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第3話 七年前の、水

 嘘には、重さがある。


 軽い嘘は宙に浮く。重い嘘は沈む。前世で詐欺師をしていた人間は、その重さの違いを体で覚えている——軽い嘘は息を吸うように出てくるが、重い嘘は腹の底から引き剥がすように出てくる。重い嘘をついた後は、腹に穴が開いたような感覚が残る。


 亀吉がついている嘘は、重い方だった。


 影無はそれを、三日間かけて確認した。


 大黒屋に通い始めて三日目——今朝、中庭の掃除をしながら、亀吉が縁側の柱に背を預けて空を見ているのを横目で観察した。空を見る十五歳の目ではなかった。空の向こうに何かを置いてきた人間の目だった。置いてきたものが重いから、時々そちらを見てしまう。見るたびに、少し、肩が落ちる。


 亀吉は何かを知っている。


 茂助に黙らされている。


 だが茂助が亀吉に口止めをしているのは、茂助自身の意志からではないかもしれない——三日間の観察で、茂助の口止めの仕方が「命令」ではなく「懇願」に近いことがわかってきた。茂助も何かを恐れている。恐れている者が、恐れから別の者を黙らせている。


 恐れの源が、どこにあるか。


 それがまだ、見えなかった。


 四日目の昼過ぎ、影無は帳場の整理を言いつけられた。


 番頭の茂助が風邪で寝込み、帳場に人手が足りなくなった——という話だったが、影無には別の読み方もできた。茂助が寝込んだのは本当だろう。だが、なぜ影無に帳場を任せたか。惣太郎でも、おきくでもなく。


 惣太郎は帳場の仕事を避けている。三日間の観察でそれはわかっていた。帳場に座ると、帳簿を開かずにいられない。帳簿を開くと、七年前あたりから薄くなる記録を見ることになる。見るたびに、惣太郎の表情が変わった。変わり方は怒りに近かったが、怒りを外に出せない人間の、内側で固まっていく怒りだった。


 おきくは字が読めない。


 だから影無になった。


 影無は帳場の椅子に座り、今日の帳簿を開いた。


 開きながら、七年前の棚を——文机の引き出しの奥の方を——さりげなく確認した。奥の方に、別の帳簿が一冊あった。表紙に年号がなかった。表紙に年号がない帳簿は、正式な取引記録ではない。覚書か、あるいは——


「それは触らないでくれ」


 声がした。


 振り返ると、惣太郎が入口に立っていた。帳場には入らず、敷居の外から見ていた。いつからいたか、影無は気づかなかった。それは珍しいことだった。影無が人の接近を感知できないのは、能力を全力で使っている最中か、あるいは——思考が深く沈んでいるときだ。


「失礼しました」と影無は言い、引き出しを閉めた。


 惣太郎は入ってこなかった。


 敷居の外で、少し間があった。


「……見たか」

「表紙だけ」

「表紙に、何が書いてあった」

「何も。年号がありませんでした」


 惣太郎の目が、影無の顔を見た。三日前、蔵で話したときと同じ目だった——何かを確認しようとして、確認できてしまったら困る、という目。


「上方の染物師が、なぜ帳簿の引き出しを開ける」


 影無は答えを、一拍の間に作った。


「整理を頼まれましたので、どこに何があるかを確認していました。触れてはいけないものがあれば、最初に教えていただければ助かります」


 嘘ではなかった。全部本当のことだった。ただ、本当のことの並べ方が、嘘と同じ形をしていた。


 惣太郎は少し、影無を見続けた。


 それから言った。


「父には言うな」

「はい」

「……頼む」


 その「頼む」の言い方が、影無の中の何かに触れた。触れた、という感覚があった。触れた場所の名前が何なのか、影無にはわからなかった。感情の棚の、どこかだろうとは思った。


