エピローグ 俺、ヒロインを卒業したのに王子様との休日デートが終わらないんだが?
乙女ゲームのヒロインを卒業した翌朝。
俺は、奇妙な感覚とともに目を覚ました。
何かが足りない。
いつもなら、起きた瞬間に目の前へ青白い文字が浮かび上がる。
『本日の予定を確認します』
『攻略対象との遭遇イベントを検出しました』
『好感度が上昇しました』
そんな通知に一喜一憂するのが、いつの間にか俺の日常になっていた。
しかし、今日は違う。
何も表示されない。
天井は普通の天井だし、窓の外には青空が広がっている。
鳥が鳴いている。
遠くから学院の鐘が聞こえてくる。
……平和だ。
何だろう。
ものすごく平和だ。
「……終わったんだな」
俺は、ベッドの上で小さく呟いた。
もう、恋愛イベントに追いかけられることはない。
好感度が勝手に上昇することもない。
ハーレムルートの進行度に怯える必要もない。
俺が望まなければ、どんな恋愛イベントも発生しないのだ。
……ああ。
何という幸せだろう。
俺は布団を引き寄せ、もう一度目を閉じた。
今日は休日。
仕事はない。
世界を救う必要もない。
猫神祭の準備も終わった。
そして、五部門統括マネージャーとしての仕事も、今日は完全に休みである。
……素晴らしい。
このまま昼まで寝ていよう。
そう思った、そのときだった。
「……起きろ」
足元から声がした。
俺は目を閉じたまま答えた。
「……今日は休み」
「知っておる」
「……じゃあ、寝かせて」
「それは困る」
「……何で?」
布団の上を、何かが歩いてくる感触があった。
そして、俺の胸元に小さな重みが乗る。
「お前、今日は王子と出かけるのであろう?」
…………。
俺は目を開けた。
そこには、白い猫がいた。
聖猫神ミャルティア。
この世界の創造神にして、俺を異世界転生させた張本人である。
ちなみに現在、俺の胸の上に前脚を揃えて座っていた。
……重い。
「……ミャルティア」
「なんだ?」
「……猫って、何で人間の上に乗るんだ?」
「そこに人間がおるからだ」
「登山家みたいなこと言うな!」
俺は思わず突っ込んだ。
猫神は楽しそうに笑い、俺の胸から飛び降りた。
……まったく。
神様なのに、やっていることは本当に猫だな。
俺は身体を起こし、時計を見た。
午前八時。
……早い。
今日は休みなんだぞ。
もっと寝ていたかった。
しかし。
そういえば、昨日レオンハルトと約束したんだった。
『明日は、猫でも見に行きませんか?』
……そうだ。
今日は、王子様とのデートだった。
しかも。
今度は、正式に恋人としてのデートである。
「…………」
俺は、ゆっくりと顔を覆った。
……おい。
待てよ。
よく考えたら、すごいことになってないか?
俺は前世では男だった。
二十九歳の普通のサラリーマンだった。
それが、乙女ゲームのヒロインに転生して、美少女になって、五人のイケメンから好かれるようになった。
そして、散々恋愛から逃げ回った挙げ句。
……第一王子と付き合うことになった。
「……何だよ、この人生」
俺は小さく呟いた。
ミャルティアが首を傾げた。
「不満なのか?」
「……いや」
俺は少しだけ考えた。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「……不満じゃない」
そう。
不満ではない。
むしろ、レオンハルトと付き合うことになったのは、俺自身が望んだ結果だった。
誰かに命令されたわけでもない。
ゲームのシナリオに従ったわけでもない。
俺自身が、あの人と一緒にいたいと思った。
だから、付き合うことにしたのだ。
……うん。
何も問題ない。
問題ない、はずだ。
「……ただ」
俺は小さく息を吐いた。
「……恋人になった途端、何をすればいいのかわからなくなった」
ミャルティアは、しばらく俺を見つめていた。
そして。
「……にゃははは!」
盛大に笑った。
「何だよ!」
「いや、あれほど恋愛イベントから逃げ回っておった男が、今度は恋人との付き合い方に悩んでおるとはな!」
「うるせえ!」
俺は枕を掴んだ。
しかし、投げる前に思いとどまった。
……やめよう。
この猫に枕を投げても、きっと避けられる。
そして、俺の枕だけが汚れる。
……無駄なことはしない。
社会人として、合理的に判断しよう。
「……まあ、いいか」
俺はベッドを下りた。
そして、鏡の前へ向かった。
そこには、金髪碧眼の美少女が映っている。
リリア・ベルフォード。
二十二歳。
千年に一人の聖女だった女性。
いや、今でも聖女としての力は残っているが、世界の運命を決めるための特別な役割からは解放されている。
現在の職業は、五部門統括マネージャー。
そして、恋人は第一王子。
……うん。
改めて考えると、すごい経歴だな。
履歴書に書いたら、面接官が困ると思う。
俺は、鏡の中の自分を見つめた。
以前なら、この姿を見るたびに落ち着かない気持ちになっていた。
しかし、今は違う。
長い髪も。
細い肩も。
柔らかな顔立ちも。
少しずつ、自分のものとして馴染んできている。
……不思議だな。
前世の俺は、今でも俺の中にいる。
男として生きてきた記憶も、考え方も、何一つ消えていない。
ただ、今の俺はリリアとして生きることを選んだ。
それだけだ。
「……よし」
俺は小さく笑った。
そして、クローゼットを開いた。
……さて。
今日は、何を着ていこうか。
◇
午前九時三十分。
俺は、深刻な問題に直面していた。
「……決まらねえ」
ベッドの上には、何着もの服が広がっていた。
淡い青色のワンピース。
白いブラウス。
落ち着いた色のスカート。
少し華やかな外出用のドレス。
そして、学院で普段着ている制服。
……何だよ。
選択肢が多すぎるだろ。
前世の俺なら、適当なシャツとズボンで出かけていた。
友達と飯を食いに行く程度なら、服装なんてそこまで気にしなかった。
しかし。
今日は違う。
……デートだ。
しかも、初めての恋人同士としてのデート。
いや、厳密には前にも二人で出かけた。
男の姿に戻って、レオンハルトと食事をした。
手も繋いだ。
……うん。
あれは完全にデートだったな。
だが、あのときはまだ付き合っていなかった。
今回は違う。
正式に恋人になったあと、初めての外出である。
「……どうしよう」
俺は頭を抱えた。
すると、ベッドの上にいたミャルティアが口を開いた。
「それでよいではないか」
「……どれ?」
「青いやつだ」
俺は淡い青色のワンピースを持ち上げた。
「……これ?」
「うむ。お前に似合っておる」
……なるほど。
俺は鏡の前で、ワンピースを身体に当ててみた。
淡い青色。
白い襟。
落ち着いたデザイン。
派手すぎず、かといって地味すぎるわけでもない。
……うん。
悪くない。
「……これにするか」
俺は頷いた。
すると、ミャルティアが得意げに尻尾を立てた。
「ふふん。我の審美眼に感謝するがよい」
「……ありがとう」
「もっと感謝してもよいぞ」
「……調子に乗るな」
俺は苦笑した。
そして、着替えを始めた。
鏡の前で髪を整え、軽く化粧をする。
以前なら、こんなことに時間をかける自分を想像もしなかった。
しかし、今では自然に手が動くようになっていた。
……まあ、まだ慣れない部分はあるけどな。
俺は、最後に小さな髪飾りをつけた。
そして、鏡を見た。
「……うん」
なかなかいい。
少なくとも、自分ではそう思う。
……いや。
待てよ。
俺。
今、普通にデートのためにおしゃれしてない?
