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第9話 俺、世界のシナリオを改稿することになったんだが?

 異世界に転生して九日目。


 俺は、ついに世界の命運を左右する重大な仕事を任されることになった。


 勇者として魔王を倒すわけではない。


 伝説の聖剣を手に入れるわけでもない。


 ましてや、五人のイケメンから結婚相手を選ぶわけでもない。


 もっと厄介な仕事だ。


「……なあ、透」


「何だ?」


「世界を救うための企画書って、何ページくらい必要だと思う?」


 俺が尋ねると、向かいの机に座っていた男は、少し考えたあとで答えた。


「……とりあえず、A4で十枚くらいじゃね?」


「……だよな」


「ただ、決裁者向けの概要版は別に作ったほうがいいと思う」


「……それもそうだな」


 俺たちは、真剣な表情で頷き合った。


 俺の名前はリリア・ベルフォード。


 二十二歳。


 金髪碧眼の美少女にして、千年に一人の聖女である。


 ただし、中身は二十九歳の元サラリーマン。


 前世ではゲーム会社の広報部に勤めていた男だ。


 そんな俺が、交通事故で死んだあと、なぜか自分が宣伝を担当していた十八禁乙女ゲームの主人公へ転生してしまった。


 しかも、誕生日が二月二十二日だったせいで、《ハズレスキル》という妙な能力まで与えられている。


 決められた運命を外す力。


 ただし、外した運命は別の結果へ変換されるという、非常に面倒な能力である。


 これまで俺は、その力を使って恋愛イベントを回避しようとしてきた。


 しかし、結果は散々だった。


 王子からの求愛を避ければ騎士団長に抱きとめられ、魔導師とのお茶会を断れば研究室へ転移させられ、恋愛を回避するために仕事を始めたら五部門統括マネージャーになってしまった。


