第5話 俺、休日を取ろうとしただけなのに隠し攻略対象に誘拐されそうなんだが?
異世界に転生して五日目。
俺は、ついに気づいてしまった。
この世界で最も恐ろしいものは、魔王でもなければ、凶悪な魔物でもない。
第一王子レオンハルトでも、騎士団長カイルでも、宮廷魔導師エリオットでも、大神官セシルでも、公爵令息ユリウスでもない。
もっと恐ろしい存在がある。
それは。
「……有給休暇の申請って、どうすればいいんだ?」
労働制度である。
俺は机に向かい、昨日交わしたばかりの契約書を読み直していた。
業務時間は午前九時から午後五時まで。
週休二日制。
時間外の業務は原則として事前協議。
業務範囲と責任の所在は明確にする。
書面で確認した限りでは、実に立派な労働条件だった。
前世でゲーム会社の広報部に勤めていた俺からすれば、涙が出るほど素晴らしい契約である。
ただし、一つだけ問題があった。
休みを取る手続きについて、具体的な記載がなかったのだ。
「……休日はあるけど、いつ休むかは決めてないんだよな」
俺はため息をついた。
昨日、俺は五人のイケメンが関わる仕事の統括マネージャーになった。
正式な職業名は、五部門統括マネージャー。
王宮、騎士団、魔導師団、神殿、学院。
それぞれの仕事を調整し、全体の進行を管理する役割だ。
……おかしい。
俺は乙女ゲームの主人公だったはずだ。
しかも十八禁の。
それなのに、男たちからの求愛を避けようとしているうちに、なぜか管理職になってしまった。
そんな俺に、昨夜、不思議なメッセージが届いた。
『君に、休暇をあげよう』
差出人は不明。
内容は、さらに奇妙だった。
『誰にも知られず、誰にも邪魔されず、君自身の望む姿で過ごせる一日』
そして、最後にはこう書かれていた。
『明日、王立学院の北門へ来てほしい。午前十時』
……つまり、今日である。
「なあ、ミャルティア」
「なんだ?」
ベッドの上から、眠たそうな声が返ってきた。
白い猫。
この世界の主神にして、俺を異世界転生させた張本人。
聖猫神ミャルティアである。
「昨日のメッセージ、どう思う?」
「怪しいな」
「即答かよ」
「当然であろう。名前も名乗らぬ者から、突然呼び出しが来たのだぞ」
「……まあ、そうだよな」
俺は頷いた。
確かに怪しい。
怪しすぎる。
そもそも、この世界では俺が聖女として扱われている。
千年に一人の特別な存在だ。
そんな人間に、身元不明の人物が接触しようとしている。
普通なら、警備担当のカイルに相談するべき案件だろう。
しかし。
「……俺自身の望む姿、か」
俺は小さく呟いた。
その言葉が、どうしても気になっていた。
今の俺は、二十二歳の美少女リリア・ベルフォードだ。
金色の長い髪。
青い瞳。
華奢な身体。
そして、前世には存在しなかった女性らしい身体の特徴。
鏡を見るたびに、いまだに違和感がある。
俺が望んだ姿ではないからだ。
前世の俺は二十九歳の男だった。
特別な容姿でもなければ、優れた身体能力があったわけでもない。
普通の会社員。
普通の男。
それでも、あの身体は俺自身のものだった。
「……もし、本当に戻れるなら」
俺は無意識に胸元へ手を当てた。
今の身体が嫌いというわけではない。
リリアの姿は、客観的に見れば可愛いと思う。
ただ、それと自分がこの姿で生きたいかどうかは、別の話だ。
少なくとも、今の俺はまだ、自分の姿として受け入れられていない。
「……行ってみようかな」
俺が呟くと、猫神が勢いよく顔を上げた。
「何?」
「いや、だから、北門に」
「ならぬ!」
珍しく、強い声だった。
俺は思わず振り返った。
「……何で?」
「相手が何者かわからぬ以上、危険すぎる」
「お前、そいつのこと知ってるんじゃないの?」
猫神は黙った。
……おい。
その反応。
絶対に何か知ってるだろ。
「なあ、ミャルティア」
「……なんだ」
「六人目の攻略対象って、何者なんだ?」
猫神はしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……本来、この世界の物語に存在してはならぬ者だ」
俺は眉を寄せた。
「……存在してはならない?」
「うむ。少なくとも、今のお前が知っている物語には、あやつの居場所はない」
……なるほど。
つまり、ゲーム本編には登場しない人物ということか。
しかし、俺は広報担当だった。
発売前のゲームについて、ある程度の情報は知っている。
もちろん、すべての設定を把握していたわけではないが、攻略対象の数や基本的なシナリオ構成くらいは確認していた。
公式の攻略対象は五人。
隠し攻略対象について、宣伝資料に記載はなかった。
……まあ、隠し攻略対象なんだから当然かもしれないけど。
「……とにかく、会って話を聞くだけだよ」
「危険だと言っておる!」
「だったら、お前もついてくればいいだろ」
猫神は一瞬、口を閉じた。
そして、目を逸らした。
「……それは」
「何だよ?」
「……面倒だ」
「ふざけんな!」
俺は思わず叫んだ。
心配するなら、ちゃんと付き添えよ!
創造神だろ!
お前がいれば、多少の危険くらい何とかなるだろうが!
猫神は尻尾を振りながら、ぼそりと呟いた。
「……あやつのいる場所には、我の力が届かぬ可能性がある」
……え?
俺は固まった。
今、何て言った?
