第4話 年号のない帳簿
秘密には、二種類の重さがある。——と、言い切れるほど単純でもない気はするが。
持ち主が重いと思っている秘密と、持ち主が重さに慣れてしまった秘密だ。前者は人の顔に滲む。後者は人の骨格に染みる。滲んでいる秘密は比較的扱いやすい——どこかで吐き出そうとしているから、引き出す糸口が見える。骨格に染みた秘密は厄介だ。本人がもう秘密と認識していない。日常の一部になっている。だから問いかけても、答えが返ってくることすらない。
惣兵衛の秘密は、後者だと影無は思い始めていた。
七年前の火事。影衆との手打ち。それ以来続いてきた従属の日々——惣兵衛はその重さに慣れすぎて、もはやそれを「異常なこと」と感じていない可能性があった。異常が日常になった人間は、救いを求めない。求め方を忘れている。
一方、惣太郎の秘密は前者だった。
滲んでいた。毎日、少しずつ。
問題は、惣太郎が滲んでいることを自分でも知っており、それを恥じていることだった。滲まないように、毎日こらえている。こらえることでさらに滲む。その悪循環の中にいた。
大黒屋に通い始めて六日目の朝、影無はそれを確認しながら、蔵の前の石畳を掃いていた。乾いた音が、思ったより大きく響いた。
年号のない帳簿のことを、正面から考え始めたのは三日前からだった。
あの帳簿は引き出しの奥にあった。惣太郎が触れるなと言った。だが惣太郎の言い方は「父に言うな」であって、「見るな」ではなかった。その差異は、惣太郎が帳簿の存在を影無に隠そうとしていないことを意味するかもしれない。あるいは——隠せないと悟っていて、せめて惣兵衛に知られないようにしようとしている、ということかもしれない。
あの帳簿に何が書かれているか——影無は知る必要があった。
だが、盗み見るわけにはいかなかった。正面からでなければ、意味がないと思っていた。
前世の詐欺師なら、盗み見た。茂助の目を盗み、帳場に忍び込み、引き出しを開け、内容を写した。技術的には今でもできる。できるが——できる、ということと、やる、ということの間に、この六日間で何かが挟まっていた。
その何かの名前は、まだわからなかった。わからないままでもいいのかもしれない、と一瞬だけ思った。
「葛藤、って言葉知ってる?」と澪が言った。
「知っている」
「今のがそれだよ」
「……そうか。いや、違うか」
「葛藤できるのは、どちらかを選ぶ理由があるから。理由があるということは——」
「良心がある、という話はもう聞いた」
澪が黙った。黙り方が、不満ではなく、納得だった。
午前の仕事が終わり、昼の賄いまでに少し間があった。
影無が井戸端で手を洗っていると、背後で足音がした。軽い足音——亀吉ではなく、おきくでもなく——惣太郎だった。
「少し、いいか」
影無は手を拭きながら振り返った。
惣太郎の顔が、六日前より少し整っていた。整っている、というのは表情が落ち着いたという意味ではなく、何かを決めた人間の顔になっていた、という意味だった。決意と、その決意への恐れが同居している顔。
「はい」
「帳場に来てくれ。茂助が今日は外出している」
茂助が外出している時間を選んだ、ということだった。
帳場に入ると、惣太郎は引き出しを開けた。
年号のない帳簿を、取り出した。
影無の前に、置いた。
「見てくれ」
影無は帳簿を見た。見てから、惣太郎を見た。
「なぜ、私に」
「お前が気になっていたのはわかっている」と惣太郎は言った。「三日前、引き出しを開けたとき——止めはしたが、正直なところ、見てほしかった」
「なぜ」
「私一人では、どうにもならない」
それだけで十分だった。
影無は帳簿を手に取った。表紙を開いた。
中身は台帳ではなかった。
文書だった。複数の紙が綴じてあった。最初の数枚は、七年前の日付が入った書状の写しだった。写しである、ということは——原本は別の場所にある。
読んだ。
