第3話 俺、聖女なのに健康診断で男だとバレそうなんだが?
俺は今、人生最大の危機に直面している。
いや、人生という表現が正しいのかはわからない。何しろ、俺は一度死んでいるのだから。
前世では二十九歳のサラリーマンだった俺が、交通事故で死んだあと、なぜか十八禁乙女ゲームの主人公リリア・ベルフォードに転生してしまった。
しかも、転生先はゲーム開始直後。
攻略対象の美男子五人が、これから次々と俺を口説いてくる予定になっている。
昨日までに三人と出会った。
第一王子レオンハルト。
騎士団長カイル。
宮廷魔導師エリオット。
全員、顔がいい。能力も高い。性格も、多少の問題はあるものの、基本的には悪い人間ではない。
しかし、俺は男だ。
少なくとも中身は男だし、昨日まで女の身体になったことすら受け入れられずにいた。
そんな状態で男たちと恋愛なんてできるわけがない。
だからこそ、俺は昨日、三人とのデートイベントをすべて業務に変更してやった。
騎士団長との乗馬デートは、学院生向けの合同乗馬安全講習会に。
宮廷魔導師との秘密のお茶会は、魔導師団との共同研究に。
第一王子との月夜の舞踏は、王宮主催の保護猫支援慈善晩餐会に。
我ながら見事な手腕だったと思う。
ただし、その結果として三人の好感度が大幅に上昇してしまったことは、ひとまず考えないことにした。
問題は今日である。
午前九時。
大神官セシルによる、聖女の健康診断。
これが現在、俺の頭を悩ませている最大の問題だった。
「……なあ、ミャルティア」
「なんだ?」
俺のベッドの上で、白い猫が丸くなっている。
聖猫神ミャルティア。
この世界の主神にして、俺を異世界転生させた張本人だ。
こいつは昨夜、俺の身体の上で堂々と眠り、今朝も起こしに来たメイドへ威嚇するという、神様らしからぬ行動を取っていた。
「健康診断って、どこまで調べるんだ?」
「健康状態であろう?」
「それは知ってるよ。具体的に何をするんだって聞いてるの」
「ふむ。神殿の健康診断であれば、肉体と魔力、それから魂の状態を調べるはずだな」
「……魂?」
俺は眉を寄せた。
「魂まで調べられるの?」
「当然であろう。聖女とは神の加護を受けた者なのだからな。魂の状態は重要だぞ」
……ちょっと待て。
魂。
魂って、あの魂か?
人間の精神とか、生命の本質とか、そういうやつだよな?
「……なあ」
「なんだ?」
「俺の魂って、男なの?」
「うむ」
即答だった。
「前世から引き継いでおるのだから、当然であろう」
「……じゃあ、健康診断でバレるんじゃない?」
「何がだ?」
「俺が男だってこと!」
俺が叫ぶと、猫神は不思議そうに首を傾げた。
「別によいではないか?」
「よくねえよ!」
この世界では、俺は千年に一人の聖女だ。
見た目は二十二歳の金髪美少女。
そして、乙女ゲームの主人公として、五人の男から求愛されることになっている。
そんな俺の魂が、実は二十九歳の元サラリーマンだったと判明したらどうなる?
聖女の正体は男でした。
しかも異世界から来ました。
前職はゲーム会社の広報担当です。
……説明できる気がしない。
「そもそも、魂に性別ってあるのか?」
「厳密には性別というより、生前の形や記憶の痕跡だな。お前の場合は、前世の男性としての自己認識が非常に強い」
「じゃあ、大神官なら見抜ける可能性があるんだな?」
「まあ、優秀な神官であればな」
俺は頭を抱えた。
終わった。
今度こそ終わった。
なぜなら、大神官セシル・アークライトは、このゲームの第四攻略対象だからだ。
年齢二十八歳。
聖猫神を信仰する大神殿の最高位神官。
穏やかで慈悲深く、誰に対しても優しく接する人物だが、主人公に対しては次第に強い執着を見せるようになる。
ゲームの宣伝用キャッチコピーは、こうだった。
『神への誓いを破っても、あなたを愛してしまう』
俺が考えた文章である。
今になって思えば、何てことを宣伝していたんだろう。
神官なら神への誓いは守れよ。
職業倫理はどうなってるんだ。
「……とにかく、魂の検査だけは阻止しないと」
俺は覚悟を決めた。
健康診断そのものを断るのは難しい。
何しろ俺は、神から特別な加護を与えられた聖女ということになっている。
体調や魔力の確認は、神殿として当然の仕事だろう。
ならば、検査項目を確認して、必要なものだけ受ければいい。
そして、絶対に魂の正体を見抜かれないようにする。
よし。
今日の目標が決まった。
「俺の秘密を守って、大神官の好感度を上げずに帰る!」
「……ほう」
猫神が小さく笑った。
「それは、なかなか難しそうだな」
「お前が笑うと不安になるんだよ!」
まったく、頼りにならない神様である。
◇
午前八時五十分。
俺は王都の中央にある大神殿へ到着した。
白い石造りの巨大な建物で、正面には猫の彫像が二体並んでいる。
片方は右前脚を上げ、もう片方は左前脚を上げていた。
……招き猫?
