第1話 霧と、浮かぶもの
霧は朝に生まれ、昼には死ぬ。
霞津の住人はそう言う。だが今日の霧はまだ生きていた。八つ(午後二時ごろ)を回っても運河の水面に白く横たわり、向こう岸の蔵屋敷の輪郭を丁寧に消していた。橋の上を行商人が通るたびに、その足元から白い渦が巻き上がり、すぐに元の静けさへ溶け戻った。
影無はその橋の袂に、三年間いた。
正確には、霞津に三年いた。橋の袂にいたのは今朝からだ。だが三年間、この街で積み上げたものの総量と、橋の袂で今日の午前中に観察したものの総量は、影無の中でほぼ等しいものとして扱われていた。それらは人間を理解するための材料であり、感情とは別の棚に収められていた。
棚は増えている。感情の棚は、減っている。
それは知っている。澪が何度も言うから。
今も言っている。
「また数えてる」
声は耳の内側から来た。耳鳴りに似ているが、耳鳴りより意志がある。水が底から湧くような響き——それが精霊、澪の話し方だった。影無は答えなかった。橋の欄干に背を預け、煮売りの屋台から流れてくる出汁の匂いを、ただ、鼻腔の中で分解していた。鰹か、昆布か、その比率はどちらが上か。
「死体が上がったんだよ」と澪は言った。「あなたは今それを無視しようとしてる」
「無視していない」
「見ていない」
「観察している」
沈黙。水中で何かがひっくり返るような間があって、澪は溜息をついた——精霊が溜息をつくとき、影無の鎖骨の奥がわずかに冷えた。それだけは今もわかる。冷えという感覚は、まだ摩耗しきっていない。
影無はようやく視線を動かした。
運河の、橋から二十間ほど下流。野次馬の輪ができている。岡っ引きが二人、竿で何かを引き寄せようとしていた。白い布のようなものが、水面に半分沈んで漂っていた。布ではなかった。小袖の裾だった。その上に、髪が広がっていた。黒く、長く、霧に溶けるように。
女だった。若かった。—その事実だけが、わずかに引っかかった。
影無は欄干から離れ、人垣の端に近づいた。足音を消すのは意図的ではない。三年前から、そうなっている。転生してこの体を得たとき、すでに足音はほとんど立たなかった。能力の発現が転生と同時だったのか、それとも前世の習慣が骨格に染みついているのか——詐欺師は常に静かに歩く——、影無には判断できなかった。
人垣の最後尾に立った男が振り返らなかった。その隣の老婆も、影無の存在に気づかなかった。影無はそれを確認し、前に進んだ。人の間を縫うように、波紋を立てずに、無意識のまま、野次馬の輪の内側へ入った。
岡っ引きの声が聞こえた。
「名前は出てるのか」
「へい。大黒屋の娘だと。お絹さんとか」
「大黒屋。……藍問屋の」声に、わずかな躊躇が混じった。
「そうで」
沈黙。岡っ引きの一人が何かを考えるように口を引き結び、もう一人が水を見た。引き上げられた体は今、橋桁の石畳の上に横たえられていた。誰かが上掛けを持ってきていた。顔が見えなかった。
影無は顔を見る必要がなかった。見たいとも思わなかった。
小袖の柄を見ていた。藍染めの、細かい格子模様。裾の縫い目。帯の結び方——結び方が、変だった。
「お絹」という名前を、別の棚に収めた。大黒屋。藍問屋。霞津では中堅の商家だ。この三年で収集した商人名鑑の中に、確かにある。当主は大黒屋惣兵衛、五十代。息子が一人、娘が——
娘が、いた。
帯の結び方が変だった。些細だが、無視できない違和だった。前結びだったのだ。いつからか後ろ結びが主流になってきた今の霞津で、この年頃の娘が前結びをするのは珍しい。珍しいか、あるいは——誰かに結ばれたか。自分では結べない状況だった可能性がある。
「澪」と影無は心の中で呼んだ。
「聞こえてる」と澪が答えた。「水の記憶を読む?」
「読めるか」
「読める。でも、あなたは使わない」
でも、という言葉の先を、澪は言わなかった。言わなくても影無にはわかった。能力を使うたびに、何かが減る。数字では測れないが、減るのはわかる。今日は朝からすでに一度使っていた。朝、橋の袂に来る前、大通りで別の何かを観察するために気配を完全に消した。あのとき、何かが——喜怒哀楽の「喜」の区画が、少し、薄くなった気がした。
使うべきか。
影無は三秒考えた。
三秒というのは、影無にとって長い思考時間だった。
帯の前結び。水の中から発見された体。岡っ引きの反応——大黒屋の名前を聞いた瞬間の、あの微妙な間。あれは何だったか。驚きではなかった。予期に近い何かだった。または、困惑。困惑が先にあって、驚きが後から追いつくような——
