地獄還魂記
おれは有嶺哲史。IT会社に勤める目立たない、中年を過ぎかけた会社員だ。
結婚してから頻繁に妻に怒鳴られたが、それが普通だと思っていた。
中年に入った頃妻は病死し独り者に戻った。
どなる妻がいなくなると心の底は寂しかったようで、数年後に妻を極楽から連れ戻す夢を見た。
その経緯は既に前節の〝極楽還魂記〟に書いた。
さらにそれから数年後、今度は一人で地獄をめぐる夢を見た。
前回の極楽旅行の続きという設定になっていた。
▼ ▼ ▼
おれは再び建国初期の唐にいる唐人だった。
維摩経を信奉して再び商売に励み大成功し、また大金持ちになってあだ名を〝おだまり長者〟と呼ばれていた。
ある日おだまり長者が寝ていると夢に現れた女形閻魔は独り寝の寂しさを訴えた。
そして閻魔を辞めるからそちらの娑婆に連れ帰ってくれと言った。
どういうことかと聞けば前世のおれが以前地獄を訪れて危機を救ったのだと言う。
今生のおれが女形閻魔を見るのは初めてだった。
転生後まで追いかけてくるのか。
まあいいや。
容姿も美しいので何も考えずOKの返事をした。
全国の寺院を廻り各種菩薩をリクルートして極楽行の時と同じように再び仏様軍団を作った。
そして皆で地獄の存在する宇宙に遠征した。
道中に魔物たちが出現したが、これから行く地獄に比べたら魔物なんてかわいいものだ。
仏様軍団から見れば大リーグと草野球が戦うようなもの。
やがて地獄に到着した。
地獄に入ると暗闇の中に炎でできた壮麗な宮殿が多数見えた。
すぐに女形閻魔が出迎えてくれた。
閻魔は久しぶりに逢えたと言って大喜びだったが、忙しいようで荷物を降ろして休息すると彼女は一時姿を消した。
このとき普段真っ暗な地獄の空が荘厳な青のグラデーションに変わり、あたりの景色が見えてきた。
雄大な景色だった。
目に見えない地平線の向こうまで辺り一面大勢の地獄の住人たちで埋め尽くされた。
責め苦を受けていた者や責め苦を与えていた邏卒、羅刹女なども一時休息して集合していた。
おごそかな雰囲気になった。
おれはその中心にいて皆に見られている。
少しして真ん中に再び、今度は極めて厳かに正装で女形閻魔が現れた。
しかしまことに穏やかなお顔だった。
「いとしいあなた、私を忘れた?」
「元から知りませんでした」
「そう思うでしょうね。前回会ったのはあなたの前世。待っていたのよ。懐かしいわ。あなたの前世は昔生きたままやってきて地獄の危機を救ってくれたのよ。今日は恩返しの宴会よ」
そうだったのか。
だからおれが彼女を知らなかったのか。
「あなた、極楽に行った時は膨大な布施をしたじゃないの。でも、いいの。地獄には布施する習慣も無いし入場料も要らない。あなたが来ただけで私はいいの」
邏卒たちの奏でる霊妙な、しかしロックバンドのような楽し気な音楽が聞こえ始め、住民みんながゆるやかに体を動かし踊り始めた。
閻魔様は不思議なことを言われた。
「地獄は別れた人に再び逢える場所でもあるの。何をやってもいいところよ。親の仇を殺してもいいわよ。地獄より下に落ちるところはないから」
「さすがにそれは……お釈迦様がみていたら蜘蛛の糸が早く切れるかも」
「ほっほっほ。冗談よ」
しかし残虐なことが気兼ねなくできるということも地獄の本質のひとつだろう。
閻魔様は用事があると言ってまた姿を消した。
場が用意され地獄の人々はおれを、酒も肉もある宴会を催して歓迎してくれた。
会社などでうわさに聞く恐ろしい〝地獄の宴会〟ではなく、普通に楽しかった。
おれに渡された盃に多数の黒点が浮かんでいた。
この杯の黒点は何? と傍にいた邏卒に聞いた。
聞かれた邏卒は何も知らず後ろにいた羅刹女に聞き……その繰り返しが続き皆サワサワと話しはじめ、やがてサワサワは地獄全体に広がった。
そのうち判ったようで、静かになった。