いや、まさかな。
こんな異世界に招き猫があるわけないだろ。
俺が首を傾げていると、案内役の女性神官が微笑んだ。
「こちらは、聖猫神ミャルティア様が幸福を招くお姿を表した神像でございます」
「……なるほど」
招き猫だった。
異世界にもあるんだな。
まあ、神様本人があんな感じだし、今さら驚くことでもないか。
神殿の内部は、外観以上に荘厳だった。
高い天井には色鮮やかなステンドグラスが並び、中央には巨大な白猫の彫像が鎮座している。
その猫は、なぜか仰向けになって眠っていた。
「……あの」
「はい?」
「神像、寝てません?」
「はい。聖猫神様が世界を創造されたあと、満足してお眠りになったお姿を表しております」
「……そうですか」
仕事したあとに寝る神様。
そこだけ妙に親近感が湧くな。
俺が神像を見上げていると、奥の扉が開いた。
「ようこそ、リリア・ベルフォード様」
柔らかな声が響いた。
振り返ると、白い神官服を身にまとった青年が立っていた。
淡い銀灰色の髪。
穏やかな緑色の瞳。
整った顔立ちには、優しい微笑みが浮かんでいる。
背が高く、細身ではあるが、不思議と頼もしさを感じさせる雰囲気だった。
……出たな。
第四攻略対象。
大神官セシル・アークライト。
「お初にお目にかかります。大神官を務めております、セシルと申します」
セシルは胸元へ手を当て、丁寧に一礼した。
「本日は、聖女様の健康状態を確認させていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
俺も礼を返した。
すると、目の前に例の青白い文字が浮かび上がった。
『第四攻略対象と遭遇しました』
『大神官セシル・アークライト』
『初期好感度:0』
『恋愛イベント:神官の聖なる診察』
『イベント概要:大神官が主人公の身体に宿る神聖魔力を調査する』
『特別演出:二人きりの祈祷室、手を重ねる儀式、額への祝福の口づけ』
……おい。
最後。
最後の一行は何だ。
額への祝福の口づけ?
健康診断だろ?
健康診断なんだよな?
医者に診てもらったら、最後にキスされる病院なんて聞いたことねえぞ!
「……リリア様?」
セシルが心配そうに声をかけてきた。
「お顔の色が優れないようですが、具合でも悪いのでしょうか?」
「いえ、大丈夫です」
「無理をなさらないでくださいね」
そう言って、セシルは優しく微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、俺は少しだけ安心した。
……なんだ。
普通にいい人そうじゃないか。
昨日の王子たちもそうだったが、攻略対象というだけで警戒しすぎなのかもしれない。
「では、こちらへどうぞ」
セシルが俺を案内した。
長い廊下を進み、奥の小さな部屋へ入る。
白い壁。
大きな窓。
中央には丸いテーブル。
そして、壁際には診察用の寝台が置かれていた。
……寝台。
また寝台かよ!
なんで攻略対象とのイベントは、やたらと寝台のある部屋で発生するんだ!
「こちらへお座りください」
セシルが椅子を勧めてきた。
俺は警戒しながら腰を下ろした。
「本日の診察について、最初にご説明いたします」
セシルは一枚の書類を取り出した。
「検査は大きく三つに分かれています。肉体の健康状態、魔力の状態、そして魂に宿る神聖加護の状態です」
来た。
魂の検査。
俺は思わず身を乗り出した。
「あの、魂の検査って、必ず受けなきゃ駄目ですか?」
セシルが首を傾げる。
「何か、ご心配なことでも?」
「いえ、その……」
どう説明したものか。
俺は少し考えた。
「個人的な事情があるので、できれば避けたいんです」
すると、セシルは意外なほどあっさりと頷いた。
「承知しました。無理に受けていただく必要はありませんよ」
「……え?」
「検査は、あくまでご本人の健康を守るためのものです。ご本人が望まないのであれば、強制はできません」
……マジか。
すごい。
まともだ。
このゲームにも、まともな医療倫理が存在したのか!
