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第2話 仮面と、奉公人

 人間の顔は、二種類に分かれる。影無は、そのどちらの顔でも、人を騙してきた。


 素顔と、仮面——などという話ではない。影無が三年かけて辿り着いた分類は、もっと実務的なものだった。すなわち、見られることに慣れた顔と、見られることを恐れた顔だ。


 前者は視線を受け止める。瞳が正面を向き、表情の変化が大きく、感情の出入りが外に出やすい。後者は視線を滑らせる。瞳が斜めを向き、笑顔が一拍遅れ、感情の出入りを内側で処理してから、わずかだけを外に出す。


 どちらが嘘をつきやすいかといえば、前者だ。


 後者は隠し方が下手なのではなく、そもそも何かを隠しているという事実を、顔の構造ごと否定しようとする。それが逆に目立つ。前者は堂々と視線を受け止めながら、視線の真正面に嘘を置く。見られることに慣れているから、その視線の中で騙すことにも慣れている。


 影無は後者だった。前世では。


 今は、意図すればどちらにもなれた。


 朝の支度をしながら、影無は鏡を見た。三畳半の借間に置かれた小さな手鏡——曇りの取れない古いものだったが、輪郭を確認するには十分だった。中性的な顔。年齢が読みにくい。目元は涼しく、口元は閉じていると何も語らない。


 今日被る顔は「見られることに慣れた顔」だった。


 奉公人の顔。


 大黒屋に入るための顔。


 霞津の口入屋くちいれやは、大通りから一本入った路地にある。口入屋とは人材の斡旋業——今で言えば職業紹介所に近いが、その実態は情報の売買所に近かった。どこの商家が人手を求めているか、どの奉公人がいつ辞めたか、誰がどの家の事情を知っているか——そういう情報が、手数料という名目で流通していた。


 影無が口入屋を使うのは二度目だった。


 前回は二年前、別の件で別の商家に入ったときだ。そのときの顔と今日の顔は違う。口入屋の主人は人の顔をよく覚えるので、顔だけでなく、声の高さ、歩き方の癖、話すときの間の取り方まで変えた。影無にとって、それは「変える」という能動的な行為というより、前の状態に上書きするような感覚に近かった。


 自分の本来の顔が、どれだったか。


 たまに、わからなくなる。


「緊張してる?」と澪が言った。

「していない」

「手が、少し冷たいよ」


 影無は右手を見た。確かに、指先が白かった。緊張ではなく——何だろう。前世でも、人の顔を被る直前にこういう感覚があった気がする。役者が舞台袖で感じるものに近いと、何かで読んだことがある。それは緊張というより、自分が消える直前の、自分の最後の感触のようなものだ。


 口入屋の引き戸を開けた。


 主人は五十がらみの、首の短い男だった。愛想がよく、目が細く、その細い目の奥で何かを常に計算しているのが、影無には透けて見えた。


「奉公先をお探しで」

「はい。商家の雑用であれば何でも」

「ご出身は」

「上方から参りました。染物の仕事を少し」


 染物、と言った瞬間、主人の目が一度だけ動いた。動いた方向——左斜め上。記憶を参照するときの目の動きだ。


「染物でしたら……ちょうど、藍問屋が一軒、人手を求めておりますが」

「どちらの」

「大黒屋と申しまして」


 影無は一拍置いた。一拍は自然な間だった。興味を持った人間が名前を反復する前の、ごく普通の間。


「大黒屋……存じません。老舗でございますか」

「左様。ただ、少々、難しい時期でございまして」

「難しい」

「ええ、まあ」と主人は言い、そこで止まった。


 止まり方が計算だった、と影無は判断した。これ以上言うと余計な情報を売ることになる、という判断ではなく——これ以上言わないことで、相手が「難しい時期」の意味を想像し、それでも入りたいと言えば、それだけ手数料を上乗せできる、という計算だった。


 口入屋の主人は商人だ。情報を売るが、出し惜しみもまた商品だ。


「構いません」と影無は言った。「仕事があれば」


 主人は満足そうに頷いた。


 大黒屋の裏口は、運河に面していた。


 霞津の商家の多くは運河側に荷の搬入口を持ち、表の顔は大通りに向けている。大黒屋の裏口は他の商家より少し高い位置にあった——護岸の石が厚く積まれ、洪水への備えが念入りだった。十二年前の大水害の記憶が、この家の建て方に残っている。細部は歴史を語る。


