最終話 俺、乙女ゲームのヒロインを卒業することになったんだが?
異世界に転生して、何日目だっただろう。
正直に言うと、もう数えるのをやめていた。
だって、そうだろう。
普通の異世界転生なら、最初の数日は世界の仕組みを覚えたり、冒険者ギルドに登録したり、便利なチート能力を試したりするものだ。
ところが俺の場合、転生した初日から五人のイケメンに囲まれ、恋愛イベントを回避しようとするたびに好感度が上がり、気づけば王国の五部門統括マネージャーになっていた。
しかも、前世の俺と同じ姿をした男まで生まれてしまった。
ここまででも十分におかしい。
だが、現在の状況はさらにおかしかった。
『最終選択を開始します』
『世界の管理権限を放棄する場合、聖猫神ミャルティアの存在情報が変化する可能性があります』
『実行確認まで:残り五十九秒』
俺は王都の中央広場に設けられた祭壇の前で、その文字を睨みつけていた。
周囲には猫神祭へ集まった大勢の人々がいる。
第一王子レオンハルト。
騎士団長カイル。
宮廷魔導師エリオット。
大神官セシル。
公爵令息ユリウス。
そして、前世の俺と同じ姿をした佐伯透。
五人の攻略対象と、もう一人の俺。
さらには、巨大な猫の神像の上に、この世界の創造神まで座っている。
……すごい顔ぶれだな。
前世の俺が企画した宣伝イベントでも、ここまで豪華な出演者は揃わなかった。
ただし、今回は宣伝イベントではない。
世界の運命を決める最終儀式である。
そして、その世界は今、俺たちへ最後の選択を迫っていた。
俺が消えるか。
名前のない町の住人たちが消えるか。
あるいは、世界の管理権限を手放したミャルティアが消えるか。
……ふざけんな。
どの選択肢も、まともじゃない。
俺は拳を握りしめた。
「……ミャルティア!」
巨大な神像の上で、白猫が顔を上げた。
「なんだ?」
「お前、世界の管理権限を手放すつもりなんだよな?」
「うむ」
「それで、お前自身が消えるかもしれないんだよな?」
「その可能性はある」
猫神は、あっさりと答えた。
……おい。
何でそんなに落ち着いてるんだよ。
自分が消えるかもしれないんだぞ。
「……なら、駄目だ」
俺ははっきりと言った。
「その案も却下」
猫神が目を丸くした。
「……何?」
「俺が消えるのも駄目。透が消えるのも駄目。ノアも、町の人たちも駄目。そして、お前も駄目だ」
俺は、神像の上の白猫を指さした。
「誰か一人を犠牲にして解決する方法なんて、最初から採用しない!」
ミャルティアは、しばらく黙っていた。
そして、困ったように尻尾を揺らした。
「……しかし、ほかに方法がなければどうする?」
「探すんだよ!」
「残り一分もないぞ?」
「だったら、一分で考える!」
俺が叫ぶと、隣から声がした。
「……おい、リリア」
透だった。
「……何だ?」
「一分で企画を立てるって、無茶じゃないか?」
「知ってる!」
「しかも、世界の仕組みを変えるんだぞ?」
「それも知ってる!」
透は、少しだけ考えた。
そして、真顔で答えた。
「……じゃあ、企画書の最終ページを使うしかないな」
「……ああ」
俺は頷いた。
その書類は、俺たちが作成した『世界救済計画』だった。
王宮、騎士団、魔導師団、神殿、公爵家。
五つの組織の担当範囲を整理し、誰も消さずに世界の最終確定を迎えるための対応計画である。
しかし、最後の一ページだけは空白だった。
世界の仕組みが提示する選択肢に、どう対抗するか。
その答えだけが、まだ見つかっていなかったのだ。
……でも。
今なら、少しだけわかる。
俺は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……そもそも、おかしいんだよ」
透が顔を上げた。
「……何が?」
「世界の仕組みが、最初から二択しか用意してないことだ」
俺は目の前の画面を睨んだ。
『リリア・ベルフォードの存在を維持する』
『または』
『未登録の人々を世界へ正式に登録する』
……二択。
どちらかしか選べない。
そう言われている。
だが、本当にそうなのか?
俺は、ふと前世の仕事を思い出した。
企画書。
契約書。
業務改善。
関係部署との調整。
俺は何度も、上司から無理な条件を提示された。
予算は増やせない。
人員も増やせない。
でも、作業は全部終わらせろ。
そんな条件を出されたこともある。
そして、そういうときに一番重要なのは、何だったか。
……そうだ。
最初に提示された条件が、本当に絶対なのかを確認することだ。
「……なあ、ミャルティア」
「なんだ?」
「お前が手放そうとしているのは、世界を管理する権限なんだよな?」
「うむ」
「じゃあ、世界を創造した神様としての存在そのものを捨てる必要はあるのか?」
猫神は、一瞬だけ動きを止めた。
「……む?」
俺は続けた。
「世界の管理権限を放棄することと、お前自身が消えることは、別の話じゃないのか?」
ミャルティアは黙った。
俺は、さらに言葉を重ねた。
「それとも、この世界では、神様って管理者の仕事を辞めたら存在できなくなる仕組みなのか?」
猫神が、ゆっくりと目を細めた。
「……なるほど」
……おい。
その反応。
何か思いついたのか?
「……確かに、我自身が世界を管理する必要はない」
ミャルティアが静かに答えた。
「しかし、管理権限は世界の仕組みと深く結びついておる。単純に切り離せば、我自身の存在にも影響するであろう」
……なるほど。
つまり、権限を手放したいが、切り離す方法が危険なのか。
だったら。
「……放棄しなくてもいいんじゃないか?」
俺は言った。
猫神が首を傾げた。
「……何?」
「管理権限を全部捨てるんじゃなくて、分ければいいんだよ」
…………。
沈黙が訪れた。
俺は五人の攻略対象へ視線を向けた。
「……皆さん!」
五人が顔を上げる。
「さっき、五つの誓いを交わしましたよね!」
レオンハルトが頷いた。
「もちろんだよ」
「王家は、すべての人々を等しく認める」
「うん」
「騎士団は、命を守る」
「その通りです」
カイルが答えた。
「魔導師団は、真実を記録する」
「ええ」
エリオットが頷いた。
「神殿は、魂の自由を尊ぶ」
「はい」
セシルが静かに答えた。
「公爵家は、人々が生きる場所を支える」
「当然だ」
ユリウスが答えた。
……よし。
俺は深呼吸した。
「だったら、その誓いを世界の仕組みに組み込めばいい!」
エリオットが目を見開いた。
「……なるほど!」
彼は急いで研究用の水晶板を取り出した。
「世界の管理機構に、五つの誓いを補助的な判断基準として登録するわけですね!」
「そうです!」
俺は頷いた。
「神様が一人で決めるんじゃなくて、実際にこの世界で生きている人たちが、自分たちの未来を守る仕組みにするんです!」
レオンハルトが、少しだけ目を細めた。
「……それは、僕たちに世界を管理する力を与えるということかな?」
「いいえ」
俺は首を横に振った。
「誰かが勝手に他人の人生を決められるようにするつもりはありません」
王子が、静かにこちらを見た。
「五つの誓いは、誰かを支配するためじゃなくて、人々の自由を守るための約束ですよね?」
レオンハルトが頷いた。
「……そうだね」
「だから、世界の管理者を五人に増やすんじゃないんです」
俺は、はっきりと言った。
「誰かの存在を消すような判断を、一人の都合でできないようにするんです!」
その瞬間。
エリオットが声を上げた。
「……できます!」
俺は振り返った。
「……本当ですか!?」
「理論上は!」
「その言い方、今はやめてください!」
思わず突っ込んでしまった。
しかし、エリオットは真剣だった。
「現在の世界管理機構には、存在情報を登録する仕組みがあります。そして、五つの誓いはその登録を支える古い規則として残っています」
彼は水晶板を指さした。
「五つの誓いを結び直すことで、未登録の存在を一時的に保護する仕組みを作れるかもしれません!」
……一時的に保護。
俺は息を呑んだ。
「……つまり?」
「最終確定の時点で、すべての存在を強制的に分類する必要がなくなるということです」
……それだ!