 惣太郎の指が、敷居の木を強く掴んでいた。言葉とは別のところで、何かを抑えている手だった。


 その日の夕、影無は大黒屋を出た後、運河沿いを歩かずに、霞津の表通りへ回った。


 表通りは今日も人が多かった。行商、武家の従者、遊び人、子ども——

影無は人の流れの中を、流れと同じ速度で歩いた。立ち止まらず、逆らわず、魚が川を泳ぐように。


 目的は、一つだった。


 四日前、運河の野次馬の中で後ろに下がった男——影無はこの三日間で、その正体を絞り込んでいた。


 霞津の情報には、流れがある——三つほど。武家の公式記録、商人の口伝、影衆の流通網。この男に関しては、二番目——商人の口伝——で十分だった。霞津の裏町には、茶屋と煮売り屋と床屋が情報の結節点として機能している。影無はこの三日間、大黒屋の帰りに三つを順番に回った。立ち寄り、聞き、立ち去った。


 絞り込んだ結果——


 男の名は、おそらく「仙右衛門せんえもん」。


 霞津の外れにある小さな口入屋の手代てだい。三十二歳。三年前に妻と別れた、らしい。以来、独り身。霞津の商人仲間の間では「顔が広い割に、どこにも深く入らない男」として知られている。


 顔が広い割に、どこにも深く入らない。——誰の隣にも座るが、誰の背中にも立たない男だ。


 それは、仲介業者の典型的な人物像だった。


 多くの人間と繋がりを持ちながら、特定の場所に根を張らない。根を張らないから、何かがあっても逃げやすい。そういう人間が、お絹の死の場に居合わせ、後ろに下がった。


 縁談の仲介をしたのが、この男かもしれない——そう考えるだけの材料は揃っていた。


 確かめなければならない。


 仙右衛門が夕方に立ち寄る煮売り屋を、床屋の主人から聞いていた。


 表通りから二本入った路地の、間口の狭い店だった。影無は店の外を一度通り過ぎ、中を確認した。


 いた。


 奥の席に、背中を壁につけて座っている男がいた。三十前後、やや痩身——合っていた。左手が膳の上に乗っているのが見えた。薬指の、日焼け跡。


 影無は店に入った。


 仙右衛門の斜め前の席に座り、酒と小鉢を頼んだ。仙右衛門は影無を見なかった。見ようとしなかった——その方が正確だった。運河の場と同じだ——視線を、さりげなく、しかし確実に逸らしていた。


 影無は酒を飲みながら、何もしなかった。隣の客が、味の薄さに小さく文句を言っていたが、影無は聞いていなかった。


 何もしないことが、今夜の方針だった。


 前世の詐欺師は知っている——人は見られていないと思うとき、素の顔が出る。今夜は観察だけでいい。仙右衛門が何を食い、何を飲み、誰に目を向け、誰を避け、店を出るときにどちらへ向かうか。それだけで、次の手が見える。


「澪」と影無は心の中で呼んだ。

「なに」

「水の記憶を、少しだけ読めるか。この男の、直近の——」

「使うの?」


 間があった。


「……必要があれば」

「どうしても?」


 影無は仙右衛門の横顔を見た。男は黙って酒を飲んでいた。急いでいる様子はない。だが、何かを待っている。待ち人がいるか、あるいは——時間を潰している。時間を潰す必要がある人間は、何かの前後にいることが多い——待ちか、あるいはその後始末か。


「どうしても、ではない」と影無は答えた。「待つ」


 澪は何も言わなかった。


 影無は酒を飲み続けた。


 四半刻しはんこく(およそ三十分)ほどして、店に新しい客が入った。


 武家の中間ちゅうげん風の男だった。三十代、がっしりした体格、左の耳たぶに小さな傷跡。その男が入ってきた瞬間、仙右衛門の背中がわずかに動いた。その背中の動き方が、影無には見えた——緊張、ではなく、了解だった……ように見えた。


