穴は無く、ただの岩山だった。
おれは一人ぼっちだった。
おれに過失はなかったはずだ。
すると妻は自発的に別れを選んだのだろう。
閻魔代務者に元女閻魔のエマの存在を知らされたか、或いは妻になった者にしか分からない何かの思いがあったのだろうか。
おれは穴のあった場所を見つめ、人生の謎を思い続けた。
久し振りにドライブに出た
海沿いの変哲もないファミリーレストランだった。
若いウェイトレスが迎えた。
ミルクを注文した。
すると彼女は空のコップだけ持ってきた。
いきなり胸を開け、豊かな乳房をボロンと出した。
驚いていると彼女は自分で乳を揉み始めた。
勢いよくミルクがほとばしり、あっという間にコップはいっぱいになった。
飲むと懐かしい味と香り、それは間違いなく地獄で飲んだ処女鬼女のミルクの味だった。
驚くおれに笑うウェイトレスは元妻だと明かした。
若返って容貌も全く変わっていた。
懐かしい話で盛り上がり、やがてレストランを後にした。
一人で生きてゆく決心をした元妻にまた逢うことは無いだろう、それがいい、運転しながらそう思った。
穏やかな自然の風景の中に直線的な舗装道路が延び瀟洒な店もあって、現代の人里らしい心地よさがあった。
見るだけでほのかな幸せを感じた。
文明の吐き出す物には不快なもの、問題をもたらすものもあるが、全体としてはこういう風景を作り出せる現代文明が好きだ。
そのとき心の中からある人の声が聞こえた。
「おい君、現代の地獄を描いてみよ」
耳に残る声の主は龍之介だ。
彼ならあからさまな悲惨さを言っているのではないだろう。
現代文明のもたらす一見幸せの極致の中に地獄を見抜いて書け、というのじゃないかな。
しかしおれはあまりに快適な文明をもっと味わいたい。
本物を見てきたのに、それより恐ろしい地獄など考えることも出来ない。
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地獄行きの夢は終わった。