「ただし、聖女様の加護は非常に特殊ですので、異常が疑われる場合には追加検査をご提案することがあります」
「それは……わかりました」
「もちろん、その場合も事前に内容をご説明します」
セシルは穏やかに微笑んだ。
「どうぞ、ご安心ください」
……なんだよ。
本当にいい人じゃないか。
俺は少しだけ肩の力を抜いた。
まずは肉体の検査から始まった。
といっても、服を脱いだりする必要はなかった。
神殿の医療魔法によって、身体の状態を調べるのだ。
セシルが小さな水晶球を取り出し、俺の前へ置いた。
「こちらへ手をかざしていただけますか?」
「はい」
俺が手をかざすと、水晶球が淡い青色に輝いた。
光が身体を包み込み、すぐに消える。
「……ふむ」
セシルが水晶球を覗き込んだ。
「肉体的な異常は見られませんね。健康状態は良好です」
「よかった……」
「ただ、少し疲労が蓄積しているようです」
「……疲労?」
「ええ。睡眠時間は十分に取れていますか?」
俺は思わず目を逸らした。
昨日は寝る直前まで、攻略対象たちの好感度について悩んでいた。
しかも、謎の六人目の攻略対象まで現れた。
熟睡できるわけがない。
「……まあ、それなりに」
「それなり、ですか」
セシルは苦笑した。
「聖女様は、ご自身を大切になさってくださいね」
『セシル好感度+5』
……ん?
俺は画面を見た。
ちょっと待て。
まだ健康診断を受けただけだぞ?
なんで好感度が上がるんだ?
「次に、魔力の状態を確認しましょう」
セシルが別の水晶球を取り出した。
今度は透明ではなく、乳白色に輝いている。
「聖女様の神聖魔力を測定するためのものです」
「……なるほど」
俺は手をかざした。
水晶球が光る。
そして。
ぱきっ。
「……え?」
小さな音がした。
水晶球の表面に、ひびが入っていた。
セシルが目を見開く。
「……これは」
次の瞬間。
ぱきぱきぱきっ!
水晶球全体に亀裂が走った。
「ちょっと!?」
俺は慌てて手を引いた。
しかし、すでに遅かった。
水晶球は眩しい光を放ち、粉々に砕け散った。
……うわあ。
やっちまった。
「す、すみません!」
俺は慌てて頭を下げた。
「弁償します!」
セシルは驚いた顔をしていたが、すぐに首を横に振った。
「いえ、お怪我がなくて何よりです」
「でも、水晶球が……」
「お気になさらないでください。魔力測定において、器具が破損することは稀にありますから」
……本当か?
絶対に稀どころじゃない反応だったぞ。
セシルは砕けた水晶球を見つめ、静かに呟いた。
「……それにしても、これほどの神聖魔力とは」
俺は息を呑んだ。
まずい。
何かおかしいと気づかれた。
セシルはゆっくりと俺へ視線を戻した。
「リリア様。少し、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「……はい?」
「あなたの神聖魔力には、通常とは異なる波長が含まれています」
来た。
やっぱり来た。
「それを詳しく調べるために、魂の状態を確認させていただきたいのですが……」
「嫌です!」
即答した。
セシルが瞬きをする。
「……そうですか」
「はい!」
俺は必死だった。
魂の検査だけは駄目だ。
そんなことをされたら、前世が男だったことまでバレてしまうかもしれない。
しかし。
『シナリオ補正を開始します』
目の前に、嫌な文字が浮かび上がった。
『恋愛イベント:神官の聖なる診察』
『魂の検査が必要な状態になりました』
『イベント進行条件を補正します』
……おい。
ちょっと待て。
嫌な予感がする。
次の瞬間、俺の胸元が淡く輝いた。
「……え?」
身体の中心から、温かな光が広がっていく。
痛みはない。
むしろ、心地よい感覚だった。
だが、セシルの表情が一変した。
「……これは!」
彼は椅子から立ち上がった。
「リリア様、申し訳ありません。あなたの神聖魔力が、何らかの原因で不安定になっています」
「……え?」
「このままでは、肉体と魂の結びつきに影響が出る可能性があります」
……は?