しかも、相手は男だぞ。
……まあ、恋人なんだから当然か。
俺は、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
ミャルティアが楽しそうに笑った。
「……にゃはは。嬉しそうだな」
「……うるさい」
俺は小さく答えた。
しかし、否定はしなかった。
……だって。
実際、少し楽しみなんだから。
◇
王立学院の正門前。
レオンハルトは、約束の時間より少し早く到着していた。
今日は王族の礼装ではなく、落ち着いた色の上着を着ている。
金色の髪はいつも通り整えられており、爽やかな笑みを浮かべていた。
……相変わらず、顔がいいな。
俺は、少しだけ足を止めた。
前世の俺なら、男の顔なんてそこまで気にしなかった。
もちろん、俳優やモデルを見て格好いいと思うことはあった。
しかし、それだけだ。
ところが、今は違う。
目の前にいる男は、俺の恋人である。
……恋人。
何度考えても、すごい響きだな。
「……リリア」
レオンハルトが俺に気づいた。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「おはよう」
「……おはようございます」
俺は、少しだけ緊張しながら頭を下げた。
すると、王子が小さく笑った。
「今日は、いつもより少し雰囲気が違うね」
……おい。
来たぞ。
褒められるやつだ。
俺は身構えた。
「……そうですか?」
「うん」
レオンハルトは、穏やかに微笑んだ。
「その服、とても似合っているよ」
…………。
俺は、思わず目を逸らした。
……おい。
やめろ。
わかってたけど。
実際に言われると、恥ずかしいんだよ。
「……ありがとうございます」
俺は小さく答えた。
レオンハルトは、さらに微笑んだ。
「それに、今日は君自身が楽しみにしてくれていたように見える」
…………。
……何だよ。
それまで見抜くのかよ。
俺は、少しだけ頬を掻いた。
「……まあ」
そして、小さく答えた。
「……楽しみにしてました」
レオンハルトが、少しだけ目を見開いた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「……嬉しいよ」
…………。
俺は、ますます顔が熱くなるのを感じた。
……何だよ。
恋人になった途端、王子の笑顔が以前より強力になってないか?
いや、待て。
ゲームの好感度システムは、もう存在しない。
つまり、今の反応は全部俺自身のものだ。
……おい。
それはそれで、困るんだけど。
「……それじゃあ、行きましょうか」
俺が言うと、レオンハルトは頷いた。
「うん」
そして、自然に右手を差し出した。
俺は、その手を見た。
……ああ。
そうだった。
今は、恋人なんだよな。
前なら、手を握るだけで散々悩んでいた。
男同士だからどうとか。
前世の俺ならどうとか。
乙女ゲームのイベントがどうとか。
……でも。
今は、そんなことを考える必要はない。
俺は、自分からその手を握った。
「……行きましょう」
レオンハルトが、嬉しそうに微笑んだ。
「うん」
こうして。
俺たちの休日デートが始まった。
……ちなみに。
このときの俺は、まだ知らなかった。
今日のデートが、思っていた以上に騒がしい一日になることを。
◇
最初に向かったのは、王都の外れにある保護猫施設だった。
以前、俺がレオンハルトとの恋愛イベントを回避するために、王宮主催の保護猫支援事業を提案したことがあった。
あのときは、ただデートを回避したかっただけだった。
しかし、その結果、王国では保護猫の支援活動が本格的に始まっていた。
……いや。
人生、何がきっかけになるかわからないな。
俺たちが施設へ到着すると、入口にいた女性が驚いた顔をした。
「……あら!」
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「リリア様ではありませんか!」
……おお。
覚えられてるんだな。
「こんにちは」
俺は頭を下げた。
女性は、俺の隣にいるレオンハルトを見た。
そして、さらに目を見開いた。
「……レオンハルト殿下まで!」
……おい。
待て。
声が大きい。
王子は穏やかに微笑んだ。
「こんにちは。今日は私的な訪問なんだ。少し猫たちに会わせてもらえるかな?」
女性は、すぐに頷いた。
「もちろんでございます!」
……よし。
これで、普通に猫を見られる。
俺は少しだけ安心した。
すると、女性が嬉しそうに続けた。
「聖女様と殿下がご一緒とは、何ともおめでたいことでございますね!」
…………。
俺は固まった。
……おい。
待てよ。
その言い方。
何か、勘違いされてない?
「……あの」
俺が口を開こうとすると、女性はさらに続けた。
「お二人のご関係については、王都でも噂になっておりますから!」
…………。
……噂?
俺は、ゆっくりとレオンハルトを見た。
王子は、少しだけ困ったように笑っていた。
……おい。
待てよ。
俺たちが付き合い始めたのって、そんなに前じゃないぞ。
それなのに。
もう噂になってるのか!?
「……殿下」
俺は小声で尋ねた。
「……何ですか、その噂」
レオンハルトは、少しだけ考えた。
そして、静かに答えた。
「……僕が、リリアと交際しているという話かな」
……おい。
何でそんなに冷静なんだよ!