「……神様の力が届かない場所?」
「……うむ」
「そんな場所があるの?」
猫神は答えなかった。
ただ、窓の外を見つめていた。
……何だよ。
ますます気になるじゃないか。
俺は契約書を閉じた。
「……とりあえず、休みを取れるか確認してみる」
すると、猫神が不思議そうに首を傾げた。
「……む?」
「だから、休暇申請だよ」
「……お前、この状況で仕事の話をするのか?」
「当たり前だろ。勝手に休んだら困る人がいるんだから」
俺は机から紙を取り出した。
そして、表題を書き込んだ。
『休暇取得申請書』
……よし。
まずは、ここからだ。
◇
午前八時三十分。
俺は旧貴賓館へ向かっていた。
昨日、正式に仕事を引き受けたばかりの俺だが、今日は休みたい。
しかも、当日の申請である。
普通なら、あまり褒められた行動ではない。
しかし、契約時には休日の曜日を決めていなかった。
それに、今日はまだ大きな予定が組まれていない。
だったら、相談する余地はあるはずだ。
……うん。
我ながら、随分と社会人らしい考え方だな。
異世界に転生したのに、まず勤怠管理のことを考えている。
俺の人生、本当にどうなってるんだろう。
そんなことを考えながら貴賓館へ到着すると、玄関前でユリウスと出会った。
「……リリア?」
ユリウス・フォン・ヴァレンシュタイン。
二十三歳。
公爵家の嫡男にして、学院運営にも関わる優秀な青年だ。
いわゆる俺様系の攻略対象だが、仕事に関しては非常に真面目である。
「おはようございます、ユリウス様」
「ああ。おはよう」
ユリウスは俺の顔を見たあと、手元の書類へ視線を落とした。
「……何かあったのか?」
「実は、相談したいことがありまして」
「何だ?」
俺は休暇申請書を差し出した。
ユリウスは書類を受け取り、しばらく目を通していた。
そして、眉を寄せた。
「……休暇?」
「はい」
「今日か?」
「はい」
「……契約した翌日に?」
……うっ。
やっぱり、そこを突っ込まれるよな。
俺は少しだけ身構えた。
「申し訳ありません。急な申請なのは承知しています。ただ、昨日の段階では休日を具体的に決めていませんでしたので……」
ユリウスは書類を閉じた。
そして、あっさりと頷いた。
「構わん」
「……え?」
「今日は大きな予定もない。そもそも、週休二日という契約なのだから、休暇を取得するのは当然だろう」
……おお。
すごい。
本当に話が早い。
「ありがとうございます!」
俺は思わず頭を下げた。
すると、ユリウスが小さく笑った。
「ただし、今後は事前に予定を申告してくれ。急な休暇が続けば、調整が難しくなる」
「はい。もちろんです」
「それと、君が休んでいる間の仕事は、各担当者へ振り分けておく」
……素晴らしい。
何て素晴らしい職場なんだ。
俺は感動した。
しかし、その直後。
目の前に青白い文字が浮かび上がった。
『ユリウス好感度+5』
「…………」
……おい。
休暇申請しただけだぞ。
何で好感度が上がるんだよ。
俺が顔を引きつらせていると、ユリウスが口を開いた。
「……ところで」
「……はい?」
「休暇を取って、どこへ行くつもりだ?」
……来た。
俺は一瞬、言葉に詰まった。
正直に言うべきか。
それとも、適当に誤魔化すべきか。
……いや。
待てよ。
相手が何者かわからないとはいえ、約束の場所へ行くだけだ。
別に悪いことをするわけじゃない。
「……少し、王都の北側へ出かけようと思いまして」
「北側?」
「はい。気分転換に」
ユリウスは少し考えた。
「……なるほど。では、馬車を手配しよう」
「いえ、大丈夫です!」
俺は慌てて断った。
馬車なんて手配されたら、行き先を知られてしまう。
「歩いて行ける距離なので!」
「……そうか」
ユリウスは、少し不思議そうな顔をした。
しかし、それ以上は追及しなかった。
「わかった。では、気をつけて行ってこい」
「ありがとうございます」
俺は安堵した。
……よし。
休暇取得、成功!
あとは北門へ行くだけだ。
そう思った、そのとき。
『特殊イベント発生』
『公爵令息が主人公の休暇を承認しました』
『ユリウス好感度+5』
「…………」
……だから!
休暇承認で好感度を上げるな!
俺はもう、何も言わずに貴賓館をあとにした。
◇
午前九時五十分。
俺は王立学院の北門へ到着した。
学院の北側は、王都の中心部とは違い、比較的静かな場所だった。
石畳の道が続き、その先には小さな森と古い街道が見える。
近くには古びた礼拝堂があり、その屋根にも例によって猫の彫像が乗っていた。
……本当に猫が好きだな、この国。
俺は周囲を見渡した。
人影は少ない。
学生が数人通り過ぎる程度で、特に怪しい人物は見当たらなかった。
「……まだ来てないのか?」
俺は腕を組んだ。
約束の時間は午前十時。
少し早く到着したのだから、当然か。
とりあえず、近くのベンチに座って待つことにした。
すると、足元で小さな声がした。
「にゃあ」
……ん?
見下ろすと、白猫がいた。
「……お前、ついてきたのか」
「当然であろう」
猫神は、何事もなかったようにベンチへ飛び乗った。
「危険な相手かもしれぬと言ったはずだ」
「……さっき、面倒だって言ってなかった?」
「気が変わった」
……猫だな。
本当に猫だ。
主神なのに。
「まあ、来てくれたなら助かるよ」
俺は小さく笑った。
すると、猫神が少しだけ目を細めた。
「……あやつには、気を許すでないぞ」
「わかってるって」
俺は頷いた。
そのときだった。
「……随分と仲がいいんだね」
背後から、知らない男の声がした。
俺は振り返った。
そこに、一人の青年が立っていた。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。
黒に近い灰色の髪。
金色の瞳。
整った顔立ちではあるが、王子や騎士団長のような華やかさはない。
むしろ、どこにでもいそうな、落ち着いた雰囲気の青年だった。
服装も質素だ。
黒い上着に、白いシャツ。
腰には小さな鞄。
貴族というより、旅人か学者のように見える。
……誰だ?
俺が警戒していると、青年は穏やかに微笑んだ。
「おはよう、リリア・ベルフォード」
……来た。
俺は息を呑んだ。
「……あんたが、昨日のメッセージを?」
「そうだよ」
青年は頷いた。
「待っていた。君が来てくれて嬉しいよ」
……何だろう。
声は穏やかだ。
態度も丁寧だ。
しかし、何となく落ち着かない。
目の前の男は、どこか普通の人間とは違う雰囲気を持っていた。
それに。
……顔。
どこかで見たことがある気がする。
俺が眉を寄せていると、青年が小さく笑った。
「……どうしたの?」
「……いや、何でも」
すると、目の前に青白い文字が浮かび上がった。
『隠し攻略対象と遭遇しました』
『第六攻略対象:???』
『好感度:測定不能』
『特殊イベント開始』
『イベント名:運命の外側にある休日』
……やっぱり。
こいつが六人目の攻略対象か。
俺は少しだけ身構えた。
「……あの」
「何かな?」
「先に、確認してもいいですか?」
「もちろん」
「俺を、どこかへ連れていこうとしてます?」
青年は一瞬だけ目を丸くした。
そして、小さく笑った。
「そうだね。少しだけ、君を案内したい場所がある」
……なるほど。
やっぱりそうか。
俺は慎重に尋ねた。
「……それって、誘拐じゃないですよね?」
青年は、今度こそ声を立てて笑った。
「ははっ! 随分と警戒しているんだね」
「そりゃそうですよ。知らない男に、いきなり呼び出されたんですから」
「もっともだ」
青年は頷いた。
「安心してほしい。君の意思に反して連れていくつもりはないよ」
「……本当ですか?」
「本当だとも」
そう言って、青年は少しだけ表情を和らげた。
「それに、僕は君を恋愛対象として見ていない」
「…………」
俺は固まった。
……え?
今、何て言った?
「……恋愛対象として、見てない?」
「うん」
青年は、当然のように頷いた。
「少なくとも、今の僕は君に恋愛を求めていない」
…………。
俺は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そして。
「……やっとだ」
思わず呟いた。
「……ん?」
「やっと、まともに話せる男が現れた……!」
俺は感動した。
本当に感動した。
異世界に転生してからというもの、出会う男は全員攻略対象だった。
そして、何をしても好感度が上がった。
仕事をすれば好感度が上がる。
感謝すれば好感度が上がる。
休暇申請をしても好感度が上がる。
そんな理不尽な世界で、初めて出会ったのだ。
俺を恋愛対象として見ない男に!
「……あんた、いい人だな!」
俺は思わず青年の肩を叩いた。
青年が少し驚いた顔をした。
そして、楽しそうに笑った。
「……そう言ってもらえるとは、光栄だよ」
その瞬間。
『隠し攻略対象との親密度が上昇しました』
「…………」
……おい。
ちょっと待て。
親密度?
俺は画面を睨んだ。
『第六攻略対象:好感度測定不能』
『親密度:5』
……ふざけんな。
恋愛対象じゃないって言っただろ!
