番外編:いつか、同じ月を見よう
理沙が日本に戻って来てから、六日が経過した。
着いたその日は時差ボケの頭をリセットすべく、延々と自室のベッドで眠る。
翌日からは帰国を知らせていた高校の友人たちと会ったり、久しぶりに母親との買い物に付き合ったりと、慌ただしい毎日を送っていた。
そして今日は31日――大晦日。
両親と楽しく夕飯を食べ、年越しそばをいただく。やがて時計の針が夜中の11時半を過ぎる頃、理沙は完璧な防寒装備で友達と合流した。
毎年恒例、年明け最初の初詣でだ。
「ねーフランス人の彼氏出来た?」
「はあ⁉ が、学校に行ってるだけだから、そういうのは別に……」
「いないの? 超イケメンの同級生とか」
イケメン……と言われ、理沙はちらりと自身の手首を見つめた。そこにはレイヴンから贈られた白のレザーブレスが変わらず輝いており、思わずにやけそうになる口元をきりりと引き結ぶ。
「あ、でも銀髪の王子様みたいな人はいる」
「何それ⁉」
「いっつも寝てるから『眠れる森の美女』って言われてるけど」
「すっごい自由~」
やがて朱塗りの立派な鳥居の前にたどり着いた。参道には人が溢れ、左右には屋台が並んでいる。携帯で時間を確認すると、日付が切り替わるまであと少しだった。
(そろそろかな……)
少しずつ前に並ぶ人の数が減っていき、ようやく理沙たちの前に賽銭箱が現れた。それぞれ小銭を投げ入れると、柏手を打って両手を合わせる。
(神様……今年は色々と、ありがとうございました)
そこでふと、理沙は『裏稼業』の時に助けてもらった龍神様のことを思い出した。
今理沙が祈りを捧げているのはどんな神様なのだろう、と思いつつ、去年あった物語のような出来事を思い出す。
(今年も……レイヴンと、一緒にいられますように)
むん、とそこだけ強くお願いをして、理沙はようやく顔を上げた。すぐに列を離れ、先に抜けていた友達たちと合流する。
「あ、ごめん。あたし親からお土産頼まれててさ、ちょっと買ってきていい?」
「あたしも。お守り買わなきゃ」
「オッケー。じゃあこの辺りで待ってるね」
理沙たちはそれぞれの求めるもののため、一旦その場を別れた。
特に頼まれ物がなかった理沙は、境内の中央で赤々と炎を上げる、庭火の傍へと足を進める。真っ赤な焔が炭化した木を覆い、辺りには火の粉が舞っていた。
その光景をわあ、と眺めていた理沙だったが、慌ただしく携帯を取り出す。
(あ、もう時間過ぎてる!)
デジタルの表示は0:09を示しており、理沙は急いでロック画面を解除した。きょろきょろと辺りを見回した後、空に浮かぶ白銀の月をカメラに収める。
そのままWhatsAppのアプリを起動させると、一番上にいた名前をタップした。
『Meilleurs Vœux!(あけましておめでとう!)』
『今年もよろしくお願いします!』
ぺこん、ぺこんと軽い音を立てて、レイヴンへメッセージが送られる。
理沙はしばらく画面を眺めていたが、相手にメッセージが届いたことを証明する灰色のチェックが二つ付いただけで、何の返信もない。
(あ、こんな時間に悪かったかも⁉ ど、どうしよう、取り消す?)
だがメッセージを消すとそれすらも表示されてしまうため、逆に変に気にさせてしまうかもしれないと理沙は狼狽する。そんな時、少し離れた位置から「天音さん?」と呼ばれ、理沙は思わずそちらを振り向いた。
そこにいたのは、中学生の頃――理沙が振られた男子生徒だった。
「やっぱり天音さんだ。びっくりした、すごい変わってたから」
「あ、う、うん……」
「一人? 俺たちこれからカラオケ行くんだけど、良かったら一緒に行かない?」
思いがけない好意的な態度に、理沙は最初動揺を隠せなかった。気づけば彼の背後から友達らしき男子が「誰だ?」「可愛いじゃん」とこちらを覗き見ており、理沙の全身に言いようのない不安が走る。
「ご、ごめん。わたしも友達と来てるから……」
「高校の? じゃあ良かったらその子たちも一緒に――」
「い、急いでるから! じゃあ!」
理沙はたまらず、神社の裏手へと逃げ出した。あれほどあった人の波が一気に無くなり、どこか物寂しい空間に迷い込む。
彼らから離れられたことを確認すると、理沙はようやくほうと足を止めた。
(だめだな私……まだ、怖いって思ってる……)
中学の頃の苦々しい思い出。きっと彼にとっては、大したことのない言葉だったのかもしれない。それでも当時の理沙は傷つき、その痛みのために自ら変わる決意をした。そう簡単に忘れられるものではない。
(でもびっくりした……あんな普通に話しかけられるなんて……)