俺は拳を握った。
「未登録だから消すんじゃなくて、本人の意思を確認するまで保留にする!」
エリオットが頷いた。
「はい!」
「そして、本人が望むなら、正式な登録を進める!」
「その通りです!」
……よし。
俺は透を見た。
「透! 企画書!」
「わかってる!」
透が書類を開く。
俺は、最後のページへ視線を落とした。
そして、そこに一文を書き加えた。
『すべての存在は、本人の意思が確認されるまで、暫定的に保護されるものとする』
……これだ。
俺が望んでいたのは、こういう仕組みだったんだ。
誰かの都合で存在を消される世界じゃない。
物語に登場するかどうかで、人間の価値が決まる世界でもない。
……誰だって、生きていていい。
それだけの話じゃないか。
『残り三十二秒』
……おい。
時間がない!
「……ミャルティア!」
俺は叫んだ。
「この規則を、世界へ登録できるか!?」
猫神は、金色の瞳を細めた。
そして、静かに答えた。
「……可能だ」
……よし!
俺は拳を握った。
「ただし」
……ん?
「新しい規則を登録するには、誰がその変更を申し出たのかを明らかにする必要がある」
……誰が?
俺は少しだけ考えた。
その瞬間、セシルが口を開いた。
「……リリア様」
「……はい?」
「古い記録の意味が、ようやくわかりました」
……古い記録?
俺は息を呑んだ。
セシルは静かに続けた。
「『誓いを結ぶ者は、最後に己の名を差し出す』」
……ああ。
それだ。
俺自身が消えるかもしれないと考えていた、一節。
セシルは、真剣な表情で続けた。
「これは、自分の存在を犠牲にするという意味ではありません」
…………。
俺は、目を見開いた。
「……では?」
「誓いを結ぶ者は、自分の名前をもって、その約束に責任を負うという意味です」
……責任。
俺は、小さく呟いた。
「……なるほど」
そういうことか。
己の名を差し出す。
つまり、自分の名前で署名すること。
誰かに決められた役割を演じるだけではなく、自分自身の意思で責任を引き受けること。
……ああ。
これまで、俺が仕事で何度もやってきたことじゃないか。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
「……だったら、簡単だ」
透がこちらを見る。
「……おい」
「……何だ?」
「……署名するつもりか?」
「ああ」
俺は頷いた。
そして、透へ向かって小さく笑った。
「今度こそ、自分の名前でな」
……そうだ。
俺は、もう迷わない。
俺は前世では佐伯透だった。
だが、今は別の佐伯透が、この世界で生きている。
あいつには、あいつの人生がある。
そして、俺にも俺の人生がある。
……だったら。
今の俺が選ぶ名前は、一つしかない。
俺は、書類の最後へペンを走らせた。
『申請者:リリア・ベルフォード』
……よし。
俺は顔を上げた。
「……俺は、リリア・ベルフォードだ!」
その声が、中央広場に響いた。
俺は続けた。
「聖女として選ばれたからじゃない!」
人々が、こちらを見ている。
「ゲームの主人公だからでもない!」
俺は、はっきりと言った。
「俺自身が、この名前で生きると決めたんだ!」
…………。
その瞬間。
世界の時間が、一瞬だけ止まった。
そして。
『新規申請を確認しました』
『申請者:リリア・ベルフォード』
『本人の意思による署名を確認』
『五つの誓いとの整合性を確認しています』
……よし。
俺は息を呑んだ。
頼む。
今度こそ。
『五つの誓い:有効』
『新規規則:暫定保護制度』
『世界管理機構への登録を開始します』
……来た!
俺は拳を握った。
すると、ミャルティアが巨大な神像の上で立ち上がった。
「……よかろう」
白猫の身体が、眩しい光に包まれる。
そして、王都全体に声が響いた。
『我は聖猫神ミャルティア』
その声は、普段のふざけた猫神とはまるで違っていた。
『この世界を創りし者にして、人々の営みを見守る者なり』
広場の人々が、一斉に神像を見上げた。
『これより、世界の管理権限を改める』
……おお。
すごい。
ちゃんと神様らしい。
『我は世界の創造神として存在し続ける』
……うん。
そうだ。
『されど、そこに生きる者たちの運命を、一方的に定める権限を手放そう』
…………。
俺は、息を呑んだ。
……そうか。
権限を手放す。
しかし、それは神様自身が消えるという意味ではない。
ただ、世界に生きる人々の人生を、勝手に決めることをやめるだけだ。
ミャルティアは、さらに続けた。
『この世界に生きる者は、皆、自らの生き方を選ぶ権利を持つ』
『物語に名が記されていようと、いまいと』
『いかなる役割を与えられていようと』
『その存在を、本人の意思なく消してはならぬ』
……ああ。
俺は、小さく笑った。
それだ。
俺が望んでいたのは。
そういう世界だ。
その瞬間。
目の前に、青白い文字が浮かび上がった。
『世界管理規則の改訂を確認しました』
『最終確定処理を中断します』
『存在消去処理:停止』
『暫定保護対象の再判定を開始します』
…………。
俺は、息を呑んだ。
……止まった?
本当に?