肉体と魂?
結びつき?
何だよ、それ。
俺、また死ぬの?
「……あの、危険なんですか?」
「現時点では断言できません。ですが、詳しく調べる必要があります」
セシルは真剣な表情で俺を見つめた。
「検査を受けていただけませんか?」
俺は迷った。
魂を調べられるのは怖い。
だが、身体に異常があるなら放置するわけにもいかない。
しかも、今の身体は俺にとっても未知の存在だ。
前世の身体とは違う。
魔力もある。
神の加護まで宿っている。
ここで無理に検査を拒んで、あとから大変なことになるのは避けたい。
「……わかりました」
俺は小さく頷いた。
「ただし、一つ約束してください」
「何でしょう?」
「検査でわかったことは、勝手に他の人へ話さないでください」
セシルは静かに頷いた。
「もちろんです。あなたの許可なく、個人的な情報を第三者へ伝えることはありません」
「……本当に?」
「神官として、お約束します」
その言葉には、不思議なほどの説得力があった。
俺は深呼吸した。
「……お願いします」
◇
魂の検査は、想像していたものとは少し違っていた。
セシルは俺を部屋の中央へ案内すると、床に描かれた魔法陣の上へ立つように言った。
そして、自分は少し離れた場所に立ち、祈りの言葉を唱え始めた。
「聖猫神ミャルティアよ。迷える魂に安らぎを。傷ついた命に祝福を……」
淡い光が魔法陣から立ち上がった。
俺の身体を、柔らかな光が包み込んでいく。
目の前に、青白い文字が現れた。
『魂の状態を解析しています』
『肉体情報との照合を開始』
『照合結果:不一致』
……うん。
知ってた。
『魂の履歴を確認』
『前世情報を検出』
『前世:異世界出身』
『前世の性別:男性』
『前世の年齢:二十九歳』
おい。
おいおいおい。
待て待て待て。
なんでそんなことまで表示するんだよ!
これ、セシルにも見えてるの!?
俺が焦っていると、セシルが息を呑んだ。
「……これは」
終わった。
今度こそ終わった。
俺は固く目を閉じた。
頼む。
見間違いであってくれ。
気のせいだと思ってくれ。
俺がそんなことを願っていると、セシルが静かに口を開いた。
「……リリア様」
「……はい」
「あなたは……」
来た。
ついに来た。
「……本来、この世界に生まれた魂ではないのですね?」
……あれ?
そっち?
俺は恐る恐る目を開けた。
セシルは真剣な表情で俺を見つめている。
「あなたの魂には、別の世界で生きた痕跡が残っています。そして、その魂と現在の肉体は、本来なら結びつかないはずのものです」
……なるほど。
魂の状態は見えるが、俺が見ているゲームの画面と同じ情報が表示されているわけではないらしい。
少なくとも、今のところ男性だったことまでは知られていないようだ。
よし。
まだ大丈夫だ。
「……その、説明が難しいんですけど」
「無理にお話しいただく必要はありません」
セシルは穏やかに首を横に振った。
「ただ、一つだけ確認させてください」
「……何でしょう?」
「あなたは、現在の身体に違和感を覚えていませんか?」
俺は固まった。
……違和感?
ある。
ありまくる。
昨日まで男だったんだぞ。
今の身体に違和感がないわけないだろ。
「……あります」
俺は正直に答えた。
セシルは静かに頷いた。
「やはり、そうでしたか」
「……何かわかるんですか?」
「魂と肉体の結びつきが不自然なのです。あなたの魂は、現在の肉体と完全には調和していません」
……なるほど。
それは、そうだろうな。
そもそも異世界転生だし。
しかも女の身体に転生しているし。
俺が納得しかけた、そのときだった。
セシルが、少し困ったように眉を寄せた。
「……それに」
「……それに?」
「あなたの魂には、男性として生きた記憶が色濃く残っているようです」
「…………」
終わった。
やっぱり終わった。
俺は無言でセシルを見つめた。
セシルも、俺を見つめていた。
沈黙。
長い沈黙。
やがて、俺は震える声で尋ねた。
「……わかるんですか?」
セシルは小さく頷いた。
「ええ。ただし、魂の履歴がその人のすべてを決めるわけではありません。今のあなたがどう生きたいのかは、あなた自身にしかわからないことです」
……え?