内容は、取引の記録だった。ただし、正規の取引ではなかった。大黒屋が扱う藍染めの染料——その仕入れ先として記されているのは、正規の問屋ではなく、霞津の外の港を経由した「抜け荷」だった。
抜け荷——藩の関所を通さない密輸だ。
七年前、先代・大黒屋の惣兵衛の父が、影衆の手引きで抜け荷に関わっていた。それが発覚しそうになり、影衆に揉み消しを頼んだ。揉み消しの代償として、蔵を一棟焼かれ、以後は影衆の傘下に入ることになった——亀吉の伝聞が、文書によって裏付けられた。
だが、それだけではなかった。
後半の数枚は、もっと最近の日付だった。二年前、一年前——惣兵衛の代になってからも、抜け荷は続いていた。続けさせられていた。影衆に従属する形で、大黒屋は密輸の中継地点として使われていた。
最後の一枚に、名前があった。
御蔵。
花押が押されていた。
「これは」と影無は言った。
「影衆が大黒屋を使う際の、覚書の写しです」と惣太郎は言った。声が平らだった。感情を抜いた声だった——それは影無自身の声の出し方に、似ていた。「父が、こっそり取っていた。私は半年前に見つけた」
「惣兵衛殿は、この写しを取っていることを」
「知らないと思う。父の文机の底に、挟んであった。父が意図して隠したのか、無意識に挟んだのか——」
惣太郎が言葉を切った。
窓の外で、鳥が鳴いた。遠い、間の抜けた声だった。
「父は、逃げようとしていたのかもしれない」と惣太郎は言った。「いつか、誰かに告発する材料として取っていた。あるいは——何かあったときに、自分を守るための証拠として」
「だが、動かなかった」
「動けなかった。七年間、動けなかった」
影無は帳簿を閉じた。紙の匂いが、少し手に残った。
指先に、わずかな震えが残った。それが自分のものだと気づくまでに、半拍遅れた。
閉じながら、惣兵衛の顔を思った。中庭で梅の実を見た顔。遠いものを見る目。諦めと、目逸らしの区別がつかなかった目——今なら、両方が同時にあったのだとわかった。諦めながら、それでも何かを見ていた。
「お絹さんのことも、この文書に関係があるか」
惣太郎の目が、動いた。
動き方が、予期していなかった問いへの反応だった。自分の中でその繋がりを考えていたが、声に出したことがなかった、ということだ。
「……御蔵が、縁談の相手を指定してきた。影衆の中の、若い男を」
「お絹さんが嫌がった」
「嫌がった。その男を、お絹は知っていた。どこかで見たことがあると言っていた。怖いと——」
惣太郎の声が、平らでなくなった。
一瞬だけ。すぐに戻したが、その一瞬に六日分の時間が詰まっていた。
「お絹が怖いと言った男が、誰かを調べようとしていたか」
「調べようとした。だが方法がわからなかった。影衆のことは——影衆の人間の名前や顔を調べるのは、素人には」
「そうだな」
「……お前は、素人ではないのか」
影無は答えなかった。
少し間を置いて、帳簿を惣太郎に返した。
「なぜそう思う」
「わからない」と惣太郎は言った。「わからないが——最初に会ったとき、蔵で、お前に話してしまった。話すつもりはなかった。だが話してしまった。ああいうことが起きるのは、相手に何かがある、ということだと思っている」
影無は惣太郎を見た。
惣太郎は視線を逸らさなかった。
お互いに、少し間があった。
「覚えておく」と影無は言った。
肯定でも否定でもない答えだった。惣太郎は何も言わなかった。何も言わないことで、受け取ったと示した。
その夜、影無は久しぶりに霞津の夜の町を長く歩いた。
考えをまとめるとき、影無は歩く必要があった。前世でも同じだった。詐欺の構図を組み立てるとき、次の手を考えるとき、なぜか静止しているより動いている方が、思考の流れがよくなった。体が動いていると、思考が止まらなくて済む、という感覚があった。止まると——内側を見る。
内側を見ることが、今は少し怖かった。
怖い、という言葉を使えるうちは大丈夫だと澪は言う。だがその理屈が正しいのか、影無にはよくわからなかった。むしろ、間違っている気もした。