いや、親密度だから恋愛とは限らないのか。
……そうだ。
きっとそうだ。
友達としての親密度だ。
俺は、そう信じることにした。
◇
「……ところで、名前を聞いてもいいですか?」
俺が尋ねると、青年は小さく頷いた。
「ノア」
「……ノア?」
「そう呼んでくれればいい」
……なるほど。
ノア。
覚えやすい名前だ。
「ノアさん、ですね」
「呼び捨てで構わないよ」
「……じゃあ、ノア」
俺は頷いた。
すると、ノアは少しだけ目を細めた。
「……久しぶりだな」
「……え?」
俺は眉を寄せた。
「……何が?」
ノアは、俺を見つめた。
そして、静かに告げた。
「君が、そうやって自然に男として話すのを聞くのは」
…………。
俺は固まった。
……おい。
待てよ。
こいつ。
「……何で、それを知ってる?」
俺は低い声で尋ねた。
ノアは、穏やかに微笑んだ。
「君が前世では男だったこと?」
……やっぱり。
知ってやがる。
「……どうして?」
「それは、僕が君を知っているからだよ」
ノアは静かに続けた。
「君がこの世界へ来る前からね」
……は?
俺は目を見開いた。
「……前から?」
「うん」
「……俺が、どこから来たのかも?」
「知っている」
「……何をしていたのかも?」
「ゲーム会社の広報部で働いていた」
…………。
俺は言葉を失った。
そこまで知っているのか。
俺の前世について。
セシルでさえ、魂の検査をしなければわからなかったのに。
こいつは最初から知っている。
「……何者なんだよ、あんた」
俺が尋ねると、ノアは少しだけ困ったように笑った。
「説明するには、少し時間が必要だ」
「……じゃあ、説明してくれ」
「もちろん。そのために君を呼んだんだから」
ノアは、学院の北門の向こうへ視線を向けた。
古い街道が、静かな森へ続いている。
「……まずは、場所を変えよう」
そう言って、ノアは歩き出した。
俺は一瞬、迷った。
しかし、その直後。
猫神が低い声で告げた。
「……待て」
ノアが足を止めた。
そして、ゆっくりと振り返った。
「……久しぶりだね、ミャルティア」
…………。
俺は猫神を見た。
猫神は、背中の毛を逆立てていた。
「……貴様」
その声は、いつもの気楽なものではなかった。
低く、鋭く、明らかな警戒を含んでいた。
「……何故、ここにいる」
ノアは穏やかに微笑んだ。
「君の聖女が、運命を外し始めたからさ」
「……余計なことをするでない」
「余計なこと?」
ノアは少しだけ首を傾げた。
「僕は、彼に選択肢を見せようとしているだけだよ」
……彼。
俺は、その言葉に反応した。
ノアは、俺のことを彼と呼んだ。
今の身体ではなく、前世の俺を見ている。
……それは、少しだけ嬉しかった。
しかし。
「……なあ」
俺は二人を見た。
「お前ら、知り合いなの?」
猫神は黙っていた。
ノアは、小さく笑った。
「……昔、少しね」
「……少し?」
「うん。世界が今の形になる前に」
……世界が今の形になる前?
俺は眉を寄せた。
何だよ、それ。
意味がわからないぞ。
すると、ノアが手を差し出した。
「……行こうか」
俺は、その手を見つめた。
……待てよ。
乙女ゲームで男が手を差し出す。
これ、絶対に恋愛イベントの導入だろ。
俺は慎重に尋ねた。
「……手を握らないと駄目?」
ノアは一瞬だけ驚いた顔をした。
そして、苦笑した。
「いや。道案内をするだけだから、必要ないよ」
「……そうか」
俺は安堵した。
……いい。
この男、本当にいいぞ。
無理に手を握らせようとしない。
距離感がまともだ。
今までの攻略対象たちとは、少し違う。
「……じゃあ、案内してくれ」
俺は頷いた。
ノアは静かに微笑んだ。
「わかった」
そして、俺たちは北門を抜けた。
その瞬間だった。
『特殊イベント発生』
『隠し攻略対象との外出を確認しました』
『イベント条件を判定しています』
『主人公が身元不明の男性と王立学院を離れました』
『誘拐イベントの発生条件を達成しました』
「…………」
……は?
俺は足を止めた。
おい。
ちょっと待て。
『イベント名:聖女誘拐事件』
『強制イベント開始まで:残り五分』
「…………」
……おいおいおい。
待て待て待て。
俺は自分の意思で来たんだぞ!?
誘拐じゃねえだろ!
「……ノア!」
俺は叫んだ。
ノアが振り返る。
「どうしたの?」
「誘拐イベントが始まってる!」
ノアは少しだけ目を細めた。
「……なるほど」
「なるほど、じゃねえよ!」
俺は画面を指さした。
「これ、どうすればいいんだよ!」
すると、ノアは穏やかに微笑んだ。
「……心配しなくていい」
「……え?」
「そのために、君をここへ呼んだんだから」
……は?
俺は眉を寄せた。
「……どういうこと?」
ノアは、古い街道の先を指さした。
「少し先に、古い礼拝堂がある」
「……礼拝堂?」
「そこへ行けば、君は一時的に物語の外へ出られる」
……物語の外?
俺は息を呑んだ。
「……それって」
「うん」
ノアは頷いた。
「君が、乙女ゲームの主人公ではなくなる場所だよ」
◇
古い礼拝堂は、森の中にひっそりと建っていた。
石造りの小さな建物で、壁には蔦が絡みつき、屋根の一部が崩れている。
入口には、風化した猫の彫像が置かれていた。
しかし、何かがおかしかった。
猫の彫像には、顔がなかったのだ。
いや、正確には、顔の部分だけが削り取られていた。
「……何だ、これ」
俺が呟くと、ノアが静かに答えた。
「この場所は、もう神殿として使われていないんだ」
「……そうなの?」
「うん。ずっと昔に、役割を失った場所だからね」
……役割。
また、その言葉か。
俺は猫神を見た。
ミャルティアは、礼拝堂の前で足を止めていた。
「……入らぬほうがよい」
猫神が低い声で告げた。
俺は眉を寄せた。
「……何で?」
「ここは、我の加護が届きにくい場所だ」
「……え?」
ノアが小さく笑った。
「正確には、神の加護だけじゃない」
彼は礼拝堂の扉へ手をかけた。
「この場所には、物語の強制力そのものが届かないんだ」
……物語の強制力?
俺は息を呑んだ。
それって。
つまり。
「……恋愛イベントも?」
「発生しない」
「……好感度も?」
「上がらない」
「……ハーレムルートも?」
「進行しない」
…………。
俺は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そして。
「……天国じゃねえか!」
思わず叫んだ。
何だよ!
そんな場所があったのか!
もっと早く教えてくれよ!
俺は感動した。
ノアは楽しそうに笑った。
「……気に入ってもらえたようだね」
「当たり前だろ!」
俺は拳を握った。
恋愛イベントが発生しない。
好感度も上がらない。
ハーレムルートも進まない。
そんな場所があるなら、ぜひ利用したい。
むしろ、ここに住みたいくらいだ。
「……なあ、ノア」
「何?」
「ここ、住める?」
ノアは一瞬だけ目を丸くした。
そして、声を立てて笑った。
「ははっ! いきなり永住を考えるのかい?」
「だって、最高じゃん!」
「気持ちはわかるけど、残念ながら長期間は無理だよ」
「……何で?」
「ここは、世界の外側に近い場所だからね。長く滞在すると、君自身の存在が不安定になる」
……存在が不安定?
