第8話 俺、男の姿で王子様とデートすることになったんだが?
異世界に転生して八日目。
俺は、ついに人生で最も恐ろしい実験に参加することになった。
人体実験ではない。
いや、厳密には人体実験なのかもしれないが、俺が恐れているのはそこではなかった。
「……エリオット様。もう一度確認しますけど、本当に大丈夫なんですよね?」
「ええ。理論上は問題ありません」
「その『理論上』って言葉、ものすごく不安になるんですが」
「ご安心ください。成功する確率は八十七パーセントです」
「十三パーセントはどうなるんですか!?」
「そこが研究の面白いところですね」
「面白がるな!」
俺が叫ぶと、宮廷魔導師エリオット・ヴェルナーは楽しそうに笑った。
二十四歳。
銀髪に片眼鏡をかけた美青年で、王国でも屈指の魔法研究者である。
そして、残念ながら乙女ゲームの攻略対象の一人でもあった。
……いや、残念ながらというのは失礼か。
こいつは本当に優秀だ。
これまでの研究でも、その能力には何度も助けられている。
ただし、研究に夢中になると周囲が見えなくなるという欠点がある。
それが致命的に厄介なのだ。
「エリオット様」
隣にいた大神官セシル・アークライトが、穏やかな声で口を開いた。
「リリア様を不安にさせるような説明は控えてください。今回は私の神聖魔法によって、肉体と魂の結びつきを監視します。異常が確認された場合は、直ちに実験を中止しますので」
「もちろん、そのつもりですよ」
エリオットが頷いた。
セシルは二十八歳。
柔らかな銀灰色の髪と緑色の瞳を持つ、大神殿の最高位神官だ。
俺が前世では男だったことを、最初に打ち明けた相手でもある。
そして現在、俺が元の男性の姿へ戻るための研究に協力してくれている。
……まあ、こいつも攻略対象なんだけど。
しかも、神官としての守秘の誓いを交わした結果、なぜか好感度が大幅に上がってしまった。
本当に、このゲームの好感度システムは信用できない。
「それで、今回の実験は何をするんでしょう?」
俺が尋ねると、エリオットは研究室の中央に置かれた装置を指さした。
床に描かれた大きな魔法陣。
その周囲に配置された六つの水晶柱。
中央には、身体を映せるほどの大きな鏡が立てられている。
昨日までの研究室とは、まるで別の場所だった。
「先日、リリア様が男性の姿へ戻られた際の魔力波長を再現します」
「……波長?」
「ええ。あなたの魂には、前世の肉体情報が残されています。通常、その情報が現在の身体へ影響することはありません。しかし、あの名前のない町では、一時的にその情報が表面化した」
エリオットは紙に図を描きながら説明した。
「今回は、それと同じ状態を魔法によって再現します。ただし、魂そのものを移動させるわけではありません」
……なるほど。
俺は小さく頷いた。
魂の移動。
それは、今の俺にとって非常に重要な問題だった。
何しろ、この世界には佐伯透という男が存在している。
俺の前世の姿と、記憶の一部を持って生まれた、もう一人の俺だ。
しかし、透は俺とは別の人格として存在している。
自分自身の意思を持ち、人生を歩み始めた一人の人間なのだ。
だから、俺が男の姿へ戻るために、透の身体を利用するようなことは絶対にしたくなかった。
「……つまり、透には影響しないんですね?」
「はい。今回の実験は、リリア様ご自身の肉体情報だけを扱います」
エリオットははっきりと答えた。
「佐伯透様の身体や人格には、一切干渉しません」
……よかった。
俺は安堵した。
すると、部屋の隅から声がした。
「まあ、俺の身体を勝手に使われても困るしな」
佐伯透だった。
二十九歳。
短い黒髪に、少し疲れた顔。
俺の前世とまったく同じ姿をした男である。
今日は王宮広報補助員としての仮採用後、初めての勤務日だった。
ちなみに、勤務開始からまだ一時間も経っていない。
「……お前、仕事は?」
俺が尋ねると、透は肩をすくめた。
「午前中は研修扱いだよ。午後から正式に資料の引き継ぎをする予定」
「だったら、こんなところで油を売ってないで、職場を見てこいよ」
「いや、俺にとっても重要な実験だろ?」
「……まあ、そうだけど」
透は少しだけ笑った。
「それに、お前が男に戻れたら、俺と見分けがつかなくなるんじゃないか?」
…………。
俺は固まった。
……そうだった。
今の俺はリリア・ベルフォード。
金髪碧眼の美少女だ。
だから、透と並んでも別人だとわかる。
しかし、元の姿へ戻ればどうなる?
短い黒髪。
二十九歳の男。
身長も、体格も、顔も同じ。
……完全に同じ顔の男が二人並ぶわけだ。
「……面倒くせえな」
俺は思わず呟いた。
透も頷いた。
「本当にな」
その瞬間、研究室の奥から別の声がした。
「心配する必要はないよ」
第一王子レオンハルト・フォン・アルフェリスだった。
二十五歳。
金髪碧眼。
整った顔立ちに、穏やかな笑み。
王国の第一王子にして、このゲームのメイン攻略対象である。
そして。
……俺が、今日最も警戒している人物でもあった。
「君たちが同じ姿でも、僕ならきっと見分けられると思う」
レオンハルトは爽やかに微笑んだ。
……おい。
何だ、その自信。
「……殿下」
「何かな?」
「顔も声も同じなんですよ?」
「それでも、君は君だからね」
…………。
俺は思わず目を逸らした。
……やめろ。
そういう台詞。
しかも、そんな自然に言うな。
俺は前世では男だったんだぞ。
それを知ってるんだろ。
……いや。
知ってるから言ってるんだよな。
この王子、最近そういうところが本当に厄介になってきた。
前世が男だとバレたら恋愛イベントが減ると思っていたのに、現実は逆だった。
五人の攻略対象たちは、俺の過去を受け入れたうえで、これまで通り接してくれるようになった。
それはありがたい。
本当にありがたい。
ただし。
王子だけは、そこからさらに一歩踏み込んできたのである。
『男性の君とも、二人で食事をしてみたい』
先日、そう言われた。
しかも、俺が男の姿へ戻ることを知ったうえでだ。
……完全にBLじゃねえか。
いや、今の身体は女だけど。
ただ、今日の実験が成功したら、正真正銘の男同士になる。
そう考えると、何だか落ち着かない。
俺がそんなことを考えていると、エリオットが手を叩いた。
「では、皆さん。準備が整いましたので、実験を開始しましょう」
……来た。
俺は深呼吸した。
いよいよだ。
男の身体へ戻るための、二度目の挑戦。
しかも今度は、名前のない町ではない。
王立学院の研究室である。
もし成功すれば、今後はもっと自由に姿を変えられるようになるかもしれない。
「……よし」
俺は拳を握った。
「お願いします!」
◇
実験が始まると、床の魔法陣が淡い青色に輝き始めた。
六つの水晶柱が共鳴し、研究室の空気がわずかに震える。
エリオットは装置の前に立ち、魔力の流れを調整していた。
セシルは俺の隣で祈りの言葉を唱えている。
透は少し離れた場所で、実験の記録を取っていた。
そしてレオンハルトは、研究室の壁際で静かに見守っている。
……何だろう。
すごいな。
王子様が、俺の性別変更実験に立ち会っている。
前世の会社でこんな企画を説明したら、間違いなく企画会議で却下されるだろう。
しかし、今の俺には切実な問題だ。
「リリア様。鏡の前へお進みください」
エリオットが声をかけた。
俺は頷き、魔法陣の中央へ立った。
目の前には、大きな鏡がある。
そこに映っているのは、いつものリリアの姿だった。
金色の長い髪。
青い瞳。
細い肩。
女性らしい身体つき。
……うん。
何度見ても可愛い。
だが、俺が望んだ姿ではない。
俺はゆっくりと目を閉じた。
前世の自分を思い出す。
朝、洗面所で髭を剃っていたこと。
寝癖のついた髪を直していたこと。
仕事帰りにスーツの上着を脱ぎ、ソファへ倒れ込んでいたこと。
休日には適当な服を着て、近所の食堂へ行っていたこと。
……懐かしい。
本当に。
「……始めます」
エリオットの声が響いた。
次の瞬間、身体が温かな光に包まれた。
足元の感覚が変わる。
重心が移動する。
肩が広がり、腕の長さが少しだけ変わっていく。
胸元の違和感が消え、喉の奥が妙にくすぐったくなった。
そして、頭を覆っていた長い髪が、するすると短くなっていく。
「……おお」
思わず声が漏れた。
低い声だった。
俺は目を開けた。
鏡の中には。
二十九歳の男が立っていた。
「……マジか」
俺は、自分の頬へ手を当てた。
顎の感触。
首元の太さ。
肩の幅。
……戻ってる。
本当に。
男に戻ってる!