 中間風の男は仙右衛門の向かいに座った。


 声は聞こえなかった。距離があった。だが、口の動きは見えた。影無は口の動きを読む訓練を、前世で積んでいた。完全には読めないが、断片は拾えた。


 仙右衛門の口が動いた。


 ——済んだ。仙右衛門の喉が、一度だけ鳴った。その一音だけが、不自然に大きく聞こえた。


 中間風の男の口が動いた。


 ——確かか。

 ——ああ。

 ——父親は。

 ——わからん。息子が——


 そこで中間風の男が向きを変え、口が見えなくなった。


 影無は酒を口に運んだ。手が、少し冷たかった。


 「済んだ」——何が済んだのか。「父親」——惣兵衛のことか。「息子」——惣太郎か。


 仙右衛門は縁談の仲介者だ、という仮説は、今夜の観察でほぼ確信に変わった。だが今の会話の断片は、縁談の仲介より重い何かを示唆していた。縁談が「済んだ」のではなく——別の何かが済んだ。


 お絹が死んで、何かが済んだ。


 胃の底が、少し冷えた。誰かに背中を見られているときの感覚に、少し似ていた。


 冷えという感覚は、まだある。まだここにある。


 翌朝、大黒屋に着くと、亀吉が裏口の前にいた。


 朝の仕事が始まる前の、中途半端な時間に外に出ている。煮売り屋に使いに出る時間でもなく、掃除を始める時間でもなく——ただ立っていた。運河を見ていた。


 影無が裏口に近づいても、亀吉は気づかなかった。


 気づかないほど、何かを考えていた。


「亀吉」


 呼ぶと、亀吉は飛び上がるように振り返った。


「い、伊助さん……」

「早いな」

「あ、はい、その……」


 亀吉の目が泳いだ。泳ぎ方が、三日前と違った。三日前は「言ってはいけない」という抑制から泳いでいた。今朝の泳ぎ方は——抑制が緩みかけている目の泳ぎ方だった。何かが、亀吉の中で動き始めている。


「運河を見ていたか」と影無は言った。

「……はい」

「お絹さんのことを、考えていたか」


 亀吉は答えなかった。


 答えない、ということが答えだった。


 影無は亀吉の隣に立ち、同じように運河を見た。朝の霧がまだ残っていた。水面が白く、向こう岸が曖昧だった。


「言えないことは、言わなくていい」と影無は言った。「だが、聞いてもいいか」

「……何を」

「七年前に、この家で何があったか——お前は知っているか」


 間があった。


 長い間だった。


 亀吉がこの家に来たのは二年前だと、影無は聞いている。七年前のことを直接知っているはずがない——影無はそれを承知で聞いた。直接知らなくても、誰かから聞いていることがある。奉公人の間で語り継がれることがある。特に、その「何か」が今も影を落としているなら。