俺は思わず目を見開いた。
セシルは続けた。
「あなたが現在の身体を望んでいないのなら、その気持ちを軽んじるべきではないでしょう」
「…………」
「そして、あなたの過去を知ったからといって、私があなたへの接し方を勝手に決めるつもりもありません」
……何だよ。
この人。
めちゃくちゃまともじゃないか。
俺は少しだけ肩の力を抜いた。
「……実は、俺」
思わず、普段の一人称が出てしまった。
「……俺?」
セシルが首を傾げた。
俺は慌てた。
「あ、いや、その……」
しかし、セシルは優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。無理に言葉を選ばなくても」
……ああ。
もう、いいか。
ここまでバレているなら、隠し続ける意味もない。
俺は深呼吸した。
「……俺、前世では男だったんです」
セシルは黙って聞いていた。
「二十九歳の、普通の会社員でした。仕事帰りに事故で死んで、それで、気がついたらこの身体になっていて……」
話しているうちに、なんだか変な気分になってきた。
昨日まで、俺は自分の状況を誰にも説明できなかった。
猫神には話せるが、あいつは原因を作った張本人だ。
だから、まともに相談する相手がいなかった。
なのに今、俺は初対面の大神官に、前世のことを話している。
「……信じられないですよね」
俺は苦笑した。
すると、セシルは首を横に振った。
「いいえ。信じます」
「……え?」
「この世界には、まだ解明されていない神の奇跡が数多く存在します。あなたのような例があったとしても、不思議ではありません」
セシルは柔らかく微笑んだ。
「それに、私はあなたの魂を確かめました。少なくとも、あなたが嘘をついているとは思いません」
「……そうですか」
俺は少しだけ安心した。
初めてだった。
この世界で、俺の事情を理解しようとしてくれる人に出会ったのは。
「……ありがとうございます」
自然に言葉が出た。
セシルは穏やかに頷いた。
「よろしければ、もう一つだけ教えてください」
「……何でしょう?」
「あなたは、これからどうしたいのですか?」
……どうしたい?
俺は少し考えた。
男に戻りたい。
元の世界へ帰りたい。
普通の生活を送りたい。
いろいろな願いがある。
だが、今の俺にとって一番切実なものは。
「……とりあえず、恋愛したくないです」
セシルが瞬きをした。
「……恋愛、ですか?」
「はい」
俺は真剣な表情で頷いた。
「特に、男の人とは」
「……なるほど」
「今の身体は女ですけど、中身は男のままなんで。だから、男の人から恋愛対象として見られるのが、どうにも落ち着かなくて」
セシルは静かに聞いていた。
やがて、小さく頷いた。
「わかりました」
「……わかってくれますか?」
「ええ。あなたが望まない関係を、無理に受け入れる必要はありません」
……よかった。
俺は心の底から安堵した。
ようやく、まともに話が通じる相手に出会えた。
それが、攻略対象の一人だというのは何とも皮肉だが。
「……あの、セシル様」
「はい」
「できれば、この話は秘密にしておいてください」
「もちろんです」
セシルは胸元へ手を当てた。
「神官として、あなたの秘密を守ることを誓います」
その瞬間。
『特殊イベント発生』
『大神官との秘密の共有』
『セシル好感度+20』
「…………」
……おい。
ちょっと待て。
今、何か増えたぞ。
『セシルとの関係が変化しました』
『関係:聖女と大神官 → 秘密を共有する特別な相手』
「…………」
俺は画面を見つめた。
……いや。
違う。
違うんだよ。
秘密を共有したのは、恋愛するためじゃない。
相談したかっただけなんだよ。
しかも、俺が男だったって話だぞ?
普通、ここで恋愛フラグが折れるだろ!
俺は恐る恐るセシルを見た。
セシルは、相変わらず穏やかな表情をしている。
「リリア様」
「……はい?」
「一つ、お約束しましょう」
「……何でしょう?」
「あなたがご自身の望む姿で生きられるよう、私も力を尽くします」
……え?