 そして最近では、前世が男だったことまで攻略対象たちに知られてしまった。


 ……いや、もう本当に。


 どんな乙女ゲームだよ。


 しかも、男の姿へ戻って王子と食事をした結果、今度は精神的BLルートが本格的に進行し始めている。


 ……そこだけは、まだ気持ちの整理がついていない。


 ともかく。


 現在、俺が取り組んでいる問題は恋愛ではなかった。


 世界そのものの存続に関わる話である。


「……よし」


 俺は机の上に広げた資料を確認した。


 表題は、こうだ。


『猫神祭における未登録存在の保護および運命確定処理への対応計画』


 ……長い。


 我ながら、長すぎる。


 もう少しわかりやすいタイトルにできないものか。


 すると、透が口を開いた。


「……これ、普通に『世界救済計画』でよくない?」


「……おお」


 俺は顔を上げた。


「それだ!」


 透が得意げに笑った。


「だろ?」


 ……さすが俺。


 いや、今は別人だけど。


 こいつは佐伯透。


 二十九歳。


 俺の前世の姿と記憶の一部を持って生まれた、もう一人の俺である。


 世界のシナリオ補正によって突然現れ、現在は王宮広報補助員として働いている。


 顔も声も前世の俺と同じだが、今では独立した人格を持つ別の人間として存在している。


 ちなみに、俺と同じく労働条件にはうるさい。


 最初の就職相談で、勤務時間と休日と残業手当を確認していた。


 ……本当に、俺の記憶を持っているんだな。


「……じゃあ、タイトルを変更するぞ」


 俺は書類の表題を書き直した。


『世界救済計画』


 ……うん。


 わかりやすい。


 しかし、よく考えてみると。


「……何で俺たち、こんな仕事してるんだろうな」


 俺が呟くと、透は深いため息をついた。


「……本当にな」


 俺たちは、しばらく黙って書類を見つめていた。


 世界の存続が危機に瀕している。


 普通の異世界転生ものなら、ここで勇者が立ち上がるはずだ。


 それなのに俺たちは、朝九時から会議資料を作っている。


 ……もう少し、夢のある展開にならないものか。


「……まあ、やるしかないか」


「……だな」


 透が頷いた。


 そして、俺たちは再び資料の整理を始めた。


     ◇


 午前十時。


 旧貴賓館の会議室には、王国の重要人物が五人揃っていた。


 第一王子レオンハルト。


 王立騎士団長カイル。


 宮廷魔導師エリオット。


 大神官セシル。


 公爵令息ユリウス。


 そして、俺と透。


 さらに、机の上では白猫が丸くなっている。


 聖猫神ミャルティアである。


 ……お前だけ仕事してないな。


 まあ、神様だから仕方ないのかもしれないけど。


「それでは、会議を始めます」


 俺は立ち上がった。


 そして、黒板に大きく文字を書いた。


『猫神祭まで、残り二十一日』


 五人が真剣な表情でこちらを見ている。


「最初に、現在の問題について説明します」


 俺は資料を配った。


「猫神祭当日、この世界では『物語の最終確定』という処理が実施される予定になっています」


 レオンハルトが首を傾げた。


「……物語の最終確定?」


「はい」


 俺は頷いた。


「簡単に言えば、世界に存在する人物や場所について、今後も存在してよいかどうかを判定する仕組みです」


 沈黙。


 カイルが眉を寄せた。


「……それは、誰が判断するのですか?」


「わかりません」


「……わからない?」


「はい。少なくとも、普通の人間が決めているわけではないようです」


 エリオットが興味深そうに口を開いた。


「……なるほど。世界そのものに組み込まれた魔法的な機構ということですか?」


「おそらく、そうだと思います」


 俺は頷いた。


 そして、続けた。


「問題は、その処理によって、世界から消される可能性がある人たちが存在することです」


 セシルの表情が変わった。


「……消される?」


「はい」


 俺は透へ視線を向けた。


「その一人が、佐伯透です」


 透は小さく手を上げた。


「……どうも。消去対象です」


「軽く言うな!」


 俺は思わず突っ込んだ。


 透は肩をすくめた。


「いや、だって事実だろ」


 ……そうなんだけどさ。


 もう少し深刻そうにしてくれよ。


 すると、ユリウスが真剣な表情になった。


「……つまり、我々が正式に身元を保証し、仕事まで与えた人物が、世界の仕組みによって消される可能性があるということか?」


「その通りです」


 俺は頷いた。


 ユリウスは腕を組んだ。


「……不合理だな」


 ……おお。


 出た。


 ユリウスらしい反応だ。


「正式な契約を結んだ人間が、本人の意思とは関係なく消されるなど、到底認められん」


 ……ああ。


 そうだよな。


 俺も、そう思う。


 カイルが口を開いた。


「ほかにも消去対象がいるのですか?」


「はい。名前のない町という場所に暮らす人々です」


 俺は説明した。


 そこは、物語から外れた存在が流れ着く場所だということ。


 完成しなかった物語の登場人物や、使われなくなった設定に属する人々が暮らしていること。


 そして、六人目の攻略対象ノアが、その場所を守っていること。


 五人は黙って聞いていた。


 話し終えると、セシルが静かに口を開いた。


「……その方々も、私たちと同じように暮らしているのですね?」


「はい」


「食事をして、働いて、家族や友人と過ごしている?」


「……そうです」


 セシルは、ゆっくりと頷いた。


「でしたら、その方々を救う方法を探すべきでしょう」


 ……ああ。


 そうだよな。


 俺は小さく笑った。


「ありがとうございます」


 すると、レオンハルトが口を開いた。


「……リリア。一つ聞いてもいいかな?」


「はい」


「君は、この世界の仕組みについて、以前から知っていたのかい?」


 ……来た。


 俺は少しだけ身構えた。


 今まで、俺は五人に前世の秘密を話してきた。


 男だったこと。


 異世界から来たこと。


 ゲーム会社で働いていたこと。


 しかし、この世界そのものが乙女ゲームの舞台だという話は、まだしていなかった。


 ……まあ、そろそろ説明するべきだろう。


 何しろ、世界の運命に関わる話なのだから。


「……実は」


 俺は深呼吸した。


「俺が前世で働いていた会社では、この世界によく似たゲームを作っていたんです」


 沈黙。


 五人がこちらを見た。


「……ゲーム?」


 レオンハルトが尋ねた。


「はい。物語を楽しむ娯楽商品です」


 俺は慎重に続けた。


「そのゲームには、聖女リリア・ベルフォードという主人公が登場します」


 五人の表情が変わった。


「そして、五人の男性が主人公と出会い、恋愛関係を深めていく内容でした」


 ……ああ。


 言ってしまった。


 俺は、少しだけ緊張した。


 五人がどう受け取るかはわからない。


 何しろ、自分たちの人生が誰かの娯楽作品として存在していたという話なのだ。


 普通なら、気分のいいものではないだろう。


「……なるほど」


 最初に口を開いたのはエリオットだった。


「つまり、リリア様が知っている物語と、この世界には多くの共通点があるわけですね」


「はい」


「そして、その物語で予定されていた出来事が、こちらでも再現されている?」


「……その可能性があります」


 エリオットは考え込んだ。


 カイルも真剣な表情だった。


 セシルは静かに聞いている。


 ユリウスは腕を組み、何かを考えていた。


 そして、レオンハルトが口を開いた。


「……リリア」


「……はい?」


「その物語の中では、僕たちは君を好きになることになっていたのかい?」


 …………。


 俺は固まった。


 ……おい。


 そこを聞くのか。


「……まあ、そうですね」


 俺は頷いた。


「それぞれの物語で、恋愛関係になる可能性がありました」


 レオンハルトは、しばらく黙っていた。


 そして、静かに微笑んだ。


「……そうか」


 ……何だろう。


 少しだけ寂しそうに見える。


 俺が首を傾げていると、王子が続けた。


「では、僕が君を好きになったのも、最初から決められていたのかもしれないね」


 …………。


 俺は、言葉に詰まった。


 ……そうだ。


 その可能性はある。


 レオンハルトは、このゲームのメイン攻略対象だ。


 本来なら、主人公リリアと恋愛関係になるために用意されたキャラクターなのだから。


 しかし。


 昨日、男の姿へ戻った俺と食事をしたとき。


 王子は、俺の話を聞いてくれた。


 前世のこと。


 仕事のこと。


 自分の人生を選びたいという願い。


 そのうえで、俺のことが好きだと言ってくれた。


 ……あれも。


 全部、決められた台詞だったのだろうか。


 俺が黙っていると、レオンハルトが小さく笑った。


「……でも、僕はそうは思いたくないな」


「……え?」


 俺は顔を上げた。


 王子は、穏やかに続けた。


「昨日、君と一緒に食事をして、いろいろな話をした。君がどんな生活をしていたのかも聞いたし、僕自身のことも話した」


 ……ああ。


 そうだった。


「そして、君と一緒に過ごす時間が楽しいと感じた」


 レオンハルトは、真剣な表情で俺を見た。


「それが誰かに決められた物語だったとしても、僕が楽しいと感じたことまで、嘘になるわけではないと思うんだ」


 …………。


 俺は、息を呑んだ。


 ……ああ。


 そうか。


 レオンハルトは、自分の気持ちを否定されたくないんだ。


 ゲームの攻略対象として用意された感情だったとしても。


 今ここで感じていることは、自分自身のものだと言いたいのだ。


「……そうですね」


 俺は小さく頷いた。


「俺も、そう思います」


 王子は微笑んだ。


 すると、目の前に青白い文字が浮かび上がった。


『レオンハルト好感度+5』


「…………」


 ……おい。


 ちょっと待て。


 今、世界の存亡について話してるんだぞ。


 好感度を上げてる場合じゃないだろ!


 俺が画面を睨んでいると、ユリウスが口を開いた。


「……なるほど。事情は理解した」


 ……お?


 俺は顔を上げた。


「では、今回の問題は、その物語の仕組みを変更すれば解決する可能性があるわけだな?」


「……そうです」


「ならば、まず仕組みを調べるべきだ」


 ……ああ。


 さすがユリウス。


 話が早い。


「感情的に反発しても、問題は解決しない。必要なのは、現状の把握と具体的な対策だ」


 ……素晴らしい。


 俺は思わず頷いた。


「その通りです!」


 ユリウスは満足そうに笑った。


「では、調査を始めよう」


 ……よし。


 これで、ようやく本格的に動ける。


 俺は黒板へ向き直った。


 そして、大きく文字を書き込んだ。


『目標:誰も消さずに、世界の運命を確定させる』


 ……うん。


 これだ。


 俺がやりたいことは、これなんだ。


 男の姿へ戻ること。


 恋愛をするかどうかを自分で決めること。


 仕事も、生活も、自分の意思で選ぶこと。


 それは大事だ。


 しかし、そのために誰かが犠牲になるのは嫌だった。


 だから。


 ……全員で、何とかする。


 俺は、五人を見渡した。


「皆さん。協力していただけますか?」


 レオンハルトが頷いた。


「もちろんだよ」


 カイルが静かに答えた。


「お任せください」


 エリオットが微笑んだ。


「非常に興味深い研究になりそうですね」


 セシルが穏やかに頷く。


「私も、できる限り力を尽くします」


 ユリウスが腕を組んだ。


「必要な予算については、こちらで検討しよう」


 ……よし。


 全員、協力してくれる。


 俺は小さく笑った。


 すると、机の上の白猫が、ゆっくりと顔を上げた。


「……ふむ」


 ……ん?


 俺は猫神を見た。


「……何だよ?」


 ミャルティアは金色の瞳を細めた。


「どうやら、そろそろ話しておくべきことがあるようだな」


 ……おい。


 何だ、その意味深な台詞。


「……何を?」


 猫神は、ゆっくりと立ち上がった。


 そして、俺を見つめた。


「……五つの誓いについてだ」


     ◇


「……五つの誓い?」


 俺は聞き返した。


 ミャルティアは頷いた。


「うむ。この世界には、古くから五つの誓いが存在しておる」


 ……まあ、そうだろうな。


 何しろ、ゲームのタイトルが『聖猫神の花嫁と五つの誓い』なのだから。


「……それって、五人の攻略対象との恋愛に関係するんじゃないの?」


 俺が尋ねると、猫神は首を横に振った。


「本来は違う」


 ……え?


 俺は目を見開いた。


「……違うの?」


「うむ。五つの誓いとは、この世界が生まれたときに定められた、五つの約束のことだ」


 猫神は、静かに続けた。


「王は、名を持つ者を等しく認める」


「騎士は、弱き者の命を守る」


「賢者は、知られざる真実を記録する」


「神官は、魂の自由を尊ぶ」


「そして、富を持つ者は、人々が生きるための場所を支える」


 …………。


 俺は、しばらく黙っていた。


 ……なるほど。


 それが、五つの誓い。


 王子。


 騎士団長。


 宮廷魔導師。


 大神官。


 公爵令息。


 ……ぴったりじゃないか。


 俺は五人を見渡した。


 レオンハルトも、カイルも、エリオットも、セシルも、ユリウスも、真剣な表情で猫神の話を聞いていた。


 ……いや。


 待てよ。


 何かおかしい。


「……なあ、ミャルティア」


「なんだ?」


「その五つの誓いって、そもそも恋愛とは関係ないんだよな?」


「うむ」


「じゃあ、何で乙女ゲームでは恋愛の誓いになってるんだ?」


 猫神は、少しだけ困ったような顔をした。


「……それは、物語の形が変わったからだ」


 ……物語の形?


 俺は眉を寄せた。


 猫神は続けた。


「我が世界を創ったとき、人々にはそれぞれの生き方を選ぶ自由があった。だが、時が経つにつれ、世界にはさまざまな物語が重ねられていった」


 ……物語。


 俺は息を呑んだ。


「人々の願いや想像が、世界の可能性に形を与えた。その中には、お前の世界で作られた物語に似たものもあったのだろう」


 ……なるほど。


 俺は少しだけ理解した。


 この世界は、最初からゲームとして作られたわけではない。


 ミャルティアが創造した世界に、後から乙女ゲームの物語が重なった。


 その結果、本来は自由だった人々の運命が、恋愛シナリオという形で固定されていった。


 ……そういうことか。


「……じゃあ、聖女の役割も?」


 俺が尋ねると、猫神は頷いた。


「本来、聖女とは五つの誓いを結び、世界の調和を保つ者だった」


 ……調和。


 俺は小さく呟いた。


 猫神は続けた。


「しかし、物語の形が変わるにつれ、聖女は五人の男から愛され、最後に一人を選ぶ存在として扱われるようになった」


 ……おい。


 待てよ。


 つまり。


 このゲームの基本設定そのものが、後から付け加えられたものだったってことか?


「……じゃあ」


 俺は慎重に尋ねた。


「五人の男と恋愛しなくても、五つの誓いは成立するの?」


 猫神は、ゆっくりと頷いた。


「本来はな」


 …………。


 俺は、言葉を失った。


 ……おい。


 ちょっと待て。


 それ。


 もっと早く教えてくれよ!


「……ミャルティア!」


「なんだ?」


「何で今まで黙ってたんだよ!」


 俺が叫ぶと、猫神は少しだけ目を逸らした。


「……いや」


「いや、じゃねえよ!」


「……お前が、恋愛イベントを避けることばかり考えておったからな」


「それを解決する情報じゃねえか!」


 俺は頭を抱えた。


 何だよ。


 五つの誓い。


 恋愛関係にならなくても成立するんじゃないか。


 だったら、俺が今まで苦労してきたのは何だったんだ!?


「……まあ、落ち着け」


 猫神が尻尾を振った。


「本来の誓いを知ったからといって、簡単に世界を書き換えられるわけではない」


 ……ん?