だが怖いという感覚の質が、この六日間で変わっていた。鮮明な恐怖ではなく、霧に似た恐怖だった。輪郭がない分、逃げ場もなかった。
霞津の霧に、よく似ていた。
運河沿いを歩きながら、今わかっていることを並べた。順番は、あまり整理されていなかった。
大黒屋は影衆の傘下にある。御蔵がその担当者だ。影衆は大黒屋を抜け荷の中継に使っている。お絹への縁談は、影衆の内部の人間との縁談だった。お絹はその相手を知っていて、怖いと言った。縁談がこじれ、お絹は死んだ。仙右衛門が「済んだ」と言った。
仙右衛門と御蔵の関係——仙右衛門は、御蔵の指示で動いている可能性が高い。
お絹の縁談相手——惣太郎が「怖い」と表現した男——その男が誰か、まだわかっていない。
そこが、今最も必要な情報だった。
「御蔵が担当者なら」と澪が言った。「縁談相手も御蔵の部下か、あるいは御蔵自身では?」
「御蔵は声と話し方から判断すると、四十前後だ。お絹は十八だった。年齢差はあるが、あり得なくはない」
「お絹が怖いと言った——知っていた、と惣太郎は言った。どこかで見たことがある、と」
「影衆の人間を、普通の商家の娘が見かける場所は限られている」
「霞津の中で、影衆が表に出る場所」
影無は歩きながら、霞津の地図を頭の中に広げた。三年間で集めた情報が、地図の上に重なった。影衆が表に出る場所——表に出ることを厭わない場所——
一箇所、あった。
霞津の北、城下町に近い区域にある、「灯籠屋」という料理屋だった。表向きは料理屋だが、霞津の人間の間では、そこが影衆の情報交換の場所として使われていることが半ば公然の秘密になっていた。だが具体的な出入りの仕組みまでは、知られていない。公然の秘密というのは、知っていても知らないふりをすることで成立している秘密のことだ。
お絹がなぜ灯籠屋を訪れたことがあるのかは、わからない。わからないが——惣兵衛が連れて行った可能性はある。影衆との関係の中で、一度か二度、顔合わせのようなことがあったかもしれない。
「灯籠屋に行く?」と澪が聞いた。
「いずれは」
「今は?」
「今は情報が足りない。灯籠屋に入るには、入るための顔が必要だ。今持っている顔では入れない」
「伊助という顔では」
「あそこは、商人か武家か、あるいは影衆に繋がりのある人間しか入れない。上方から来た染物師の奉公人が入れる場所ではない」
「じゃあ、別の顔を作る?」
影無は少し考えた。
別の顔を作るには、別の準備が必要だった。準備には時間がかかる。時間をかけている間に、大黒屋の状況が変わるかもしれない。御蔵が再び来るかもしれない。惣太郎が何かをしでかすかもしれない——惣太郎の目に、昨日から、焦燥に似たものが加わっていた。
「急ぎすぎると、壊れる」と影無は言った。
「自分が、じゃなくて?」
「……どちらも」
七日目の夕方、御蔵が再び大黒屋を訪れた。
今回は影無も表口の近くにいた。荷の受け取りを終えて、道具を片付けているところだった。御蔵が通った。空気が、わずかに沈んだ気がした。周囲の音が、一段遠のいた。
初めて、顔を見た。
四十代前半——予想通りだった——と思ったが、確信はなかった。背が高く、痩せていた。着物は地味だったが、仕立てがよかった。顔は、整っていた。整っている、というのは造作が優れているという意味ではなく、表情の管理が完璧な顔、という意味だった。笑ってもいない、険しくもない——何も読ませない顔。影無が前世で訓練した顔の、より完成した版だった。
御蔵は影無の前を通りながら、一度だけ視線を向けた。
一秒にも満たない視線だった。
だが影無は、その一秒の中に何かを感じた。感じた、という言葉が正しいかどうかはわからないが——御蔵の視線は、通常の視線と質が違った。通常の人間が他者を見るとき、その視線には目的がある。値踏み、確認、警戒、興味——何らかの目的が視線に乗る。
御蔵の視線には、目的がなかった。
目的がないのではなく——目的を視線に乗せない技術があった。見ているが、見ていることを伝えない。情報を収集しているが、収集していることを悟らせない。