『リリア・ベルフォード:保護対象』
『佐伯透:保護対象』
『ノア:保護対象』
『名前のない町:保護対象』
…………。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
……やった。
本当に、やったんだ。
俺は、自分の手を見下ろした。
さっきまで透けていた指先が、元に戻っている。
光が消え、ちゃんとした肌の色が戻っていた。
……生きてる。
俺は、ここにいる。
そして。
ほかの人たちも。
「……リリア!」
レオンハルトが駆け寄ってきた。
王子は、俺の前で足を止めた。
そして、恐る恐る手を伸ばした。
その手が、俺の肩へ触れる。
今度は、すり抜けなかった。
「……よかった」
王子が、小さく呟いた。
その声は、少しだけ震えていた。
「……本当に、よかった」
…………。
俺は、言葉を失った。
……ああ。
何だよ。
そんな顔するなよ。
俺まで、泣きそうになるじゃないか。
「……ありがとうございます」
俺は、小さく笑った。
レオンハルトは、静かに微笑んだ。
そして、そっと手を離した。
……うん。
よかった。
俺は、まだここにいる。
この世界で、これからも生きていける。
……そう思った、その瞬間だった。
『新規規則の登録を完了しました』
『ただし、未登録存在の正式な定着には、追加の手続きが必要です』
「…………」
……おい。
待て。
また手続き?
世界の運命を変えた直後に?
『暫定保護対象の登録情報を更新してください』
『必要項目:氏名、本人の意思、生活基盤、存在証明』
「…………」
俺は、ゆっくりと天を仰いだ。
そして。
「結局、最後は書類仕事なのかよおおおお!」
俺の絶叫が、猫神祭の中央広場に響き渡った。
巨大な神像の上では、白猫が楽しそうに笑っていた。
「にゃはははは! 見事ではないか!」
「お前、ちょっとは手伝えよ!」
「もちろんだ!」
「本当か!?」
「まずは我の食事を用意せよ!」
「仕事しろおおおお!」
こうして。
世界は救われた。
ただし。
俺の仕事は、まだ終わらなかった。
◇
猫神祭から、三日が過ぎた。
王都は、いつもの賑わいを取り戻していた。
祭典で発生した不思議な現象について、人々の間ではさまざまな噂が広まっていた。
聖猫神が姿を現した。
聖女が世界を救った。
五人の英雄が古い誓いを結び直した。
そして、王都の猫たちが一斉に鳴いた。
……まあ、最後のは事実なんだけど。
俺は旧貴賓館の執務室で、書類の束を眺めていた。
「……多いな」
隣から声がした。
透だった。
「……多いね」
俺は頷いた。
机の上には、名前のない町から提出された登録申請書が積まれていた。
氏名。
居住地。
希望する生活。
本人の意思確認。
そして、これからどこで暮らしたいか。
……うん。
完全に行政手続きだ。
世界を救ったあとに待っていたのが、住民登録だったとは。
誰が予想しただろう。
「……なあ、透」
「何だ?」
「俺たち、世界を救ったんだよな?」
「……たぶんな」
「……なのに、何でこんなに仕事してるんだろう」
透は、しばらく考えた。
そして、真顔で答えた。
「……世界を救うって、そういうことなんじゃね?」
…………。
俺は、少しだけ考えた。
……ああ。
そうかもしれない。
誰かの命を救う。
誰かが安心して暮らせる場所を作る。
そのためには、派手な奇跡だけでは足りない。
住む場所が必要だ。
仕事が必要だ。
食べ物が必要だ。
そして、自分がここにいていいと認められることが必要なのだろう。
……そう考えると。
書類仕事も、悪くないのかもしれない。
「……よし」
俺は小さく笑った。
「もう少し頑張るか」
「……だな」
透が頷いた。
そして、二人で再び書類の確認を始めた。
すると、扉がノックされた。
「……リリア様」
セシルだった。
「……どうぞ」
大神官が入ってきた。
その隣には、一人の青年が立っている。
黒に近い灰色の髪。
金色の瞳。
落ち着いた雰囲気の青年。
……ノア。
「……久しぶり」
俺が声をかけると、ノアは小さく笑った。
「……久しぶりだね」
……いや。
実際には、数日ぶりなんだけど。
何だか、随分長い時間が経ったような気がする。
「……どうした?」
俺が尋ねると、ノアは少しだけ困ったように笑った。
「……実は、相談があって」
……相談?
俺は身構えた。
……おい。
待てよ。
今度は何だ?
また世界の運命がどうとか言い出すんじゃないだろうな。
ノアは、ゆっくりと口を開いた。
「……僕も、この世界で正式に暮らすことになったんだ」
……え?
俺は目を見開いた。
「……本当に?」
「うん」
ノアは頷いた。
「名前のない町の住人たちも、少しずつ正式な登録を進めている」
……おお。
よかった。
本当に。
「……それで?」
俺が尋ねると、ノアは少しだけ笑った。
「……僕、仕事を探してるんだ」
…………。
俺は固まった。
……仕事?
ノアが?
この世界の隠し攻略対象が?
「……え?」
俺は思わず聞き返した。
「……仕事?」
「うん」
ノアは頷いた。
「今までは、名前のない町を守ることが僕の役割だった。でも、もうその必要はなくなったからね」
……ああ。
そうか。
確かに。
ノアは、物語から外れた存在として、名前のない町を守っていた。
しかし、今はその町も正式に保護されている。
世界の管理規則も変わった。
だから、ノアはもう、以前の役割に縛られる必要がない。
……つまり。
こいつも、自分の人生を選べるようになったんだ。
「……いいじゃないか」
俺は小さく笑った。
「どんな仕事がしたいんだ?」
ノアは、少しだけ考えた。
そして、静かに答えた。
「……人に、新しい道を示す仕事かな」
…………。
俺は、少しだけ眉を寄せた。
……何だろう。
妙に抽象的だな。
すると、透が口を開いた。
「……じゃあ、相談員とか向いてるんじゃない?」
……お。
俺は顔を上げた。
透は続けた。
「仕事を探してる人の相談に乗ったり、住む場所を探してる人を支援したり」
……なるほど。
確かに。
ノアは、人に選択肢を示すために存在していた。
その力を、今度は普通の仕事として活かせるかもしれない。
「……いいな、それ」
俺は頷いた。
ノアは、少しだけ目を見開いた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……そうだね」
何だか、嬉しそうだった。
「……じゃあ、それを目指してみようかな」
……ああ。
よかった。
俺は小さく笑った。
すると、目の前に青白い文字が浮かび上がった。
『ノアの登録情報を更新しました』
『旧役割:未登録の第六攻略対象』
『新役割:王都生活支援相談員候補』
『恋愛イベント:未設定』
…………。
……おお。
すごい。
ちゃんと、恋愛イベントが未設定になってる。
俺は思わず感動した。
……そうだよ。
これでいいんだよ。
男が登場したからって、必ず恋愛対象になる必要はない。
友達でもいい。
仕事仲間でもいい。
ただの知り合いでもいい。
……それが、普通の人間関係だろ。
俺は小さく笑った。
「……よろしくな、ノア」
ノアも頷いた。
「こちらこそ」
そして、静かに続けた。
「……ありがとう、リリア」
……ああ。
その言葉だけで、十分だった。
◇
それから一週間後。
俺は王立学院の中庭で、久しぶりに何の予定もない昼休みを過ごしていた。
……ああ。
平和だ。
風が気持ちいい。
空は青い。
庭園には猫がいる。
しかも、仕事の通知が来ない。
何という幸せだろう。
世界を救ったあと、王宮では正式な制度改正が進められていた。