「……成功です!」
エリオットが嬉しそうに叫んだ。
「素晴らしい! 魂と肉体の結びつきは安定しています!」
セシルも安堵したように微笑んだ。
「体調はいかがですか?」
「……最高です!」
俺は思わず笑った。
「いや、本当に! すごいですよ、これ!」
声が低い。
ちゃんと前世の俺の声だ。
しかも、身体の動かし方まで自然に感じる。
俺は軽く肩を回した。
そして、その場で小さく跳ねてみた。
……ああ。
この感覚。
やっぱり、こっちのほうが落ち着く。
「……おい」
隣から、声がした。
透だった。
俺は振り返った。
そして。
「…………」
「…………」
二人で固まった。
目の前に、自分とまったく同じ顔の男がいる。
……いや。
わかってた。
わかってたけど。
実際に見ると、かなり気持ち悪いな。
「……お前」
透が口を開いた。
「……何だよ」
「……本当に俺だな」
「……そうだな」
俺たちは、しばらく互いを見つめていた。
そして、同時にため息をついた。
「……ややこしい」
「……ややこしいな」
……完全に一致した。
やっぱり、同じ記憶を持っているだけのことはある。
しかし。
そのとき、背後から声がした。
「……リリア?」
レオンハルトだった。
俺は振り返った。
「……はい?」
王子は、少しだけ驚いた顔をしていた。
いや。
驚いたというより、何かを確かめるような表情だった。
金色の瞳が、俺の顔をじっと見つめている。
……おい。
何だよ。
そんなに見るな。
「……なるほど」
王子が静かに呟いた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「これが、君の本来の姿なんだね」
…………。
俺は、少しだけ緊張した。
今までレオンハルトは、リリアの姿をした俺としか話したことがなかった。
もちろん、男だったことは知っている。
それでも、実際に男の姿を見たら、何か感じ方が変わるかもしれない。
……そうだよな。
きっと、変わるはずだ。
俺は恐る恐る尋ねた。
「……どうですか?」
王子は、少しだけ首を傾げた。
「どう、とは?」
「……いや、その」
俺は言葉を選んだ。
「……女の姿とは、随分違うでしょう?」
レオンハルトは、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに頷いた。
「そうだね。確かに、外見はかなり違う」
……うん。
まあ、そうだよな。
「でも」
王子は、柔らかく微笑んだ。
「君の表情は、今までと変わらないね」
…………。
……え?
「少し困ったときに眉を寄せるところも、嬉しいときにすぐ笑うところも」
レオンハルトは続けた。
「僕が知っている君のままだよ」
…………。
俺は、思わず目を逸らした。
……おい。
何だよ、それ。
女の姿で言われても困る台詞なのに。
男の姿で言われると、さらに困るじゃないか。
俺は、前世では普通のサラリーマンだったんだぞ。
王子様にこんなふうに見つめられる経験なんて、当然なかった。
しかも、相手は男だ。
俺も男だ。
……いや。
何度考えても。
これ、完全にBLじゃねえか。
俺がそんなことを考えていると、目の前に青白い文字が浮かび上がった。
『男性主人公との恋愛分岐が有効になりました』
『対象:レオンハルト』
『特殊イベント:初めて見る、男の君』
『レオンハルト好感度+10』
……おい。
待て。
男になっただけで好感度が上がるのかよ。
『主人公の感情を確認しています』
……ん?
『レオンハルトへのときめき+3』
「…………」
……何で俺まで上がるんだよ!
俺は慌てて首を振った。
すると、エリオットが心配そうに声をかけてきた。
「……どうなさいました?」
「いえ! 何でもありません!」
俺は慌てて答えた。
すると、透が隣で小さく笑った。
「……お前、男に戻っても顔赤くなるんだな」
「うるせえ!」
俺は反射的に叫んだ。
……くそっ。
よりによって、自分の顔をした男に言われると、余計に腹が立つ。
◇
「さて、実験の結果ですが」
エリオットが研究記録を確認しながら口を開いた。
「今回の肉体変化は、最大で二時間ほど維持できると考えられます」
「……二時間?」
俺は眉を寄せた。
「もっと長くはできないんですか?」
「理論上は可能ですが、まだ安定性に問題があります。長時間維持すると、魂と肉体の結びつきが不安定になる恐れがありますので」
……なるほど。
まあ、仕方ないか。
前回は名前のない町という特殊な場所だった。
あそこでは数時間、問題なく男の姿を維持できた。
しかし、今回は普通の世界だ。
制約があるのも当然なのだろう。
「……では、二時間経ったら元の姿へ戻るんですね?」
「はい。こちらから解除することもできますが、時間が経過すれば自動的に戻るよう設定しています」
セシルが頷いた。
「体調の変化があれば、すぐにお知らせください」
「わかりました」
俺は深く息を吐いた。
……二時間。
短いな。
だが、男の姿へ戻れるようになったこと自体、大きな進歩だ。
しかも、今後研究が進めば、もっと長く維持できるようになるかもしれない。
……よし。
焦らず、少しずつ進めていこう。
そう考えた、そのときだった。
「……リリア」
レオンハルトが、静かに声をかけてきた。
「……はい?」
「もし体調に問題がないなら、少し外を歩かないかい?」
…………。
……え?
俺は瞬きをした。
「……外?」
「うん。せっかく男性の姿へ戻れたんだから、研究室に閉じこもっているのはもったいないだろう?」
……なるほど。
確かに、そうだ。
せっかく男に戻れたのに、研究室で二時間を使い切るのはもったいない。
しかし。
待てよ。
これ。
王子と二人きりで外出するってこと?
「……あの」
俺は慎重に尋ねた。
「……それって、デートですか?」
レオンハルトは、少しだけ考えた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「君がそう呼んでくれるなら、嬉しいかな」
…………。
……おい。
また、その言い方。
ずるくない?