 俺は顔を上げた。


「……どういうこと?」


「今の世界には、すでに乙女ゲームの物語が深く組み込まれておる。五つの誓いを本来の形へ戻そうとすれば、物語の仕組みそのものが抵抗するであろう」


 ……なるほど。


 そう簡単にはいかないのか。


 俺は少しだけ考えた。


 しかし。


 希望はある。


 五つの誓い。


 それは、五人の恋愛イベントではなく、五つの立場から世界を支える約束だった。


 つまり。


 俺が五人の攻略対象と協力することで、本来の役割を取り戻せる可能性がある。


 ……これだ。


 俺は、ゆっくりと拳を握った。


「……よし」


 そして、黒板に新しい文字を書き込んだ。


『五つの誓いを、本来の意味で成立させる』


 俺は五人を見渡した。


「皆さん。これが、今回の計画の中心になります」


 レオンハルトが頷いた。


「なるほど。僕たちそれぞれが、本来の誓いを果たすわけだね」


「はい」


 俺は頷いた。


「ただし、恋愛関係になる必要はありません」


 ……ここ、重要。


 俺は念を押した。


「絶対に、恋愛関係になる必要はありませんからね!」


 五人が、少しだけ笑った。


 ……おい。


 何だ、その反応。


 ちゃんと理解してるんだろうな。


 すると、レオンハルトが穏やかに微笑んだ。


「もちろん、わかっているよ」


 ……よし。


 俺は安堵した。


 しかし、その直後。


 王子が続けた。


「ただ、個人的に君を好きでいることまで禁止されるわけではないよね?」


 …………。


 ……おい。


 待て。


 何だ、その質問。


「……まあ、禁止する権利はありませんけど」


 俺は慎重に答えた。


 レオンハルトは嬉しそうに微笑んだ。


「それなら、問題ないよ」


 …………。


 ……こいつ。


 本当に、強いな。


 俺は頭を抱えた。


 すると、透が隣で小さく笑った。


「……王子様、結構本気だな」


「うるせえ!」


 俺は反射的に叫んだ。


 ……まったく。


 世界の存亡がかかってるんだぞ。


 今は恋愛の話をしてる場合じゃないだろ!


 そんな俺の心情など知らず、目の前に青白い文字が浮かび上がった。


『特殊イベント発生』


『五つの誓いの原初設定が開示されました』


『聖女の自由ルート:進行度上昇』


『新規イベント名:本来の物語を取り戻せ』


 ……よし。


 ようやく、正しい方向へ進んでいる気がする。


 俺は深呼吸した。


 そして、五人へ向かって言った。


「それでは、具体的な準備を始めましょう」


     ◇


 それから、十日が過ぎた。


 俺たちは猫神祭に向けて、さまざまな準備を進めていた。


 レオンハルトは王宮の記録を調べ、古い時代に交わされた五つの誓いについて確認していた。


 カイルは騎士団を率いて、王都の周辺に発生している不審な魔力反応を調査していた。


 エリオットは魔導師団の研究者たちと協力し、世界のシナリオ補正について解析を進めていた。


 セシルは大神殿の古文書を調べ、聖女の本来の役割について確認していた。


 ユリウスは、世界から外れた人々を保護するための施設や予算の準備を進めていた。


 そして、俺と透は。


「……なあ」


「……何だ?」


「……仕事、増えてない?」


「……増えてるな」


 旧貴賓館の執務室で、二人揃って頭を抱えていた。


 ……おかしい。


 俺は、仕事を減らすために透へ広報業務を引き継いだはずだ。


 それなのに、現在は世界救済計画の進行管理を担当している。


 しかも、透まで巻き込まれている。


 ……何なんだよ。


 前世の俺が二人になっても、仕事が減らないって。


 異世界の労働環境、どうなってるんだ。


「……なあ、透」


「何だ?」


「俺たち、前世で何か悪いことしたのかな」


 透は少し考えた。


 そして、真顔で答えた。


「……発売前のゲームで、ちょっと大げさな宣伝をしたくらいじゃね?」


「……それだ!」


 俺は思わず叫んだ。


 ……いや。


 待て。


 それでこんな目に遭うのは、さすがに理不尽すぎるだろ!


 俺たちは、深いため息をついた。


 しかし、仕事は順調に進んでいた。


 五人の攻略対象たちは、それぞれの役割を果たしている。


 しかも、以前とは違い、情報共有もきちんとできていた。


 王宮の記録と神殿の古文書を照合し、魔導師団が魔力の解析を行う。


 騎士団は安全を確保し、公爵家は必要な資源を用意する。


 そして、俺たちが全体の進行状況を管理する。


 ……うん。


 いいチームだ。


 恋愛イベントさえなければ。


 本当に、いいチームなんだけどな。


 俺がそんなことを考えていると、扉がノックされた。


「……リリア様」


 セシルだった。


「……どうぞ」


 扉が開き、大神官が入ってきた。


 手には古い書物を持っている。


「……少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」


「もちろんです」


 俺は頷いた。


 セシルは机の上に書物を置いた。


 そして、静かに口を開いた。


「……五つの誓いについて、重要な記述を見つけました」


 ……お。


 俺は身を乗り出した。


「……どんな内容ですか?」


 セシルは、古い文字で書かれた一節を指さした。


『五つの誓いは、聖女へ捧げられるものにあらず』


『それぞれの誓いは、世界に生きる者たちへ向けられる』


 ……なるほど。


 俺は頷いた。


 ミャルティアが説明していた内容と一致している。


 セシルは続けた。


「さらに、このような記述があります」


『聖女は誓いを受ける者ではなく、誓いを結ぶ者なり』


 …………。


 俺は、少しだけ目を見開いた。


 ……誓いを結ぶ者。


 なるほど。


 それなら、話が繋がる。


 俺は五人の攻略対象と恋愛する必要はない。


 ただ、それぞれの誓いを成立させるために、彼らの協力を得ればいい。


 ……ああ。


 何だよ。


 俺、最初から管理職向きだったのか?


 いや、待て。


 それは嫌だ。


 俺は普通に暮らしたいんだぞ。


「……ただし」


 セシルが、少しだけ表情を曇らせた。


「もう一つ、気になる記述があります」


 ……ん?


「……何でしょう?」


 セシルは、書物の最後の一節を指さした。


『誓いを結ぶ者は、最後に己の名を差し出す』


 …………。


 俺は固まった。


 ……己の名?


「……どういう意味ですか?」


 俺が尋ねると、セシルは首を横に振った。


「……まだ、わかりません」


 ……なるほど。


 俺は少しだけ考えた。


 聖女が、自分の名前を差し出す。


 それは、何を意味するのだろう。


 ……まさか。


 自分の存在を、世界へ捧げるということなのか?


 俺は、少しだけ不安になった。


 しかし、セシルは穏やかに微笑んだ。


「まだ、結論を出すには早いと思います」


「……そうですね」


「この一節だけでは、正確な意味はわかりません。ほかの記録と照合する必要があります」


 ……ああ。


 そうだよな。


 俺は小さく頷いた。


「……ありがとうございます」


 セシルは静かに微笑んだ。


 そして、少しだけ声を落とした。


「……リリア様」


「……はい?」


「一つ、個人的なことをお尋ねしてもよろしいでしょうか?」


 ……個人的なこと?


 俺は首を傾げた。


「……何でしょう?」


 セシルは、少しだけ考えた。


 そして、静かに尋ねた。


「……あなたは、今も男性の姿へ戻りたいと望んでいますか?」


 ……え?