俺は少しだけ身構えた。
「……それ、危なくない?」
「危険がないとは言わない。ただ、今日一日程度なら問題ないように調整してある」
……なるほど。
まあ、永住は無理か。
残念だ。
しかし、一日だけでも恋愛イベントから解放されるなら十分だ。
俺は猫神を見た。
「……ミャルティア」
「……なんだ」
「俺、入ってみたい」
猫神は、しばらく黙っていた。
そして、静かに尋ねた。
「……本当に、よいのか?」
「……ああ」
「この先で何が起こるか、我にもわからぬぞ」
「……わかってる」
俺は頷いた。
そして、少しだけ笑った。
「でも、俺は自分の意思で決めたいんだ」
猫神は、金色の瞳を細めた。
長い沈黙。
やがて、小さくため息をついた。
「……まったく、頑固な人間よ」
そして、俺の足元へ歩いてきた。
「ならば、我も行こう」
「……いいの?」
「当たり前であろう。お前を選んだのは我なのだからな」
……何だよ。
少しだけ、いい神様じゃないか。
俺は微笑んだ。
「……ありがとう」
猫神は、得意げに尻尾を立てた。
「もっと感謝してもよいぞ」
「……台無しだよ」
俺は苦笑した。
そして、ノアに続いて礼拝堂へ足を踏み入れた。
◇
礼拝堂の内部は、不思議なほど静かだった。
外から聞こえていた鳥の声も、風の音も、何も聞こえない。
まるで、世界そのものが息を潜めているようだった。
中央には古い祭壇があり、その奥には大きな鏡が置かれている。
鏡の表面は、黒い水のように揺らめいていた。
「……何だ、あれ」
俺が尋ねると、ノアが静かに答えた。
「君に、本来の姿を見せるためのものだよ」
……本来の姿。
俺は息を呑んだ。
「……本当に?」
「うん」
ノアは頷いた。
「ただし、永久に戻れるわけじゃない」
「……え?」
「今日一日だけだ。それでも、試してみる?」
俺は、しばらく黙っていた。
今日一日だけ。
それだけか。
……いや。
それでも。
「……やってみたい」
俺は答えた。
ノアは静かに微笑んだ。
「わかった」
そして、鏡の前へ俺を案内した。
「鏡に手を触れて、自分が本来どんな姿だったか思い出して」
俺はゆっくりと鏡へ近づいた。
黒い表面に、今の俺の姿が映っている。
金色の長い髪。
青い瞳。
華奢な身体。
リリア・ベルフォード。
乙女ゲームのヒロイン。
……違う。
俺は、そうじゃない。
俺は、前世の自分を思い出した。
二十九歳。
普通のサラリーマン。
短い黒髪。
疲れた目。
少しだけ猫背気味の姿勢。
仕事帰りにコンビニへ寄って、缶コーヒーを買う。
休日にはゲームをして、たまに友人と食事をする。
特別なことなんて、何もない人生だった。
だけど。
……あれが、俺だった。
俺は鏡へ手を伸ばした。
指先が、黒い表面に触れる。
その瞬間。
鏡が、淡く輝いた。
「……え?」
光が俺の身体を包み込んだ。
温かな感覚が広がる。
そして、ゆっくりと視界が変わっていく。
……何だ?
身体が、少し重くなった。
足元の感覚が変わる。
肩の位置が変わる。
胸元の違和感が、消えていく。
俺は息を呑んだ。
そして、鏡を見た。
「…………」
そこには。
男が、立っていた。
短い黒髪。
少し疲れた顔。
見慣れた目元。
特別に整っているわけでもない、普通の男。
……俺だ。
前世の俺。
二十九歳の俺が、そこにいた。
「……嘘だろ」
声が低い。
聞き慣れた、自分の声だった。
俺は喉に手を当てた。
もう一度、喋る。
「……マジかよ」
やっぱり低い。
俺は鏡へ近づいた。
顔を触る。
頬。
顎。
首。
そして、胸元。
……戻ってる。
本当に。
男に。
「……俺だ」
思わず、笑ってしまった。
「……俺じゃん」
鏡の中の男も、笑っていた。
何だよ。
本当に戻れるのかよ。
俺は、しばらく鏡を見つめていた。
そして、気づいた。
……あれ?
服装も変わってる。
さっきまで着ていた学院の制服ではなく、地味なシャツとズボンになっていた。
前世で休日によく着ていたような、何の変哲もない服装だ。
……すごいな。
本当に、俺の記憶を再現してるのか。
「……ノア」
俺は振り返った。
ノアは、穏やかに微笑んでいた。
「どうかな?」
「……すげえ」
俺は、思わず笑った。
「すげえよ、これ!」
何だよ!
本当に男に戻れるじゃないか!
しかも、声まで戻ってる!
俺は両手を握り、軽く跳ねてみた。
身体が少し重い。
でも、その重さが懐かしい。
……ああ。
何だろう。
すごく、落ち着く。
「……ありがとう、ノア」
俺は心から礼を言った。
ノアは静かに頷いた。
「喜んでもらえてよかった」
そのとき、足元から声がした。
「……ふむ」
猫神だった。
ミャルティアは、俺の姿をじっと見上げている。
「……どうした?」
俺が尋ねると、猫神は少しだけ目を細めた。
「……なるほど。これが、お前の本来の姿か」
「……ああ」
俺は頷いた。
猫神は、しばらく俺を見つめていた。
そして、ぼそりと呟いた。
「……地味だな」
「うるせえよ!」
俺は思わず突っ込んだ。
何だよ!
せっかく感動してたのに!
もっと他に言うことあるだろ!
猫神は楽しそうに笑った。
「にゃはは! いや、悪い意味ではないぞ」
「絶対に悪い意味だっただろ!」
「ふむ。しかし、こちらの姿のほうが、お前らしい気はするな」
……お。
俺は少しだけ驚いた。
猫神は、静かに続けた。
「お前が普段、リリアの姿で話しているときよりも、ずっと自然だ」
……そうか。
そうなのか。
俺は小さく笑った。
「……まあな」
そして、もう一度鏡を見た。
そこには、見慣れた自分がいた。
……ああ。
本当に。
久しぶりだな。
俺は、鏡の中の自分へ小さく手を振った。
◇
「……さて」
しばらくして、ノアが口を開いた。
「せっかくの休日だ。少し、外を歩いてみない?」
「……外?」
「うん。この礼拝堂の周囲には、小さな町があるんだ」
……町?
俺は眉を寄せた。
「……そんなの、見えなかったけど」
「普通の人には見えないからね」
ノアは静かに微笑んだ。
「ここは、物語の外側にある場所なんだ」
……なるほど。
よくわからないが、そういうものなのだろう。
俺は頷いた。
「……じゃあ、行ってみるか」
ノアは扉を開けた。
すると、先ほどまで森だった場所に、小さな町が広がっていた。
石畳の道。
古い家々。
小さな広場。
そして、道端には露店が並んでいる。
……おお。
すごいな。
まるで、別の世界だ。
いや、実際に別の世界なのかもしれない。
「……ここは?」
俺が尋ねると、ノアが答えた。
「名前のない町さ」
「……名前がない?」
「うん。この世界の物語に、必要とされなくなった場所だよ」
……必要とされなくなった?