「……誰が広めたんですか?」
「特に公表したわけではないんだけど、王宮では自然に知られるようになってね」
……なるほど。
まあ、そうか。
王子様の恋人なんて、注目されないわけがない。
しかも、その相手は元聖女だ。
世界を救った人物である。
……うん。
確かに、噂になってもおかしくない。
しかし。
「……結婚のご予定は、いつ頃なのでしょう?」
施設の女性が、嬉しそうに尋ねてきた。
…………。
俺は固まった。
……結婚!?
おいおいおい!
待て待て待て!
付き合い始めたばっかりだぞ!?
「……い、いえ!」
俺は慌てて答えた。
「まだ、そういう話はしていません!」
女性が、少しだけ驚いた顔をした。
「あら、そうなのですか?」
「はい!」
俺は勢いよく頷いた。
すると、レオンハルトが穏やかに微笑んだ。
「今は、二人でゆっくり関係を深めていきたいと思っているんだ」
…………。
俺は、思わず王子を見た。
……ああ。
そうだよな。
俺たちは、まだ付き合い始めたばかりだ。
急いで結婚を考える必要なんてない。
それに、俺はリリアとして生きることを選んだばかりでもある。
まずは、この世界での生活を落ち着かせたい。
仕事もある。
友人もいる。
恋人もできた。
……だから。
ゆっくり進めればいい。
俺は、少しだけ安心した。
すると、女性が嬉しそうに微笑んだ。
「まあ、素敵ですこと!」
……いや。
そんな大げさな話じゃないんだけど。
俺は少しだけ苦笑した。
そして、ようやく猫たちのいる部屋へ案内してもらった。
◇
「……にゃあ」
部屋へ入ると、数匹の猫がこちらを見た。
白猫。
黒猫。
三毛猫。
茶トラ。
そして、まだ小さな子猫たち。
……おお。
天国だ。
俺は思わず顔を緩めた。
「……可愛い」
すると、レオンハルトが楽しそうに笑った。
「本当に猫が好きなんだね」
「……はい」
俺は頷いた。
「前世から好きでした」
王子は微笑んだ。
「そうか」
そして、床に座っていた茶トラ猫へ手を伸ばした。
猫は少しだけ警戒した様子だったが、やがて王子の指先へ鼻を近づけた。
……おお。
猫に好かれてる。
俺は少しだけ感心した。
「……殿下、猫の扱い上手ですね」
レオンハルトは小さく笑った。
「君と出会ってから、ずいぶん勉強したからね」
…………。
……え?
俺は顔を上げた。
「……勉強?」
「うん。猫の習性や、接し方について」
王子は穏やかに微笑んだ。
「君が好きなものを、僕も知りたかったんだ」
…………。
俺は、言葉を失った。
……おい。
何だよ。
それ。
ずるくない?
俺が猫を好きだから、猫について勉強した?
そんなこと、普通に言うのかよ。
しかも、何でもないことのように。
……ああ。
本当に。
この王子は、そういうところがあるんだよな。
俺が少しだけ目を逸らしていると、小さな子猫が足元へ近づいてきた。
灰色の毛並み。
丸い瞳。
まだ、少し頼りない足取り。
「……にゃあ」
俺はしゃがみ込んだ。
「……どうした?」
子猫は、俺の手の匂いを嗅いだ。
そして、そっと前脚を乗せてきた。
……おお。
可愛い。
俺は、思わず笑ってしまった。
「……殿下、見てください」
レオンハルトが隣へしゃがみ込んだ。
「どうしたの?」
「この子、すごく人懐っこいです」
王子は微笑んだ。
「本当だね」
俺たちは、しばらく子猫を眺めていた。
すると、施設の女性が静かに口を開いた。
「その子は、最近こちらへ来たばかりなんですよ」
……最近?
俺は顔を上げた。
「……そうなんですか?」
「ええ。余白の町から来た子なんです」
…………。
俺は、少しだけ目を見開いた。
余白の町。
かつて、名前のない町と呼ばれていた場所。
物語から外れた存在が暮らしていた町だ。
世界の仕組みが変わったあと、住人たちが正式に名前を決めた。
その結果、採用されたのが『余白の町』という名前だった。
ノアが提案したものだ。
「……余白の町から?」
俺が尋ねると、女性は頷いた。
「はい。あちらの方々も、最近は王都へ来ることが増えましてね」
……なるほど。
町が正式に保護されたことで、人の往来も増えたのか。
「その子は、町の方が見つけて連れてきてくださったんです」
俺は、灰色の子猫を見た。
子猫は、何も知らない様子で俺の指先へじゃれついている。
……ああ。
よかった。
本当に。
あの町が消えずに済んだことで、こうして新しい繋がりまで生まれている。
……いいな。
こういうの。
「……この子、名前は?」
俺が尋ねると、女性は少しだけ困ったように笑った。
「まだ、決まっていないんです」
……名前がない。
俺は、少しだけ考えた。
すると、レオンハルトが静かに口を開いた。
「……君なら、どんな名前をつける?」
……俺?