 俺は、少しだけ驚いた。


「……もちろんです」


 俺は頷いた。


 セシルは静かに微笑んだ。


「そうですか」


 そして、続けた。


「でしたら、私はその願いを尊重します」


 ……ああ。


 何だよ。


 この人。


 本当に、いい人だな。


 俺は小さく笑った。


「……ありがとうございます」


 すると、セシルが少しだけ表情を和らげた。


「ただし、一つだけ覚えておいてください」


「……何でしょう?」


「あなたが男性の姿へ戻れたとしても、聖女として過ごした時間が消えるわけではありません」


 …………。


 俺は黙った。


 セシルは続けた。


「この世界で出会った人々も、経験したことも、すべてあなた自身の人生の一部です」


 ……ああ。


 そうだ。


 俺は前世では男だった。


 今も、男の姿へ戻りたいと思っている。


 しかし、リリアとして過ごした時間も、確かに俺自身のものだった。


 仕事をした。


 人と出会った。


 猫神祭の準備をした。


 そして、王子とデートまでした。


 ……いや。


 最後のは、ちょっと違うけど。


 でも。


 ……そうだな。


 全部、俺の人生なんだよな。


「……ありがとうございます」


 俺は、改めて頭を下げた。


 セシルは穏やかに微笑んだ。


 その瞬間。


『セシル好感度+5』


「…………」


 ……おい。


 またかよ。


 俺は画面を睨んだ。


 しかし、今回は以前ほど腹が立たなかった。


 ……まあ、いいか。


 好感度が上がったからといって、必ずしも恋愛関係になるわけじゃない。


 それは、もうわかっている。


 大切なのは、お互いの意思だ。


 ……そうだ。


 俺は小さく笑った。


 すると、セシルが不思議そうに首を傾げた。


「……どうかなさいましたか?」


「……いえ」


 俺は頷いた。


「ちょっと、考え方が変わってきたなと思いまして」


 セシルは、嬉しそうに微笑んだ。


「それは、よかったです」


     ◇


 猫神祭まで、残り七日。


 俺たちは、ついに名前のない町へ向かうことになった。


 目的は、ノアと直接話すためである。


 以前、ノアは俺に《ハズレスキル》を貸してほしいと頼んできた。


 自分自身の運命を外してほしい、と。


 しかし、その具体的な内容は説明してくれなかった。


 俺は、詳しい事情がわからないまま能力を使うことはできないと答えた。


 あれから、何度かメッセージが届いている。


 だが、ノアは核心について語ろうとしなかった。


 ……もう、いい加減に直接聞くしかない。


「……準備はいい?」


 俺が尋ねると、隣の透が頷いた。


「おう」


 今回は、俺と透。


 そして、エリオット、セシルの四人で向かうことになった。


 カイルは騎士団の警備計画を進めており、レオンハルトとユリウスもそれぞれの仕事がある。


 ……まあ、仕方ない。


 全員で出かけたら、ただの大名行列になってしまう。


 それに、隠された場所へ行くのだから、少人数のほうがいいだろう。


 俺たちは王立学院の北門へ向かった。


 以前、ノアと出会った場所である。


 すると、門の近くに一人の青年が立っていた。


 黒に近い灰色の髪。


 金色の瞳。


 落ち着いた雰囲気の、どこか不思議な青年。


 ……ノア。


「……やあ」


 ノアが微笑んだ。


「久しぶりだね、リリア」


 俺は頷いた。


「……久しぶり」


 ノアは、少しだけ目を細めた。


「今日は、随分と賑やかだね」


「……まあな」


 俺は肩をすくめた。


「ちょっと、大事な話があるから」


 ノアは静かに頷いた。


「……そうか」


 そして、ゆっくりと歩き出した。


「では、こちらへ」


 俺たちはノアに続いて、古い礼拝堂へ向かった。


     ◇


 名前のない町は、以前と変わらず静かだった。


 石畳の道。


 古い家々。


 小さな広場。


 露店では、店主が客と笑いながら話している。


 子どもたちは道端で遊び、老人が椅子に座って昼寝をしていた。


 ……普通だ。


 本当に、普通の町だ。


 俺は、しばらく周囲を見渡していた。


 ここに暮らす人々は、物語から必要とされなくなった存在だという。


 しかし、そんなことは誰にも関係ないように見えた。


 みんな、普通に生きている。


 それなのに。


 一週間後には、この町そのものが消えてしまう可能性がある。


 ……そんなの、認められるわけがない。


「……ノア」


 俺は静かに口を開いた。


「……何?」


「……この町の人たち、最終確定のことを知ってるの?」


 ノアは、少しだけ目を伏せた。


「……一部の人はね」


「……そうか」


 俺は頷いた。


 そして、真剣な表情で続けた。


「俺たちは、この町を救う方法を探してる」


 ノアが顔を上げた。


「……本当に?」


「ああ」


 俺は頷いた。


「五つの誓いを、本来の形で成立させるつもりだ」


 ノアの表情が変わった。


「……五つの誓い?」


「そうだ。王子、騎士団長、魔導師、大神官、公爵令息。それぞれの立場から、この世界に生きる人々を守る約束をしてもらう」


 ノアは、しばらく黙っていた。


 そして、小さく笑った。


「……なるほど」


 ……おい。


 また、その反応か。


「……何だよ?」


 俺が尋ねると、ノアは静かに答えた。


「君らしい方法だと思ってね」


「……そうか?」


「うん。世界の運命を変えるために、まず関係者の役割分担を決めるなんて」


 ……おい。


 笑うな。


 俺は真剣なんだぞ。


 すると、透が口を開いた。


「……まあ、俺たち広報担当だからな」


 ノアが首を傾げた。


「……広報担当?」


「そう。問題が起きたら、まず関係者を集めて、情報を整理して、責任者を決める」


 透は肩をすくめた。


「……それが仕事なんだよ」


 ノアは、少しだけ驚いた顔をした。


 そして、声を立てて笑った。


「ははっ! なるほど。君たちらしいね」


 ……おい。


 だから笑うなって。


 俺は小さくため息をついた。


 しかし、すぐに真剣な表情へ戻った。


「……それで、ノア」


「……何?」


「そろそろ、本当のことを教えてくれないか?」


 ノアは黙った。


「お前は、俺の《ハズレスキル》を使って、自分の運命を外してほしいと言った」


 俺は続けた。


「でも、詳しい内容は説明してくれなかった。何が起きるのかも、誰に影響するのかも」


 ノアは、静かに俺を見ていた。


「……今なら、話してくれる?」


 長い沈黙が訪れた。


 やがて、ノアが口を開いた。


「……わかった」


 そして、ゆっくりと歩き出した。


「礼拝堂へ行こう。そこで、すべて話すよ」


     ◇


 古い礼拝堂の奥。


 黒い鏡の前で、ノアは静かに立っていた。


 以前、俺が一時的に男の姿へ戻った場所である。


 エリオットは鏡を興味深そうに観察していたが、今は研究を始めるつもりはないらしい。


 セシルも静かに周囲を見渡している。


 透は、俺の隣に立っていた。


「……この鏡が、あの装置なのか」


 透が呟いた。


「ああ」


 俺は頷いた。


「ここで男に戻ったんだ」


 透は鏡を見つめた。


 そして、少しだけ苦笑した。


「……何か、不思議な感じだな」


「……まあな」


 俺も頷いた。


 すると、ノアが静かに口を開いた。


「……君たちに、最初から説明しよう」


 俺たちは、ノアへ視線を向けた。


 ノアは、黒い鏡へ手を伸ばした。


「僕は、完成しなかった物語の登場人物だ」


 ……ああ。


 それは知っている。


「本来なら、六人目の攻略対象として登場する予定だった」


 俺は頷いた。


 透も真剣な表情で聞いている。


「でも、僕の物語は完成しなかった。役割が曖昧で、ほかの攻略対象たちとも違っていたからね」


 ……なるほど。


 俺は少しだけ考えた。


 前世のゲーム会社でも、そういうことはあった。


 企画段階では面白そうに思えた設定が、実際の開発では扱いづらくなる。


 ほかのキャラクターと役割が重複する。


 物語の構成に合わない。


 制作期間の問題で削除される。


 ……珍しいことではない。


 ノアは静かに続けた。


「僕の役割は、主人公へ選択肢を示すことだった」


 ……選択肢。


 俺は息を呑んだ。


 透が、少しだけ目を見開いた。


「……それ、覚えてる」


 ノアが視線を向けた。


「……そうなの?」


「ああ。企画資料に書いてあった」


 透は静かに続けた。


「『彼は、主人公を愛するために存在しているのではない』」


 そして、ゆっくりと告げた。


「『彼は、主人公に選択させるために存在している』」


 ノアは、少しだけ笑った。


「……そうだね」


 ……なるほど。


 俺は頷いた。


 やっぱり、あの資料の六人目はノアだったのか。


 ノアは続けた。


「僕は、主人公が用意された選択肢以外の道を選べるようにする存在だった」


 ……用意された選択肢以外。


 俺は眉を寄せた。


「……つまり、ノーマルエンド?」


 ノアは首を横に振った。


「それとも少し違う」


 ……違う?


「ノーマルエンドも、あらかじめ用意された結末の一つだからね」


 ……ああ。


 そうか。


 確かに、その通りだ。


 恋愛ルート。


 ハーレムルート。


 ノーマルエンド。


 どれも、ゲームの開発者が用意した結末である。


 主人公がどれかを選んだとしても、それは用意された道を進んでいるだけだ。


 ノアは静かに続けた。


「僕の役割は、その外側にある道を示すことだった」


 ……外側。


 俺は小さく呟いた。


 ノアは頷いた。


「だから、僕は物語から外されたあとも、完全には消えなかった」


 ……なるほど。


 役割そのものが、物語の外へ繋がっていたからか。


「そして、物語から外れた人々が流れ着く、この町を見つけた」


 ノアは、礼拝堂の窓の外へ視線を向けた。


「僕は、ここで暮らす人々を守りたかった」


 ……ああ。


 そうだよな。


 俺は小さく頷いた。


 しかし、ノアの表情が少しだけ曇った。


「……でも、もう限界なんだ」


 ……限界?