使わなくていい。 —だが、このまま終わらせるつもりもなかった。誰も触れないなら、自分が触れる。
影無は水辺から離れた。
岡っ引きの背中を最後にもう一度見た。肩の張り方。刀の差し方。あの男は武家の出ではなく、元は博打打ちか何かだろう。肩に力が入りすぎている。威圧を習慣にしている人間の肩の入り方だ。威圧を習慣にしなければ生きられなかった時代が、あの肩を作った。
人を、読む。
それだけは感情なしでできる。むしろ感情がない方がよく読める。感情があると、人は見たいものを見る。影無は今、見たくないものを正確に見ていた。
「行くの?」と澪が聞いた。
「どこへ」
「大黒屋に」
「まだ」
「まだ、って」
「情報が足りない」
足りない、と言いながら、影無はすでに次の場所を決めていた。霞津の情報は三つの流れを持つ。武家の公式記録、商人の口伝、そして——影衆の流通網。三番目には近づきたくなかった。だが、今日のこれは、たぶん三番目が絡んでいる。
そう思った根拠は、帯だけではない。
もう一つ、見ていた。
岡っ引きが体を引き上げるとき、野次馬の中から一人だけ、目を逸らした男がいた。その動きだけが、妙に浮いて見えた。逸らし方が不自然だった——他の全員が前のめりになる中で、一人だけ後ろに下がった。人間は死を見たくないとき、前に行かないのではなく、後ろに下がる。その男の退き方は、見たくないのではなく、見られたくない者の退き方だった。
男の顔は見た。覚えた。
三十前後、やや痩身、左手の薬指に日焼けの跡がある——指輪を最近外した跡。右の袖が左より僅かに擦り切れている。利き手が右で、何か壁や柱に右腕を預ける癖がある。待ち合わせをよくする人間の体の使い方だ。
名前は知らない。だが、三日以内に特定できる。
影無は運河に背を向け、霧の中を歩き始めた。
霞津の裏町は、表町より正直だった。
表町の商家は白壁を磨き、軒に花を飾り、往来する侍に頭を下げた。裏町は壁を磨かず、花の代わりに洗濯物を干し、誰にも頭を下げなかった。正直さとはそういうことだと影無は思っていた。飾らないことが正直さと同義ではないが、少なくとも欺こうとする意志が薄い分、読みやすい。
三年前、この街に来たとき、最初に住んだのは裏町だった。
今も住んでいる。
路地を二度曲がり、干物屋の裏を抜け、古道具屋の看板が傾いた角に出た。そこに、三畳半の借間がある。借間に帰り、影無は文机の前に座った。
引き出しから紙を出した。霞津で収集した人物情報の覚書——名前、職業、家族構成、習慣、そして「弱点」の欄。弱点という言葉は前世の語彙だ。詐欺師は弱点を探す。影無は今も探しているが、使う目的が違う、と自分では思っている。
自分では思っている。
澪はその言い方が好きではなかった。
「思ってるだけかもしれない、ってことを自覚してるんでしょ」と今日の朝、澪は言った。「それって誠実なの? それとも、誠実のふりをしてるだけ?」
「区別がつかない」
「そう答えれば免責されると思ってる」
影無は答えなかった。いや、答えられなかった。澪の言葉は時々、前世の記憶を直接刺した。刺すというより、傷口をそっと開く感じだった。澪にはその意図があるのかもしれない。精霊が良心として機能するとはそういうことかもしれない。だとすれば、精霊契約というのは相当に残酷な制度だと影無は思った。
覚書に「大黒屋」の欄を開いた。
大黒屋惣兵衛。五十三歳。藍の仕入れと染物の卸を主業とする。十二年前に先代から家業を継いだ。先代の頃から藩の御用商人に近い立場だったが、惣兵衛の代になってから商いの規模が三割ほど縮んでいる。理由は不明。妻は三年前に病死。息子・惣太郎、二十一歳。娘——
「お絹」
影無は名前を声に出した。自分の声は、自分でもときどき性別がわからない。転生した体がそういう体だった。低くもなく、高くもなく、年齢も輪郭が曖昧な声。前世で詐欺師をしていたときは、声は武器だった。甘く、低く、信頼感を演出するように使っていた。今は何の演出もしていないのに、この声が出る。
「お絹、十八歳」
十八歳の娘が、運河に浮かんだ。
帯は前結び。自殺に見えた。岡っ引きは自殺と判断するだろう。あの反応は、深く調べる意志がない反応だった。大黒屋という名前への、あの間——おそらく岡っ引きは、大黒屋の周辺が「触れてはいけない領域」だと知っている。誰かに知らされているか、過去に似たようなことがあったか。
問題は、誰が、なぜ、触れさせたくないのか。
影無は覚書の余白に、今日見た男の特徴を書いた。三十前後。痩身。左薬指の日焼け跡。右袖の擦り切れ。壁に背を預ける習慣。退き方——見られたくない者の退き方。