俺は目を見開いた。
「……本当ですか?」
「ええ。魂と肉体の研究は、神殿でも重要な分野です。すぐに解決できるとは限りませんが、調べてみる価値はあるでしょう」
……マジか。
すごい。
この人、本当に頼りになるじゃないか。
「ありがとうございます!」
俺は思わず立ち上がり、頭を下げた。
すると、セシルが優しく微笑んだ。
「どうか、お顔を上げてください。あなたが少しでも安心して暮らせるなら、それが何よりです」
『セシル好感度+15』
……もう、いいや。
好感度については、今は考えないことにしよう。
それより、ようやく協力者ができたことのほうが大きい。
俺は心の底から、そう思っていた。
しかし。
その直後。
セシルが突然、真剣な表情になった。
「……リリア様」
「……はい?」
「一つ、気になることがあります」
「……何でしょう?」
セシルは、先ほどの魔法陣を見つめた。
「あなたの魂には、もう一つ、不可解な痕跡が残っています」
「……不可解な痕跡?」
「ええ。まるで、何者かがあなたの魂に、別の運命を重ねているような……」
……ん?
別の運命?
俺は嫌な予感がした。
「……それって、どういう意味ですか?」
セシルは少し考えた。
「確かなことは言えません。ただ、あなたの魂には、本来存在しないはずの繋がりが生まれています」
「……繋がり?」
「誰かが、あなたを見つけようとしているのかもしれません」
……誰か?
俺は昨夜の出来事を思い出した。
眠りかけたときに聞こえた、男の声。
『ようやく、運命の外へ出ようとする者が現れた』
そして、ゲーム画面に表示された謎の情報。
隠し攻略対象。
第六の男。
……まさか。
俺が黙り込んでいると、セシルが心配そうに声をかけてきた。
「……何か、お心当たりが?」
「……いえ」
俺は首を横に振った。
まだ、話すべきではない気がした。
猫神ですら警戒していた相手だ。
正体がわからない以上、軽々しく他人を巻き込むわけにはいかない。
「……とりあえず、今日はここまでにしてもらえますか?」
「もちろんです」
セシルは頷いた。
「検査の結果については、改めて整理してお伝えします」
「ありがとうございます」
俺は安堵して立ち上がった。
……よし。
何とか乗り切った。
男だったことはバレたけど、むしろ協力者ができた。
恋愛イベントも発生しなかった。
いや、好感度は上がったけど。
でも、少なくとも額への口づけは回避できた。
成功だ。
そう思った瞬間。
『恋愛イベント:神官の聖なる診察』
『特別演出が未発生です』
『シナリオ補正を開始します』
「……は?」
俺は固まった。
おい。
ちょっと待て。
もう終わっただろ。
健康診断、終わっただろ!
すると、セシルが小さく声を上げた。
「……ああ、そうでした」
「……何がですか?」
「最後に、神聖加護を安定させるための祝福を行う必要があります」
……来た。
やっぱり来た。
俺は警戒した。
「……祝福、ですか?」
「ええ。ご希望であればですが」
セシルは柔らかく微笑んだ。
「通常は、額へ祝福の口づけを行うのですが……」
ほら来た!
予想通り!
「結構です!」
俺は即答した。
セシルが少し驚いた顔をした。
「……そうですか」
「はい!」
「では、祈りだけにいたしましょう」
「……え?」
「祝福には、いくつか方法がありますので」
……あれ?
そうなの?
俺は思わず尋ねた。
「……口づけしなくてもいいんですか?」
「ええ。もちろんです」
セシルは不思議そうに首を傾げた。
「そもそも、祝福の形式はご本人の希望に合わせて選ぶものですよ」
……何だよ。
最初からそう言ってくれよ。
俺は心の底から安堵した。
すると。
『シナリオ補正を開始します』
『額への祝福の口づけ:未成立』
『代替イベントを検索しています』
……おい。
またか。
またなのか。
俺は画面を睨んだ。
もう、いい加減にしてくれよ。
健康診断くらい普通に終わらせてくれ!
しかし、次の瞬間。
『代替イベント確定』
『大神官との永遠の誓約』
「…………」
……え?
永遠の誓約?
何だ、それ。
俺が固まっていると、セシルが静かに胸元へ手を当てた。
「リリア様」
「……はい?」
「あなたの秘密を守るため、神官として正式な守秘の誓いを立てたいと思います」
……守秘の誓い?