「もちろん、嫌なら断ってくれて構わないよ」
王子は続けた。
「ただ、僕は君と、普通に食事をしてみたいんだ」
……普通に。
俺は、少しだけ考えた。
そうだ。
普通に食事をするだけなら、別に問題ない。
俺は前世でも、男友達と飯を食べたことがある。
相手が王子様だからといって、必ずしも恋愛になるわけじゃない。
それに、男の姿でレオンハルトと会うことには、少しだけ興味があった。
リリアの姿では、どうしても聖女として扱われてしまう。
しかし、今の俺は普通の二十九歳の男だ。
この姿なら、少し違う関係で話せるかもしれない。
「……わかりました」
俺は頷いた。
「一緒に食事しましょう」
レオンハルトの表情が明るくなった。
「ありがとう。嬉しいよ」
……おい。
そんなに嬉しそうにするな。
俺まで変に緊張するだろ。
すると、エリオットが口を開いた。
「外出は構いませんが、身体の状態を確認できるよう、こちらの魔導具を持っていってください」
そう言って、小さな銀色の腕輪を差し出した。
「魔力の安定性を監視するためのものです。異常があれば、すぐに私のところへ通知が届きます」
「……なるほど」
俺は腕輪を受け取った。
セシルも頷いた。
「無理をなさらず、少しでも体調が悪くなったら戻ってきてください」
「はい」
……よし。
安全面も問題ない。
俺は深呼吸した。
そして、レオンハルトを見た。
「……それじゃあ、行きましょうか」
王子は、柔らかく微笑んだ。
「うん。行こう」
こうして。
俺は、男の姿で王子様とデートすることになった。
……いや。
デートじゃない。
ただの食事だ。
男同士の、普通の食事。
……そうだ。
絶対に、そうだ。
俺は自分に言い聞かせながら、研究室をあとにした。
◇
王立学院を出ると、昼下がりの王都には穏やかな日差しが降り注いでいた。
石畳の道。
行き交う馬車。
露店で買い物をする人々。
建物の屋根には、相変わらず猫の彫像が並んでいる。
……うん。
普通の街だ。
ただし、一つだけ問題があった。
俺の隣を歩いているのが、第一王子だということだ。
「……殿下」
「何かな?」
「……その格好で大丈夫なんですか?」
俺は、レオンハルトの服装を見た。
今日は王族らしい礼装ではなく、落ち着いた色の上着を着ている。
しかし、顔立ちの良さは隠しようがない。
金色の髪。
青い瞳。
整った顔。
しかも、立ち居振る舞いが上品だ。
どう見ても、普通の青年には見えない。
「心配しなくても、今日は目立たない服装にしているよ」
王子は微笑んだ。
……いや。
服装だけの問題じゃないんだよ。
俺が内心で突っ込んでいると、通りすがりの女性たちがこちらを見ていた。
「あの方、素敵ね」
「どこかの貴族様かしら?」
「隣の男性は、お付きの方?」
…………。
……おい。
待て。
隣の男性って、俺のことだよな。
俺は自分の服装を見下ろした。
地味なシャツ。
黒いズボン。
借り物の上着。
……うん。
普通のサラリーマンだ。
王子と並ぶと、完全に付き人である。
俺は小さくため息をついた。
「……何か、俺だけ地味ですね」
レオンハルトは、少しだけ首を傾げた。
「そうかな?」
「そうですよ。殿下は、どう見ても貴族ですし」
王子は小さく笑った。
「でも、僕は今、君と二人で歩いているだけの青年だよ」
…………。
……おい。
何だよ、その台詞。
爽やかすぎるだろ。
「……そういうことを普通に言えるの、ずるいですよ」
俺が呟くと、レオンハルトは楽しそうに笑った。
「褒め言葉として受け取っておくよ」
……いや。
褒めてねえから。
俺は顔を逸らした。
すると、王子が少しだけ声を落とした。
「……ところで」
「……はい?」
「今の君を、どう呼べばいいかな?」
……名前。
俺は少しだけ考えた。
昨日、レオンハルトからも尋ねられたことだ。
前世の名前は、佐伯透。
だが、今は同じ名前を持つ男が別の人間として存在している。
俺自身はリリア・ベルフォードとして、この世界を生きている。
……難しいな。
「……とりあえず、リリアでいいですよ」
俺は答えた。
王子は少し驚いたようだった。
「いいのかい?」
「はい。今の名前も、もう自分の名前ですから」
俺は小さく笑った。
「男の姿に戻ったからって、急に別人になるわけじゃありませんし」
レオンハルトは、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに微笑んだ。
「……そうだね」
「……はい」
「では、リリア」
王子は、柔らかい声で俺の名前を呼んだ。
「今日はよろしく」
…………。
俺は、少しだけ胸の奥が温かくなった。
……何だろう。
男の姿で、リリアと呼ばれる。
普通なら違和感がありそうなものだが、不思議と嫌ではなかった。
この世界で過ごした時間も、確かに俺の人生なのだ。
そう思えたからかもしれない。
「……こちらこそ」
俺は頷いた。
そして、王子と一緒に王都の街を歩き始めた。
◇
レオンハルトが案内してくれたのは、王都の中心から少し離れた場所にある、小さな食堂だった。
木製の看板。
落ち着いた外観。
窓辺には花が飾られ、入口には猫の形をした小さな置物がある。
……いいな。
こういう店、好きだ。
「……ここですか?」
俺が尋ねると、王子は頷いた。
「うん。昔から通っている店なんだ」
「……殿下が?」
「そうだよ。子どもの頃、こっそり王宮を抜け出して来たことがあってね」
……おい。
王子様。
子どもの頃から脱走癖があったのかよ。
「そのとき、店主に見つかってしまって。ずいぶん叱られたよ」
王子は楽しそうに笑った。
……なるほど。
王族にも、そういう思い出があるんだな。
俺は小さく笑った。
「……じゃあ、今日は怒られないようにしましょう」
「ははっ。そうだね」
俺たちは店内へ入った。
店は比較的空いており、窓際の席へ案内された。
俺は椅子へ腰を下ろし、献立表を眺めた。
肉の煮込み。
魚料理。
香草を使ったスープ。
焼きたてのパン。
どれも美味しそうだった。
「……何にしようかな」
俺が考えていると、レオンハルトが微笑んだ。
「君は肉料理が好きなのかな?」
「……え?」
「昨日、佐伯殿から少し聞いたんだ。前世では、肉料理をよく食べていたそうだね」
…………。
……透。
お前。
何を勝手に喋ってるんだよ。
「……まあ、好きですけど」
俺は苦笑した。
王子は嬉しそうに頷いた。
「それなら、ここの煮込み料理がおすすめだよ」
……なるほど。
俺は献立表を見た。
「……じゃあ、それにします」
王子も同じ料理を注文した。
しばらくして、温かな料理が運ばれてきた。
大きな皿に盛られた肉の煮込み。
香ばしいパン。
野菜のスープ。
……うん。
美味しそうだ。
「いただきます」
俺はパンをちぎり、煮込みに浸した。
そして、一口食べる。
「……うまっ!」
思わず声が出た。
肉は柔らかく、野菜の旨味がしっかりと染み込んでいる。
味付けも濃すぎず、パンによく合う。
……いいな。
こういう料理。
俺は前世でも、近所の定食屋が好きだった。
豪華な料理より、気軽に食べられるもののほうが落ち着く。
「……美味しい?」
王子が尋ねた。
「めちゃくちゃ美味しいです!」
俺は笑った。
すると、レオンハルトも嬉しそうに微笑んだ。
「それはよかった」
……ああ。
何だろう。
普通だな。
思っていたより、ずっと普通だ。
男同士で食堂に入って。
普通に料理を食べて。
普通に話をしている。
別に、変なことは何も起きていない。
……そうだよ。
これでいいんだよ。
俺は少しだけ肩の力を抜いた。
すると、レオンハルトが静かに口を開いた。
「……リリア」
「……はい?」
「君は、前世ではどんな生活をしていたんだい?」
……前世。
俺は少し考えた。
「……普通の会社員でしたよ」
「会社員?」
「はい。ゲームを作る会社で、広報の仕事をしていました」
王子が興味深そうに首を傾げた。
「広報というのは、どんな仕事なんだい?」
「そうですね……」
俺は少し考えた。
「商品やサービスを、たくさんの人に知ってもらう仕事です」
王子は頷いた。
「なるほど。王宮の広報官に近い仕事かな」
「そうかもしれません」
俺は小さく笑った。
「ただ、俺のいた会社では、ゲームという娯楽商品を扱っていました」
「ゲーム?」
「ええ。人が物語を楽しんだり、登場人物を操作したりするものです」
……まあ。
今の俺は、そのゲームの中にいるんだけどな。
そこまで説明すると面倒なので、ひとまず黙っておく。
「……面白そうだね」
レオンハルトが微笑んだ。
「君が作っていたゲームを、僕も見てみたかったな」
…………。
俺は固まった。
……おい。
やめろ。
それだけは。
お前が攻略対象として登場する十八禁乙女ゲームなんだぞ。
自分の恋愛イベントを見せられたら、どうなると思ってるんだよ。
しかも、宣伝文句を考えたのは俺だ。
……絶対に見せたくねえ。
「……あまり面白くないですよ」
俺は慌てて答えた。
王子が首を傾げた。
「そうなの?」
「ええ。まあ……」
……いや。
待てよ。
面白くないというのは、さすがに失礼か。
前世の開発スタッフが一生懸命作っていたゲームだ。
発売前にこんなことを言うのは、広報担当として問題がある。
「……面白いとは思いますけど、俺が関わっていた作品は、ちょっと特殊なので」
王子は小さく笑った。
「ますます興味が湧くね」
……やめろ。
本当にやめろ。
俺はパンを口へ運び、話題を変えることにした。
「……殿下は、普段どんな仕事をしてるんですか?」
王子は少しだけ目を丸くした。
「僕?」
「はい。王族としての仕事って、実際にはどんなことをしてるんだろうと思って」
レオンハルトは少し考えた。
「そうだね。議会への出席、各領地からの報告の確認、外交関係の調整、それから王宮行事の準備などかな」
……なるほど。
結構忙しいんだな。
「……休みはあるんですか?」
俺が尋ねると、王子は小さく笑った。
「一応はね。ただ、完全に仕事から離れられる日は少ないかな」
……ああ。
わかる。
俺は思わず頷いた。
「……それ、しんどくないですか?」
王子が少し驚いた顔をした。
「……しんどい?」
「はい。休みの日まで仕事のことを考えてたら、疲れが取れないでしょう?」
レオンハルトは、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに笑った。
「……そうだね」
俺は真剣な表情で続けた。
「ちゃんと休んだほうがいいですよ。仕事って、無理すれば何とかなるものでもありませんし」
……ああ。
前世の俺にも、言ってやりたい言葉だな。
俺は、少しだけ苦笑した。
すると、レオンハルトが静かに口を開いた。
「……君は、優しいね」
…………。
……え?