それは、影無自身の技術と同種のものだった。
御蔵は通り過ぎた。
影無は道具を片付け続けた。手が動いていた。頭の中で、何かが動いていた。
「見られた」と澪が言った。
「ああ」
「気づかれた?」
「……わからない」
わからない、と言ったが——御蔵の一秒の視線が何かを含んでいたとしたら。影無が「伊助」という仮面の下に何かを持っていることを、あの一秒で読んだとしたら。
それは、あり得た。
同種の技術を持つ者は、同種の技術を見抜く可能性がある。影無が御蔵の声から人物の質を読んだように、御蔵も影無の存在から何かを読んだかもしれない。
だとすれば——伊助という顔の賞味期限が、縮んだかもしれなかった。
帳場の整理を終えて、茂助に今日の報告をしていると、惣太郎が廊下を通った。
通りながら、影無に目を向けた。
目の向け方が、昨日と違った。昨日は「頼む」という目だった。今日は「決めた」という目だった。
決めた、という目を、影無は好まなかった。
決めた人間は動く。動く前に止められなければ、動いた後から追うことになる。動いた後から追うのは、常に遅い。
茂助への報告を終えて、廊下に出ると、惣太郎が角に立っていた。待っていた。
「明日」と惣太郎は言った。声を低くして。「灯籠屋に行く」
影無は少し間を置いた。
「なぜ」
「お絹が怖いと言った男を、確かめたい。御蔵が縁談相手をあそこで引き合わせると、前に父から聞いたことがある。灯籠屋に出入りしている影衆の顔を見れば、わかるかもしれない」
「わかったとして、どうする」
「……わからない。でも、知らなければ、何もできない」
影無は惣太郎を見た。
惣太郎の目に、無謀さはなかった。無謀ではなく——消去法だった。他の手が見つからないから、これしかない、という目だった。消去法から来る行動は、止めにくい。感情からの行動より、止める言葉が届きにくい。
「一人で行くな」と影無は言った。
「お前が来るのか」
「……考える」
「考える、ということは来るかもしれない、ということか」
「そうともとれる」
惣太郎は短く息を吐いた。安堵とも呆れともとれる息の吐き方だった。
「お前は、変な男だな」
「そうかもしれない」
「上方から来た染物師には、見えない」
「では何に見える」
惣太郎は少し考えてから言った。
「わからない。だが——信用していいかどうかも、わからない。それでも、頼る気になる。なぜだろうな」
影無には答えられなかった。
答えられなかった理由が、二つあった。一つは、信用していいかどうかという問いに正直に答えれば「わからない」としか言えないから。もう一つは——頼る気になる、という言葉が、影無の中の何かに触れたから。触れた場所の名前が、今日も見つからなかった。
その夜、三畳半の借間で、影無は考えた。
明日、惣太郎が灯籠屋に行く。止めれば、惣太郎は一人で行く。ついて行けば——伊助という顔では入れない。入れないまま外で待てば、惣太郎が中で何かをしでかしたときに手が届かない。
別の顔が必要だった。
今夜中に、別の顔を作る必要があった。
灯籠屋に入れる顔——商人か、武家か、影衆の関係者か。商人の顔を作るには、それらしい身元が必要だ。今夜中には難しい。武家の顔は論外だった——刀の差し方、歩き方、言葉遣い、すべてを整えるには時間がかかる。
影衆の関係者の顔——それが、最も速く作れる可能性があった。
影衆の末端は、霞津の各所に潜んでいる。顔が知られていない末端の人間の顔を借りるのは、影無の最も得意とする偽装の形だった。問題は、末端の人間でも、灯籠屋に入れるかどうかだ。
「今夜、動く?」と澪が聞いた。
「動く必要がある」
「コストがかかる」
「わかっている」
「わかってて、動く」
「惣太郎が一人で行く」
澪は少し間を置いた。
「それが理由?」
「それが理由の一つだ」
「他の理由は」
影無は答えた。
「お絹さんが、あの女性に似ていた」——だから今回は、失敗したくないと思った。