俺は子猫を見た。
灰色の毛並み。
丸い瞳。
小さな身体。
……そうだな。
灰色。
灰。
……いや。
何か、もっと可愛い名前がいいな。
「……ミルク、とか?」
俺が呟くと、レオンハルトが微笑んだ。
「いい名前だね」
……おお。
褒められた。
しかし、子猫は名前を呼ばれたことなど理解していない様子で、俺の指を甘噛みしていた。
……おい。
ちょっと痛いぞ。
「……ミルク」
俺は、そっと呼びかけた。
子猫が顔を上げる。
「……にゃあ」
…………。
俺は、思わず笑った。
「……可愛い」
レオンハルトも微笑んだ。
「うん」
そして、静かに続けた。
「名前をつけてもらうというのは、きっと嬉しいことなんだろうね」
…………。
俺は、少しだけ動きを止めた。
……名前。
リリア・ベルフォード。
佐伯透。
ノア。
余白の町。
……そういえば。
俺たちの物語は、ずっと名前と役割に振り回されていた。
聖女という名前。
攻略対象という役割。
男だった前世。
そして、今の俺自身。
でも。
今は違う。
俺は、自分の意思でリリアとして生きている。
透は、自分自身の人生を歩き始めている。
ノアも、相談員として働き始めた。
名前のない町にも、新しい名前がついた。
……そして。
この子猫にも、名前がつくかもしれない。
「……そうですね」
俺は、小さく頷いた。
レオンハルトは、穏やかに微笑んだ。
しばらくして、施設の女性が口を開いた。
「もしよろしければ、その名前を候補にさせていただいても?」
俺は驚いて顔を上げた。
「……いいんですか?」
「ええ。もちろんです」
……おお。
俺は小さく笑った。
「……じゃあ、お願いします」
女性は嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます」
……ああ。
何だろう。
とても小さな出来事だった。
世界を救ったときのような、派手な奇跡ではない。
ただ、一匹の子猫へ名前の候補をつけただけだ。
でも。
俺には、それが少しだけ嬉しかった。
◇
昼過ぎ。
俺たちは、王都の食堂へ向かっていた。
以前、男の姿でレオンハルトとデートしたときに訪れた店である。
……何だか、懐かしいな。
あのときは、男の姿に戻れたことが嬉しくて、何もかも新鮮に感じていた。
しかも、王子様と二人で食事することに、ものすごく緊張していた。
……今は。
まあ、まだ少し緊張するけど。
それでも、以前ほどではない。
俺は、レオンハルトの手を握った。
王子が少しだけ驚いた顔をした。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「……どうしたの?」
「……いえ」
俺は少しだけ笑った。
「……何となくです」
レオンハルトは、穏やかに頷いた。
「そうか」
そして、そっと握り返してきた。
……ああ。
何だろう。
こういうの、いいな。
俺は小さく笑った。
すると、前方から声がした。
「……おーい!」
……ん?
俺は顔を上げた。
通りの向こうから、一人の男が歩いてくる。
短い黒髪。
少し疲れた目元。
地味な顔立ち。
……透だ。
「……お前!」
俺は思わず声を上げた。
佐伯透が、こちらへ歩いてきた。
手には紙袋を持っている。
「……何やってんだ?」
俺が尋ねると、透は肩をすくめた。
「……買い物」
「……仕事は?」
「今日は休み」
……おお。
そうだった。
透も、きちんと休日を取っているんだな。
いいことだ。
「……何買ったんだ?」
俺が尋ねると、透は紙袋を持ち上げた。
「猫の餌」
…………。
俺は、少しだけ眉を寄せた。
……猫の餌?
「……お前、猫飼ってるの?」
「おう」
透は嬉しそうに笑った。
「この前、引き取ったんだよ」
……おお。
そうだったのか。
「……どんな猫?」
俺が尋ねると、透は少しだけ得意げに答えた。
「黒猫」
……なるほど。
「……名前は?」
透は、少しだけ胸を張った。
「……課長」
「…………」
俺は固まった。
……課長?
「……何で!?」
思わず叫んだ。
透は、少しだけ笑った。
「いや、何となく」
「何となくで猫に課長って名前つけるなよ!」
「いいだろ。呼びやすいし」
「……呼びやすいか!?」
俺は頭を抱えた。
……何だよ。
この男。
本当に、俺の前世の姿をしてるんだよな。
しかも、記憶まで持っている。
なのに。
俺だったら、絶対に猫へ課長なんて名前をつけないぞ。
……いや。
前世の俺なら、ちょっと面白がってつけた可能性はあるか。
俺がそんなことを考えていると、透が楽しそうに笑った。
「……お前さ」
「……何だよ」
「昔だったら、同じこと考えてたかもしれないぞ」
「……それは否定できない」
俺は深いため息をついた。
すると、レオンハルトが小さく笑った。
「……課長か。面白い名前だね」
透が頷いた。
「でしょう?」
「……殿下まで!」
俺は思わず突っ込んだ。
二人が楽しそうに笑う。
……まったく。
何だよ。
この世界、変な奴が多すぎるだろ。
しかし。
俺は、ふと透を見た。
以前は、目の前に自分と同じ顔の男がいるだけで、妙な気分になっていた。
自分自身を外側から眺めているような、不思議な感覚だった。
でも、今は違う。
透は透だ。
俺とは別の人間だ。
前世の記憶を持っていても、今では自分自身の好みがあり、自分で選んだ仕事があり、猫まで飼っている。
……何だろう。
少しだけ、嬉しいな。
「……透」
俺は静かに呼びかけた。
「……何だ?」
「……楽しそうだな」
透は、少しだけ目を丸くした。
そして、小さく笑った。
「……まあな」
俺は頷いた。
「……よかった」
透も頷いた。
「……お前もな」
…………。
俺は、少しだけ目を見開いた。
透は、俺とレオンハルトを見た。
そして、少しだけ笑った。
「……幸せそうじゃん」
…………。
俺は、思わず顔を逸らした。
……おい。
やめろ。
自分と同じ顔の男に、そういうこと言われると変な気分になる。
「……まあ」
俺は、少しだけ頬を掻いた。
「……悪くないかな」
透は、嬉しそうに笑った。
「……そっか」
そして、紙袋を持ち直した。
「じゃあ、俺は帰るわ。課長が待ってるから」
……おい。
その言い方。
完全に上司が家で待ってるみたいじゃないか。
「……おう」
俺は小さく手を上げた。
「またな」
「……おう」
透も手を上げた。
そして、王都の通りを歩いていった。
俺は、その背中を見送った。
……ああ。
よかった。
前世の俺と同じ姿をした男は、今ではちゃんと自分の人生を生きている。
それが、何より嬉しかった。
すると、隣から声がした。
「……リリア」
レオンハルトだった。
「……はい?」
「君たちは、本当に仲がいいね」
……ああ。
まあ、そうだな。
俺は小さく笑った。
「……何しろ、同じ記憶を持ってますから」
王子も微笑んだ。
「それでも、二人は別の人間なんだね」
…………。
俺は、少しだけ目を見開いた。
……ああ。
そうだ。
この人は、ちゃんとわかってくれている。
「……はい」
俺は頷いた。
「透には透の人生があります」
そして、少しだけ笑った。
「……俺にも、俺の人生がありますから」
レオンハルトは、穏やかに微笑んだ。
「……うん」
そして、静かに続けた。
「その君の人生に、僕も一緒にいられたら嬉しい」
…………。
俺は、思わず目を逸らした。
……おい。
またかよ。
何で、この王子は普通にそんなこと言えるんだよ。
「……殿下」
「何かな?」
「……そういう台詞、少し控えてもらえません?」
レオンハルトは、少しだけ首を傾げた。
「……嫌だった?」
……嫌。
俺は、少しだけ考えた。
そして、首を横に振った。
「……嫌では、ないですけど」
王子は小さく笑った。
「それなら、よかった」
…………。
……おい。
待てよ。
それ、全然控えるつもりないだろ。
俺は頭を抱えた。
……まったく。
恋愛イベントの強制進行はなくなった。
好感度も表示されなくなった。
ハーレムルートも、もう存在しない。
しかし。
……この王子自身が、恋愛イベントみたいな人間なんだよな。
俺は、深いため息をついた。
すると、レオンハルトが楽しそうに笑った。
「……リリア」
「……はい?」
「……可愛いね」
「だからあああ!」
俺は思わず叫んだ。
……おい。
何だよ。
本当に。
もうゲームじゃないんだから。
そこまで王子様らしく振る舞わなくてもいいんだぞ!