俺は瞬きをした。
「……いや、普通のことですよ」
「そうかな?」
王子は穏やかに微笑んだ。
「僕の立場を心配してくれる人は多い。でも、仕事を減らして休んだほうがいいと言ってくれる人は、あまりいないんだ」
……なるほど。
王子様も大変だな。
俺は少しだけ同情した。
「……だったら、今度は殿下も休暇を取ったらどうです?」
俺が提案すると、王子は目を細めた。
「……いいね」
「でしょう?」
「そのときは、また君と一緒に過ごしたいな」
…………。
……おい。
待て。
今の流れで、そうなる?
「……あの」
俺は少しだけ顔を引きつらせた。
「……休暇って、一人で過ごしてもいいんですよ?」
王子は楽しそうに笑った。
「もちろん。でも、君と話している時間は、僕にとっていい休息になっているからね」
…………。
俺は、思わず目を逸らした。
……くそっ。
何だよ。
この王子。
自然に口説きすぎだろ。
しかも、相手は男の俺だぞ。
今は、正真正銘の男なんだぞ。
それなのに。
……何で、そんな優しい顔で言えるんだよ。
すると、目の前に青白い文字が浮かび上がった。
『特殊イベント発生』
『男性主人公との昼食』
『恋愛分岐の進行条件を達成しました』
『レオンハルト好感度+5』
『主人公のときめき+5』
「…………」
……おい。
待て。
また上がった。
しかも、俺のときめきまで。
……いや。
もう、いいか。
正直に言えば、少しだけ嬉しかったのは事実だ。
男の姿で、こんなふうに誰かから大切にされる。
それは、今まで経験したことのない感覚だった。
……まあ。
慣れないけどな。
◇
食事を終えたあと、俺たちは王都の小さな公園へ立ち寄った。
中央には噴水があり、その周囲には花壇が整備されている。
そして、当然のように猫の彫像が置かれていた。
……本当に猫だらけだな、この国。
俺はベンチへ腰を下ろした。
レオンハルトも、隣に座った。
しばらく、二人で噴水を眺めていた。
……静かだ。
さっきまでの食堂も悪くなかったが、こういう時間もいい。
俺は小さく伸びをした。
「……ああ、落ち着く」
すると、レオンハルトが微笑んだ。
「君は、こういう場所が好きなんだね」
「……はい。静かで、人が少ない場所は好きです」
俺は頷いた。
王子も、ゆっくりと噴水へ視線を向けた。
「……僕も、たまにはこういう時間が必要なのかもしれない」
……そうだよな。
王子様だって人間だ。
ずっと仕事ばかりしていたら、疲れるだろう。
俺は少しだけ笑った。
「……じゃあ、今日はいい休日ですね」
「うん」
王子は頷いた。
「君と一緒だから、なおさらね」
…………。
……またかよ。
俺は思わず顔を逸らした。
すると、レオンハルトが小さく笑った。
「……困らせてしまったかな?」
「……少し」
俺は正直に答えた。
王子は穏やかに頷いた。
「そうか。ごめんね」
……ああ。
ちゃんと引いてくれるんだな。
俺は少しだけ安心した。
しかし、そのときだった。
目の前に、青白い文字が浮かび上がった。
『恋愛イベント発生』
『王子との夕暮れの約束』
『イベント概要:主人公とレオンハルトが、将来について語り合う』
『特別演出:手を重ねる、愛の告白、口づけ』
「…………」
……おい。
待て。
今、真っ昼間だぞ。
夕暮れじゃないだろ。
というか。
口づけ!?
お前!
またそういうイベントを!
俺は慌てて周囲を見渡した。
公園には人がいる。
子どもたちが遊んでいる。
老人が散歩している。
そして、噴水の近くでは猫が昼寝している。
……よし。
大丈夫だ。
こんな場所で、いきなりキスなんてするわけがない。
そう思った、その瞬間。
『シナリオ補正を開始します』
『恋愛イベントの発生条件を調整しています』
『周辺人物の退場を準備します』
…………。
……おい。
待て待て待て!
周辺人物の退場!?
何だよ、それ!
俺たちを二人きりにするつもりか!?
俺が焦っていると、突然、噴水の近くから声がした。
「にゃあ!」
白猫だった。
ミャルティアではない。
普通の、少し小さな白猫だ。
その猫が、噴水の縁に飛び乗ろうとしていた。
しかし、足を滑らせた。
「……あっ!」
俺は思わず立ち上がった。
猫が水へ落ちる。
その瞬間、レオンハルトも立ち上がった。
「危ない!」
王子が素早く手を伸ばす。
俺も、反射的に駆け寄った。
そして。
猫は、噴水の中へ落ちた。
……いや。
正確には。
落ちる寸前で、俺が抱き上げた。
「……よし!」
俺は小さく息を吐いた。
白猫は驚いたように鳴いている。
「にゃあ!」
「……大丈夫か?」
俺は猫を抱き直した。
幸い、怪我はないようだった。
……よかった。
本当に。
すると、レオンハルトが隣で微笑んだ。
「……さすがだね」
「……何がですか?」
「君は、自分のことより先に、困っている相手を助けようとするんだね」
…………。
俺は少しだけ眉を寄せた。
……いや。
普通だろ。
目の前で猫が落ちそうになってたら、助けるだろ。
「……たまたまですよ」
俺は肩をすくめた。
すると、王子が穏やかに笑った。
「そういうところが、君らしいと思う」
…………。
……おい。
何だよ。
また好感度が上がりそうな台詞を。
俺は少しだけ身構えた。
しかし。
今度は、青白い文字が現れなかった。
……ん?