俺は眉を寄せた。
何だか、妙な表現だな。
しかし、ノアはそれ以上説明しなかった。
「今日は、難しい話は後にしよう」
彼は微笑んだ。
「せっかく男の姿に戻れたんだから、少し普通に過ごしてみたら?」
……普通に。
俺は、その言葉に少しだけ心を動かされた。
そうだ。
今日は休暇だ。
仕事をする必要はない。
恋愛イベントから逃げる必要もない。
誰かの好感度を気にする必要もない。
ただ、普通に過ごせばいい。
「……よし」
俺は拳を握った。
「じゃあ、まずは飯だな!」
ノアが笑った。
「いいね。何が食べたい?」
「……そうだな」
俺は少し考えた。
前世では、休日になると近所の定食屋へ行くことが多かった。
安くて、量が多くて、気軽に入れる店。
そういう場所が好きだった。
「……普通の食堂がいいな」
「わかった」
ノアは頷いた。
そして、町の中央へ歩き出した。
俺は、その後をついていった。
足元では、猫神が尻尾を揺らしながら歩いている。
「……なあ、ミャルティア」
「なんだ?」
「お前、腹減ってない?」
「減っておる」
「……何食べたい?」
「魚」
「……だろうな」
俺は苦笑した。
そして、三人で小さな食堂へ入った。
◇
食堂は、驚くほど普通だった。
木製のテーブル。
古びた椅子。
壁に貼られた献立表。
厨房から漂ってくる、香ばしい匂い。
……いいな。
こういう店、落ち着く。
俺は窓際の席に座り、献立表を眺めた。
肉料理。
魚料理。
野菜の煮込み。
パン。
スープ。
どれも、王宮で出されるような豪華な料理ではない。
しかし、それがいい。
「……俺、肉の煮込みにする」
ノアが頷いた。
「じゃあ、僕も同じものを」
猫神が前脚を上げた。
「我は魚だ!」
「……わかってるよ」
俺は苦笑した。
しばらくして、料理が運ばれてきた。
大きな皿に盛られた肉の煮込み。
温かなパン。
野菜のスープ。
そして、猫神の前には焼き魚が置かれた。
「……いただきます」
俺はパンをちぎり、煮込みに浸した。
そして、一口食べる。
「……うまっ!」
思わず声が出た。
肉は柔らかく、野菜の旨味がしっかりと染み込んでいる。
パンも香ばしい。
王宮の料理とは違う、素朴な美味しさだった。
「……美味しい?」
ノアが尋ねた。
「めちゃくちゃ美味い!」
俺は笑った。
すると、ノアも嬉しそうに微笑んだ。
「それはよかった」
……ああ。
何だろう。
久しぶりだな。
こうやって、普通に食事をするのは。
前世では、男友達と飯を食べることがあった。
仕事の愚痴を言ったり、ゲームの話をしたり、くだらないことで笑ったり。
何でもない時間だった。
でも、今になって思う。
ああいう時間って、結構大事だったんだな。
俺がそんなことを考えていると、ノアが静かに口を開いた。
「……少し、落ち着いた?」
「……ああ」
俺は頷いた。
「おかげさまで」
ノアは微笑んだ。
「それなら、よかった」
……いい奴だな。
この男。
少なくとも、今のところは。
俺はパンを口へ運びながら尋ねた。
「……なあ、ノア」
「何?」
「お前、本当に攻略対象なの?」
ノアは一瞬、動きを止めた。
そして、小さく笑った。
「……そうだね」
「……そうだね?」
「本来なら、そうなるはずだった」
……本来なら?
俺は眉を寄せた。
「……どういう意味?」
ノアは、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「僕は、完成しなかった物語の登場人物なんだ」
……完成しなかった?
俺は息を呑んだ。
「……まさか」
ノアは頷いた。
「うん。君が知っているゲームには、僕の物語が存在しない」
……なるほど。
だから、未登録シナリオなのか。
俺は少し考えた。
「……つまり、没になった攻略対象?」
ノアは、少しだけ驚いた顔をした。
そして、苦笑した。
「……ずいぶん、直接的な言い方をするね」
「いや、だって」
俺は肩をすくめた。
「ゲーム開発では、そういうこともあるだろ。企画段階では登場する予定だったキャラクターが、制作途中で削除されるなんて珍しくないし」
ノアは、静かに俺を見つめた。
「……そうだね」
「……じゃあ、お前はそういうキャラなのか?」
ノアは、少しだけ目を伏せた。
「……それに近いよ」
……なるほど。
俺は頷いた。
つまり、こいつは開発途中で削除された隠し攻略対象ということか。
それなら、広報資料に存在しなかった理由も説明できる。
俺が知らないのも当然だ。
しかし。
「……でも、何でここにいるんだ?」
俺は尋ねた。
「ゲームでは削除されたんだろ?」
ノアは静かに微笑んだ。
「……物語から消されたからといって、存在そのものが消えるとは限らないんだ」
……存在そのもの。
俺は少しだけ眉を寄せた。
何だか、妙な話になってきたな。
ノアは続けた。
「この世界には、語られなかった物語がたくさんある。選ばれなかった選択肢、使われなかった場所、登場する機会を失った人々……」
彼は窓の外へ視線を向けた。
「ここは、そういうものが流れ着く場所なんだ」
……なるほど。
名前のない町。
物語の外側。
必要とされなくなった場所。
……そういうことか。
「……じゃあ、この町の人たちも?」
「うん。元々は、どこかの物語に登場するはずだった人々だよ」
俺は、周囲を見渡した。
食堂では、店主が客と笑いながら話している。
窓の外では、子どもたちが走り回っている。
道端では、老人が椅子に座って昼寝をしていた。
……普通だ。
どこからどう見ても、普通の町だった。
それなのに。
この人たちは、物語から必要とされなくなった存在なのか。
「……何だかな」
俺は小さく呟いた。
ノアがこちらを見た。
「……どうしたの?」
「いや……」
俺は少し考えた。
「……ゲームのキャラクターって、普通はプレイヤーが見ていないところでも生活してる設定だろ?」
ノアは黙って聞いていた。
「でも、実際のゲームでは、描写されない部分がいっぱいある。設定だけ存在する街とか、名前もない住人とか」
俺は窓の外を見た。
「……けど、ここでは、みんな普通に生きてるんだな」
ノアは、静かに微笑んだ。
「……そうだね」
「……だったら」
俺は少しだけ笑った。
「物語に必要とされなくても、別にいいんじゃないか?」
ノアが目を見開いた。
「……え?」
「だって、普通に暮らしてるじゃん」
俺は肩をすくめた。
「ゲームに登場しなくたって、別にいいだろ。ここで生活できてるなら、それで十分じゃないか?」
ノアは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口元を緩めた。
「……君は、本当に変わった人だね」
「……そうか?」
「うん」
ノアは、少しだけ寂しそうに笑った。
「……そう考えられる人間は、あまり多くないと思うよ」
……何だよ。
大げさだな。
俺は苦笑した。
すると、足元で猫神が小さく唸った。
「……ノア」
ノアが視線を向けた。
「……何かな?」
「そろそろ、本題を話すべきではないか?」
……本題?