「……聞いたことが、あります」と亀吉は言った。


 声が低かった。運河に沈むような声だった。


「聞いていいか」

「……茂助さんに、怒られます」

「茂助は今日、まだ寝込んでいる」


 亀吉は運河を見た。霧を見た。それから、影無を見た。


 影無は亀吉の目を見た。見返した。逃げなかった。


 亀吉の目に、何かが決まった。


「七年前に、大黒屋に火事があったと聞きました」


 亀吉の声は低いまま、続いた。


「蔵が一棟、燃えたと。原因はわからなかったと……でも、本当は」

「本当は」

「放火だったと。そう言う人が、います」


 影無は聞きながら、帳簿の記憶と照合した。七年前、大黒屋の取引量が急に減り始めた。火事で蔵が燃えれば、取引の規模が縮む。辻褄が合う。


「誰が放火したか、聞いたか」

「……影衆かげしゅう、と」


 その言葉を聞いた瞬間、周囲の音が一瞬だけ遠のいた。誰かに聞かれている気がした——理由はなかったが、確信に近かった。


 影衆。


 霞津の諜報結社。三つの勢力のうち、影無が最も近づきたくない場所。情報を操り、人を動かし、霞津の霧の中に溶けている組織。


「なぜ影衆が大黒屋に」と影無は言った。感情を抜いた声で言った。

「わかりません。ただ……先代の大黒屋、惣兵衛さんのお父上が、影衆と何か揉めていたと。揉め事の決着として、蔵を燃やされたと」

「惣兵衛は」

「家を継いでから、影衆と手打ちをしたと聞いています。だから、今の大黒屋は影衆の言うことを……」


 亀吉がそこで止まった。


 止まり方が、言い過ぎたと気づいた止まり方だった。


「言うことを聞いている、か」と影無は続きを言った。


 亀吉は答えなかった。


 答えない、ということが答えだった。


 影無は午前の仕事を黙々とこなしながら、頭の中で構造を組み直した。


 七年前の火事。影衆との手打ち。惣兵衛は影衆に従う立場になった。


 お絹の縁談——誰と? 影衆の誰かと、あるいは影衆に繋がる誰かと。お絹が嫌がった。お絹が死んだ。仙右衛門が「済んだ」と言った。


 縁談を潰すために、お絹は死なされた。


 いや——違う。そう思ったが、その確信の根拠が、自分でもはっきりしなかった。


 縁談を成立させるために、お絹に圧力をかけた。その圧力がお絹を追い詰め、死に至らしめた。それとも、直接手を下したのか。


 まだ証拠がない。


 帯の前結びは証拠にならない。 仙右衛門の口の動きは証拠にならない。 亀吉の伝聞も——証拠と呼ぶには弱かった。


 岡っ引きが動かない理由は、大黒屋が影衆の傘下にあるからかもしれない。影衆に守られている商家の事件を、岡っ引きが掘り返せるはずがない。


 惣太郎が「言えば、もっと悪くなる」と言った理由も、今なら見える。影衆を告発すれば、大黒屋そのものが潰される。


 では影無に何ができるか。


「考えすぎると顔に出るって、言ったよね」と澪が言った。


 影無は表情を戻した。蔵の棚を整理する手を動かし続けた。


「影衆が絡んでいる」

「聞こえてた。……怖い?」

「怖い、という棚が今どこにあるかは確認できない」

「それ、怖くないってことじゃなくて、怖いという感覚にアクセスできなくなってきてるってことでしょ」


 影無は答えなかった。


 澪が正しかった。影衆という言葉を聞いたとき、何かが静止した——それは恐怖の反応だったかもしれない。だが恐怖という名前がつかなかった。名前がつかない感情は、感情として機能しにくい。


 機能しにくい感情は、判断を誤らせる。


 恐れを感じられない人間は、無謀になる。それを前世で見た。無謀になった人間が、どういう結末を迎えるかも見た。


「慎重にやる」と影無は言った。

「約束?」

「……約束は、できない。状況による」

「それって約束じゃないよ」

「誠実な返答だ」


 澪が小さく笑った——笑う、というより、水が泡立つような音が——少し遅れて、鎖骨の裏でした。澪が笑ったのは久しぶりだった気がした。澪が笑うとき、影無の中に何かが残っている、ということだと影無は思っていた。


 昼過ぎに、来客があった。


 影無は中庭の草取りをしていたため、直接は見えなかったが、声は聞こえた。


 表口から、男の声。


 低く、滑らかで、よく通る声だった。よく通るが、必要以上に響かない——声の音量を、精密に制御している人間の声だった。声は武器だ、と知っている人間の声だった。


 影無は草取りの手を止めず、耳だけを向けた。


「惣兵衛殿はご在宅か」

「只今お呼びいたします」という茂助の声——茂助は昨日まで寝込んでいたはずだが、この客のために起きてきたのだろう。それだけの客だ、ということだ。


 しばらくして、座敷の方から声が続いた。内容は聞こえなくなった。


 影無は草取りをしながら、座敷との距離を縮めることを考えた。縮めるには中庭から縁側沿いに移動する必要があるが、それは不自然だった。不自然な移動は記憶される。


 能力を使えば——気配を消して、縁側に近づけば——聞こえるかもしれない。


 使うか。


 影無は草を一本抜きながら、考えた。


 昨日、煮売り屋で使わなかった。今日もまだ使っていない。二日連続で使わずにいた——使えば、何かが削れるからだ。だが今、必要性がある。あの声の主が誰で、何を話しているか——それは今後の判断に直結する情報だ。