しかし、レオンハルトは嬉しそうに微笑んでいた。
……くそっ。
その笑顔、反則だろ。
◇
午後三時。
俺たちは、王都の外れにある静かな公園へ立ち寄っていた。
以前、男の姿でレオンハルトとデートしたときにも訪れた場所である。
中央には噴水があり、周囲には花壇が整備されている。
ベンチの近くでは、数匹の猫が日向ぼっこをしていた。
……いいな。
こういう場所。
俺はベンチへ腰を下ろした。
レオンハルトも隣に座る。
しばらく、二人で噴水を眺めていた。
風が吹く。
木々の葉が揺れる。
遠くから、子どもたちの笑い声が聞こえる。
……平和だ。
本当に。
俺は小さく息を吐いた。
「……何だろう」
すると、レオンハルトがこちらを見た。
「……どうしたの?」
「……いえ」
俺は少しだけ笑った。
「……こうして普通に過ごしてると、本当に世界を救ったのかって思いますね」
王子は、小さく頷いた。
「……そうだね」
俺は続けた。
「世界の運命がどうとか、物語の最終確定がどうとか、あんなに大騒ぎしてたのに」
……そうだ。
猫神祭の日。
俺たちは、世界の仕組みそのものを変えた。
誰かに定められた役割で、その人の人生が決まる世界を終わらせた。
そして、誰もが自分の未来を選べる世界へ変えた。
……すごいことだったんだよな。
でも。
今は、ただの休日だ。
猫を見て。
飯を食って。
恋人と散歩している。
……何だか、不思議だ。
「……リリア」
レオンハルトが静かに口を開いた。
「……はい?」
「僕は、それでいいと思うよ」
……え?
俺は顔を上げた。
王子は、穏やかに微笑んだ。
「世界を救ったあとに、こうして普通の日常が続いていく。それが、きっと一番大切なことなんだと思う」
…………。
俺は、少しだけ目を見開いた。
……ああ。
そうか。
確かに。
世界を救うことが目的だったわけじゃない。
俺たちが守りたかったのは、その先にある普通の生活だった。
名前のない町の人々が、これからも暮らしていけること。
透が、自分の人生を歩めること。
ノアが、新しい仕事を見つけられること。
そして俺自身が、リリアとして生きていけること。
……それが、何より大切だったんだ。
「……そうですね」
俺は小さく頷いた。
レオンハルトは微笑んだ。
そして、少しだけ真剣な表情になった。
「……リリア」
「……はい?」
「一つ、聞いてもいいかな?」
……おい。
また質問か。
俺は少しだけ笑った。
「……どうぞ」
レオンハルトは、ゆっくりと口を開いた。
「……君は、今の自分を好きになれた?」
…………。
俺は、少しだけ言葉に詰まった。
……今の自分。
リリア・ベルフォード。
前世では男だった。
今は女の身体で生きている。
王子様と付き合っている。
仕事もある。
友人もいる。
猫神という、妙に騒がしい神様までいる。
……うん。
何だろう。
以前は、こんな自分を想像もしなかった。
最初は、どうしてこんな姿になったのかと混乱していた。
男に戻りたい。
元の生活へ帰りたい。
そればかり考えていた。
しかし。
今は違う。
俺は、この世界で生きてきた。
自分の意思で仕事を選び、友人を作り、恋人を作った。
そして、これからもこの世界で生きていきたいと思っている。
……だったら。
「……好きですよ」
俺は静かに答えた。
レオンハルトが、少しだけ目を見開いた。
俺は小さく笑った。
「……最初は、全然好きになれませんでしたけど」
……そうだ。
最初は、ただの異物感しかなかった。
鏡に映る美少女が、自分だとは思えなかった。
でも。
今は。
「……今の俺も、悪くないなって思います」
俺は、ゆっくりと頷いた。
レオンハルトは、穏やかに微笑んだ。
「……それは、よかった」
…………。
俺は、少しだけ目を逸らした。
……何だよ。
そんな優しい顔するなよ。
また、嬉しくなるじゃないか。
すると、王子が静かに続けた。
「……僕は、君がどんな姿でも好きだけど」
…………。
……おい。
またかよ。
「……君自身が今の自分を好きになれたなら、それが一番嬉しい」
…………。
俺は、言葉を失った。
……ああ。
そうか。
この人は。
俺がどんな姿かより、俺自身がどう生きたいかを大切にしてくれている。
……だから。
俺は、この人を好きになったんだろうな。
俺は、少しだけ笑った。
「……ありがとうございます」
レオンハルトも微笑んだ。
そして、そっと俺の手を握った。
……ああ。
温かい。
俺は、ゆっくりと握り返した。
しばらく、二人で黙っていた。
風が吹く。
木々が揺れる。
噴水の水音が、静かに響いている。
……何だろう。
こういう時間、いいな。
俺は、少しだけ目を細めた。
すると、レオンハルトが静かに口を開いた。
「……リリア」
「……はい?」
「……一つ、お願いしてもいいかな?」
……ん?
俺は首を傾げた。
「……何でしょう?」
王子は、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
「……名前を、呼んでほしいんだ」
…………。
俺は瞬きをした。
……名前?
「……レオンハルト殿下、ですか?」
王子は首を横に振った。
「……できれば、殿下をつけずに」
…………。
俺は、少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
……おい。
待て。
それって。
恋人らしく、名前で呼べってこと?