 口入屋の紹介状を持って裏口を叩くと、番頭らしい中年の男が出てきた。


「上方から来たという者か」

「はい。伊助と申します」


 伊助、という名前は今日の朝、決めた。音が平凡で、顔に合っており、上方の出身者に多い。細かいことだが、名前が顔に合っていないと、人は無意識に引っかかりを感じる。引っかかりは不信の種になる。


「染物の心得があると聞いたが」

「少々。仕込みの手伝い程度であれば」


 番頭は影無の顔を、上から下まで見た。品定めをする目だったが、悪意ではなく習慣だった。この男は長年、奉公人の採否を判断してきた。値踏みが顔に出る職業の目をしていた。


「当家は今、少々込み入った時期でな」

「はあ」

「余計なことを聞いたり、喋ったりしない者でないと困る」

「心得ております」


 これは正直な返答だった。


 大黒屋の中は、静かだった。


 商家の静けさには種類がある。繁盛していて忙しく、静かに動いている静けさ。傾いていて、動けないから静かな静けさ。喪に服していて、静かにしなければならない静けさ。


 大黒屋は三番目だった。ただし、喪の種類が通常と少し違った。死者を悼む静けさというより——言ってはいけないことを抱えた者たちが、互いに目を合わせないようにしている静けさだった。


 影無はそれを、土間で草履を脱ぎながら感じた。


 奉公人が三人見えた。いずれも目を伏せて動いていた。目を伏せる理由が悲しみなのか、何か別のものなのか——まだ判断できなかった。


 案内された先は帳場の隣の小部屋だった。帳場では若い男が帳簿を開いていた。影無は横を通りながら、その男を一度だけ見た。


 二十歳前後。痩せている。目元が、お絹の顔と——運河で見た黒い髪の印象と——少し似ていた。


 惣太郎、と影無は脳の棚に記した。大黒屋惣兵衛の息子。お絹の兄。


 惣太郎は影無を見なかった。帳簿を見ていた。ただ、影無が通り過ぎる瞬間、その手が止まった。筆が止まった。それだけだった。


 最初の仕事は蔵の整理だった。


 藍の染料を仕込むかめが並んだ蔵で、古い台帳の束を棚から下ろし、順番を整える作業だった。重く、埃っぽく、特に技術を要しない仕事だった——が、影無にとっては好都合だった。台帳には、大黒屋の取引の歴史が残っていた。


 埃を払いながら、表紙の年号を確認していく。


 古いものから新しいものへ。十五年前、十年前、七年前——七年前あたりから、帳簿の厚さが変わっていた。薄くなった。取引量が減り始めた時期と一致する。


 なぜ七年前か。


 口入屋の主人が言っていた「難しい時期」は、いつから始まったのか。惣兵衛が家を継いで十二年。その前半は先代の勢いが残り、後半から縮み始めた——前の調査ではそう見えていたが、今の帳簿の厚さから見ると、転換点は七年前だ。


 何があったか。


「帳簿を読むの、顔に出てるよ」と澪が言った。


 影無は表情を戻した。顔に出ていたか。集中すると、稀にそういうことが起きる。感情の摩耗が進むと、逆に、知的な集中が顔に滲み出ることがある。感情が顔から消えるのではなく、感情でない何かが代わりに表れる——それが時々、他者に「何かおかしい」という印象を与える。


 気をつけなければならない。


 蔵の入口の引き戸が開いた。


 影無は台帳を棚に戻しながら、振り返った。


 そこにいたのは、惣太郎だった。


 惣太郎は蔵の中を見渡してから、影無を見た。目が合った。惣太郎の目は、澄んでいたが、何か濁ったものを澄まそうと努力している目だった。悲しみを処理しきれておらず、それを処理しようとしている段階の目だ。


「新しく来た人か」

「はい。伊助と申します」

「上方から?」

「はい」


 惣太郎はそれ以上聞かなかった。代わりに蔵の中を、影無ではなく棚を見るように歩き始めた。目的があるように見えて、目的がない歩き方だった。誰かに見られたくないことがあって、でも自室にいると息が詰まる——そういう理由でここに来た、と影無は判断した。


「運河で見つかった方は、妹さんですね」と影無は言った。


 言うつもりはなかった。


 口が動いた、と言う方が正確だった。惣太郎の目の奥にあるものを見た瞬間、言葉が先に出た。計算ではなかった。前世の詐欺師の習慣でもなかった。何だったか——影無は自分の口が動いたことに、一拍遅れて気づいた。