 必要性がある、と自分で判断したとき、その判断が純粋な情報収集の必要性なのか、あるいは別の何か——焦りや、苛立ちや、あるいは「早く解決したい」という感情的な衝動——から来ているのか、影無には判断できなかった。


「澪」

「聞こえてる。……使う?」

「必要だと思う。だが」

「だが?」

「判断が、正しいかどうかわからない」


 間があった。


「それを言えるうちは、まだ大丈夫だよ」と澪は言った。「使うなら、短く。それだけ守って」

「ああ」


 影無は草取りの手を動かしながら、内側のどこかを——何と呼べばいいかわからない場所を——静かに開いた。


 気配が、薄れた。


 正確には、世界との境界が薄れた。影無の輪郭が曖昧になった。空気が影無を認識しなくなった、と言えばいいかもしれない——それが気配消去の感覚だった。存在が薄くなるのではなく、存在が世界の中に溶けていく感覚。


 溶けながら、影無は縁側に沿って動いた。


 音がなかった。影がなかった。


 座敷の障子の外、二間ほどのところで止まった。


 声が聞こえた。


「——縁談の件は、お気持ちの整理がついてからで構いません」


 滑らかな、よく通る声。その声を聞いた瞬間、影無の中で何かがわずかに引っかかった。前世で、一度だけ聞いた声に似ている気がした。


「ただ、当方としては、先の約束を……やはり、果たしていただく必要がございます」


 惣兵衛の声が聞こえた。低く、くぐもっていた。


「……わかっている」

「惣太郎殿のことも、よくよくお話しいただければ……あの方は、少々、不安定なようで」

「惣太郎には、関係のない話だ」

「そうおっしゃいますが——情報というのは、止めようとすると余計に広がりますので。広がった先で、どこに届くかは保証できません」


 惣兵衛が何かを言った。聞き取れなかった。


「では、また改めて参ります」という声がして、座敷の気配が動いた。


 影無は庭の方へ戻った。


 戻りながら、内側を閉じた。


 気配が戻ってきた。世界の境界が、もとの厚さに戻った。


 その瞬間——何かが消えた。


 消えた、という感覚があった。何が消えたかは、すぐにはわからなかった。わからないまま、草取りに戻った。手を動かしながら、確認するように内側を探った。


 感情の棚を。


 ——「懐かしさ」の区画が、薄くなっていた。


 そこには何があったか。前世の記憶と繋がる感覚があった。前世で詐欺師をしていた頃、ターゲットの会話を盗み聞きしたときの感覚——緊張と、それに似た昂揚と、そしてその後に来る虚しさ。その一連の感覚の記憶が、「懐かしさ」という名前で棚に入っていた。


 それが薄くなった。もう一度、同じ感覚を思い出そうとして——できなかった。


 思い出せないことに、違和感すら薄かった。


 前世が、また少し遠くなった。


 前世が遠くなるということは——前世の罪も、遠くなるということかもしれない。遠くなれば、楽になれるかもしれない。だが楽になることが、今の影無に許されることかどうか——