書いて、眺めた。
前世でも、こういう作業をしていた。ターゲットの習慣を書き出し、どこを突けば信頼が生まれるか計算した。今は全く同じ作業を、別の目的でしている。自分ではそう思っている。—そう思いたいだけかもしれない。
「自分ではそう思ってる」と澪が繰り返した。
「うるさい」
「私を黙らせることもできるよ。あなたが全部消えばいい」
全部消えれば——能力を全力で使い続け、感情の棚を完全に空にしてしまえば、澪の声も聞こえなくなるだろう。精霊は感情の隙間に住む。感情がなくなれば、澪も消える。そのことは三年前から知っていた。
消したくない、と思う。
その思いがまだある、ということは——まだ、何かが残っているということだ。
その感情だけが、今の影無の根拠だった。
夕刻になると、霞津の霧は一度晴れる。
夕日が水面を橙色に染める時間、影無は裏町の辻に立っていた。情報の流通には、時間帯がある。夕刻の辻は、一日の出来事が整理される前の、情報が一番生の状態で流通する時間だ。
干物屋の女将が隣の豆腐屋と話していた。声は拾えた。
「大黒屋のお絹さんが、ねえ」
「ご自分で、ってことかしら」
「さあ。でも最近、様子がおかしいって話は聞いてたよ。なんでも、縁談がこじれたとかで」
「縁談?」
「相手は知らないけど。お父上の方で決めたらしいよ。お絹さんは嫌がってたって」
影無は聞きながら、歩き続けた。立ち止まると存在感が生まれる。存在感が生まれると記憶される。記憶されると、後で困ることがある。
縁談。
惣兵衛が決め、お絹が嫌がった縁談。
相手は誰か。なぜ惣兵衛が強引に進めようとしたか。なぜお絹が嫌がったか。なぜ、今、死んだか——あるいは、死なされたか。
証明できない。今は証明できない。
だが、前世で詐欺師だった人間は知っている——人が死ぬとき、その死の形には意図が滲む。意図のある死は、偶然の死と形が違う。自殺に見せかけた死は、本物の自殺より綺麗すぎるか、あるいは乱雑すぎる。どちらかに振れる。お絹の場合は——綺麗すぎた。
帯が、綺麗に結ばれすぎていた。
死ぬ前に、誰かが直した。
影無は辻を曲がり、夕日の中を歩いた。
橙色の光が石畳に長い影を作っていた。影無の影は他の人間より薄かった。気配消去の副作用か、それとも単なる光の角度か、影無には判断できなかった。
澪が静かだった。珍しかった。
「なぜ黙っている」と影無は心の中で言った。
しばらくして、澪が答えた。
「あなたが今、何かを感じてるから」
感じている。—それを言葉にするのは、いつも澪だった。
影無は立ち止まった。
感じている、と言われて、確かめるように内側を見た。棚を見た。感情の棚を。何かあるか——怒りか、悲しみか、あるいは——
あった。
怒り、ではない。怒りは三年前に棚の奥の方へ移動した。悲しみでもない。悲しみは今も少しあるが、これはそれとは別の場所にある。
もっと小さくて、もっとしつこいもの——
それは、前世の記憶と形が似ていた。
十数年前、影無がまだ「影無」ではなく、別の名前と別の顔を持っていた頃。ある女性に近づいた。投資詐欺のターゲットだった。中年の、夫を早くに亡くした女性で、老後の蓄えを信じやすい形で持っていた。影無は三ヶ月かけてその信頼を作り、全額を持ち逃げした。
その女性は、後に自殺した。
影無はその報を、刑務所の中で聞いた。刑務所に入ったのは別の件だったが、結果として間接的に、あの女性を死に追いやったことになった。
お絹の死は、自分がしたことではない。
だが、形が似ている。
誰かが誰かを信頼させ、その信頼の重みで追い詰め、死という形を作った。影無にはそう見えた。見えた、というのは感情的な判断ではなく、三年間と前世で積み上げた観察の結論だった。
少なくとも、影無はそう思っていた。
「また」と澪が言った。
「何が」
「『そう思っていた』で終わらせた」
「事実だ」
「感情と区別がつかなくなってきたんでしょ。何が観察で何が感情か」
影無は答えなかった。
夕日が傾いていた。霞津の霧が、夜に向けてもう一度生まれ始めていた。
明日、大黒屋へ行く。—あの死は、自分の過去と無関係ではない。何かの口実を作って、何かの顔を被って。それは自分の習慣であり、前世で磨いた技術であり——贖罪のための手段だと、影無は思っていた。
本当にそうか、とは聞かなかった。
澪も、今は聞かなかった。
霧の中で、霞津の夕鐘が鳴った。重く、遠く、水面に沁みるように——それは運河に浮かんだ黒い髪の残像と重なり、影無の中の、名前のない棚の中に、静かに収められていった。