「それは、どういうものですか?」
「神の前で、あなたの秘密を決して他者へ漏らさないと誓う儀式です」
……なるほど。
それならいい。
俺は頷いた。
「お願いします」
セシルは微笑んだ。
そして、静かに祈りの言葉を唱え始めた。
「聖猫神ミャルティアよ。この者の魂に安らぎを。その秘密に守護を。その未来に自由を……」
淡い光が俺たちを包み込んだ。
セシルは右手を胸元へ当て、真剣な表情で告げた。
「私は、あなたの秘密を守り、あなたが望む道を歩めるよう、できる限り力を尽くすことを誓います」
……おお。
立派な誓いだ。
俺は少し感動した。
すると。
『特殊イベント成立』
『大神官との永遠の誓約』
『セシル好感度+30』
『セシルとの関係:生涯の守護を誓った相手』
「…………」
俺は画面を見つめた。
そして、静かに思った。
……あれ?
俺、もしかして、またやらかした?
◇
午後一時。
俺は王立学院へ戻っていた。
大神官セシルの健康診断は、予想以上に疲れるものだった。
魂の正体がバレかけたどころか、実際に前世が男だったことまで知られてしまった。
ただし、セシルは秘密を守ってくれると約束してくれたし、元の姿に戻る方法を探すことにも協力してくれるらしい。
その点については、素直に感謝している。
問題は、最後の誓約イベントだ。
あれのせいで、セシルの好感度が一気に上昇してしまった。
ゲーム開始三日目にして、第四攻略対象まで俺に強い関心を持っている。
……いや、待て。
セシルについては、恋愛感情ではない可能性もある。
秘密を知った相手として、責任を感じているだけかもしれない。
そうだ。
そう考えよう。
俺は無理やり自分を納得させた。
そして、午後の予定を確認した。
『午後一時:公爵令息ユリウスによる学院視察』
……出た。
第五攻略対象。
ユリウス・フォン・ヴァレンシュタイン。
二十三歳。
王国有数の大貴族であるヴァレンシュタイン公爵家の嫡男。
学院の運営評議会にも関わっており、若くして財務や行政の仕事を任されているという設定だった。
このゲームでは、典型的な俺様系キャラクターとして宣伝されている。
傲慢。
毒舌。
自信家。
しかし、主人公にだけは次第に甘くなる。
公式キャッチコピーは、
『君が望むなら、世界の半分を買い取ってやろう』
……だった。
俺が考えた文章である。
今になって思えば、世界の半分を買い取るって何だよ。
そんな金があるなら、公共事業に使えよ。
俺がそんなことを考えていると、学院の正門前に豪華な馬車が到着した。
黒塗りの車体。
金色の装飾。
公爵家の紋章。
そして、扉が開いた。
「……ふむ」
低い声が響いた。
馬車から降りてきたのは、赤みがかった濃い茶髪の青年だった。
端正な顔立ち。
鋭い琥珀色の瞳。
仕立てのよい黒い礼装。
全身から、いかにも金持ちの貴族ですという雰囲気が漂っている。
……出たな。
第五攻略対象。
ユリウス・フォン・ヴァレンシュタイン。
俺は少しだけ身構えた。
何しろ、こいつは俺様系だ。
ゲームの宣伝素材では、主人公を壁際へ追い詰めながら、不敵に笑う場面があった。
あのCGを見たときは、正直に言って、少し引いた。
しかし、女性プレイヤーには人気があった。
俺様系というのは、一定の需要があるらしい。
まあ、俺には理解できないけどな。
ユリウスは周囲を見渡したあと、俺へ視線を向けた。
「……君が、リリア・ベルフォードか?」
「……はい」
俺は頷いた。
ユリウスはしばらく俺を見つめた。
そして、鼻で笑った。
「なるほど。噂ほど特別な人間には見えないな」
……お?
俺は思わず目を見開いた。
今、何て言った?
噂ほど特別な人間には見えない?
つまり。
俺に興味がないってこと?
……やった!
ついに来た!
俺を恋愛対象として見ない攻略対象!
「そうですね!」
俺は嬉しくなって答えた。
「私は普通の人間です!」
ユリウスが眉を寄せた。
「……何?」
「特別なところなんてありませんし、別に注目していただく必要もありません!」
「……君は」
「どうぞ、お気になさらず!」
俺は満面の笑みを浮かべた。
よし。
このまま好感度ゼロを維持するぞ。
ユリウスはしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をついた。
「……妙な女だな」
『ユリウス好感度+5』
「…………」
……は?
俺は固まった。
おい。
なんでだよ。
今、好感度が上がる要素あったか?