レオンハルトは、身元や出自によって人々の権利が制限されないよう、王国の法制度を見直し始めた。
カイルは、名前のない町の住人たちが安全に移動できるよう、騎士団による保護体制を整えた。
エリオットは、消されかけた存在の痕跡を調査し、失われた建物や人々の記録を復元する研究を続けていた。
セシルは、転生者や特殊な魂を持つ人々に対する神殿の対応を見直している。
そしてユリウスは、名前のない町の住人たちが生活できるよう、住宅や仕事の支援制度を整備していた。
その結果。
名前のない町は、正式に王国の保護を受けることになった。
住人たちは、希望すれば王都へ移住することもできるし、今まで通り町で暮らすこともできる。
登録を希望しない人も、消されたり追放されたりはしない。
さらに、消えかけていた雑貨屋の建物と店主も、エリオットたちが保存していた存在の痕跡を手がかりに戻ってきた。
その店主から礼状が届いたときには、さすがに俺も少し泣きそうになった。
……よかった。
本当に、よかった。
ちなみに、名前のない町には新しい地名をつけようという話も出ているらしい。
現在、住人たちによる投票が進められている。
候補の一つは、『余白の町』。
ノアが提案した名前だそうだ。
……悪くないな。
俺は、結構好きだ。
「……リリア」
隣から声がした。
俺は振り返った。
透だった。
今日は仕事の合間らしく、書類の入った鞄を抱えている。
「……おう」
俺は軽く手を上げた。
透も頷き、隣のベンチへ腰を下ろした。
「……仕事は?」
「昼休み」
「……そうか」
「お前こそ?」
「同じく」
……なるほど。
俺たちは、しばらく黙って庭園を眺めていた。
すると、透が口を開いた。
「……なあ」
「何だ?」
「……お前、もう男の姿には戻らないのか?」
…………。
俺は、少しだけ動きを止めた。
……男の姿。
俺が、ずっと望んできたものだ。
前世の身体。
二十九歳の男。
何でもない、普通の会社員だった自分。
以前の俺なら、迷わず戻りたいと答えていたと思う。
だが、今は少しだけ違う。
「……戻ろうと思えば、戻れるらしいんだよな」
俺はゆっくりと口を開いた。
「エリオット様とセシル様の研究が進んで、肉体の変化をもっと長く維持できるようになったんだってさ」
透が頷いた。
「……ああ。聞いてる」
「しかも、将来的には恒久的な変更もできるかもしれないらしい」
……そう。
俺には、選択肢がある。
男の身体で生きる道。
リリアの身体で生きる道。
そして、必要に応じて姿を変える道。
以前の俺は、ただ元に戻りたいと願っていた。
しかし、今は違う。
どの姿で生きるかを、自分で決められるようになったのだ。
「……それで?」
透が尋ねた。
「……どうするんだ?」
俺は、少しだけ考えた。
そして、静かに笑った。
「……このままでいいかな」
透が目を見開いた。
「……リリアの姿で?」
「ああ」
俺は頷いた。
「……少なくとも、今はな」
透は、しばらく黙っていた。
そして、少しだけ首を傾げた。
「……男に戻りたかったんじゃなかったのか?」
「……そうなんだけどさ」
俺は、自分の手を見下ろした。
細い指。
白い肌。
前世とは違う身体。
金色の長い髪が、肩から胸元へ流れている。
……ああ。
最初は、本当に違和感があった。
鏡を見るたびに、自分じゃない誰かが映っているような気がした。
だから、早く元の姿へ戻りたいと思っていた。
でも。
今は、この姿にも思い出がある。
猫を助けた。
騎士団と仕事をした。
魔導師と研究した。
神殿で魂の秘密を知った。
公爵令息と契約書を交わした。
そして。
王子様と、男の姿でデートまでした。
……いや。
最後のやつは、本当に予想外だったけどな。
「……透」
俺は静かに言った。
「お前を見てて、思ったんだよ」
透が顔を上げた。
「……何を?」
「……前世の俺は、もうここにいるんだなって」
透は、少しだけ驚いた顔をした。
俺は続けた。
「もちろん、お前は俺自身じゃない。同じ記憶を持ってるけど、別の人間だ」
透は静かに頷いた。
「……ああ」
「でも、お前が普通に暮らしてるのを見てると、前世の俺がこの世界でも生きてるような気分になるんだよ」
俺は小さく笑った。
「……まあ、それは俺の勝手な感覚なんだけど」
透は、しばらく黙っていた。
そして、静かに微笑んだ。
「……悪くないと思うけどな」
「……そうか?」
「ああ」
透は頷いた。
「ただし、俺はお前の代わりに生きてるわけじゃないぞ」
「……わかってる」
俺は笑った。
「お前には、お前の人生がある」
「……そうだな」
「だから、俺も俺の人生を生きる」
…………。
透は、静かに俺を見つめた。
俺は続けた。
「リリアとして生きてきた時間も、今では俺の人生の一部なんだ」
……そうだ。
俺は、確かに男として生きてきた。
その記憶も、考え方も、失ったわけじゃない。
今でも、自分のことを俺と呼ぶ。
男だった頃の感覚も、ちゃんと残っている。
でも、それだけが俺の全部ではない。
リリアとして過ごした時間も。
この世界で出会った人々も。
今の身体で感じたことも。
全部、俺自身のものだ。
「……だからさ」
俺は、小さく笑った。
「今は、リリア・ベルフォードとして生きてみようと思う」
透が、ゆっくりと頷いた。
「……そうか」
「ああ」
「……いいんじゃないか?」
……お。
俺は顔を上げた。
透は、少しだけ笑った。
「お前が自分で決めたんだろ?」
「……まあな」
「だったら、それでいいじゃん」
…………。
俺は、少しだけ目を細めた。
……ああ。
そうだよな。
俺は、自分で決めたんだ。
誰かに命令されたわけじゃない。
世界のシナリオに従ったわけでもない。
攻略対象の誰かに選ばれたからでもない。
俺自身が、そうしたいと思った。
……それで十分だ。
「……ありがとうな、透」
俺は静かに言った。
透は、少しだけ笑った。
「……気にするなよ」
そして、腕時計を見た。
「……あ、やべ」
「……ん?」
「そろそろ昼休み終わる」
…………。
俺も時計を見た。
午後零時五十五分。
……おい。
あと五分じゃないか。
「……透!」
「何だ!?」
「午後の会議、資料できてる!?」
「お前が最終確認する分は、机の上に置いてある!」
「……マジか!」
俺は慌てて立ち上がった。
透も、鞄を抱えて走り出した。
そして、二人揃って叫んだ。
「……仕事に戻るぞ!」
……何だよ。
結局、異世界でも俺たちはサラリーマンなのかよ。
俺は苦笑しながら、旧貴賓館へ向かって走った。
◇
その日の午後五時。
俺は、仕事を終えて旧貴賓館の玄関へ向かっていた。
……よし。
定時退勤。
今日も、ちゃんと終わった。
世界を救ってから、俺たちの仕事は少しずつ落ち着いてきていた。
最初は山のようにあった書類も、各担当者へ適切に分担できるようになった。
透が広報業務を引き受けてくれたことも大きい。
そして、五人の攻略対象たちも、それぞれの仕事をきちんと進めている。
……いいチームだ。
本当に。
俺は小さく笑った。
すると、玄関の前に一人の青年が立っていた。
金色の髪。
青い瞳。
整った顔立ち。
穏やかな微笑み。
……レオンハルト。
「……リリア」
王子が、俺の名前を呼んだ。
「……殿下」
俺は少しだけ驚いた。
「……どうしたんですか?」
レオンハルトは、小さく微笑んだ。
「仕事が終わるのを待っていたんだ」
……おい。
王子様。
何やってるんだよ。
「……何か、用事ですか?」
俺が尋ねると、王子は少しだけ目を細めた。
「……覚えているかな?」
……ん?