いや、別におかしくない。
前世でも、恋人同士なら名前で呼び合うことくらいあった。
……俺には、あまり経験なかったけど。
しかし。
相手は第一王子だぞ。
今までずっと殿下と呼んでいた相手だ。
それを、急に名前で呼ぶって。
……何だか、ものすごく恥ずかしいんだけど。
「……あの」
俺は、少しだけ視線を逸らした。
「……急に言われても」
レオンハルトが小さく笑った。
「……無理にとは言わないよ」
……ああ。
そうか。
無理に言う必要はない。
でも。
俺自身は、どうしたいんだろう。
……いや。
考えるまでもないか。
俺は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そして。
「……レオン」
小さく、名前を呼んだ。
…………。
レオンハルトが、目を見開いた。
俺は、少しだけ頬を掻いた。
「……これで、いいですか?」
王子は、しばらく黙っていた。
そして。
「……うん」
とても嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとう、リリア」
…………。
俺は、思わず目を逸らした。
……おい。
やめろ。
そんな顔するな。
名前を呼んだだけだぞ。
それだけで、そんなに嬉しそうにするなよ。
……でも。
俺も、少しだけ嬉しかった。
◇
「……リリア」
しばらくして、レオンハルトが静かに口を開いた。
「……はい?」
「……もう一つ、お願いしてもいいかな?」
…………。
俺は、少しだけ眉を寄せた。
……おい。
今日はお願いが多いな。
しかし、王子の表情は真剣だった。
「……何でしょう?」
レオンハルトは、少しだけ迷ったようだった。
そして、静かに尋ねた。
「……キスしても、いい?」
…………。
俺は固まった。
……おい。
待て。
キス?
……キス!?
いや。
恋人なんだから、おかしくはない。
むしろ、普通だ。
普通の恋人同士なら、キスくらいする。
それは、わかっている。
……でも。
俺にとっては、今の身体で初めてのキスになる。
しかも、相手は男だ。
レオンハルト。
第一王子。
俺の恋人。
……ああ。
何だよ。
本当に。
乙女ゲームのヒロインを卒業したあとに、こんなイベントが待ってるなんて。
俺は、少しだけ顔が熱くなった。
レオンハルトは、静かに俺を見つめている。
急かす様子はない。
ただ、俺の返事を待っている。
……そうだ。
俺が決めればいいんだ。
前なら、恋愛イベントを回避しようとしていただろう。
ハズレスキルを使ったかもしれない。
あるいは、仕事の話にすり替えようとしたかもしれない。
……でも。
今は違う。
俺は、自分の意思でこの人と付き合うことにした。
そして。
……この人と、もっと親しくなりたいと思っている。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
レオンハルトを見た。
そして。
「……はい」
小さく答えた。
王子の表情が、柔らかくなった。
「……ありがとう」
……ああ。
何だろう。
すごく、緊張する。
俺は、そっと目を閉じた。
レオンハルトが、ゆっくりと顔を近づけてくる。
そして。
唇に、柔らかな感触が触れた。
ほんの一瞬だった。
温かくて。
優しくて。
思っていたより、ずっと静かなキスだった。
やがて、レオンハルトがゆっくりと顔を離した。
俺は、目を開けた。
目の前には、少しだけ照れくさそうに微笑む王子がいた。
「……リリア」
「……はい?」
「……好きだよ」
…………。
俺は、顔が熱くなるのを感じた。
……おい。
何だよ。
キスのあとに、その台詞。
反則だろ。
俺は、少しだけ目を逸らした。
しかし。
今回は、逃げなかった。
俺は、ゆっくりとレオンハルトを見た。
そして。
「……俺も、好きです」
小さく答えた。
王子が、嬉しそうに微笑んだ。
俺も、少しだけ笑った。
……ああ。
何だろう。
こういうの。
悪くないな。
いや。
……かなり、いいかもしれない。
俺は、そっとレオンハルトの手を握り直した。
今度は、自分から。
すると、王子が少しだけ目を細めた。
「……リリア?」
「……何ですか?」
「……もう一度、名前を呼んでほしいな」
…………。
俺は、思わず笑ってしまった。
……おい。
本当に、甘えん坊だな。
王子様って、もっと威厳のある存在じゃなかったっけ。
でも。
……まあ、いいか。
俺は、小さく息を吐いた。
そして、ゆっくりと名前を呼んだ。
「……レオン」
王子が、嬉しそうに微笑んだ。
「……うん」
……ああ。
幸せって。
こういうものなのかもしれない。
◇
「……にゃあ」
突然、足元から声がした。
…………。
俺は、ゆっくりと視線を下ろした。
白猫がいた。
金色の瞳。
ふわふわの毛並み。
そして、妙に偉そうな表情。
……ミャルティア。
「…………」
俺は、しばらく猫神を見つめていた。
猫神も、俺を見上げている。
そして。
『……にゃははは!』
頭の中に、楽しそうな声が響いた。
『ようやく、キスまで進んだか!』
「…………」
……おい。
待てよ。
お前。
ずっと見てたのか!?
『うむ。なかなかよい光景だったぞ』
……ふざけんな!