 俺は眉を寄せた。


 ノアは続けた。


「猫神祭の日、世界の物語は最終確定される。そうなれば、未登録の存在は整理される」


 ……ああ。


 それは知っている。


「この町も、僕も、佐伯透も」


 ノアは透を見た。


「……すべて、消える可能性がある」


 透は、黙っていた。


 ノアは静かに続けた。


「だから、君の《ハズレスキル》が必要だった」


 ……なるほど。


 俺は頷いた。


 しかし、まだ疑問が残っている。


「……具体的に、何をするつもりだったんだ?」


 俺が尋ねると、ノアは少しだけ目を伏せた。


 そして、静かに答えた。


「……僕自身を、世界の修正対象にするつもりだった」


 …………。


 俺は固まった。


「……何だって?」


 ノアは、ゆっくりと顔を上げた。


「君に、僕の運命を外してもらう。そして、僕を物語の外側へ完全に切り離す」


 ……切り離す?


 俺は眉を寄せた。


 ノアは続けた。


「そうすれば、僕という存在を通じて、ほかの未登録の人々を世界へ戻せる可能性がある」


 ……なるほど。


 俺は少しだけ考えた。


 しかし。


 何か、おかしい。


「……それで、お前はどうなるんだ?」


 俺が尋ねると、ノアは黙った。


 ……おい。


 待てよ。


「……ノア」


 俺は、少しだけ声を強めた。


「お前自身は、どうなる?」


 ノアは、しばらく黙っていた。


 そして、静かに微笑んだ。


「……おそらく、消えるだろうね」


 …………。


 俺は、言葉を失った。


 ……は?


 消える?


 こいつが?


「……ちょっと待て」


 俺は思わず一歩前へ出た。


「それって、お前一人を犠牲にするってことじゃないか!」


 ノアは静かに頷いた。


「……そうなるね」


 ……おい。


 ふざけんなよ。


 俺は拳を握った。


「……何で、そんな方法を考えるんだよ!」


 ノアは、少しだけ困ったように笑った。


「僕は、もともと完成しなかった物語の登場人物だからね」


 ……だから?


 俺は眉を寄せた。


「……それが何だよ」


「僕が消えたとしても、本来の物語には影響しない」


 …………。


 俺は黙った。


 ノアは続けた。


「だったら、僕一人が消えることで、この町の人々が救われるなら、それでもいいと思ったんだ」


 ……おい。


 待てよ。


 そんなの。


「……ふざけんな」


 俺は、静かに呟いた。


 ノアが顔を上げた。


「……リリア?」


 俺は、ゆっくりと息を吐いた。


「お前、俺に何て言ったか覚えてるか?」


 ノアは首を傾げた。


「……何を?」


「俺が初めて、この町へ来たときだ」


 俺は続けた。


「物語に必要とされなくても、ここで普通に暮らしてるなら、それでいいんじゃないかって言ったよな?」


 ノアは、少しだけ目を見開いた。


 ……そうだ。


 俺は覚えている。


 この町で、普通に食事をした。


 町の人たちは笑っていた。


 子どもたちは遊んでいた。


 老人が昼寝をしていた。


 ノアも、俺たちと一緒に食事をしていた。


 ……それで十分じゃないか。


「……お前だって、同じだろ」


 俺は静かに言った。


「完成しなかった物語の登場人物だからって、消えていい理由にはならない」


 ノアは黙っていた。


「お前は、ここで生きてるんだろ?」


 俺は続けた。


「だったら、お前にも自分の人生を選ぶ権利があるだろ!」


 長い沈黙が訪れた。


 ノアは、しばらく俺を見つめていた。


 そして、ゆっくりと目を伏せた。


「……君は、本当に変わった人だね」


「……そうか?」


「うん」


 ノアは小さく笑った。


「……僕は、君に選択肢を示すために存在していたはずなのに」


 そして、静かに続けた。


「君のほうが、僕に選択肢を示してくれるんだね」


 …………。


 俺は、少しだけ言葉に詰まった。


 ……何だよ。


 その言い方。


 ちょっと、格好いいじゃないか。


 しかし。


 俺は、すぐに首を横に振った。


「……とにかく」


 そして、はっきりと言った。


「お前一人を犠牲にする案は却下だ」


 ノアが少しだけ笑った。


「……却下?」


「そう。正式に却下」


 俺は頷いた。


「ほかの方法を探す」


 透も、隣で頷いた。


「……俺も賛成」


 エリオットが静かに口を開いた。


「まだ、すべての可能性を調べたわけではありませんからね」


 セシルも穏やかに頷いた。


「誰か一人の犠牲を前提にするべきではないでしょう」


 ……ああ。


 そうだよな。


 俺は小さく笑った。


 ノアは、しばらく俺たちを見つめていた。


 そして、静かに頭を下げた。


「……ありがとう」


 ……よし。


 これで、一つ問題が解決した。


 少なくとも、誰かを犠牲にする前提では動かない。


 ……ただし。


 具体的な代替案は、まだない。


 俺は、少しだけ頭を抱えた。


 ……さて。


 どうしたものか。


     ◇


 礼拝堂から戻る途中、俺たちは名前のない町の広場を通った。


 以前と同じように、露店が並んでいる。


 しかし、何かが違っていた。


 ……ん?


 俺は足を止めた。


「……あれ?」


 広場の奥にあった建物が、一つ消えていた。


 以前、そこには小さな雑貨屋があったはずだ。


 店先には木箱が並び、老人が椅子に座っていた。


 だが、今は何もない。


 建物そのものが、最初から存在しなかったように消えている。


「……ノア」


 俺は静かに呼びかけた。


 ノアは、少しだけ目を伏せた。


「……始まっているんだ」


 ……始まっている?


「……何が?」


 ノアは、静かに答えた。


「最終確定に向けた、整理処理だよ」


 …………。


 俺は息を呑んだ。


 ……おい。


 待てよ。


 まだ猫神祭まで一週間あるんだぞ。


 それなのに、もう消え始めているのか?


「……あの店の人は?」


 俺が尋ねると、ノアは黙った。


 ……おい。


 まさか。


「……ノア!」


 俺は声を強めた。


 ノアは、静かに首を横に振った。


「……わからない」


 …………。


 俺は、言葉を失った。


 エリオットが、消えた建物のあった場所へ歩いていった。


 そして、小さな魔法陣を展開した。


「……魔力の痕跡があります」


 彼は真剣な表情で続けた。


「これは、通常の消滅魔法ではありません。存在したという記録そのものが、消されようとしています」


 ……記録そのもの。


 俺は、少しだけ眉を寄せた。


 エリオットは続けた。


「ただし、完全には消えていません。周囲の空間に、かすかな残響が残っています」


 ……残響。


 俺は息を呑んだ。


「……じゃあ、戻せる可能性があるんですか?」


「……わかりません」


 エリオットは首を横に振った。


「ですが、少なくとも何も残っていないわけではありません」


 ……なるほど。


 俺は、ゆっくりと拳を握った。


 ……よし。


 ならば、諦めるのはまだ早い。


 俺は透を見た。


「……透」


「……何だ?」


「……急ごう」


 透は頷いた。


「……ああ」


 俺たちは、すぐに王立学院へ戻ることにした。


     ◇


 猫神祭まで、残り三日。


 俺たちは、旧貴賓館で最後の調整を進めていた。


 王宮の記録。


 神殿の古文書。


 魔導師団の解析結果。


 そして、名前のない町で確認した現象。


 それらを照合した結果、ようやく一つの仮説にたどり着いた。


「……つまり」


 俺は黒板を見つめた。


「五つの誓いを成立させるだけでは、まだ足りないんですね?」


 エリオットが頷いた。


「はい。五つの誓いは、世界に存在する人々を守るための仕組みです」


 ……なるほど。


「しかし、名前のない町の住人たちは、そもそも正式な存在として登録されていません」


 ……ああ。


 そうか。


 だから、誓いを交わすだけでは守れないのか。


 セシルが静かに続けた。


「古い記録には、誓いを結ぶ者が最後に己の名を差し出すと書かれています」


 ……ああ。


 それも、まだ解決していない問題だった。


 俺は眉を寄せた。


「……それって、どういう意味なんでしょう?」


 ユリウスが口を開いた。


「……ひとつ、考えられることがある」


 ……ん?


 俺は顔を上げた。


「……何ですか?」


 ユリウスは、机の上に置かれた書類を指さした。


「世界の仕組みが、人物の存在を名前や役割によって管理しているのなら、聖女が自分の名を差し出すという行為は、登録情報の変更を意味するのかもしれん」


 ……登録情報。


 俺は、少しだけ考えた。


 なるほど。


 聖女としての名前。


 リリア・ベルフォード。


 それを世界へ差し出す。


 ……つまり。


 聖女という役割から解放される代わりに、世界の仕組みを書き換える権限を得る?


「……そういうことですか?」


 俺が尋ねると、ユリウスは頷いた。


「その可能性はある」


 ……なるほど。


 俺は少しだけ考えた。


 しかし、エリオットが口を開いた。


「……ただし、危険があります」


 ……ん?


「……どんな?」


 エリオットは真剣な表情だった。


「仮に聖女という名前と役割を世界へ差し出した場合、リリア様自身の存在が不安定になる可能性があります」


 …………。


 俺は固まった。


 ……存在が不安定?