俺は首を傾げた。
「……何をですか?」
「猫神祭の前夜、君が言ってくれたこと」
……前夜。
俺は、少しだけ考えた。
そして。
……あ。
思い出した。
『全部終わったら、また飯でも食いに行きませんか?』
……そうだった。
俺から誘ったんだった。
「……覚えてます」
俺は小さく笑った。
レオンハルトも、嬉しそうに微笑んだ。
「……それなら、よかった」
そして、静かに尋ねた。
「今日、時間はあるかな?」
…………。
俺は、少しだけ考えた。
仕事は終わった。
明日の準備も済んでいる。
特に予定はない。
……だったら。
「……ありますよ」
俺は頷いた。
王子の表情が明るくなった。
「本当に?」
「はい」
俺は小さく笑った。
「……ご飯、行きましょうか」
レオンハルトは、嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとう」
……何だよ。
そんなに嬉しそうにするなよ。
俺まで、ちょっと嬉しくなるじゃないか。
すると、目の前に青白い文字が浮かび上がった。
『恋愛イベント発生条件を確認しました』
……おい。
またか。
俺は、少しだけ眉を寄せた。
しかし。
次の文字を見て、思わず目を見開いた。
『恋愛イベントの強制進行は実行されません』
『主人公と相手の意思を優先します』
…………。
……ああ。
そうか。
世界の仕組みが変わったんだ。
もう、勝手に恋愛イベントが進むことはない。
誰と会うか。
誰と食事をするか。
誰と手を繋ぐか。
それを決めるのは、俺自身だ。
……よし。
俺は小さく笑った。
「……行きましょう、殿下」
レオンハルトが頷いた。
「うん」
こうして、俺たちは王都の街へ歩き出した。
◇
向かったのは、以前、男の姿で訪れた小さな食堂だった。
木製の看板。
落ち着いた店内。
窓辺に飾られた花。
そして、入口には猫の形をした置物がある。
……懐かしいな。
たった数週間前のことなのに、随分と昔のような気がする。
俺たちは窓際の席へ座った。
料理を注文し、しばらく雑談をした。
王宮の仕事。
猫神祭の後片づけ。
名前のない町の今後。
そんな話をしているうちに、料理が運ばれてきた。
肉の煮込み。
温かなパン。
野菜のスープ。
……うん。
やっぱり、美味そうだ。
「……いただきます」
俺はパンをちぎり、煮込みに浸した。
そして、一口食べる。
「……うまっ!」
思わず声が出た。
レオンハルトが楽しそうに笑った。
「相変わらず、美味しそうに食べるね」
「……いや、実際美味しいですから」
俺は笑った。
すると、王子が穏やかに微笑んだ。
「……君が楽しそうで、よかった」
…………。
俺は、少しだけ目を逸らした。
……おい。
またかよ。
そういう言い方。
本当に、慣れないな。
しかし、以前とは少しだけ違った。
今の俺は、レオンハルトの好意を知っている。
そして、自分自身の気持ちについても、少しずつ考えるようになっていた。
……正直。
この王子と一緒にいる時間は、嫌じゃない。
むしろ、楽しい。
仕事の話もできる。
くだらない話もできる。
俺が男だったことを知っている。
それでも、変わらずに接してくれる。
……いや。
変わらず、というのは少し違うか。
むしろ、以前よりも俺自身を見てくれるようになった気がする。
それが、少しだけ嬉しかった。
「……リリア」
レオンハルトが静かに口を開いた。
「……はい?」
「一つ、聞いてもいいかな?」
……何だろう。
俺は頷いた。
「……何でしょう?」
王子は、少しだけ真剣な表情になった。
「君は、これからどうするつもりなんだい?」
……これから。
俺は、少しだけ考えた。
そして、静かに答えた。
「……この世界で暮らしていこうと思っています」
レオンハルトが頷いた。
「……そうか」
「はい」
俺は小さく笑った。
「男の姿へ戻る方法も、少しずつわかってきました。でも、今はリリアとして生きていこうかなって」
王子は、少しだけ目を見開いた。
「……リリアとして?」
「はい」
俺は頷いた。
「この身体で、今の名前で、これからの人生を生きてみたいんです」
レオンハルトは、しばらく黙っていた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「……いいと思うよ」
……ああ。
俺は小さく笑った。
「……ありがとうございます」
すると、王子が静かに続けた。
「でも、もし将来、男性の姿で生きたいと思うようになったとしても」
……ん?