俺は瞬きをした。
おかしい。
いつもなら、ここで好感度が上がるはずなのに。
俺が首を傾げていると、突然、別の文字が浮かび上がった。
『シナリオ補正に失敗しました』
『予定された口づけイベントが成立しませんでした』
『原因:主人公の自発的行動』
……自発的行動?
俺は眉を寄せた。
……そうか。
今、俺は猫を助けた。
《ハズレスキル》は使っていない。
ただ、自分の意思で動いた。
その結果、予定されていた恋愛イベントが成立しなかった。
……待てよ。
これ。
もしかして。
今までとは、何かが違うんじゃないか?
俺は少しだけ考え込んだ。
すると、レオンハルトが声をかけてきた。
「……リリア?」
「……はい?」
「どうかした?」
俺は、少しだけ迷った。
……話してみるか。
王子は、俺が異世界から転生してきたことを知っている。
そして、前世ではゲーム会社で働いていたことも知っている。
ただ、この世界そのものがゲームの舞台だという話は、まだしていない。
……しかし。
今の俺には、少しだけ確かめたいことがあった。
「……殿下」
「何かな?」
「一つ、変なことを聞いてもいいですか?」
王子は微笑んだ。
「もちろん」
俺は深呼吸した。
「……もし、最初から自分の人生が誰かに決められていたとしたら、どう思います?」
レオンハルトは、少しだけ驚いた顔をした。
そして、ゆっくりと考え込んだ。
「……そうだね」
しばらくして、静かに答えた。
「僕は、王子として生まれた時点で、多くのことが決まっていたと思う」
……ああ。
そうだよな。
俺は頷いた。
「王位を継ぐこと。国のために働くこと。必要なら、政略結婚をすることも」
王子は、少しだけ苦笑した。
「だから、自分の人生が誰かに決められているという感覚は、わからなくもない」
……なるほど。
確かに、王族というのはそういう立場なのかもしれない。
「……でも」
レオンハルトは、俺を見た。
「その中で、何を選ぶかは自分で決めたいと思っているよ」
…………。
俺は、少しだけ目を見開いた。
王子は続けた。
「誰かに与えられた役割があったとしても、それをどう果たすかは、自分自身で考えられるはずだから」
……ああ。
なるほど。
そういうことか。
俺は小さく頷いた。
すると、レオンハルトが静かに微笑んだ。
「……君も、同じことを考えているのかな?」
……え?
俺は顔を上げた。
王子は穏やかに続けた。
「聖女という役割を与えられて、君自身が望む姿とは違う身体になって」
……ああ。
そうだった。
「でも、君はその中で、自分がどう生きたいかを探している」
俺は黙っていた。
「僕は、それを素晴らしいことだと思うよ」
…………。
俺は、少しだけ胸が温かくなった。
……何だよ。
この王子。
本当に、ずるいな。
そんなことを言われたら。
……嬉しくなるじゃないか。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとうございます」
王子は微笑んだ。
「どういたしまして」
……ああ。
何だろう。
今までとは、少し違う。
男の姿で話しているからだろうか。
それとも、王子が俺の事情を知っているからだろうか。
少なくとも、今は無理に恋愛イベントを避けようとは思わなかった。
ただ、普通に話していたかった。
そんな気持ちになっていた。
◇
「……ところで、リリア」
しばらくして、レオンハルトが口を開いた。
「……はい?」
「君に、一つだけ伝えておきたいことがあるんだ」
……ん?
俺は少しだけ身構えた。
王子は、真剣な表情だった。
「僕は、君のことが好きだと思う」
…………。
俺は固まった。
……おい。
待て。
今。
何て言った?
「……好き?」
俺が聞き返すと、レオンハルトは頷いた。
「うん」
……おいおいおい。
待て待て待て。
男だぞ。
今の俺、男だぞ。
しかも、二十九歳の普通の男だぞ。
金髪美少女じゃないんだぞ。
それなのに。
……好き?
「……あの」
俺は、慎重に尋ねた。
「……恋愛的な意味で、ですか?」
王子は、少しだけ考えた。
そして、静かに答えた。
「……そうだね。少なくとも、君を特別な存在だと感じている」
…………。
俺は、言葉を失った。
王子は続けた。
「もちろん、君が同じ気持ちである必要はない。僕自身、まだこの感情を完全に理解できているわけではないから」
……なるほど。
俺は黙って聞いていた。
「ただ、君が男性の姿になった今でも、僕は君と一緒にいたいと思っている」
……ああ。
そうか。
王子は、俺の姿が変わっても、気持ちが変わらなかったんだ。
いや。
むしろ。
男の姿になった俺と話すことで、自分の気持ちを確かめようとしている。
……何だよ。
それ。
真面目すぎるだろ。
俺は少しだけ目を逸らした。
すると、王子が静かに口を開いた。
「……困らせてしまったかな?」
「……正直に言うと、かなり」
俺は苦笑した。
レオンハルトも小さく笑った。
「そうか。ごめんね」
「……でも」
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
「嫌では、ないです」
王子が目を見開いた。
俺は少しだけ頬を掻いた。
「……ただ、今まで男として生きてきたので、男の人からこういうことを言われるのに慣れてないんですよ」
レオンハルトは、静かに頷いた。
「うん」
「しかも、相手が王子様ですし」
王子が小さく笑った。
「それは、僕も少し困っているところかな」
……ん?
俺は首を傾げた。
「……何がですか?」
「僕は王子だからね。君に好意を伝えることが、立場を利用しているように感じられないか心配なんだ」
……ああ。
なるほど。
俺は少しだけ感心した。
こいつ、ちゃんと考えてるんだな。
王族からの求愛。
それは、普通の人間にとって簡単に断れるものではないかもしれない。
だからこそ、王子は何度も俺の意思を確認してくれているのだろう。
「……大丈夫ですよ」
俺は小さく笑った。
「嫌なときは、ちゃんと断りますから」
レオンハルトは、少しだけ目を細めた。
「……うん。君なら、そうだろうね」
……ああ。
そうだよ。
俺は嫌なことは嫌だと言う。
それは、今の身体が女でも、男に戻っても変わらない。
俺自身の意思なのだから。
……そう考えると。
少しだけ、気持ちが楽になった。
そのときだった。
レオンハルトが、ゆっくりと右手を差し出した。
「……リリア」
「……はい?」
「手を握ってもいいかな?」
…………。
……おい。
待て。
手?
手を握る?
男同士で?
いや、握手なら普通だ。
前世でも、仕事で握手くらいしたことはある。
しかし。
今の雰囲気で手を握るというのは。
どう考えても、そういう意味だろ。
俺は、差し出された手を見つめた。
長い指。
整った手。
王族らしい、綺麗な手だった。
……何だろう。
妙に緊張する。
俺は、少しだけ迷った。
そして。
「……少しだけなら」
そう答えていた。
……おい。
俺。
何言ってんだ?
しかし、もう遅い。
レオンハルトは、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう」
そして、そっと俺の手を握った。
温かい。
思っていたより、少し大きな手だった。
俺も男の姿なのに、王子のほうが少しだけ手が大きい。
……何だよ。
身長差だけじゃなく、手の大きさまで負けてるのか。
俺は、そんなくだらないことを考えた。
しかし。
手を握られている感覚が、妙にはっきりしていた。
男の姿。
男の手。
相手も男。
……完全に、BLだ。
しかも。
俺は、その手を振り払おうとは思わなかった。
……あれ?
何だろう。
俺。
もしかして。
……これ、嫌じゃないのか?
その瞬間。
『特殊イベント発生』
『王子との初めての接触』
『男性主人公との恋愛ルートが進行します』
『主人公のときめき+15』
「…………」
……おい。
待て。
十五!?
何だよ、その数字!