俺は眉を寄せた。
「……そういえば、そうだったな」
俺はノアを見た。
「お前、俺に何か話があるんだろ?」
ノアは頷いた。
「……そうだね」
そして、静かに告げた。
「君の《ハズレスキル》についてだ」
◇
「……《ハズレスキル》?」
俺は聞き返した。
ノアは頷いた。
「うん。君が持っている、運命を外す能力」
……やっぱり。
こいつも知っているのか。
俺は少しだけ身構えた。
「……それが、何?」
ノアは、テーブルの上に小さな石を置いた。
白く、丸い石だった。
「例えば、この石を落としたら、どうなると思う?」
「……床に落ちるだろ」
「そうだね」
ノアは石を持ち上げ、手を離した。
石は床へ落ちた。
こつん。
小さな音がした。
「……普通だな」
「うん。普通だ」
ノアは石を拾い上げた。
「でも、君が《ハズレスキル》を使えば、この結果を変更できる」
「……まあ、そうだな」
「石が床に落ちる運命を外せば、別の結果になる」
ノアは静かに続けた。
「ただし、外された運命は消えない」
……ああ。
それは知っている。
俺は頷いた。
「別の結果に変換されるんだろ?」
「そう」
ノアは微笑んだ。
「でも、君は一つだけ、大事なことを見落としている」
……見落としている?
俺は眉を寄せた。
「……何?」
ノアは、静かに告げた。
「外された運命は、必ずしもその場で別の結果になるとは限らないんだ」
……え?
俺は息を呑んだ。
「……どういうこと?」
「君が外した運命の一部は、別の場所へ流れている」
ノアは窓の外を指さした。
「例えば、ここへ」
……ここ?
俺は、名前のない町を見た。
ノアは続けた。
「この町は、物語から外れたものが流れ着く場所だ。そして、君のスキルもまた、運命を物語の外側へ押し出すことがある」
……なるほど。
俺は少しだけ理解した。
運命を外す。
別の結果へ変換する。
しかし、すべてがその場で処理されるわけではない。
一部は、別の場所へ流れていく。
……それが、この町なのか。
「……でも、それって問題なの?」
俺が尋ねると、ノアは少しだけ表情を曇らせた。
「問題になる可能性はある」
「……何で?」
「君が外した運命が、どこかで蓄積していくからだ」
……蓄積?
俺は眉を寄せた。
ノアは静かに続けた。
「運命は、本来、ひとつの流れとして成立している。その結果を何度も外せば、流れの外側に歪みが生まれる」
……歪み。
何だか、難しい話になってきたぞ。
「……つまり?」
「君が恋愛イベントを回避し続ければ、それだけ多くの運命が外側へ流れていく」
ノアは真剣な表情になった。
「そして、その歪みが大きくなれば、この世界の物語そのものが不安定になる」
……は?
俺は固まった。
世界の物語が不安定になる?
それって。
「……俺が恋愛イベントを回避すると、世界が危なくなるってこと?」
ノアは首を横に振った。
「すぐに危険になるわけじゃない。ただ、何も考えずに運命を外し続けるのは、少し危険かもしれない」
……おい。
ちょっと待て。
俺は頭を抱えた。
何だよ、それ。
恋愛イベントを回避したいだけなのに。
世界の運命まで考えなきゃならないのかよ。
俺は、ただ普通に生きたいだけなんだぞ。
すると、ノアが静かに微笑んだ。
「……でも、心配しなくていい」
「……え?」
「そのために、僕がいるんだから」
……何だよ。
その台詞。
ちょっと格好いいじゃないか。
いや、待て。
相手は隠し攻略対象だ。
油断するな。
俺は警戒しながら尋ねた。
「……具体的に、何をしてくれるんだ?」
ノアは、ゆっくりと手を差し出した。
その手のひらには、小さな鍵が乗っていた。
銀色の、古びた鍵だった。
「……これは?」
「物語の外側へ出るための鍵だよ」
……鍵?
俺は眉を寄せた。
ノアは静かに続けた。
「これがあれば、君は今後も、この場所へ来ることができる」
……マジか。
俺は思わず身を乗り出した。
「……本当に?」
「うん。ただし、頻繁には使えない」
「……どのくらい?」
「今の君なら、月に一度程度かな」
……月に一度。
俺は少し考えた。
まあ、悪くない。
月に一度でも、男の姿へ戻って普通に過ごせるなら十分だ。
しかも、恋愛イベントも発生しない。
最高じゃないか。
「……欲しい!」
俺は即答した。
すると、ノアが小さく笑った。
「……その前に、条件を聞いてほしい」
……条件?
俺は身構えた。
やっぱり、ただではないのか。
「……何?」
ノアは静かに告げた。
「僕に、君の《ハズレスキル》を貸してほしい」
…………。
俺は固まった。
「……貸す?」
「うん」
「……どういう意味?」
ノアは、真剣な表情で続けた。
「僕自身の運命を、外してほしいんだ」
……自分の運命?
俺は眉を寄せた。
「……何のために?」
ノアは、少しだけ目を伏せた。
「……僕も、自由になりたいからだよ」
…………。
俺は黙っていた。
ノアは静かに続けた。
「僕は、本来、存在するはずだった物語から外された人間だ。だから、この世界では、正式な居場所がない」
……なるほど。
俺は少しだけ理解した。
没になった攻略対象。
完成しなかった物語。
そのせいで、こいつは名前のない町にいる。
「……じゃあ、お前も普通に暮らしたいのか?」
俺が尋ねると、ノアは頷いた。
「……そうだね」
……そうか。
俺は少しだけ考えた。
気持ちはわかる。
俺も、乙女ゲームの主人公という役割から解放されたい。
男として普通に暮らしたい。
それは、ノアも同じなのかもしれない。
しかし。
「……具体的に、何を外せばいいんだ?」
俺は尋ねた。
ノアは、少しだけ表情を曇らせた。
「……今は、まだ説明できない」
……おい。
俺は眉を寄せた。
「……何で?」
「君が、まだ十分に運命を理解していないからだ」
……なるほど。
いや。
待てよ。
それって、結構危なくないか。
何をするのかわからないのに、能力を使えと言われている。
しかも、世界の運命に関わるような力だ。
そんなものを、簡単に使っていいわけがない。
「……悪いけど」
俺は首を横に振った。
「それは、今すぐには引き受けられない」
ノアが目を見開いた。
「……そうか」
「うん。何をするのか、どんな結果になるのか。それがわからないまま能力を使うのは危険だと思う」
俺は真剣な表情で続けた。
「ちゃんと説明してくれるなら、考える。でも、今の段階では約束できない」
沈黙。
ノアは、しばらく俺を見つめていた。
そして。
「……ははっ」
小さく笑った。
「……本当に、君らしいな」
「……そうか?」
「うん」
ノアは、銀色の鍵を懐へ戻した。
「わかった。無理に頼むつもりはないよ」
……よかった。
俺は安堵した。
すると、ノアが静かに微笑んだ。
「ただし、今日の休日は、最後まで楽しんでいってほしい」
「……いいの?」
「もちろん」
ノアは頷いた。
「君が望んで来たんだからね」
……ああ。
やっぱり。
こいつ、悪い奴じゃないのかもしれない。
俺は少しだけ笑った。
「……ありがとう」