俺は顔を上げた。
「僕は、その選択も尊重したい」
…………。
俺は、言葉を失った。
……ああ。
そうか。
この王子は、俺がどちらの姿を選んでも、俺自身として接してくれるつもりなんだ。
それは、きっと。
俺にとって、とても大切なことだった。
「……ありがとうございます」
俺は、改めて言った。
レオンハルトは、穏やかに微笑んだ。
「……どういたしまして」
しばらく、二人で食事を続けた。
そして、食事を終えたあと。
王子が、静かに口を開いた。
「……リリア」
「……はい?」
「もう一つ、聞いてもいいかな?」
……おい。
何だろう。
今日は質問が多いな。
俺は少しだけ笑った。
「……どうぞ」
レオンハルトは、少しだけ緊張したような表情になった。
「……君は、僕のことをどう思っている?」
…………。
俺は固まった。
……来た。
ついに、来た。
俺がずっと避けてきた質問だ。
王子は、俺のことが好きだと言っていた。
男だったことを知ったうえで。
男の姿へ戻った俺とも、デートをしてくれた。
そして、俺がどんな姿で生きることを選んでも、その意思を尊重すると言ってくれた。
……ああ。
そうだ。
俺は、そろそろ答えを出すべきなのかもしれない。
ただし、ゲームのシナリオに従うためではない。
王子を満足させるためでもない。
俺自身が、どうしたいのか。
それを考えた結果として。
……答えを出すんだ。
「……殿下」
俺は、ゆっくりと口を開いた。
「……はい?」
「俺、前世では男だったんです」
レオンハルトが頷いた。
「……知っているよ」
「今も、考え方は結構そのままです」
「……うん」
「それで、正直に言うと……」
俺は、少しだけ顔を逸らした。
……くそっ。
何だよ。
緊張するな。
前世では、仕事のプレゼンだって何度もやってきた。
大勢の前で話すこともあった。
それなのに。
たった一人の男を前にして、こんなに緊張するなんて。
……情けないな。
俺は深呼吸した。
そして、レオンハルトを見た。
「……殿下のこと、結構好きです」
…………。
王子が、目を見開いた。
俺は慌てて続けた。
「いや、その! まだ恋愛としてどうなのか、全部わかったわけじゃないんですけど!」
……おい。
落ち着け。
俺。
「でも、一緒にいると楽しいし、話してると安心するし……」
俺は、少しだけ頬を掻いた。
「……また会いたいなって、思うんです」
長い沈黙が訪れた。
レオンハルトは、しばらく俺を見つめていた。
そして。
「……ありがとう」
小さく、そう言った。
その顔は、今まで見たことがないほど嬉しそうだった。
……おい。
やめろ。
そんな顔するな。
こっちまで、嬉しくなるだろ。
「……だから」
俺は、さらに続けた。
「もし、殿下がよければ」
……ああ。
もう、言ってしまえ。
俺は、拳を握った。
「……これからも、二人で会ってみませんか?」
レオンハルトが、静かに息を呑んだ。
「……リリア」
「……はい」
「それは……」
王子は、少しだけ言葉を選んだ。
「……僕と、恋人になることを考えてくれるという意味かな?」
…………。
俺は、顔が熱くなるのを感じた。
……おい。
何だよ。
改めて言葉にされると、すごく恥ずかしいんだけど。
しかも、相手は男だぞ。
俺も、中身は男だぞ。
……これ。
本当に、精神的BLじゃねえか。
俺は、少しだけ目を逸らした。
しかし。
逃げるのは、もうやめようと思った。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
「……はい」
そして、はっきりと言った。
「まずは、お付き合いしてみたいです」
…………。
レオンハルトは、しばらく黙っていた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「……喜んで」
その声が、少しだけ震えていた。
「僕も、君と一緒にいたい」
……ああ。
何だろう。
胸の奥が、温かい。
俺は小さく笑った。
「……よろしくお願いします」
レオンハルトも頷いた。
「こちらこそ」
そして、静かに手を差し出した。
「……手を握ってもいいかな?」
…………。
俺は、少しだけ笑った。
「……はい」
今度は、迷わなかった。
俺は自分から、その手を握った。
温かい。
以前、男の姿で握ったときと同じ手だった。
しかし、今は少しだけ違う。
あのときは、何が起きているのかわからず、ただ緊張していた。
でも、今は。
俺自身が、この手を握りたいと思っている。
……そうだ。
これでいいんだ。
その瞬間。
目の前に青白い文字が浮かび上がった。
『恋愛イベント成立』
『レオンハルトとの交際を確認しました』
『主人公の意思:確認済み』
『相手の意思:確認済み』
『恋愛関係を登録しますか?』
…………。
俺は、思わず笑ってしまった。
……おい。
何だよ。
最後まで、システム通知かよ。
しかし、今度は違う。
勝手に進むわけではない。
俺が選べる。
……そうだ。
俺は、小さく頷いた。
「……登録する」
すると、文字が静かに変わった。
『登録完了』
『関係:恋人』
『強制イベント:なし』
『今後の関係は、双方の意思によって変化します』
…………。
俺は、少しだけ目を細めた。
……ああ。
いいな。
これ。
とても、いい。
俺は、レオンハルトを見た。
王子は、穏やかに微笑んでいる。
……何だよ。
本当に。
俺の人生、どうなってるんだろうな。
前世では、普通の男だった。
異世界に転生したら、乙女ゲームのヒロインになった。
五人のイケメンから好かれて。
恋愛イベントを回避しようとして。
仕事ばかりして。
世界まで救うことになって。
そして最後には。
……王子様と付き合うことになった。
……いや。
待て。
よく考えたら。
これ。
ものすごく王道の乙女ゲームじゃねえか。
俺は、思わず頭を抱えた。
「……どうしたの?」
レオンハルトが心配そうに尋ねた。
俺は、少しだけ苦笑した。
「……いや」
そして、静かに答えた。
「……結局、攻略対象と付き合っちゃったなと思いまして」
王子は、不思議そうに首を傾げた。
「……攻略対象?」
……あ。
しまった。
俺は慌てて首を振った。
「……いえ! 何でもありません!」
レオンハルトは、少しだけ笑った。
「……そう?」
「はい!」
……危ない。
また変なことを口走るところだった。
しかし。
今度は、それほど気にならなかった。
……だって。
俺自身が選んだんだから。
乙女ゲームのシナリオに従ったわけじゃない。
王子だから選んだわけでもない。
男の姿でも女の姿でも、俺自身を見てくれたから。
そして、俺もこの人と一緒にいたいと思ったから。
……それだけだ。
◇
翌日。
旧貴賓館の会議室。
俺は、五人の攻略対象たちを前にしていた。
……いや。
今はもう、攻略対象と呼ぶべきではないのかもしれない。
この人たちは、俺の仕事仲間だ。
友人だ。
そして、そのうち一人は、恋人になった。
……何だろう。
改めて考えると、すごいな。
「……皆さん」
俺は、ゆっくりと口を開いた。
「実は、ご報告があります」
五人がこちらを見る。
レオンハルトは、少しだけ照れくさそうに微笑んでいた。
……おい。
もう顔に出てるぞ。
「……昨日、レオンハルト殿下とお付き合いすることになりました」
…………。
沈黙。
長い沈黙。
そして。
「……なるほど」
最初に口を開いたのは、ユリウスだった。
「では、業務上の利益相反を避けるため、必要な事項を確認しておこう」
「……おい!」
俺は思わず突っ込んだ。
交際報告だぞ!?
何で最初に利益相反の話をするんだよ!