言ってから、少し驚いた。声に出したことがなかった言葉だった。頭の中にあることは知っていたが、それを声に出すとは思っていなかった。
澪も黙っていた。
あの女性——前世で影無が騙し、追い詰め、死なせた女性。中年の、夫を早くに亡くした女性。老後の蓄えを持っていた女性。影無が三ヶ月かけて信頼を作り、全額を持ち逃げした女性。
お絹とは年齢も状況も違う。だが——誰かに追い詰められ、逃げ場を失い、死という形に至ったその経緯が、形として似ていた。
「それは、感情から来てる理由だよ」と澪は言った。
「そうかもしれない」
「感情から来てる理由は、悪い理由じゃない。でも——感情だけで動くと、判断が歪む」
「歪まないようにする」
「できる?」
「わからない。だが——動かない理由にはしない」
澪は言葉を止めた。
反論しない静かさだった。
深夜、影無は借間を出た。
霞津の夜は霧が深かった。足元が白く曖昧で、音が吸われた。影無は霧の中を、音なく歩いた。
目的地は、霞津の東の外れにある小さな木賃宿だった。
その宿に、影衆の末端の人間が一人泊まっていることを、この三年間で収集した情報の断片から推測していた。推測の根拠は——その人間が三ヶ月に一度の周期で霞津に現れ、同じ宿に泊まり、同じ行動パターンを繰り返していることだった。周期的に動く人間は、組織の末端に多い。定期的な情報収集か、物の運搬か——どちらにせよ、影衆の一部であれば、灯籠屋に入るための言葉か徴かを持っているはずだった。
宿の前まで来て、影無は止まった。
止まりながら、内側を確認した。
これから使う。気配消去と、それ以上の何か——相手の情報を読む力。水の記憶ほど深くはないが、人の持ち物や空間に残った気配から情報の断片を拾う、もう少し表面的な読み取り。それを使えば、宿の中にいるその人間が持つ情報の一部を、触れずに読める。
使えば、何かが消える。
何が消えるかは、使ってみるまでわからない。
「影無」と澪が言った。
「わかっている」
「何がなくなっても、私はここにいる」
その言葉が、石畳に落ちた。落ちて、消えなかった。
影無は宿の前に立ったまま、その言葉を——しまう場所を探した。感情の棚のどこかに入れようとしたが、どこも少しずつ薄くなっていて、うまく入らなかった。
入らないまま、影無は内側を開いた。
読んだのは、ほんの少しだった。
宿の壁に手を触れ、建物の中に滲んでいる気配の断片を、数えるように拾った。人の数、配置、眠っているか起きているか——その中に、一つだけ、他と質の違う気配があった。
部屋の番号がわかった。持ち物の概要がわかった。灯籠屋に入るための徴——それが、着物の内側の特定の位置に縫い付けられていることがわかった。
そこで止めた。
止める、という判断が、今日はできた。遅くはなかった。
内側を閉じた。
世界の境界が戻ってきた。
何かが消えた。
今回消えたのは——少し間があってから、わかった。「期待」の区画だった。何かを待ち望む感覚。明日になれば何かが変わるかもしれない、という感覚。その種の感情が、薄くなっていた。
薄くなって、影無は少し立ち止まった。
期待が薄くなった人間は——何のために明日を迎えるか。
答えは出なかった。
出ないまま、霧の中を歩いた。
「消えたの、何だった?」と澪が聞いた。
「期待、だと思う」
澪が静かになった。今度の静かさは、先ほどとは違った。水が凍る前の静けさに似ていた。
「……それは、私が補う」と澪は言った。
「精霊に、そんなことができるか」
「わからない。でも——したい」
影無は答えなかった。
できるかどうか、ではなく、したいと言った。
その言葉の形が——感情の棚ではない、別の場所に落ちた。落ちて、そこに留まった。落ちた場所の名前も、留まった意味も、今の影無にはわからなかった。
ただ、落ちたことは、わかった。それが何を意味するのかは、まだわからなかった。
霞津の霧が、夜の底で静かに揺れていた。