ノアも微笑んだ。
そして、静かに告げた。
「……こちらこそ」
◇
午後四時。
俺は名前のない町の広場を歩いていた。
男の身体に戻ってから、すでに数時間が経っていた。
最初は違和感があったが、今ではすっかり慣れていた。
……いや。
違うな。
慣れたんじゃない。
戻ったんだ。
俺が本来、知っている身体へ。
「……ああ、落ち着く」
俺は小さく伸びをした。
胸元に違和感がない。
髪が首に触れない。
歩くときの重心も、前世の感覚に近い。
何より、自分の声が自然に聞こえる。
……いいな。
やっぱり、こっちのほうが落ち着く。
俺は、しばらく町を歩いていた。
露店を覗いたり。
本屋に立ち寄ったり。
道端の猫を撫でたり。
何でもない時間だった。
しかし、その何でもなさが嬉しかった。
恋愛イベントを気にしなくていい。
誰かに求愛される心配もない。
仕事の通知も来ない。
ただ、自分の好きなように過ごせる。
……ああ。
これが、休日ってやつだよな。
俺は小さく笑った。
すると、隣を歩いていたノアが声をかけてきた。
「……楽しめた?」
「……ああ」
俺は頷いた。
「めちゃくちゃ楽しかった」
ノアは穏やかに微笑んだ。
「それなら、よかった」
……いい奴だな。
俺は少しだけ感心した。
すると、足元の猫神が小さく唸った。
「……油断するでないぞ」
「……わかってるって」
俺は苦笑した。
まあ、確かに怪しい部分はある。
こいつの正体も、目的も、まだ全部わかったわけではない。
それでも、今日一日を楽しく過ごせたのは事実だ。
俺は素直に感謝していた。
そのときだった。
「……そろそろ、戻ろうか」
ノアが静かに言った。
俺は時計を見た。
午後四時過ぎ。
約束していた一日は、まだ終わっていない。
しかし、ノアの表情は少しだけ真剣だった。
「……何で?」
俺が尋ねると、ノアが答えた。
「この場所に長くいると、君の存在が不安定になるからだよ」
……そうだったな。
俺は頷いた。
名残惜しいが、仕方ない。
いつまでも男の姿でいられるわけではないのだ。
「……わかった」
俺は小さく息を吐いた。
そして、礼拝堂へ戻ることにした。
◇
礼拝堂の鏡の前。
俺は、もう一度、自分の姿を見つめていた。
短い黒髪。
見慣れた顔。
前世の俺。
……ああ。
名残惜しいな。
たった一日だけだったけど。
本当に、楽しかった。
「……ノア」
「何?」
「また、ここへ来られるんだよな?」
ノアは頷いた。
「うん。条件が整えばね」
……そうか。
俺は少しだけ笑った。
「……じゃあ、また来るよ」
ノアも微笑んだ。
「待っている」
俺は頷き、鏡へ手を触れた。
黒い表面が、淡く輝いた。
そして。
光が身体を包み込んでいく。
視界が変わる。
身体が軽くなる。
肩の位置が変わる。
髪が伸びる。
胸元に、再び違和感が生まれる。
……ああ。
戻っちゃったか。
俺は鏡を見た。
そこには、金髪碧眼の美少女が立っていた。
リリア・ベルフォード。
乙女ゲームのヒロイン。
……やっぱり、可愛いな。
でも。
……俺じゃないんだよな。
俺は小さくため息をついた。
すると、ノアが静かに声をかけてきた。
「……大丈夫?」
「……ああ」
俺は頷いた。
「一日だけでも、戻れたんだから」
ノアは穏やかに微笑んだ。
「……そうだね」
そして、静かに告げた。
「いつか、君が本当に望む姿で生きられる日が来るといいね」
……ああ。
俺も、そう思う。
「……ありがとう」
俺は小さく笑った。
ノアも微笑んだ。
しかし、その直後。
彼の表情が、わずかに変わった。
「……どうやら、時間切れみたいだ」
「……え?」
俺が眉を寄せた瞬間。
礼拝堂の外から、遠く鐘の音が聞こえてきた。
ごおん。
ごおん。
重く、低い鐘の音。
そして。
『シナリオ補正を開始します』
「…………」
……おい。
待て。
『主人公が未登録領域から帰還しました』
『行動履歴を確認』
『王立学院からの無断離脱を検出しました』
「…………」
……無断離脱?
俺は眉を寄せた。
いや、休暇は取っただろ。
ちゃんとユリウスに申請して、承認ももらったぞ。
『隠し攻略対象との接触を確認しました』
『特殊イベント:聖女誘拐事件』
『未完了イベントを再開します』
「…………」
……は?
俺は固まった。
おいおいおい。
ちょっと待て。
誘拐イベント、まだ残ってたの!?
『攻略対象五名による救出イベントが発生します』
『イベント開始まで:残り十分』
「…………」
……おい。
俺はノアを見た。
「……なあ」
「何かな?」
「これ、どうすればいい?」
ノアは少しだけ困ったように笑った。
「……どうやら、世界が君の不在を問題視しているようだね」
「……問題視?」
「うん。君が物語の外へ出たことで、本来のシナリオが修正を始めている」
……なるほど。
いや。
なるほど、じゃねえよ。
俺は頭を抱えた。
何だよ、それ。
せっかく休暇を楽しんだのに。
帰ってきた瞬間、誘拐イベントが発生するって。
……最悪じゃないか!
「……《ハズレスキル》で外せないの?」
俺が尋ねると、ノアは少しだけ考えた。
「……外せる可能性はあるよ」
「……本当?」
「うん。ただし、何に変換されるかはわからない」
……そうだった。
このスキルは、運命を外す能力。
しかし、外された運命は別の結果へ変換される。
つまり、誘拐イベントを外しても、別のイベントが発生する可能性がある。
……でも。
このまま誘拐イベントを進めるわけにはいかない。
攻略対象五人が救出に来るなんて、絶対に面倒なことになる。
俺は深呼吸した。
「……よし」
そして、心の中で叫んだ。
「《ハズレスキル》!」
『《ハズレスキル》発動』
『対象:聖女誘拐事件』
『確定結果を変更します』
青白い文字が弾けた。
そして。
『代替イベントを検索しています』
『主人公の行動履歴を確認』
『休暇取得:承認済み』
『本人の意思による外出:確認』
『誘拐の事実:不成立』
……よし!
俺は拳を握った。
今度こそ、いける!
『代替イベント確定』
『聖女誘拐事件』
『変更後:聖女の秘密の休日』
「……やった!」
俺は思わず叫んだ。
成功だ!
今度こそ、完全に成功した!
誘拐イベントを回避できた!
しかも、代わりに発生したのは、ただの休日イベントだ!
最高じゃないか!
俺はノアを見た。
「……見たか!」
ノアは、少しだけ驚いた顔をしていた。
そして、静かに笑った。
「……なるほど」
「……何?」
「君は、本当に面白い能力の使い方をするね」
……そうか?
俺は少しだけ得意になった。
すると、猫神が足元で小さく唸った。
「……まだ、油断するでないぞ」
「……何で?」
「運命が、完全に落ち着いておらぬ」
……え?
俺は眉を寄せた。
その瞬間。
『特殊イベントを確認しました』
『聖女の秘密の休日』
『攻略対象たちは、主人公の知られざる一日について興味を抱きます』
「…………」
……おい。
ちょっと待て。
『攻略対象五名の好感度+5』
「…………」
……何でだよ!