 それって。


 まさか。


「……俺が消えるってこと?」


 エリオットは、少しだけ言葉を選んだ。


「……可能性は否定できません」


 …………。


 長い沈黙が訪れた。


 俺は、ゆっくりと息を吐いた。


 ……おい。


 ちょっと待てよ。


 ノアを犠牲にする案は却下した。


 透が消えるのも嫌だ。


 名前のない町の人々を見捨てるつもりもない。


 ……なのに。


 今度は、俺が消えるかもしれない?


 ……何だよ。


 この世界。


 誰かが犠牲にならないと、成立しない仕組みなのか?


「……リリア」


 レオンハルトが、静かに口を開いた。


 俺は顔を上げた。


「……はい?」


 王子は、真剣な表情だった。


「君自身が消えるような方法を、僕は認めたくない」


 ……ああ。


 そうだよな。


 俺は小さく頷いた。


「……俺も、消えたくないです」


 正直に答えた。


 レオンハルトは、少しだけ安堵したようだった。


 俺は続けた。


「でも、ほかの人が消えるのも嫌なんです」


 …………。


 王子は黙って聞いていた。


「……だから」


 俺は、ゆっくりと拳を握った。


「誰も消さずに済む方法を探したい」


 レオンハルトは、静かに微笑んだ。


「……うん」


 そして、頷いた。


「僕も、そう思う」


 ……ああ。


 ありがたい。


 俺は小さく笑った。


 しかし。


 問題は、時間がないことだった。


 猫神祭まで、残り三日。


 その日、世界の運命は最終確定される。


 俺たちは、それまでに答えを見つけなければならない。


     ◇


 猫神祭、前夜。


 王都は、祭典の準備で賑わっていた。


 通りには色鮮やかな旗が飾られ、中央広場には大きな舞台が設置されている。


 露店の準備も進み、街のあちこちから猫の鳴き声が聞こえていた。


 ……平和だな。


 俺は旧貴賓館の窓から、その光景を眺めていた。


 明日、この世界の運命が決まる。


 しかし、王都の人々はそのことを知らない。


 みんな、普通に祭りを楽しみにしている。


 ……まあ、そうだよな。


 俺だって、こんな問題に巻き込まれなければ、普通に祭りを楽しんでいたと思う。


 屋台で飯を食べたり。


 猫を撫でたり。


 ……いや。


 また猫か。


 本当に、この世界は猫ばかりだな。


 俺が小さく笑っていると、背後から声がした。


「……リリア」


 レオンハルトだった。


 俺は振り返った。


「……殿下」


 王子は、穏やかに微笑んだ。


「少し、話せるかな?」


「……はい」


 俺は頷いた。


 レオンハルトは、窓際へ歩いてきた。


 そして、俺と並んで王都を見下ろした。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 やがて、王子が口を開いた。


「……明日だね」


「……はい」


 俺は頷いた。


「……いよいよです」


 レオンハルトは、静かに微笑んだ。


「君は、怖くないのかい?」


 ……怖い。


 俺は、少しだけ考えた。


 もちろん、怖い。


 世界の運命を変える。


 誰も消さずに済む方法を探す。


 そんなこと、本当にできるのかわからない。


 しかも、最悪の場合は俺自身が消える可能性もある。


 ……怖くないわけがない。


「……怖いですよ」


 俺は正直に答えた。


 レオンハルトがこちらを見た。


「……でも」


 俺は小さく笑った。


「何もしないほうが、もっと嫌なんです」


 王子は、静かに頷いた。


「……そうか」


 そして、少しだけ目を細めた。


「君らしいね」


 ……ああ。


 そうかもしれない。


 俺は、ゆっくりと息を吐いた。


 すると、レオンハルトが静かに口を開いた。


「……リリア」


「……はい?」


「一つだけ、約束してほしい」


 ……約束?