しかし、ユリウスは真剣だった。
「当然だろう。君は五部門統括マネージャーであり、レオンハルト殿下は王宮側の責任者なのだから」
……ああ。
そうだった。
確かに、仕事上の関係もあるんだよな。
俺は、少しだけ頭を抱えた。
すると、カイルが静かに口を開いた。
「……リリア様」
「……はい?」
「おめでとうございます」
…………。
俺は、少しだけ目を見開いた。
カイルは、穏やかに微笑んでいた。
「あなたがご自身の意思で選ばれたのなら、それが何より大切なことだと思います」
……ああ。
何だよ。
本当に、いい人だな。
俺は小さく笑った。
「……ありがとうございます」
エリオットが興味深そうに口を開いた。
「……ところで、交際開始によって魂の状態に変化があるか、調べてもよろしいでしょうか?」
「駄目です!」
俺は即答した。
「恋愛を研究対象にしないでください!」
「……残念です」
「残念がるな!」
俺が叫ぶと、エリオットは楽しそうに笑った。
……まったく。
こいつは、最後まで研究者だな。
すると、セシルが穏やかに口を開いた。
「……リリア様」
「……はい?」
「お幸せに」
…………。
俺は、少しだけ言葉に詰まった。
セシルは、静かに微笑んでいた。
「あなたがご自身の望む人生を選べたことを、心から嬉しく思います」
……ああ。
そうだよな。
俺は、ようやく自分の人生を選べたんだ。
俺は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
レオンハルトも、静かに頭を下げた。
「これからも、よろしくお願いします」
……おい。
王子様。
何でそんなに真面目なんだよ。
俺は、少しだけ笑ってしまった。
すると、ユリウスが口を開いた。
「……さて」
……ん?
「交際の件は理解した。では、次の議題に移ろう」
……次の議題?
俺は眉を寄せた。
「……何でしょう?」
ユリウスは、一枚の書類を差し出した。
『五部門統括マネージャーの今後の勤務体制について』
…………。
俺は、ゆっくりと書類を見つめた。
……おい。
待てよ。
世界、救ったんだぞ。
恋人もできたんだぞ。
それなのに。
「……まだ仕事するんですか?」
俺が尋ねると、ユリウスは当然のように答えた。
「当然だ。世界が救われたからといって、仕事がなくなるわけではない」
…………。
俺は、深いため息をついた。
……ああ。
そうだよな。
人生って、そういうものだよな。
何か大きな出来事があっても。
世界を救っても。
恋人ができても。
生活は続く。
仕事も続く。
……まあ。
悪くないか。
俺は小さく笑った。
「……わかりました」
そして、書類を受け取った。
しかし、そのとき。
目の前に青白い文字が浮かび上がった。
『特別通知』
『主人公の役割情報が更新されました』
……ん?
俺は目を瞬かせた。
『旧役割:乙女ゲームのヒロイン』
『新役割:リリア・ベルフォード』
…………。
俺は、しばらく文字を見つめていた。
そして、静かに微笑んだ。
……ああ。
そうか。
ついに。
俺は、乙女ゲームのヒロインではなくなったんだ。
ただの、リリア・ベルフォード。
自分の人生を生きる、一人の人間。
……いいじゃないか。
とても、いい。
俺は小さく頷いた。
そして、最後の通知を見た。
『物語の強制進行は終了しました』
『今後の人生に、あらかじめ定められた結末は存在しません』
『あなた自身の意思で、未来を選んでください』
…………。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
……やっとだ。
本当に、やっと。
俺は、自由になった。
恋愛イベントを回避する必要もない。
好感度を気にする必要もない。
誰かに決められたシナリオに従う必要もない。
ただ、自分の人生を生きればいい。
……そうだ。
俺は、リリア・ベルフォードだ。
前世では男だった。
今も、その記憶を持っている。
でも、これからは、この世界で、この名前で生きていく。
そして。
好きになった人と、少しずつ関係を築いていく。
……ああ。
いいな。
こういう人生も。
俺は、小さく笑った。
すると、隣にいたレオンハルトが、静かに声をかけてきた。
「……リリア」
「……はい?」
「今日、仕事が終わったら、時間はあるかな?」
…………。
俺は、少しだけ考えた。
そして、笑った。
「……ありますよ」
王子が嬉しそうに微笑んだ。
「では、一緒に帰ろう」
……ああ。
そうだな。
俺は頷いた。
「……はい」
その瞬間、目の前に新しい文字が浮かび上がった。
『恋愛イベント発生』
…………。
俺は、思わず眉を寄せた。
……おい。
まだあるのかよ。
しかし、すぐに文字が変わった。
『通常の恋愛イベントではありません』
『本人たちの意思による、日常の出来事です』
…………。
俺は、思わず笑ってしまった。
……そうか。
そうだよな。
これから先も、恋愛は続く。
仕事も続く。
楽しいこともあれば、面倒なこともあるだろう。
喧嘩する日もあるかもしれない。
失敗することもあるかもしれない。
それでも。
俺自身が選んだ人生なら。
きっと、悪くない。
◇
その日の夕方。
俺はレオンハルトと並んで、王都の街を歩いていた。
夕日が石畳を照らし、通りには仕事帰りの人々が行き交っている。
露店からは美味しそうな匂いが漂い、屋根の上には猫が座っていた。
……平和だな。
本当に。
俺は小さく伸びをした。
すると、レオンハルトが微笑んだ。
「……疲れた?」
「……少し」
俺は苦笑した。
「今日も、仕事が多かったですから」
王子が小さく笑った。
「そうだね。でも、明日は休みだろう?」
……ああ。
そうだった。
明日は休日だ。
しかも、正式に申請して承認された休みである。
……素晴らしい。
俺は、思わず笑った。
「……そうですね」
レオンハルトが、静かに口を開いた。
「……では、明日は何をしたい?」
……何を。
俺は少し考えた。
仕事はない。
世界の運命を考える必要もない。
恋愛イベントから逃げる必要もない。
……だったら。
「……猫でも見に行きませんか?」
俺は答えた。
王子は、少しだけ目を丸くした。
そして、楽しそうに笑った。
「……いいね」
「でしょう?」
俺も笑った。
すると、レオンハルトが静かに手を差し出した。
「……手を繋いでもいいかな?」
…………。
俺は、少しだけその手を見つめた。
そして。
自分から、そっと握った。
「……はい」
王子が嬉しそうに微笑んだ。
俺も、小さく笑った。
……ああ。
何だろう。
最初は、絶対に無理だと思っていた。
男から好かれることも。
男と手を繋ぐことも。
男と恋愛することも。
前世の俺には、想像もできなかった。
でも、今は。
不思議と、嫌じゃない。
むしろ。
……ちょっと、嬉しい。
俺は、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
レオンハルトが、静かに微笑んだ。
「……リリア」
「……はい?」
「これからも、よろしくね」
…………。
俺は、少しだけ笑った。
そして、はっきりと答えた。
「……こちらこそ」
俺たちは、手を繋いだまま歩き始めた。
夕暮れの王都。
穏やかな風。
猫の鳴き声。
そして、隣には王子様。
……いや。
恋人、か。
俺は、思わず笑ってしまった。
……何だよ。
本当に。
俺の人生、どうなってるんだろうな。
男として生きていた俺が、美少女へ転生して。
恋愛イベントを避けようとして。
結局、王子様と付き合うことになって。
しかも、今はそのことを嬉しいと思っている。
……まあ。
そういう人生も、あるのかもしれない。
俺は、隣を歩くレオンハルトを見た。
王子も、こちらを見て微笑んだ。
……ああ。
悪くない。
本当に、悪くない。
俺は、小さく頷いた。
そして、心の中で呟いた。
……俺は、リリア・ベルフォード。
前世では男だった。
今は女の身体で生きている。
そして、男の恋人がいる。
……うん。
改めて考えると、情報量が多いな。
でも。
これが、俺の人生なんだ。
誰かに決められた物語じゃない。
俺自身が選んだ、これからの人生。
……そうだ。
俺は、もう乙女ゲームのヒロインじゃない。
ただの、リリア・ベルフォードだ。
そして。
これからは、自分の意思で幸せになってやる。
……ただし。
ひとつだけ、最後に言わせてほしい。
「……殿下」
「何かな?」
「……明日は、絶対に仕事の話をしないでくださいね」
レオンハルトは、小さく笑った。
「もちろん」
「……本当に?」
「うん。約束するよ」
……よし。
俺は、満足して頷いた。
すると、王子が少しだけ考え込んだ。
「……ただ」
……ん?