俺は叫んだ。
「会ってもいないのに好感度が上がるなあああああ!」
礼拝堂に、俺の絶叫が響き渡った。
◇
午後五時半。
俺は王立学院の寮へ戻っていた。
結局、ノアとは礼拝堂の前で別れた。
彼は最後に、こう言っていた。
『また、君が自由になりたいと思ったら、僕を訪ねておいで』
……まあ、悪い話ではない。
ただし、今後はもう少し慎重に行動したほうがいいだろう。
何しろ、世界の物語そのものが俺の行動を修正してくるのだ。
気軽に外出するだけでも、恋愛イベントが発生する可能性がある。
……本当に、面倒な世界だな。
俺はベッドへ腰を下ろし、深いため息をついた。
「……疲れた」
猫神が隣へ飛び乗った。
「ふむ。だが、今日は満足したのであろう?」
「……まあな」
俺は小さく笑った。
久しぶりに男の姿へ戻れた。
普通に食事をして、町を歩いて、休日を楽しんだ。
たった数時間だったけど。
それでも、俺にとっては大切な時間だった。
「……ありがとうな、ミャルティア」
猫神が少しだけ目を丸くした。
「……む?」
「ついてきてくれて」
猫神は、しばらく黙っていた。
そして、得意げに尻尾を立てた。
「ふふん。もっと感謝してもよいぞ」
「……やっぱり、言わなきゃよかった」
俺は苦笑した。
すると、目の前に青白い画面が浮かび上がった。
『一日の活動結果を集計します』
「……お?」
俺は画面を見た。
今日は休暇だった。
仕事もしていない。
攻略対象五人とも会っていない。
恋愛イベントだって、発生していない。
……いや、誘拐イベントはあったけど。
でも、最終的には回避できた。
つまり、今日の成果は上々のはずだ。
『本日のイベント結果』
『聖女誘拐事件:回避成功』
『隠し攻略対象との接触:成立』
『運命の外側にある休日:完了』
『主人公の本来の姿:一時的に復元成功』
『ハーレムルート進行度:53%』
「…………」
……おい。
ちょっと待て。
五十三パーセント?
昨日は四十八パーセントだったよな?
何で増えてんの?
俺、今日休んでたんだぞ!?
『攻略対象五名が、主人公の不在によって関心を強めました』
「…………」
……は?
俺は画面を睨んだ。
何だよ、それ。
不在で関心が強まるって。
恋愛イベントに参加しなくても好感度が上がるのかよ!
俺は頭を抱えた。
もう、どうすればいいんだ。
仕事をすれば好感度が上がる。
休めば好感度が上がる。
逃げれば好感度が上がる。
……何だよ。
このゲーム。
攻略対象の好感度を下げる方法が存在しないんじゃないか?
「……ミャルティア」
「なんだ?」
「俺、もう諦めたほうがいいのかな」
猫神は、不思議そうに首を傾げた。
「……何をだ?」
「恋愛イベントの回避だよ」
俺は深いため息をついた。
すると、猫神は静かに答えた。
「……諦める必要はない」
「……え?」
俺は顔を上げた。
猫神は、珍しく真面目な表情をしていた。
「お前が望まぬなら、誰とも恋愛する必要はない。それは、運命が決めることではないからな」
……ああ。
そうだった。
俺は、少しだけ笑った。
「……そうだよな」
猫神は頷いた。
「うむ。好感度がどれほど上がろうと、お前の意思はお前のものだ」
……なるほど。
確かに、その通りだ。
ゲームの数字なんて、所詮は数字だ。
大切なのは、俺自身がどうしたいか。
誰かを好きになるかどうか。
誰かと付き合うかどうか。
それは、俺が決めることだ。
「……よし」
俺は拳を握った。
「明日からも、全力で恋愛イベントを回避してやる!」
「にゃはは! それでこそ、お前だ」
猫神が楽しそうに笑った。
俺も、小さく笑った。
……ああ。
今日は、いい一日だった。
久しぶりに、自分らしく過ごせた気がする。
そして、少しだけ希望も見えた。
男に戻る方法。
物語から自由になる方法。
それらが、どこかに存在している。
……ならば。
俺は、まだ諦めない。
◇
その夜。
王都の地下深く。
誰も知らない場所で、ノアは一人、古びた机に向かっていた。
机の上には、無数の紙が広げられている。
そこには、複雑な図形と、見慣れない文字が書き込まれていた。
ノアは、一枚の紙を手に取った。
そこには、こう記されていた。
『聖女リリア・ベルフォード』
『運命改変回数:規定値超過』
『物語への適合率:低下』
『自我の独立性:上昇』
ノアは静かに微笑んだ。
「……順調だ」
そして、もう一枚の紙へ視線を移した。
『第六攻略対象:ノア』
『状態:未登録』
『本来の役割:削除済み』
『現在の目的:物語からの完全解放』
ノアは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく呟いた。
「……あと少しだ」
その声には、先ほどまでの穏やかさとは違う、強い意志が込められていた。
「君なら、きっとできる」
ノアは、窓のない部屋の天井を見上げた。
「……僕を、この世界から自由にしてくれる」
そして、静かに目を閉じた。
その瞬間。
机の上に、青白い文字が浮かび上がった。
『特殊条件を確認しました』
『第六攻略対象との接触により、未登録シナリオが進行しています』
『イベント名:消された男の願い』
『進行度:10%』
ノアは、ゆっくりと目を開けた。
そして、小さく笑った。
「……始まったね」
その声は、誰にも届かなかった。
ただ、彼の足元に置かれた銀色の鍵だけが、淡く輝いていた。
◇
一方、その頃。
俺は寮のベッドで、ようやく眠りにつこうとしていた。
今日一日で、いろいろなことがあった。
男の姿へ戻った。
名前のない町を訪れた。
ノアという謎の男と出会った。
そして、《ハズレスキル》の新しい可能性を知った。
……まあ、悪くない。
むしろ、かなり充実した休日だったと思う。
俺は布団を引き寄せ、目を閉じた。
すると。
『新着通知があります』
「…………」
……おい。
またかよ。
俺は、ゆっくりと目を開けた。
『五部門統括マネージャー宛ての業務報告が届いています』
「…………」
……いや。
今日は休暇だぞ。
俺は画面を閉じようとした。
しかし、その瞬間、別の文字が浮かび上がった。
『緊急通知』
『明日の王立学院にて、特別視察が実施されます』
「……特別視察?」
俺は眉を寄せた。
誰が来るんだ?
『視察責任者:第一王子レオンハルト』
『警備責任者:騎士団長カイル』
『技術協力:宮廷魔導師エリオット』
『神殿代表:大神官セシル』
『施設管理責任者:公爵令息ユリウス』
「…………」
……おい。
また全員かよ。
俺は頭を抱えた。
しかし、通知はまだ続いていた。
『特別視察の目的』
『聖女リリア・ベルフォード様の安全確保、および今後の活動支援について』
「…………」
……また俺かよ!
俺は天井を仰いだ。
そして、心の底から叫んだ。
「俺のことは放っておいてくれえええええ!」
その声は、夜の寮に響き渡った。
ちなみに。
翌朝、五人の攻略対象が全員揃って俺の部屋を訪れることになるのだが、それはまた別の話である。
そして、その五人のうち一人が、俺の昨日の行動について重大な事実を知ってしまうことも。
俺の平穏な異世界生活は、またしても遠ざかろうとしていた。
……いや。
そもそも。
こんな状況で、平穏な生活なんて送れるわけないだろ。
次回・第6話「俺、男に戻ったことが攻略対象にバレたんだが?」
一日だけ男の姿を取り戻し、久しぶりの休日を満喫した俺。しかし、宮廷魔導師エリオットが、俺の魂に残された変化の痕跡を発見してしまう。
さらに、大神官セシルはその痕跡から、俺が一時的に本来の姿へ戻ったことを察知。秘密を守るために協力してくれるはずが、なぜか他の攻略対象たちまで巻き込むことに。
そして、ノアの存在を知った五人が、俺の知らないところで再び会議を始めてしまう。
……おい。俺のプライベートについて、勝手に会議するのやめてくれない?