 俺は眉を寄せた。


「……何でしょう?」


 レオンハルトは、真剣な表情だった。


「明日、もし君自身が犠牲になるしかないと思ったとしても」


 ……おい。


 待てよ。


「……一人で決めないでほしい」


 …………。


 俺は、息を呑んだ。


 王子は続けた。


「僕たちにも相談してほしい。君が僕たちを信頼してくれているなら、最後まで一緒に考えたい」


 ……ああ。


 そうだよな。


 俺は、少しだけ目を伏せた。


 今まで俺は、自分一人で何とかしようとすることが多かった。


 前世でも、仕事を抱え込んでしまうことがあった。


 誰かに頼むより、自分でやったほうが早いと思っていた。


 しかし。


 この世界では、違う。


 五人の攻略対象たちがいる。


 透もいる。


 ノアもいる。


 そして、猫神ミャルティアまでいる。


 ……まあ、最後の一匹は少し頼りないけど。


 それでも。


 俺は、一人じゃない。


「……わかりました」


 俺は頷いた。


「約束します」


 レオンハルトは、安堵したように微笑んだ。


「……ありがとう」


 …………。


 俺は、少しだけ顔を逸らした。


 ……何だよ。


 そんな優しい顔するなよ。


 俺が男だって知ってるんだろ。


 ……いや。


 知ってるから、こうして話してくれてるんだよな。


 俺は小さく笑った。


「……殿下」


「何かな?」


「明日、全部終わったら」


 俺は、少しだけ言葉を選んだ。


「……また、飯でも食いに行きませんか?」


 レオンハルトが、少しだけ目を見開いた。


「……本当に?」


「はい」


 俺は頷いた。


「今度は、仕事の話も世界の運命の話もなしで」


 王子は、嬉しそうに微笑んだ。


「……うん。ぜひ」


 ……ああ。


 よかった。


 俺は小さく笑った。


 すると、目の前に青白い文字が浮かび上がった。


『特殊イベント発生』


『王子との未来の約束』


『レオンハルト好感度+10』


『主人公のときめき+10』


「…………」


 ……おい。


 またかよ。


 俺は画面を睨んだ。


 しかし、今回は少しだけ笑ってしまった。


 ……まあ、いいか。


 好感度が上がること自体は、もうそこまで気にしなくなっていた。


 それより。


 今の俺は、明日を無事に迎えたい。


 そして、明日が終わったあとも、普通に生きていたい。


 ……そうだ。


 俺は、ゆっくりと拳を握った。


 世界の運命だろうが、乙女ゲームのシナリオだろうが、知ったことか。


 俺は、俺の人生を選ぶ。


 そして、ほかの人たちにも自分の人生を選んでもらう。


 ……それだけだ。


     ◇


 猫神祭、当日。


 王都の中央広場には、大勢の人々が集まっていた。


 色鮮やかな旗。


 賑やかな音楽。


 露店から漂ってくる美味しそうな匂い。


 そして、広場の中央には巨大な猫の神像が設置されている。


 ……相変わらず、でかいな。


 俺は舞台の袖から、その光景を見渡していた。


 猫神祭。


 この世界で最も重要な祭典。


 そして、今日。


 世界の物語が最終確定される。


「……リリア」


 隣から声がした。


 透だった。


「……準備はいいか?」


「……ああ」


 俺は頷いた。


 透は、手元の書類を確認した。


「王宮側の準備は完了。騎士団の警備も問題なし。魔導師団の装置も設置済み。神殿の儀式も、予定通り進められる」


 ……よし。


 俺は小さく息を吐いた。


「……完璧だな」


 透が頷いた。


「……ああ」


 そして、少しだけ笑った。


「……あとは、世界のシステムが素直に言うことを聞いてくれればな」


 ……そこが一番の問題なんだけどな。


 俺は苦笑した。


 すると、舞台の向こうから声がした。


「……リリア」


 レオンハルトだった。


 王子は、正式な礼装を身にまとっている。


 その隣には、カイル、エリオット、セシル、ユリウスの四人が並んでいた。


 ……おお。


 すごい。


 攻略対象五人が、正式な衣装で揃っている。


 前世のゲーム会社だったら、間違いなく大型広告に使う光景だ。


 ……いや。


 今はそんなことを考えている場合じゃない。


「……皆さん」


 俺は五人へ向き直った。


「準備はいいですか?」


 レオンハルトが頷いた。


「もちろん」


 カイルが静かに答えた。


「いつでも」


 エリオットが微笑んだ。


「装置は正常に稼働しています」


 セシルが穏やかに頷いた。


「神殿の準備も整いました」


 ユリウスが腕を組んだ。


「必要な手続きは、すべて完了している」


 ……よし。


 俺は深呼吸した。


 そして、舞台の中央へ歩き出した。


     ◇


 中央広場に、鐘の音が響いた。


 ごおん。


 ごおん。


 重く、荘厳な音。


 人々の話し声が静まり、広場全体が祭壇へ注目する。


 俺は舞台の中央に立った。


 その後ろには、五人の攻略対象たちが並んでいる。


 ……うん。


 完全に、乙女ゲームのクライマックスだ。


 普通なら、ここで主人公が五人の中から一人を選ぶのだろう。


 そして、愛の誓いを交わす。


 ……だが。


 俺は、そんなつもりはない。


「……皆さん」


 俺は、ゆっくりと口を開いた。


 広場に集まった人々が、こちらを見ている。


「本日は、聖猫神ミャルティア様を讃える猫神祭へお集まりいただき、ありがとうございます」


 ……おお。


 ちゃんと挨拶できてるな。


 前世の広報部で、何度もイベントの司会原稿を書いた経験が役に立っている。


 ……まあ、今は自分で喋ってるんだけど。


「本日、私たちは古くから伝わる五つの誓いを、改めて皆様の前で確認したいと思います」


 俺は、五人へ視線を向けた。


 レオンハルトが、一歩前へ出た。


「王家は、この国に生きるすべての者を等しく認め、その権利を守ることを誓う」


 王子の声が、広場に響いた。


 続いて、カイルが前へ出た。


「騎士団は、弱き者の命を守り、理不尽な暴力から人々を守護することを誓う」


 次に、エリオットが口を開いた。


「魔導師団は、知られざる真実を記録し、失われようとする知識と存在の痕跡を守ることを誓う」


 セシルが静かに続けた。


「神殿は、すべての魂が自らの生き方を選ぶ自由を尊び、その尊厳を守ることを誓う」


 最後に、ユリウスが一歩前へ出た。


「公爵家および王都の運営機関は、人々が生きるための場所と資源を確保し、その生活を支えることを誓う」


 ……よし。


 五つの誓い。


 すべて、成立した。


 俺は小さく息を吐いた。


 すると、目の前に青白い文字が浮かび上がった。


『五つの誓いを確認しました』


『王権の誓い:成立』


『騎士の誓い:成立』


『賢者の誓い:成立』


『神官の誓い:成立』


『富と生活の誓い:成立』


 ……よし!


 俺は拳を握った。


 成功だ。


 少なくとも、ここまでは予定通りに進んでいる。


 しかし。


『最終判定を開始します』


 ……来た。


 俺は息を呑んだ。


『五つの誓いが成立しました』


『聖女リリア・ベルフォードの運命を確定します』


 ……ああ。


 いよいよだ。


 俺は、ゆっくりと目を閉じた。


 そして、心の中で呟いた。


 ……俺は、誰かに決められた人生を生きたくない。


 男の姿へ戻りたい。


 でも、リリアとして過ごした時間を否定したいわけじゃない。


 レオンハルトのことも、カイルのことも、エリオットのことも、セシルのことも、ユリウスのことも。


 そして、透やノアのことも。


 みんな、大切な存在だ。


 ……だから。


 誰も消さずに、未来へ進みたい。


 俺は、ゆっくりと目を開けた。


 すると、目の前に新しい文字が浮かび上がった。


『主人公の最終選択を確認します』


『選択可能な結末』


『第一王子レオンハルトとの恋愛ルート』


『騎士団長カイルとの恋愛ルート』


『宮廷魔導師エリオットとの恋愛ルート』


『大神官セシルとの恋愛ルート』


『公爵令息ユリウスとの恋愛ルート』


『ハーレムルート』


『ノーマルエンド』


 …………。


 俺は、画面を見つめた。


 ……なるほど。


 やっぱり。


 最初から用意された選択肢しかない。


 どれかを選べということか。


 しかし。


 俺は、もう知っている。


 この世界には、別の道がある。


 五つの誓いは、恋愛のためだけに存在しているわけではない。


 聖女は、誰かに愛されるためだけの存在ではない。


 そして。


 俺自身の人生は、俺が決める。


「……俺は」


 俺は、静かに口を開いた。


 周囲の人々には聞こえていない。


 俺の目の前にだけ、青白い文字が浮かんでいる。


 その画面へ向かって、はっきりと言った。


「……どれも選ばない」


 …………。


 文字が、一瞬だけ止まった。


『選択を確認できません』


『有効な結末を選択してください』


 ……おい。


 俺は眉を寄せた。


「……だから、どれも選ばないって言ってるんだよ」


『無効な選択です』


 ……無効?


 俺は、ゆっくりと拳を握った。


 ……そうか。


 それなら。


「《ハズレスキル》!」


 俺は、心の中で叫んだ。


『《ハズレスキル》発動』


『対象:主人公が既定の結末から一つを選ばなければならない運命』


『確定結果を変更します』


 青白い光が弾けた。


 そして、目の前に新しい文字が浮かび上がった。


『既定の結末を外しました』


『代替結果を検索しています』


 ……よし。


 俺は息を呑んだ。


 今度こそ。


 今度こそ、俺自身の人生を選んでやる。


『代替結果が見つかりません』


「…………」


 ……え?


 俺は固まった。


 ……代替結果がない?


『世界の物語に存在しない選択が実行されました』


『最終確定処理に不整合が発生しています』


『修正処理を開始します』


 ……おい。


 待てよ。


 また、それか。


 俺は眉を寄せた。


『主人公リリア・ベルフォードの役割を再判定します』


『聖女としての役割:不成立』


『恋愛ルートへの所属:不成立』


『ノーマルエンドへの所属:不成立』


『未登録存在との関係:成立』


 ……おい。


 ちょっと待て。


 嫌な予感がする。


『主人公の存在を維持するための条件が不足しています』


『修正対象として登録します』


「…………」


 ……は?


 俺は、言葉を失った。


 ……修正対象?


 それって。


 俺が消されるってこと?


 すると、さらに文字が続いた。


『五つの誓いを成立させた聖女は、己の名を世界へ差し出す必要があります』


『主人公の選択が既定の物語に存在しないため、存在情報を再構成します』


 ……おい。


 待て。


 待て待て待て。


 俺は、ゆっくりと息を吐いた。


 ……これ。


 まさか。


『リリア・ベルフォードの存在情報を消去します』


『処理開始まで:残り三分』


 …………。


 俺は、固まった。


 ……ふざけんな。


 何だよ。


 それ。


 俺が自分の人生を選ぼうとしたら、消すってことか?


 そんなの。


 そんなの、認められるわけがない。


「……ミャルティア!」


 俺は思わず叫んだ。


 舞台の端にいた白猫が、こちらを見た。


 猫神は、金色の瞳を細めた。


 そして、表情を変えた。


「……これは」


 ……おい。


 何だ、その反応。


「……何が起きてるんだよ!」


 俺が尋ねると、猫神は低い声で答えた。


「……お前が、物語の外側にある結末を選んだからだ」


 ……だから?


「その結果、世界が、お前自身を未登録の存在として扱い始めておる」


 …………。


 俺は、言葉を失った。


 ……待てよ。


 つまり。


 俺が自由になるためには。


 聖女という役割を捨てなければならない。


 しかし。


 役割を捨てれば、世界に存在できなくなる。


 ……何だよ。


 そんなの。


 最初から、自由なんてないじゃないか。


「……リリア!」


 背後から声がした。


 レオンハルトだった。


 王子が駆け寄ってくる。


 カイルも、エリオットも、セシルも、ユリウスも。


 全員が、俺の異変に気づいたらしい。


 ……そうか。


 身体が、少しずつ透け始めている。


 手の先が、淡い光になっていた。


 俺は、自分の手を見下ろした。


 ……ああ。


 本当に。


 消え始めてるんだな。


「……リリア!」


 レオンハルトが、俺の肩へ手を伸ばした。


 しかし、その手は、わずかにすり抜けた。


「……そんな」


 王子の表情が変わった。


 俺は、少しだけ笑った。


「……大丈夫です」


 ……いや。


 大丈夫じゃない。


 全然、大丈夫じゃない。


 でも。


 ここで慌てても、仕方ない。


 俺は、ゆっくりと息を吐いた。


 そして、五人を見渡した。


「……皆さん」


 声が、少しだけ震えた。


「……まだ、諦めないでください」


 レオンハルトが、真剣な表情で頷いた。


「……もちろんだよ」


 カイルが剣の柄へ手をかけた。


「必ず、あなたを守ります」


 エリオットが魔法陣を展開する。


「存在の消去を止める方法を探します!」


 セシルが祈りの言葉を唱え始めた。


「聖猫神ミャルティアよ、どうか、この魂をお守りください!」


 ユリウスが、すぐに周囲へ指示を出した。


「魔導師団の予備装置を起動しろ! 必要な人員をすべて集めろ!」


 ……ああ。


 すごいな。


 みんな、動いてくれている。


 俺のために。


 ……ありがたい。


 本当に。


 俺は、少しだけ目を閉じた。


 すると。


 突然、頭の中に声が響いた。


『……リリア』


 ……ん?


 俺は目を開けた。


 その声には、聞き覚えがあった。


 ノアだ。


『……ようやく、最後の選択が来たね』


 ……おい。


 何だよ。


 その言い方。


『君は、用意された結末を選ばなかった』


 ……ああ。


 そうだ。


『だから、世界は君を消そうとしている』


 ……知ってるよ。


 俺は、少しだけ眉を寄せた。


 しかし。


 ノアは続けた。


『……でも』


 ……ん?