俺は眉を寄せた。
「……何ですか?」
レオンハルトは、穏やかに微笑んだ。
「君と一緒に過ごす予定を考えるのは、仕事に入るのかな?」
…………。
俺は固まった。
……おい。
待てよ。
その質問。
何だよ。
デートの予定を考えるのは、仕事かどうか?
……いや。
待て。
これは。
もしかして。
俺が、五部門統括マネージャーとして考えるべき案件ではない。
俺自身が、恋人として答えるべき質問なんだ。
……そうか。
そうだよな。
俺は、少しだけ笑った。
そして、レオンハルトの手を握り直した。
「……それは、仕事じゃないですよ」
王子が微笑んだ。
「……そう?」
「はい」
俺は頷いた。
「……俺が、好きでやることですから」
レオンハルトは、少しだけ目を見開いた。
そして、嬉しそうに笑った。
「……それなら、よかった」
俺も、小さく笑った。
……ああ。
本当に。
これでいいんだ。
仕事は仕事。
恋愛は恋愛。
そして、人生は俺のもの。
……完璧じゃないか。
俺は、夕暮れの空を見上げた。
そこには、柔らかな雲が浮かんでいた。
そして、遠くの屋根の上では、白猫が一匹、こちらを見つめていた。
……ミャルティア。
あいつ、また見てるな。
俺が目を細めると、白猫は楽しそうに尻尾を振った。
『にゃははは! なかなか面白い結末になったではないか!』
頭の中に、聞き慣れた声が響いた。
俺は、小さく笑った。
……ああ。
そうだな。
面白い結末だよ。
誰も消えなかった。
世界も救えた。
みんな、それぞれの人生を選べるようになった。
俺自身も。
……だから。
これから先は、もうシナリオなんて必要ない。
俺たちが、自分で未来を作っていけばいい。
……そうだ。
俺は、静かに目を閉じた。
そして、心の中で呟いた。
……ありがとうな、ミャルティア。
すると、猫神の声が返ってきた。
『うむ。礼ならば、今度魚を持ってこい』
…………。
俺は、ゆっくりと目を開けた。
そして。
「最後まで猫かよ!」
思わず叫んだ。
レオンハルトが驚いた顔でこちらを見る。
「……リリア?」
「……いえ、何でもありません!」
俺は慌てて首を振った。
そして、再び歩き始めた。
……まったく。
本当に。
この世界は、最後まで猫だらけだな。
でも。
……まあ、いいか。
猫がいて。
友達がいて。
仕事があって。
恋人がいて。
そして、自分で選んだ人生がある。
それなら、十分だ。
俺は、隣のレオンハルトを見た。
王子も、嬉しそうに微笑んでいる。
……ああ。
幸せって、案外こういうものなのかもしれない。
俺は、小さく笑った。
そして、手を繋いだまま、夕暮れの王都を歩いていった。
もう、物語の終わりを気にする必要はない。
俺たちの人生は、これからも続いていくのだから。
……ただし。
明日は絶対に休む。
何があっても。
絶対に。
……いや。
神様。
本当に頼むから。
休日くらいは、普通に休ませてくれよ!
◇
後日、王立学院の記録保管室には、一冊の新しい書物が収められた。
表紙には、次のように記されている。
『聖女リリア・ベルフォードと五つの誓い』
その内容は、かつて語られた乙女ゲームの物語とは、大きく異なっていた。
そこに記されているのは、五人の男性から愛された一人の聖女の話ではない。
異なる立場の人々が協力し、誰もが自分自身の人生を選べる世界を取り戻したという記録だった。
そして、最後のページには、聖女自身の言葉が残されている。
『誰かに与えられた役割が、その人のすべてを決めるわけではない』
『どんな姿で生まれ、どんな名前で呼ばれ、どんな過去を持っていたとしても』
『その人がこれからどう生きたいのかを、本人以外の誰かが勝手に決めてはならない』
『だから、俺は俺の人生を選ぶ』
『そして、ほかの誰もが、同じように選べる世界であってほしい』
その下には、署名があった。
リリア・ベルフォード
かつて、男として生きていた一人の人間。
今は、自分の意思でリリアとして生きることを選んだ、一人の女性の姿をした聖女。
そして、もう誰かの物語のためだけに存在することのない、一人の人間。
彼女の物語は、ここで終わる。
しかし。
彼女自身の人生は、これからも続いていく。
仕事に追われる日もあるだろう。
恋人と喧嘩する日もあるかもしれない。
自分の選択を迷う日も、きっとある。
それでも。
その未来は、誰かに決められたものではない。
リリア自身が、一つずつ選んでいくものなのだから。
そして、その書物の最後には、誰が書き加えたのかわからない、小さな追記が残されていた。
『なお、聖女リリア・ベルフォードは、世界救済後も五部門統括マネージャーとして勤務を継続している』
『勤務時間は午前九時から午後五時まで』
『週休二日制』
『時間外勤務については、本人の事前承諾を必要とする』
……おい。
最後まで労働条件かよ!
俺は、その追記を読んだら、きっとそう叫ぶだろう。
だが、それもまた。
俺らしい結末なのかもしれない。
完