俺は、思わず立ち上がりかけた。
しかし、レオンハルトが不思議そうにこちらを見た。
「……どうしたの?」
……あ。
しまった。
俺は慌てて座り直した。
「……いえ! 何でもありません!」
レオンハルトは、少しだけ首を傾げた。
そして、足元の白猫を見た。
「……この猫、以前も見たことがあるね」
……ああ。
そうだった。
ミャルティアは、俺の周囲へ何度も現れている。
王子も、その姿を見たことがあるのだ。
「……ええ。よく懐いてるんです」
俺が答えると、猫神が得意げに尻尾を立てた。
『当然であろう。我はこの世界の主神なのだからな!』
……おい。
黙ってろ。
俺は心の中で突っ込んだ。
すると、レオンハルトが静かに手を伸ばした。
「……撫でてもいいかな?」
ミャルティアは、少しだけ考えた。
そして、当然のように頭を差し出した。
「……にゃあ」
……おい。
お前。
王子に撫でられるのはいいのかよ。
レオンハルトは、そっと猫神の頭を撫でた。
ミャルティアは、気持ちよさそうに目を細めている。
……何だろう。
世界の創造神が、王子様に撫でられている。
すごい光景のはずなのに。
見た目は、ただの猫好きな青年と白猫だった。
俺は、思わず笑ってしまった。
「……どうしたの?」
レオンハルトが尋ねた。
俺は、小さく首を横に振った。
「……いえ」
そして、静かに答えた。
「……平和だなと思って」
王子は、穏やかに微笑んだ。
「……そうだね」
……ああ。
本当に。
世界を救って。
自分の人生を選んで。
恋人ができて。
猫神まで、普通の猫として撫でられている。
……すごいな。
以前の俺なら、こんな未来を想像もしなかっただろう。
でも。
今は、これが日常なんだ。
俺は、小さく笑った。
そして、レオンハルトの隣へ少しだけ身体を寄せた。
王子は、何も言わずに微笑んだ。
……ああ。
いいな。
こういう時間。
このまま、ずっと続けばいい。
俺は、そう思った。
◇
その夜。
俺は、王立学院の寮へ戻っていた。
部屋へ入り、鞄を置き、髪飾りを外す。
そして、鏡の前へ立った。
そこには、いつものリリア・ベルフォードが映っていた。
金色の長い髪。
青い瞳。
柔らかな顔立ち。
……うん。
今日も、可愛い。
俺は、思わず笑った。
前世の俺なら、自分の顔を可愛いと思うことなんてなかった。
しかし、今は違う。
自分の身体として、少しずつ好きになってきている。
……何だろう。
不思議なものだな。
俺は、鏡の中の自分を見つめた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……リリア」
小さく、自分の名前を呼ぶ。
……ああ。
これが、俺の名前だ。
佐伯透。
それは、前世の俺が使っていた名前だった。
そして、今は別の人間が、その名前で生きている。
でも。
それでいい。
透は、透。
俺は、リリア。
同じ記憶を持っていても、これから歩む人生は違う。
……そうだ。
俺は、自分の意思でリリアとして生きることを選んだ。
だから。
今の俺は、リリア・ベルフォードだ。
俺は、小さく笑った。
そして、鏡の中の自分へ向かって言った。
「……これからも、よろしくな」
鏡の中の少女も、同じように笑った。
……ああ。
悪くない。
本当に。
悪くない人生だ。
すると、背後から声がした。
「……ふむ」
ミャルティアだった。
ベッドの上で丸くなっている。
「……何だよ?」
俺が尋ねると、猫神は静かに答えた。
「……ようやく、お前も自分の人生を気に入ったようだな」
…………。
俺は、少しだけ目を見開いた。
……ああ。
そうかもしれない。
「……まあな」
俺は小さく笑った。
「……最初は、本当にどうなることかと思ったけど」
猫神が頷いた。
「うむ」
「……今は、結構楽しいよ」
ミャルティアは、少しだけ目を細めた。
そして、嬉しそうに笑った。
「……それは、よかった」
…………。
俺は、少しだけ驚いた。
……何だよ。
珍しく、まともな反応じゃないか。
すると、猫神が静かに続けた。
「お前を、この世界へ連れてきた甲斐があったというものだ」
……ああ。
そうだな。
俺は小さく頷いた。
そして、ゆっくりとベッドへ腰を下ろした。
「……ありがとうな、ミャルティア」
猫神が、少しだけ目を丸くした。
「……む?」
「……いろいろあったけどさ」
俺は、小さく笑った。
「……この世界に来て、よかったと思ってる」
長い沈黙が訪れた。
ミャルティアは、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに頷いた。
「……そうか」
……ああ。
そうだよ。
俺は、前世では普通の男だった。
仕事をして。
疲れて帰って。
休日にはゲームをして。
そんな生活を送っていた。
決して、悪い人生ではなかった。
でも。
今は、違う人生を生きている。
女の身体で。
リリアという名前で。
王子様を恋人にして。
世界の人々と協力しながら、仕事をしている。
……すごい変化だな。
でも。
これも、俺の人生なんだ。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
そして、小さく息を吐いた。
……明日から、また仕事だ。
五部門統括マネージャー。
王宮、騎士団、魔導師団、神殿、公爵家。
それぞれの仕事を調整し、全体の進行を管理する。
……まあ。
相変わらず、面倒な仕事ではある。
でも、今は少しだけ違う。
前世では、仕事に追われることが多かった。
自分の時間がなくなり、休日も仕事のことを考えていた。
しかし、この世界では違う。
仕事と私生活を分ける。
休日は休む。
恋人との時間を大切にする。
そして、自分がどう生きたいかを、自分で決める。
……そうだ。
俺は、ようやくそれを手に入れたんだ。
俺は、小さく笑った。
そして、布団を引き寄せた。
……さて。
明日も頑張るか。
ただし。
定時で帰る。
絶対に。
◇
三か月後。
王都の保護猫施設では、ちょっとした話題が生まれていた。
以前、聖女リリア・ベルフォードが名前の候補をつけた灰色の子猫が、正式に施設の看板猫になったのである。
名前は、ミルク。
今では、施設を訪れる人々の人気者になっていた。
そして、その施設へ頻繁に訪れる二人の人物がいる。
一人は、金髪碧眼の美しい女性。
かつて千年に一人の聖女と呼ばれ、世界の運命を変えた人物。
現在は五部門統括マネージャーとして働いている、リリア・ベルフォード。
もう一人は、金髪碧眼の端正な青年。
王国の第一王子、レオンハルト・フォン・アルフェリス。
二人は恋人同士であり、休日になると一緒に猫を見に来ることがあった。
施設の職員たちは、そんな二人を温かく見守っていた。
……ただし。
今日も、少しだけ騒がしい出来事が起きていた。
「……レオン!」
「……ん?」
「ミルクが、俺の鞄に入ってる!」
リリアが叫んだ。
レオンハルトは、小さく笑った。
「……本当だね」
「……どうしよう」
リリアは、困ったように鞄を覗き込んだ。
灰色の猫が、満足そうに丸くなっている。
「……にゃあ」
……おい。
ミルク。
そこ、俺の鞄なんだけど。
俺は、思わず苦笑した。
すると、レオンハルトが静かに口を開いた。
「……リリア」
「……何?」
「……その子、君と一緒に帰りたいんじゃないかな?」
…………。
俺は、少しだけ目を見開いた。
……一緒に帰りたい?
俺は鞄の中のミルクを見た。
灰色の毛並み。
丸い瞳。
以前より少し大きくなった身体。
……可愛い。
俺は、思わず笑った。
「……そうかもしれないね」
レオンハルトも微笑んだ。
そして、静かに続けた。
「……いつか、君が猫を飼えるようになったら」
……ん?