俺は思わず顔を上げた。
すると、レオンハルトが心配そうに尋ねた。
「……どうしたの?」
「……いえ」
俺は慌てて首を振った。
「……何でもありません」
王子は、少しだけ笑った。
そして、静かに言った。
「……君の手、温かいね」
…………。
……おい。
やめろ。
そういう台詞。
今の俺に効くから。
俺は、思わず目を逸らした。
すると、さらに新しい文字が浮かび上がった。
『恋愛イベントの進行条件を確認しました』
『予定された口づけイベントへの移行が可能です』
『主人公の選択を待機しています』
……え?
俺は目を見開いた。
選択を待機?
いつもなら、勝手にシナリオ補正が始まるはずなのに。
今回は、違う。
俺が選ぶまで、イベントが進まないらしい。
……なるほど。
これが。
俺の意思で選べるということなのか。
俺は、少しだけ考えた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……殿下」
「何かな?」
「……今日は、ここまでにしませんか?」
レオンハルトは、少しだけ目を細めた。
そして、静かに頷いた。
「もちろん」
俺は、そっと手を離した。
王子も、自然に手を引いた。
……よかった。
ちゃんと止められる。
俺が望まないことは、進まない。
それだけのことが、今は嬉しかった。
すると。
『イベント結果を確認しています』
『口づけイベント:未成立』
『主人公の意思による終了を確認』
『シナリオ補正:実行されません』
…………。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
……成功だ。
今度こそ。
《ハズレスキル》を使わずに、恋愛イベントを止められた。
しかも、王子との関係を壊すこともなく。
……ああ。
そうか。
俺は、ようやく理解した。
恋愛イベントを回避することと、誰かの好意を拒絶することは、同じではない。
俺が望まないことを、無理に受け入れる必要はない。
しかし、相手の気持ちを知ったうえで、自分の気持ちを考えることはできる。
そして、どこまで進むかも、自分で決められる。
……そうだ。
それでいいんだ。
俺は、小さく笑った。
すると、レオンハルトが静かに尋ねた。
「……また、こうして会ってくれるかな?」
俺は少しだけ考えた。
そして、頷いた。
「……はい」
王子が嬉しそうに微笑んだ。
俺は慌てて続けた。
「ただし、次もデートになるかどうかは、まだわかりませんからね!」
レオンハルトは、小さく笑った。
「もちろん。それでも嬉しいよ」
…………。
……何だよ。
その笑顔。
ずるいな。
本当に。
◇
午後一時五十分。
俺たちは王立学院へ戻った。
腕輪の魔導具が淡く輝き、そろそろ変身の維持時間が限界に近づいていることを知らせていた。
「……そろそろ戻るみたいですね」
俺が呟くと、レオンハルトが頷いた。
「そうだね。研究室へ戻ろう」
俺たちは、学院の中庭を歩いていた。
……ああ。
二時間って、短いな。
さっきまで普通に食事をしていたのに。
もう、男の姿でいられる時間が終わってしまう。
俺は、少しだけ残念に思った。
しかし。
以前とは、少しだけ気持ちが違っていた。
前回、男の姿からリリアへ戻ったときは、強い喪失感があった。
自分の身体を、再び失ってしまったような気がしたのだ。
だが、今回は違う。
男に戻れる方法が、少しずつ見えてきている。
しかも、俺の事情を理解して協力してくれる人たちがいる。
……だから。
今は、少しだけ安心できる。
「……リリア」
隣から声がした。
レオンハルトだった。
「……はい?」
「今日は、ありがとう」
……え?
俺は少しだけ驚いた。
「……こちらこそ。食事、ごちそうさまでした」
王子は微笑んだ。
「また行こうね」
……ああ。
そうだな。
俺は頷いた。
「……はい」
その瞬間、腕輪がもう一度輝いた。
身体が温かな光に包まれる。
重心が変わる。
肩が少しだけ狭くなる。
髪が伸びる。
声が高くなる。
そして。
俺は、再びリリア・ベルフォードの姿へ戻った。
……ああ。
戻ったか。
俺は自分の手を見下ろした。
細い指。
白い肌。
前世とは違う身体。
……でも。
今度は、少しだけ落ち着いていた。
俺は小さく息を吐いた。
「……戻っちゃいましたね」
レオンハルトは、穏やかに微笑んだ。
「うん」
そして、静かに続けた。
「でも、君は君のままだよ」
…………。
俺は、少しだけ目を見開いた。
……ああ。
そうだな。
男の姿でも。
女の姿でも。
俺は俺だ。
それは、変わらない。
「……ありがとうございます」
俺は、小さく笑った。
すると、王子も嬉しそうに微笑んだ。
そして、研究室の扉を開けた。
◇
「……なるほど」
エリオットは、実験記録を確認しながら頷いた。
「非常に良好な結果です」
俺は研究室の椅子に座り、身体の状態を確認してもらっていた。
セシルが神聖魔法で魂の安定性を調べている。
透は隣で記録を取っていた。
「肉体の変化は完全に解除されています。魂の状態にも異常はありません」
セシルが微笑んだ。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
俺は安堵した。
……よし。
成功だ。
男の姿へ戻って、二時間ほど過ごすことができた。
しかも、何の問題もなくリリアの姿へ戻れた。
……これなら。
今後も研究を続ければ、もっと長く維持できるようになるかもしれない。
俺は少しだけ嬉しくなった。
しかし。
エリオットが、少しだけ真剣な表情になった。
「……ただし、一つ気になることがあります」
……ん?
俺は顔を上げた。
「……何でしょう?」
エリオットは、研究記録を見せてくれた。
そこには、複雑な魔力の波形が描かれている。
「男性の姿を維持している間、あなたの魂の状態が非常に安定していました」
「……それは、いいことでは?」
「ええ。もちろんです」
エリオットは頷いた。
「ただ、通常の肉体変化魔法では、ここまで魂の安定性が向上することはありません」
……なるほど。
俺は少しだけ眉を寄せた。
「……つまり?」
「あなたの魂は、男性の身体を本来の状態として認識している可能性が高いということです」
……ああ。
まあ、そうだろうな。
俺は前世では男だったんだから。
しかし、エリオットは続けた。
「それだけではありません」
……ん?
「男性の姿へ戻っている間、あなたの《ハズレスキル》にも変化が確認されました」
……スキル?
俺は目を見開いた。
「……どんな変化ですか?」
エリオットは、少しだけ考えた。
「通常、《ハズレスキル》を使用すると、確定した運命が別の結果へ変換されます」
「……はい」
「しかし、今回は能力を使用していないにもかかわらず、予定されていた結果が成立しなかった痕跡があるんです」
…………。
俺は、息を呑んだ。
……まさか。
公園での出来事か?
王子との恋愛イベント。
予定されていた口づけ。
俺は、それを自分の意思で止めた。
《ハズレスキル》は使っていない。
それなのに。
シナリオ補正は発生しなかった。
「……それって」
俺は慎重に尋ねた。
「……自分の意思で選んだ結果、運命が変わったってことですか?」
エリオットは、少しだけ驚いた顔をした。
そして、静かに頷いた。
「……その可能性があります」
…………。
俺は黙った。
エリオットは続けた。
「これまで、あなたの能力は運命を外すことで発動していました。しかし、今回は運命を外さず、別の結果を選んでいる」
……別の結果を選ぶ。
俺は、その言葉を繰り返した。
……そうか。
もしかして。
《ハズレスキル》の本来の力って。
運命を外すことじゃなくて。
運命を、自分で選び直すことなのか?
俺は、少しだけ考え込んだ。
そのときだった。
研究室の窓辺から、小さな声がした。
「……にゃあ」
白猫が座っていた。
ミャルティアである。
猫神は、金色の瞳を細めて俺を見つめていた。
そして、頭の中に声が響いた。
『……ようやく、気づき始めたようだな』
……おい。
何だよ。
その意味深な言い方。
『お前の力は、定められた運命を外すだけのものではない』
……え?