「伊助さん」


 亀吉の声がした。


 振り返ると、亀吉が縁側から顔を出していた。


「お客人が帰られました。茂助さんが、伊助さんを呼んで来いって」

「わかった」と影無は言い、立ち上がった。


 膝の土を払い、中庭を横切った。


 梅の木の前を通ったとき、青い実がいくつか風に揺れた。小さく、固く、まだ遠い甘さを内側に持っている実が。


 茂助に呼ばれた理由は、明日の荷の確認だった。


 藍の染料が入る予定で、蔵の受け入れ場所を整理しておく必要があるという話だった。それだけだった——が、茂助は話の最後に、少し間を置いてから言った。


「今日、来たお客人のことだが」

「はい」

「見たか」

「中庭におりましたので、お顔は」

「そうか」


 茂助は何かを言いかけて、言わなかった。言わないことを、影無は急かさなかった。急かすと閉じる。


 茂助は最終的に、こう言った。


「あのお方には、気をつけろ」


 それだけだった。


 気をつけろ、という言葉は情報として薄い。だが茂助が言った、という事実は厚い。茂助はこの三日間、影無に対して最低限の言葉しか使わなかった。その茂助が、「気をつけろ」と言った。


 よほどのことだ。


 茂助が恐れているのは、その客人だ。あるいは、その客人が代表している何かだ。


「あのお方の、お名前は」と影無は聞いた。


 茂助はまた間を置いた。


 それから、小さな声で言った。


御蔵みくらと申す」


 その夜、三畳半の借間に戻った影無は、文机の前に座った。


 「御蔵」という名前を、覚書に書いた。


 霞津の人物名鑑の中に、御蔵はなかった。三年間で集めた情報の中に、その名前はなかった。霞津に三年いて、一度も名前が出てこなかった人間——それは、名前を出さないように動いている人間だ。


 影衆に繋がっている。


 ほぼ確信だった。


 御蔵が惣兵衛に「約束を果たしていただく必要がある」と言った。縁談の件。惣太郎を不安定と言った。情報は止めようとすると広がる、と言った——それは脅しだ。穏やかな言葉で包まれた、明確な脅しだ。


 前世の詐欺師は、穏やかな脅しをよく使った。


 自分と同じ技術を使う者がいる、と思った瞬間、影無の中の何かが反応した。反応の名前がつかなかった。怒りに近いが、怒りより冷たいもの——


「嫌悪、かな」と澪が言った。

「……そうかもしれない」

「自分と同じものを見て、嫌悪するのは健全だよ」

「健全かどうかはわからない」

「嫌悪できるってことは、その行為が悪いってわかってるってこと。わかってるってことは、良心がある」


 影無は覚書を眺めた。


 御蔵。仙右衛門。影衆。縁談。お絹の死。七年前の火事。帳簿の年号のない一冊。


 点が増えてきた。線にはまだなっていない。


 線にするには——もう一歩、深いところに入らなければならない。深いところには、危険がある。危険を前にして、恐怖の棚がどこにあるか今日も確認できなかった。


 確認できないまま、進んでいく。


 それが正しいのか——正しくない可能性の方が高い、とも思った。


「今日の「懐かしさ」が消えたこと、気づいてたんだね」と澪が言った。

「ああ」

「何か、思った?」

「前世が遠くなる、と思った」

「悲しい?」


 影無は答えを探した。探して、見つからなかった。


「……悲しいかどうか、確認できない」

「それ自体が、悲しいことだよ」と澪は言った。「あなたが悲しいかどうか確認できないことが、私には悲しい」


 水が底から冷えるような感覚が、鎖骨の裏にあった。


 澪の悲しみだった。


 澪の感情が、影無の体で感じられる——それは、影無自身の感情が薄くなったぶん、澪の感情の輪郭がはっきりしてきた、ということかもしれなかった。精霊と人間が逆転していく。どこかの時点で、完全に逆転する。


 そのとき、影無に何が残るか。


 燈心が燃え尽きた後の、行灯に何が残るか——


 影無は覚書を閉じ、行灯を吹き消した。


 霞津の夜が、部屋の中に入ってきた。音のない水のように、静かに満ちていった。

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