俺は顔を上げた。
「……そのときは?」
王子は、穏やかに微笑んだ。
「……一緒に、猫のいる生活を考えてみたいな」
…………。
俺は、少しだけ固まった。
……おい。
待てよ。
一緒に猫のいる生活?
それって。
……もしかして。
将来的に、一緒に暮らしたいってこと?
俺は、少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
……おい。
何だよ。
また、そういうことを。
しかし。
俺は、レオンハルトを見た。
王子は、穏やかに微笑んでいる。
無理に答えを求める様子はない。
ただ、未来の可能性を話しているだけだ。
……ああ。
そうだよな。
今すぐ決める必要はない。
でも。
考えてみることはできる。
俺は、少しだけ笑った。
「……いいね、それ」
レオンハルトが、嬉しそうに目を細めた。
「……本当に?」
「……うん」
俺は頷いた。
そして、少しだけ照れくさくなりながら続けた。
「……いつか、そういう生活もしてみたい」
レオンハルトは、柔らかく微笑んだ。
「……嬉しいよ」
……ああ。
何だろう。
未来の話をするって、いいな。
結婚するかどうか。
一緒に暮らすかどうか。
猫を飼うかどうか。
どんな仕事を続けるか。
どんな生活をしたいか。
そのすべてを、これから二人で考えていける。
……そうだ。
もう、用意された結末なんて存在しないんだから。
俺は、鞄の中のミルクをそっと抱き上げた。
「……ほら、ミルク」
猫は、少しだけ不満そうに鳴いた。
「にゃあ」
「……今は、まだ一緒に帰れないんだ」
俺は小さく笑った。
「でも、また会いに来るから」
ミルクは、俺の指先へ鼻を近づけた。
そして、静かに目を細めた。
……ああ。
可愛いな。
本当に。
俺は、ミルクをそっと床へ下ろした。
すると、レオンハルトが手を差し出した。
「……帰ろうか」
俺は頷いた。
「……うん」
そして、自分からその手を握った。
……ああ。
温かい。
俺たちは、保護猫施設をあとにした。
夕暮れの王都。
穏やかな風。
通りを歩く人々。
そして、遠くから聞こえる猫の鳴き声。
……平和だな。
本当に。
俺は、小さく笑った。
すると、レオンハルトが静かに口を開いた。
「……リリア」
「……何?」
「……今日も、楽しかったね」
……ああ。
そうだな。
俺は頷いた。
「……うん。楽しかった」
そして、少しだけ笑った。
「……また、来ようね」
レオンハルトも頷いた。
「もちろん」
……ああ。
いいな。
こういう日常。
俺は、もう乙女ゲームのヒロインじゃない。
誰かに与えられた役割を演じる必要もない。
男だった前世を否定する必要もない。
女の身体で生きる今を、誰かに説明して納得してもらう必要もない。
ただ、俺自身が選んだ人生を生きればいい。
……そうだ。
俺は、リリア・ベルフォード。
そして、隣には大切な恋人がいる。
これから先、どんなことが起きるかわからない。
楽しいこともあるだろう。
面倒なこともあるだろう。
仕事で失敗する日もあるかもしれない。
恋人と喧嘩する日も、きっとある。
それでも。
その未来を、自分で選べるなら。
きっと、悪くない。
俺は、少しだけ笑った。
そして、レオンハルトの手を握り直した。
「……レオン」
「……何かな?」
「……これからも、よろしくね」
レオンハルトは、少しだけ目を細めた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「……こちらこそ、リリア」
俺たちは、手を繋いだまま歩き続けた。
夕暮れの王都を。
誰かに決められた結末ではなく、自分たちが選んだ未来へ向かって。
……ああ。
本当に。
いい人生だな。
俺は、心の中で小さく呟いた。
そして。
ふと、足元を見た。
そこには、白い猫がいた。
ミャルティアである。
……おい。
また、お前かよ。
『……にゃははは!』
猫神が楽しそうに笑った。
『なかなか幸せそうではないか、リリア』
……ああ。
そうだな。
俺は、小さく笑った。
『……ところで』
……ん?
俺は眉を寄せた。
『今日の夕飯は、魚がよい』
…………。
俺は、ゆっくりと天を仰いだ。
そして。
「だからお前は自分で魚を捕ってこいよおおおお!」
俺の絶叫が、夕暮れの王都に響き渡った。
レオンハルトは、驚いた顔でこちらを見る。
ミャルティアは、楽しそうに尻尾を振っている。
そして俺は、深いため息をついた。
……まったく。
本当に。
この世界は、最後まで猫だらけだ。
でも。
……まあ、いいか。
猫がいて。
友人がいて。
仕事があって。
恋人がいて。
そして、自分で選んだ人生がある。
それなら、十分だ。
俺は、隣のレオンハルトを見た。
王子も、嬉しそうに微笑んでいる。
……ああ。
幸せって、案外こういうものなのかもしれない。
俺は、小さく笑った。
そして、手を繋いだまま、夕暮れの王都を歩いていった。
もう、物語の終わりを気にする必要はない。
俺たちの人生は、これからも続いていくのだから。
……ただし。
明日は絶対に定時で帰る。
何があっても。
絶対に。
……いや。
神様。
本当に頼むから。
異世界でまで、残業だけはさせないでくれよ!
◇
後日、王立学院の記録保管室に収められた『聖女リリア・ベルフォードと五つの誓い』には、小さな追記が加えられた。
『聖女リリア・ベルフォードは、世界の運命を変えたのちも、王都にて平穏な生活を送っている』
『五部門統括マネージャーとしての勤務を継続し、休日には恋人である第一王子レオンハルトと外出する姿が目撃されている』
『また、保護猫支援活動にも積極的に参加しており、王都の猫たちからも親しまれている』
そして、最後の一文には、こう記されていた。
『なお、本人は今も、自分のことを「俺」と呼ぶことがある』
その下には、誰が書き加えたのかわからない、小さな文字が残されていた。
『でも、それでいいじゃないか』
『だって、リリアはリリアなのだから』
……ああ。
本当に。
その通りだ。
俺は、俺。
リリア・ベルフォード。
前世では男だった、今は女の身体で生きている、一人の人間。
そして、自分自身の意思で、これからの人生を選び続ける。
……それでいい。
それが、俺の物語なのだから。