『まだ、終わりじゃない』


 …………。


 俺は、息を呑んだ。


 ……何?


『君が本当に望んでいるのは、用意された結末を外すことじゃない』


 ……じゃあ、何だ?


 俺は、心の中で問いかけた。


 ノアの声が、静かに響いた。


『……自分で、新しい結末を選ぶことだろう?』


 …………。


 俺は、言葉を失った。


 ……新しい結末。


 そうだ。


 俺は、既定の結末を拒否した。


 しかし、その先の結末を、まだ示していなかった。


 ……そうか。


 ただ、外すだけじゃ駄目なんだ。


 自分が何を望むのか。


 どんな未来へ進みたいのか。


 それを、自分の意思で決めなければならない。


 ……でも。


 どうやって?


 俺は、ゆっくりと顔を上げた。


 その瞬間。


 目の前に、新しい文字が浮かび上がった。


『未登録シナリオからの提案』


『世界の最終確定処理を変更する方法が存在します』


『ただし、実行には新たな選択が必要です』


 ……新たな選択。


 俺は、息を呑んだ。


 そして、次の文字を見た。


『聖女リリア・ベルフォードの存在を維持する』


『または』


『未登録の人々と、名前のない町を世界へ正式に登録する』


 …………。


 俺は、固まった。


 ……おい。


 待てよ。


 まさか。


 これ。


 どちらかしか選べないってこと?


『二つの結果を同時に成立させることはできません』


『選択期限:残り二分』


 …………。


 俺は、ゆっくりと息を吐いた。


 ……何だよ。


 最後の最後まで。


 誰かを選んで、誰かを捨てろっていうのか。


 俺自身が生き残るか。


 それとも、名前のない町の人々を救うか。


 ……そんなの。


 選べるわけないだろ。


 俺は、震える手を握りしめた。


 すると、レオンハルトが俺の前へ膝をついた。


「……リリア」


 王子は、真剣な表情だった。


「……一人で決めないで」


 …………。


 俺は、息を呑んだ。


 ……ああ。


 そうだった。


 昨日、約束したんだ。


 一人で決めない。


 最後まで、みんなで考える。


 ……そうだ。


 俺は、ゆっくりと顔を上げた。


 そして、五人を見渡した。


「……皆さん」


 声が、少しだけ震えた。


「……最後に、一つだけお願いがあります」


 レオンハルトが頷いた。


「何でも言って」


 俺は、深呼吸した。


 そして、はっきりと言った。


「……俺が、誰かを犠牲にする選択をしそうになったら」


 五人が、こちらを見ている。


「……絶対に、止めてください」


 長い沈黙。


 そして、レオンハルトが静かに頷いた。


「……約束する」


 カイルも頷いた。


「必ず」


 エリオットが真剣な表情で答えた。


「別の方法を探します」


 セシルが穏やかに微笑んだ。


「あなた自身の命も、大切にしてください」


 ユリウスが腕を組んだ。


「当然だ。犠牲を前提にした計画など、最初から認めん」


 …………。


 俺は、少しだけ笑った。


 ……ああ。


 よかった。


 俺は、一人じゃない。


 それなら。


 まだ、やれる。


 俺は、目の前の画面を睨みつけた。


 そして、静かに呟いた。


「……上等だ」


 ……世界のシナリオ管理機構。


 お前が何を考えているのか知らない。


 誰が作った仕組みなのかも、まだわからない。


 でも。


 俺は、もう決めた。


 誰かが決めた結末に、従うつもりはない。


 恋愛だって。


 仕事だって。


 生き方だって。


 俺自身が選ぶ。


 そして。


 ほかの人たちにも、同じ自由を認めたい。


「……透!」


 俺は叫んだ。


 舞台の袖にいた透が、こちらを見た。


「……何だ!?」


「……例の企画書!」


 透が目を見開いた。


「……ああ!」


 彼は、すぐに書類を取り出した。


 俺たちが作った、世界救済計画。


 その最後のページ。


 そこには、まだ完成していない一文があった。


『最終選択において、既定の結果以外の選択肢が存在しない場合……』


 ……そうだ。


 俺たちは、まだ最後の答えを書いていない。


 俺は、ゆっくりと息を吸い込んだ。


 そして、透へ向かって叫んだ。


「……最後のページを開け!」


 透が頷いた。


 そして、書類を開いた。


 その瞬間。


 舞台の上に、青白い光が広がった。


『未登録シナリオが反応しています』


『新しい選択肢の生成を開始します』


 …………。


 俺は、息を呑んだ。


 ……来た。


 今度こそ。


 俺たちが、世界の結末を書き換える番だ。


 しかし。


 目の前には、まだ最後の問題が残っていた。


『新しい選択肢を成立させるには、物語の管理権限が必要です』


『管理権限の所在を確認しています』


『該当者:聖猫神ミャルティア』


 …………。


 俺は、ゆっくりと猫神を見た。


 白猫は、巨大な神像の上に座っていた。


 金色の瞳が、俺を見つめている。


 そして、静かに口を開いた。


「……なるほど」


 ……おい。


 その反応。


 何だよ。


 猫神は、ゆっくりと尻尾を振った。


「……ようやく、最後の仕事が来たようだな」


 …………。


 俺は、息を呑んだ。


 ……最後の仕事?


 猫神は、金色の瞳を細めた。


 そして、静かに告げた。


「世界の結末を変えるには、我自身が一つの選択をしなければならぬ」


 ……おい。


 待てよ。


 それって。


 まさか。


「……ミャルティア」


「なんだ?」


「……お前、何をするつもりだ?」


 猫神は、少しだけ微笑んだ。


 そして、ゆっくりと答えた。


「……神が、世界の運命を決める権利を手放すのだ」


 …………。


 俺は、言葉を失った。


 その瞬間。


 世界中に、巨大な鐘の音が響き渡った。


 ごおん。


 ごおん。


 ごおん。


 そして、目の前に最後の文字が浮かび上がった。


『最終選択を開始します』


『世界の管理権限を放棄する場合』


『聖猫神ミャルティアの存在情報が変化する可能性があります』


『実行確認まで:残り一分』


 …………。


 俺は、ゆっくりと息を吐いた。


 ……おい。


 ちょっと待て。


 今度は。


 猫神が消えるかもしれないってこと?


 俺は、天を仰いだ。


 そして、心の底から叫んだ。


「だからああああ! 誰かを犠牲にする選択肢しかねえのかよおおおお!」


 その声が、猫神祭の中央広場に響き渡った。


 人々が驚いた顔でこちらを見る。


 五人の攻略対象たちが、一斉に動き始めた。


 透が、慌てて企画書をめくっている。


 ノアの声が、頭の中に響く。


 そして、ミャルティアは巨大な神像の上で、静かに笑っていた。


 ……まったく。


 本当に。


 俺は、普通に暮らしたいだけなんだぞ。


 恋愛も、仕事も、異世界転生も。


 全部、自分の意思で選びたいだけなんだ。


 それなのに。


 最後の最後で、世界の管理権限まで押しつけられるって。


 ……何なんだよ。


 この人生!


 しかし。


 俺は、もう逃げない。


 今度こそ。


 自分の手で、答えを出してやる。


 誰かを犠牲にする結末なんて、認めない。


 ……そうだ。


 俺が求めていたのは。


 誰かを選ぶことじゃない。


 誰かを捨てることでもない。


 誰もが、自分で選べる世界だ。


 俺は、震える手を握りしめた。


 そして、ゆっくりと顔を上げた。


「……よし」


 小さく呟いた。


 ……最終話。


 俺の異世界生活に、ついに決着をつけてやる。


 ただし。


 神様。


 ひとつだけ言わせてくれ。


 ……最後くらい、定時で帰らせてくれよ。

次回・最終第10話「俺、乙女ゲームのヒロインを卒業することになったんだが?」


猫神祭の最終儀式で、世界のシナリオ管理機構が提示したのは、誰かを犠牲にしなければ成立しない結末だった。


聖女リリア・ベルフォード、名前のない町の住人たち、ノア、佐伯透。そして、創造神ミャルティアまでもが消滅の危機に直面する。


最後に残された時間は、わずか一分。


しかし、俺たちにはまだ、ひとつだけ試していない方法があった。


五つの誓いの本当の意味。


《ハズレスキル》という名前に隠されていた力。


そして、物語の登場人物自身が結末を選ぶということ。


世界の運命を改稿する最後の仕事が始まる。


さらに、すべてが終わったあと、レオンハルトとの関係にも答えを出すことになる。


男の姿へ戻りたい俺と、男の俺にも恋をした王子様。


果たして二人は、どんな未来を選ぶのか。


そして俺は、ようやく平穏な異世界生活を手に入れられるのだろうか。

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