 惣太郎が止まった。


「……奉公に来る前から、聞こえておりましたか」

「霞津は狭い街ですので」

「そうか」


 惣太郎は棚に手をついた。背中が、わずかに丸くなった。


「自分でやったと、みんな思っている」


 声が低かった。呟くような声で、影無に向けて言っているのか、棚に向けて言っているのか、わからなかった。


「お絹が、自分で運河に入ったと」

「……そうではないと」


 影無は聞いた。聞きながら、惣太郎の背中を見ていた。背中に、何かが出ていた。悲しみではなく——怒りでもなく——確信のような、それでいて確信を持てないことへの焦燥のような何かが、肩甲骨の辺りに滲んでいた。


「そうではない、と思っている」と惣太郎は言った。「だが、言えない」

「なぜ」

「言えば、もっと悪くなる」


 もっと悪くなる——その言葉の意味を、影無はすぐには問わなかった。問えば警戒される。初日に会ったばかりの奉公人に、家の事情を話している時点で、惣太郎はすでに限界に近い状態だった。それ以上引けば、逆に閉じる。


「そうですか」と影無は言った。それだけ言った。


 惣太郎は振り返らなかった。しばらく棚を見ていて、それから蔵を出た。足音が遠ざかっていった。


 影無は台帳の整理を続けた。


 手が動いている間、別の場所で何かが動いていた——感情の棚ではなく、その隣の、名前のついていない棚で。


「今の、計算じゃなかったね」と澪が言った。

「わかっている」

「珍しい」

「……そうか」

「珍しくて、いいことだと思う」少しだけ、嬉しそうに聞こえた。


 影無は答えなかった。台帳の埃を払い続けた。いいこと、という言葉の意味が、今日はうまく整理できなかった。


 昼の賄いは、奉公人たちと一緒に取った。


 六畳の部屋に小さな膳が並んだ。奉公人は影無を含めて四人——番頭の茂助もすけ、中年の女中・おきく、十五かそこらの小僧・亀吉、そして影無だった。


 話題は、なかった。


 静かに飯を食う四人の中で、影無は三人を観察した。茂助は飯を食いながら何かを考えている。おきくは飯を食いながら何も考えていない——正確には、考えないようにしている。亀吉は飯を食いながら何度か影無を見て、そのたびに目を逸らした。


 亀吉の目の逸らし方が、気になった。


 恥ずかしいから逸らしているのではなかった。新入りに興味があるから見て、見てはいけないから逸らしている——その種類でもなかった。もっと複雑な逸らし方だった。何かを確認しようとして、確認できてしまったから逸らす、という逸らし方に近かった。——影無の顔の中に、何か見覚えのあるものを見つけたような。


 亀吉は何を確認したのか。


「亀吉、と言うか」と影無は膳から目を上げずに言った。

「は、はい」

「霞津は長いか」

「三年で、ございます」

「大黒屋は」

「二年で……」


 亀吉の声が、「二年で」のあとに続かなかった。何かを言いかけて、止まった。茂助が小さく咳払いをした。その咳払いは、亀吉に向けられていた。


 影無は飯を食い続けた。


 咳払い一つで、部屋の中の空気の構造が見えた。茂助は亀吉に何かを言わせたくない。おきくは茂助の判断に従っている。亀吉は言いたいことがあって、でも言えない。


 全員が、何かを抱えている。


 大黒屋の静けさは、喪だけで説明できない静けさだった。


 午後、影無は中庭の掃除を言いつけられた。


 中庭は小さかった。石畳に、梅の木が一本。梅はすでに花が終わり、青い実が少しついていた。実が青く固い時期は、梅の木がいちばん静かな時期だと、影無はなぜか思った——感傷だろうか。感傷を感じる棚が、まだあるだろうか。


 確認する前に、足音がした。


 縁側から、人が出てきた。


 五十代の男だった。身体が大きく、かつて大きかった体が今は少し縮んでいる、という印象だった。肩が落ち、背が曲がり、それでも骨格の太さだけが残っている。


 大黒屋惣兵衛だった。


 影無は箒を持ったまま、頭を下げた。


「新しく来た者か」

「はい。伊助と申します。本日よりお世話になります」


 惣兵衛は影無を見た。見方が、惣太郎とも茂助とも違った。値踏みでも、観察でもなかった。どこか——遠いものを見るような目だった。影無の顔の向こうに、別の何かを見ているような。