俺は息を呑んだ。
『本来の力は、自分が望む未来を選ぶことにある』
……選ぶ。
俺は、ゆっくりと拳を握った。
……そうか。
そういうことだったのか。
今まで俺は、恋愛イベントを避けることばかり考えていた。
誰かに好かれることを避ける。
誰かと親しくなることを避ける。
定められたシナリオから逃げる。
そのために《ハズレスキル》を使ってきた。
しかし。
今日、俺は初めて、自分の意思で王子と手を握った。
そして、自分の意思でそこで終わりにした。
どちらも、俺自身が選んだことだった。
……だから。
運命を外す必要がなかったのか。
「……なるほど」
俺は小さく呟いた。
すると、エリオットが興味深そうに首を傾げた。
「……何かわかりましたか?」
「……いえ」
俺は少しだけ笑った。
「まだ、仮説ですけど」
……そうだ。
まだ、確かなことはわからない。
でも。
少しだけ、見えてきた気がする。
このゲームから自由になる方法が。
◇
午後五時。
俺は旧貴賓館の執務室で、今日最後の書類を確認していた。
男の姿へ戻る実験は成功した。
王子との食事も、思っていたよりずっと楽しかった。
そして、《ハズレスキル》の新しい可能性まで見えてきた。
……悪くない。
むしろ、今日はかなりいい一日だった。
俺は小さく笑った。
すると、扉がノックされた。
「……リリア」
透の声だった。
「……どうぞ」
扉が開き、佐伯透が顔を出した。
手には、分厚い書類の束を持っている。
「……お疲れ」
「おう。そっちこそ」
透は、机の上に書類を置いた。
「猫神祭の広報資料、ひとまず整理しておいたぞ」
「……早いな」
「まあ、元々俺がやってたような仕事だからな」
……なるほど。
確かに。
同じ記憶を持っているだけあって、仕事が早い。
俺は資料に目を通した。
開催概要。
催事の進行計画。
広報媒体。
関係各所への連絡事項。
どれも、わかりやすく整理されていた。
「……すげえな。助かる」
俺が感心すると、透は少しだけ笑った。
「そりゃどうも」
そして、椅子へ腰を下ろした。
「……ところで」
「……何だ?」
透が、にやりと笑った。
「王子様とのデート、どうだった?」
…………。
俺は固まった。
……おい。
何で知ってるんだよ。
「……誰から聞いた?」
「エリオット様」
……あいつ!
俺は頭を抱えた。
研究内容は秘密にするって言ってたのに。
……いや。
食事へ行ったこと自体は、秘密じゃないか。
それでも、何で透に話すんだよ。
「……別に、普通だったよ」
俺は答えた。
透が眉を上げた。
「……普通?」
「ああ。食事して、少し話して、それだけ」
「……へえ」
透は、楽しそうに笑った。
「……手は?」
…………。
俺は固まった。
……おい。
待て。
「……何で知ってる?」
透は、俺の顔を見た。
そして。
「……いや、今の反応でわかった」
「…………」
……くそっ。
やられた。
俺は頭を抱えた。
透は声を立てて笑った。
「ははっ! やっぱり!」
「笑うな!」
俺は反射的に叫んだ。
透は、しばらく笑っていた。
そして、少しだけ真面目な表情になった。
「……でも、よかったじゃん」
「……何が?」
「男の姿で、普通に過ごせたんだろ?」
……ああ。
そうだった。
俺は小さく頷いた。
「……まあな」
透は微笑んだ。
「それなら、よかった」
……何だよ。
こいつ。
自分の顔で、そんな優しいこと言うなよ。
俺は少しだけ笑った。
「……ありがとう」
透は頷いた。
そして、机の上の書類を指さした。
「それと、もう一つ」
「……何だ?」
「猫神祭の資料を整理してたら、妙な記述を見つけた」
……妙な記述?
俺は眉を寄せた。
透は、一枚の古い資料を取り出した。
「これ、神殿から提出された祭典の由来に関する記録なんだけど」
俺は紙を受け取った。
そこには、聖猫神ミャルティアを讃える祭典の歴史が書かれていた。
年に一度、王都で開催される猫神祭。
神へ感謝を捧げ、人々の幸福を祈る祭典。
……まあ、普通の内容だな。
俺が首を傾げると、透が一か所を指さした。
「……ここ」
俺は、その部分を読んだ。
『聖猫神の花嫁は、五つの誓いによって世界の縁を結ぶ』
……五つの誓い。
俺は息を呑んだ。
それは、このゲームのタイトルにも含まれている言葉だった。
『聖猫神の花嫁と五つの誓い』
……まさか。
俺は、ゆっくりと続きを読んだ。
『五つの誓いが交わされるとき、神の花嫁は運命を選び、世界は新たな物語を迎える』
……運命を選ぶ。
俺は、少しだけ眉を寄せた。
……これ。
単なる恋愛イベントの話じゃないのか?
「……透」
「何だ?」
「これ、ゲームの設定資料にあったっけ?」
透は少し考えた。
「……似たような記述はあったと思う」
「……本当か?」
「ああ。ただ、正式なシナリオでは、五人の攻略対象との誓いを象徴する設定になってたはずだ」
……なるほど。
俺は頷いた。
確かに、このゲームの宣伝資料でも、五つの誓いは重要な要素だった。
攻略対象それぞれとの関係を深め、最後に誰を選ぶか決める。
それが、ゲームの基本的な流れだ。
しかし。
俺が今まで経験してきた出来事を考えると、何かがおかしい。
五人の攻略対象。
五つの誓い。
そして、《ハズレスキル》。
……これ、全部繋がっているんじゃないか?
「……なあ」
俺は透を見た。
「猫神祭って、いつだっけ?」
透は書類を確認した。
「三週間後だな」
……三週間。
俺は小さく呟いた。
そのときだった。
目の前に青白い文字が浮かび上がった。
『シナリオ管理機構からのお知らせ』
「…………」
……ん?
俺は眉を寄せた。
またか。
最近、こういう通知が増えてきたな。
『物語の最終確定日が近づいています』
『最終確定予定日:猫神祭当日』
…………。
……最終確定?
俺は息を呑んだ。
『主人公リリア・ベルフォードの運命を判定します』
『五人の攻略対象との関係を確認』
『恋愛ルート:未確定』
『ハーレムルート:進行中』
『聖女の自由ルート:進行中』
『未登録シナリオ:進行中』
……おい。
待てよ。
これ、何だ?
『最終確定日までに、主人公の所属する物語を決定してください』
『未確定の場合、物語の自動補正を実施します』
……自動補正?
俺は嫌な予感がした。
その言葉には、何度も苦しめられてきた。
恋愛イベントを回避すると、別のイベントが発生する。
逃げようとすると、攻略対象との関係がさらに深まる。
そして、今度は。
最終確定?
『注意事項』
『物語に所属しない存在は、最終確定時に整理対象となります』
…………。
俺は固まった。
……整理対象?
それって。
まさか。
ノアのことか?
名前のない町の住人たちのことか?
そして。
……透も?
俺は慌てて画面を見た。
『登録情報を確認しています』
『佐伯透:仮登録』
『独立存在としての定着:未完了』
『最終確定時の処理対象に含まれています』
「…………」
……おい。
待て。
待て待て待て。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
透は、何も知らずに書類を整理している。
……こいつ。
せっかく生き始めたばかりなのに。
また消されるのか?
俺は拳を握った。
……ふざけんな。
そんなの、認められるわけがない。
俺は、画面を睨みつけた。
すると、さらに新しい文字が浮かび上がった。
『最終確定の対象には、未登録の登場人物および未採用の物語領域が含まれます』
『未登録領域:名前のない町』
『登録されていない存在:第六攻略対象ノア』
…………。
……やっぱり。
俺は息を呑んだ。
ノア。
名前のない町。
そして透。
全部、整理対象になっている。
……何だよ。
この世界。
使われなくなった設定だからって。
物語に登場しないからって。
勝手に消していいわけないだろ。
俺がそんなことを考えていると、突然、別の文字が浮かび上がった。
『未登録シナリオからのメッセージを受信しました』
『差出人:ノア』
……ノア!?