友達と別行動していてよかった、と理沙はため息を零す。そろそろ戻らなければ、皆が戻って来ているかもしれない。だがまだ彼らがいたら――と理沙は逡巡する。
すると突然、ポケットに入れていた携帯が音を立てた。
誰⁉ と理沙は取り落としそうになりながら画面を見る。そこに表示されていた名前を見て、理沙はすぐさま着信のボタンを押した。
「も、もしもし!」
『――夜分に失礼。いま、大丈夫ですか?』
「は、はい!」
久しぶりに聞く、レイヴンの声。
まだ一週間も離れていないのに、懐かしさと愛しさで涙が出そうだ。
『メッセージ、ありがとうございます。素敵な月ですね』
「す、すみませんあたし、夜中なのに……もしかして、起こしちゃいましたか?」
すると電話口の向こうで、レイヴンがふふ、と笑ったのが分かった。
『もう忘れたのですか?』
「はい?」
『日本とフランスでは、八時間の時差があるんですよ』
ああ、と理沙は頭を抱えたくなった。飛行機の時にあれだけ注意していたのに、戻って来た途端すっかり失念していたなんて。
「そ、そうでした……じゃあそっちは」
『今、午後四時を過ぎた辺りです。そろそろ閉店の準備をしようかと』
「よ、良かった……」
迷惑をかけたわけではないとわかり、理沙はようやく安堵する。
不思議なことに、レイヴンの声を耳にした途端、先ほどまでの取り乱していた心が嘘のように凪ぐのが分かり、理沙は心の中で苦笑した。
『しかし……こんな時間に出歩いているのですか?』
「あ、はい。友達と初詣で……ええと、神様にお参りというか」
『用事が済んだら、早く家に帰るように。絶対に一人になってはだめですよ』
「は、はい!」
周りに誰もいない今の状況が見えているのか、と理沙は少しだけ挙動不審になる。だがいつものレイヴンの口調に、思わず顔をほころばせた。
「レイヴン、あの……ありがと」
『何がです?』
「その、……一番に話せて、嬉しかったから」
そっと零した理沙の言葉に、携帯はしばし沈黙した。
だがすぐに、穏やかな笑みが聞こえてくる。
『……私もです』
「え?」
『私も……あなたの声が聞きたかった』
予想だにしない返事に、理沙は思わず目をしばたたかせた。自身に都合のいい幻聴かと耳を疑ったが、どうやらそうではないと徐々に実感する。
(遠い、なあ……)
こちらの空はこんなに真っ暗で月も輝いているというのに、レイヴンがいる場所ではまだ星も瞬いてはいないのだ。
八時間。
その圧倒的な時間を前に、理沙は不思議と胸が痛くなる。
(会いたい、なあ――)
すると、耳元からレイヴンの優しい声が続く。
『――私も、です』
「えっ⁉」
もしかしてうっかり口に出していた⁉ と理沙は奇妙な声をあげてしまった。するとスピーカーの向こうから、くっくと短い笑いが起きる。
『当たっていましたか?』
「な、え、もしかしてこれも『調停者』の力で」
『そんなわけがないでしょう。たまたまです』
嬉しそうに笑いをこらえるレイヴンの顔が想像でき、理沙はようやく赤面した。
レイヴンとしては冗談半分で言ったのかもしれないが、それで気持ちを当てられているのだからたまったものではない。
「もー驚かさないでください」
『失礼。……ですが、少しは元気が出ましたか?』
「え?」
『電話に出た時、いつもより沈んだ声だったので』
そう言われた理沙は、続く言葉を呑み込んだ。
どうして分かったんだろう。いつも通り、明るく出たつもりだったのに。
『何があったかは知りませんが、あまり気にしてはいけませんよ』
「……はい」
『あなたの居場所は一つではない。これからまだいくらでも、広がっていくのですから』
心を読まれているのかと思った。
だが今の理沙にとっては何よりも嬉しく、思わず涙ぐみそうになるのを堪えて、出来るだけ明るく返事をする。
「はい。……ありがとう、ございます」
『日本にいる間は、友達やご両親と楽しく過ごしてください。そして――早く、こちらに戻って来てほしい』
「……!」
耳を疑うような言葉に、理沙ははわわと頬が熱くなる。
「レ、レイヴン、それって」
『あなたがいないと、フェリクスがうるさいのです。毎日来ては「リサはまだ戻らないのか」と。さすがに仕事に差し支えます』
「ああ、そういう……」
その光景がありありと浮かんできて、理沙は脱力したように笑った。だがその直後、レイヴンの静かな声が続く。
『ですが……あなたがいないここは、たしかに少し寂しい』
「レイヴン?」
『だから――早く帰って来て下さい』
呆然とする理沙をよそに、レイヴンが最後に『――Meilleurs Vœux.』とだけ言い残す。気づけば通話は切れており、理沙は収まらない動悸を抱えたまま、一人真っ赤になったままその場にしゃがみ込んでいた。
(了)