「上方から来たと」

「はい」

「染物を、少し」

「少々ではありますが」


 惣兵衛は頷いた。頷きながら、梅の木を見た。実を見た。


「お絹が、好きだった木だ」


 影無は何も言わなかった。


 言えなかった、のとは違う。言う必要がないと判断した——が、その判断が完全に計算だったかどうか、影無には確認できなかった。


「咲いているうちは、毎朝見に来ていた」と惣兵衛は言った。「実がなると、もう来ない。なぜだか、いつも聞かなかった」


 聞かなかった、という言葉が、石畳に落ちた。拾う者のいないまま、残った。


 落ちて、そのまま消えなかった。


 影無は箒を動かした。石畳の砂を払った。何かを言う代わりに、箒を動かした。それが正しい反応だったかどうかは、わからなかった。


 惣兵衛は縁側に戻った。


 中庭が、また静かになった。


 夕刻、影無は大黒屋を出た。


 口入屋の取り決めでは、通いの奉公だった。住み込みではなく、朝来て、夕に帰る。影無がそう望んだ。住み込みになると、夜に動けなくなる。


 裏口を出て、運河沿いの道を歩き始めた。


 霧が生まれ始めていた。夕の霧は朝の霧より重く、水面に近いところから湧く。足元が霞み始めていた。


 歩きながら、今日の収穫を整理した。


 惣太郎は「言えば、もっと悪くなる」と言った。言えない理由がある。相手が——お絹を死に追いやったと惣太郎が思っている相手が——力を持っている。


 亀吉は何かを知っていて、茂助に黙らされている。


 惣兵衛は、娘の死を「お絹が自分でやった」と信じているのか、信じていないのか——中庭での目は、どちらとも判断できなかった。遠くを見る目は、諦めの目でもあり得るし、何かから目を逸らす目でもあり得る。


 帯の前結び。


 誰かが結んだ帯。


 昨日の野次馬の中で「後ろに下がった男」——左薬指の日焼け跡、右袖の擦り切れ——あの男はまだ特定できていない。


「今日は使わなかったね」と澪が言った。

「ああ」

「初めてじゃない? 潜入して、能力を一度も使わなかったの」


 影無は少し考えた。確かに、今日は一度も使っていなかった。気配消去も、情報操作も、偽装の強化も——何もしなかった。伊助という名前と顔だけを被って、それだけで一日過ごした。


「必要がなかった」——それは、影無にとって初めてのことだった。

「そう?」と澪は言った。「それとも、使いたくなかった?」


 影無は答えなかった。


 運河の水面を見た。霧の中に、昨日の黒い髪の残像がまだある気がした。残像は、感情の棚に残るものだ。感情が摩耗しても、残像だけが残ることがある。残像は感情の幽霊だ。


 幽霊は、消えない。


 使いたくなかった——という澪の言葉が、石の中に落ちたように、影無の中のどこかに引っかかっていた。


 大黒屋にいる間、影無は「伊助」だった。伊助として動き、伊助として見て、伊助として感じた。「感じた」と言っていいかどうかは、わからない。だが、惣太郎の背中を見たとき、口が動いた。計算ではなく。


 能力を使えば、伊助ではなく「影無の機能」になる。機能は感じない。観察するが、感じない。


 今日は、感じた方が——


 考えかけて、止めた。


 都合のいい話に聞こえた。感情が残っているふりをして、それを根拠にして、善意のふりをする——前世でも、そういう思考回路を持つ人間を何人も見た。影無自身が、そういう思考回路を持っていないという保証はどこにもない。


「また」と澪が言った。

「何が」

「ぐるぐるしてる。自分を疑うのも、度が過ぎると別の問題になるよ」

「どういう意味だ」

「自分を疑い続けることで、動かない理由にする人がいる」


 影無は足を止めた。


 運河に面した石畳の上で、霧の中に立ち止まった。


 澪の言葉を、棚に入れようとした。整理しようとした。だが、うまく整理できなかった。整理できないのは感情が邪魔しているからか、それとも澪が正しいからか。


 判断できないまま、また歩き始めた。


 明日も大黒屋に行く。亀吉が何を知っているか。帳簿の七年前に何があったか。あの男——野次馬の中で後ろに下がった男——の正体。


 やることは、ある。


 やる理由が何なのかは、今日も、わからなかった。


 霞津の夜が、霧の中に始まっていた。運河のどこかで、水音が一つ、遅れて響いた。

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