邏卒は雄大な宇宙を見るように、得意げに
「鬼怪山窯にて焼きたる黒子窯変の地獄盃にて御座候。これに処女水を入れて一杯飲めば2日寿命が伸びると承り候」
「2日?」
「無間地獄の1日は娑婆の七億年でござるよ」
別に悪いわけではないが七億年とは長すぎないか。
地球ができてから四十五億年。
それが無間地獄では七日にも満たない。
これでは生物も進化できない。
処女水とは何か、と聞こうと思ったら後ろで何者かがムラムラしているのに気が付いた。
見ると美しい鬼女が素っ裸の体を苦悶の表情でくねらせていた。
鬼女と言ってもどこにも鬼の特徴がない。
青の半透明スライムのような若い女の裸体の曲線は美しくも悩ましく蠢いた。
豊かな両乳房を手で覆い隠そうとして叶わず、いっぱい溜まった乳液に刺激されて切なく悶える姿は、あたかも遠足中に野中で我慢できなくなり前を押さえて震える美人小学校女教師のように色っぽい。
その女教師はおれと面識だけがあった大正ロマン風の美女だった。
大正風のスカートに包まれた尻もロマンチックでいいが、半透明の女体にはうごめく内臓や無心に鼓動する心臓が見えた。
巨大な乳房を制御しかねてうごめくたびに鬼女は声を上げてのたうちまわった。
必死で我慢している鬼女の表情にチラチラ恍惚が混じってきた。
おれは声を掛けた。
「そなたは何者か」
「わっ! わらわは処女鬼女なり……あぁっ! 大切な客人に新鮮な処女水をたっぷり献ぜんと……うぅっ!……ぁああ~っ!」
胸から昇って来る苦悶に混じる快感に恍惚となって、とぎれとぎれの必死の返事だ。
処女水とは乳のことだろう。
おれはすべてを理解した。
「もうよいであろう。バターになってしまいそうじゃ」
と声を掛けると処女鬼女は一転して喜悦の表情になり、乳房から地獄杯にジャーッと乳を注いでくれた。
飲むと地獄でも天国にいる心地がした。
「なんとコクのある、まさに延命の乳じゃわいのう」
傍にいた邏卒がニヤニヤしながら
「味もさりながら、美人の処女鬼女に胸の張りを我慢させて苦悶の表情を見るのがここの楽しみの一つでござる」
おれは処女鬼女のために邏卒を殴ってあげようかと思ったが、止めた。
途中で一度姿を現した閻魔様も手拍子をしながら歌ってくれた。
何とも妙なるソプラノだった。
別れの時が来た。
一緒に大遠征した仏様軍団にたっぷり布施をはずんで解散した。
女形閻魔はどこに? 探すと楊貴妃のような唐風衣装に着替えておれの横に並んだ。
ものすごくうれしそうな様子を見るとこの上なく愛おしくなった。
仕事は別の者に交替して閻魔は再び男になったという。
「えっ? どういうこと?」
「私たちは閻魔代務者なの。閻魔様本人はずっと偉いので遥か遠い別の所にいて罪人を責める私たちに役目ゆえの罪が生じないように、すべて彼が審判者の罪を背負っているの。だから彼が苦しそうな赤い顔をしているおかげで代務者たちは平気で残酷な業務を遂行できるの」
「処罰される罪人より処罰する者の方がより苦しみが大きいのか。親が小さい子におしおきするときに似ているな。ところで君は嘘をついた人間の舌を抜いたりするのか?」
「それは江戸時代に突然流行った噂。そんなことやらないよ」
おれは安心した。
地獄の皆に二人並んで別れの挨拶をした。
処女鬼女がなぜか必死の面持ちでおれを見ていた。
何が言いたいのかわからないのでうっちゃっておいた。
名残を惜しみながら暗い穴を抜けてゆくと、どこかの地上に出た。
「ここはどこだろう?」
「シナの泰山よ。私はこれから東岳大帝こと泰山府君の娘の〝へきかげんくん〟になるの。道教の女神よ」
「そうか、おれたちは唐人だったな」
「今後は私をエマと呼んでね。私に逢いたくなったら東方に向かってエマーと叫んでね」
言い終えると女形閻魔だった彼女はあっさり姿を消した。