俺は目を見開いた。
『ようやく、気づいたようだね』
…………。
『君がどれほど運命を外しても、物語の終わりは近づいてくる』
『猫神祭の日、この世界は結末を選ぶ』
……結末。
俺は、静かに画面を見つめた。
『そのとき、物語から外れた僕たちは、存在する理由を失う』
…………。
……おい。
待てよ。
そんなの。
『だから、君にお願いしたい』
ノアの言葉が続いた。
『僕たちの運命を、外してほしい』
……外す。
俺は、自分の手を見下ろした。
《ハズレスキル》。
定められた運命を外す力。
しかし、外した運命は別の結果へ変換される。
そして、その一部は名前のない町へ流れていく。
……つまり。
ただ消去の運命を外すだけでは、問題は解決しないのかもしれない。
俺は、少しだけ考え込んだ。
すると、最後の文字が浮かび上がった。
『ただし、気をつけて』
『君が自分の運命を選ぶということは、選ばなかった物語を失うということでもある』
…………。
俺は黙った。
……何だよ。
それ。
選ばなかった物語。
俺が恋愛イベントを回避したことで、外側へ流れていった運命。
その中には、名前のない町の住人たちもいる。
そして、ノアも。
……まさか。
俺が自由になるために、誰かの存在が犠牲になるってことなのか?
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、静かに呟いた。
「……ふざけんなよ」
透が顔を上げた。
「……ん?」
俺は拳を握った。
「……俺が男に戻るために、誰かが消えるなんて」
透が眉を寄せた。
「……何の話だ?」
俺は透を見た。
そして、少しだけ笑った。
「……悪い。ちょっと面倒な問題が見つかった」
透は、しばらく俺を見つめていた。
そして、小さくため息をついた。
「……またかよ」
「……ああ」
「……今度は何だ?」
俺は、ゆっくりと答えた。
「……世界のシステムが、勝手に登場人物を整理しようとしてるらしい」
透は、ぽかんとした顔をした。
そして。
「……おい」
「……何だ?」
「それ、俺も含まれてない?」
…………。
俺は黙った。
透も黙った。
しばらくして。
「……マジかよ」
透が呟いた。
俺は頷いた。
「……マジだ」
透は、深いため息をついた。
そして、静かに言った。
「……せっかく就職できたのに」
…………。
俺は、一瞬だけ言葉を失った。
そして。
「そこかよ!」
思わず突っ込んだ。
透は、真剣な表情だった。
「当たり前だろ! 労働条件も確認して、やっと仕事が決まったんだぞ!」
……おい。
お前。
本当に俺だな。
俺は、思わず笑ってしまった。
透も、小さく笑った。
しかし、その笑顔は長く続かなかった。
「……なあ」
透が静かに口を開いた。
「……何だ?」
「……俺、消えるのか?」
…………。
俺は、言葉を失った。
透は、自分の手を見つめていた。
昨日、存在が不安定になったときと同じように。
「……まだ、わかんない」
俺は正直に答えた。
そして、続けた。
「でも、絶対に何とかする」
透が顔を上げた。
「……本当か?」
「ああ」
俺は頷いた。
「お前は、もうここで生きてるんだから」
……そうだ。
こいつは俺の前世の姿を持っている。
しかし、俺自身ではない。
別の人生を歩み始めた、一人の人間だ。
それを、世界の都合で消させるわけにはいかない。
ノアも。
名前のない町の住人たちも。
みんな、同じだ。
「……よし」
俺は立ち上がった。
そして、机の上に新しい紙を置いた。
表題を書く。
『猫神祭における未登録存在の保護および運命確定処理への対応計画』
……長いな。
我ながら、相変わらず長い企画名だ。
しかし、仕方ない。
今度の問題は、かなり大きい。
何しろ。
世界の運命そのものに関わっているのだから。
「……透」
「……何だ?」
「手伝ってくれ」
俺が言うと、透は少しだけ笑った。
「……当然だろ」
そして、書類を一枚取り出した。
「まず、情報を整理するぞ」
……ああ。
そうだな。
問題が起きたら、まず状況を把握する。
原因を確認する。
関係者を整理する。
そして、対応策を考える。
……前世と同じだ。
どれほど大きな問題でも、やるべきことは変わらない。
俺は小さく笑った。
「……よし。始めるか」
その瞬間。
『特殊イベント発生』
『主人公が、物語の最終確定処理への対抗を決意しました』
『聖女の自由ルートが進行します』
『新規イベント名:選ばれなかった物語を救え』
…………。
俺は画面を見つめた。
そして、静かに呟いた。
「……今度こそ」
透が顔を上げた。
「……ん?」
俺は、少しだけ笑った。
「……俺が、俺の人生を決めてやる」
透も頷いた。
そして、二人で書類を広げ始めた。
……まあ。
世界の運命を変えるために、最初にやることが企画書の作成というのは、何とも俺らしいけどな。
◇
同じ頃。
名前のない町。
古い礼拝堂の奥で、ノアは一人、黒い鏡を見つめていた。
そこには、青白い文字が浮かび上がっている。
『物語の最終確定まで:残り二十一日』
『未登録領域の整理処理を準備しています』
『名前のない町:消去対象』
『未登録登場人物:消去対象』
ノアは、しばらく黙っていた。
そして、静かに笑った。
「……ようやく、ここまで来た」
彼は、懐から銀色の鍵を取り出した。
それは、かつてリリアに渡そうとした鍵だった。
物語の外側へ出るための鍵。
そして、自分自身の運命を外すために必要なもの。
ノアは、ゆっくりと鍵を握りしめた。
「……君なら、きっと気づくと思っていたよ」
黒い鏡に、リリアの姿が映し出される。
金髪碧眼の美少女。
しかし、その魂には、別の世界で男として生きた記憶が宿っている。
ノアは、静かに微笑んだ。
「……君は、誰かに与えられた役割を嫌っている」
そして、ゆっくりと続けた。
「だからこそ、僕たちのことも見捨てられない」
その声には、どこか寂しさがあった。
「……でも」
ノアは、鏡へ手を伸ばした。
「君がすべてを救おうとすれば、きっと世界はそれを許さない」
鏡の表面に、新しい文字が浮かび上がった。
『未登録シナリオ:消された男の願い』
『最終条件を確認』
『主人公の《ハズレスキル》による運命改変』
『対象:世界の物語そのもの』
ノアは、静かに目を細めた。
「……さあ」
小さく、呟いた。
「君は、何を選ぶ?」
その問いに答える者は、まだいなかった。
ただ、黒い鏡の奥で、無数の青白い文字が静かに流れ続けていた。
そして、その中に。
これまで誰にも見つからなかった、一つの記録が浮かび上がった。
『聖猫神の花嫁と五つの誓い』
『原初設定』
『聖女とは、五人の愛を受ける者ではない』
『五つの異なる運命を繋ぎ、一つの未来を選ぶ者である』
ノアは、その文字を見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
「……あと少しだ」
銀色の鍵が、淡く輝いた。
その光は、誰にも届かなかった。
次回・第9話「俺、世界のシナリオを改稿することになったんだが?」
猫神祭まで、残り二十一日。物語の最終確定によって、ノア、名前のない町、そして佐伯透までもが消去対象になると判明した。
俺は五人の攻略対象と協力し、世界の運命を書き換える方法を探し始める。しかし、ノアから提示された解決策には重大な代償が隠されていた。
さらに、王子とのデートを通じて、《ハズレスキル》には運命を外すだけではない、もう一つの力があることがわかってくる。
恋愛も、仕事も、異世界転生も、誰かが勝手に決めたシナリオに従うつもりはない。
だけど、世界の命運まで俺に丸投げするのは、さすがにおかしくないか!?