俺は何もしてないぞ!
むしろ、自分は普通の人間だって言っただけだろ!
ユリウスは俺の反応を気にする様子もなく、懐から書類を取り出した。
「まあいい。今日は学院の運営状況を確認しに来た。君にも話を聞く必要がある」
「……私に?」
「ああ。昨日、騎士団との合同講習会を開催したそうだな」
「……はい」
「さらに、魔導師団との共同研究を始め、王宮主催の慈善活動にも関わったと聞いている」
……よく知ってるな。
情報が早い。
「それが何か?」
俺が尋ねると、ユリウスは鋭い視線を向けてきた。
「それらの活動について、正式な予算計画は提出しているのか?」
「……予算計画?」
「ああ。学院の施設を使用し、騎士団や魔導師団の人員を動かした以上、費用が発生しているはずだ」
……なるほど。
俺は少しだけ納得した。
確かに、昨日の俺はイベントを回避することばかり考えていた。
その結果、いくつもの企画を実施したが、予算のことまでは十分に考えていなかった。
これは、前世の仕事でも重要な問題だった。
イベントを開催するなら、必ず費用が発生する。
会場費。
人件費。
備品代。
宣伝費。
それらを把握していなければ、後から問題になる。
「……申し訳ありません。そこまでは確認していませんでした」
俺は素直に頭を下げた。
ユリウスは少し驚いた顔をした。
「……ほう」
「昨日は急遽開催した企画もありましたので、必要な経費の整理が後回しになっていました」
「……なるほど」
「ですが、費用の確認は必要だと思います。実際にどの程度の経費が発生したのか、関係者へ確認してみます」
俺が答えると、ユリウスは黙ってこちらを見つめた。
……何だ?
何か変なこと言ったか?
「……君は、随分と素直なんだな」
「……はい?」
「普通なら、何かしら言い訳をするところだ」
ユリウスは少しだけ口元を緩めた。
「だが、君は自分の落ち度を認めたうえで、改善策まで示した」
……いや。
それは普通だろ。
仕事でミスしたら、まず原因を確認して対処する。
そんなの社会人なら当たり前じゃないか。
「……別に、大したことではありませんよ」
俺は肩をすくめた。
すると。
『ユリウス好感度+10』
「…………」
……おい。
ちょっと待て。
また上がったぞ。
俺は普通に仕事の話をしただけだろ!
もう嫌だ。
この世界、仕事ができるだけで好感度が上がるのかよ!
「……リリア」
ユリウスが俺の名前を呼んだ。
「……はい?」
「少し、付き合ってもらおうか」
……来た。
嫌な予感がする。
「……何にですか?」
「学院の施設を一通り視察する。君にも同行してもらいたい」
……視察。
それなら、まあいいか。
仕事だし。
「わかりました」
俺は頷いた。
すると、目の前に青白い文字が浮かんだ。
『恋愛イベント:公爵令息との学院視察』
『イベント概要:学院の施設を案内する途中、ユリウスと二人きりになる』
『特別演出:壁際への接近、手首を掴む、耳元での囁き』
……またかよ!
もう、いい加減にしてくれ!
なんでこいつら、すぐ壁際に追い詰めようとするんだ!
王立学院の建築基準どうなってんだよ!
◇
学院の視察は、意外にも真面目なものだった。
ユリウスは各施設を細かく確認し、職員から運営状況を聞き取っていった。
図書館。
講義室。
食堂。
研究棟。
訓練施設。
どの施設でも、ユリウスは遠慮なく問題点を指摘した。
「この書架は配置が悪い。利用頻度の高い資料が奥に集中している」
「食堂の待ち時間が長すぎる。利用者数に対して窓口が不足しているんじゃないか?」
「研究棟の備品管理表は、最終更新が三か月前になっている。これでは在庫の把握ができないだろう」
……おお。
すごい。
こいつ、ちゃんと仕事してるじゃないか。
しかも、指摘が的確だ。
施設の利用状況や職員の負担を確認したうえで、具体的な改善策を求めている。
単なる俺様系の金持ちだと思っていたが、意外と優秀な管理者らしい。
……いや、ゲームの設定では優秀だったな。
ただ、宣伝では恋愛面ばかり強調していたから忘れていた。
俺はユリウスの隣で、施設の状況を確認していた。
すると、彼が突然こちらを振り返った。
「……リリア。君はどう思う?」
「……何がですか?」
「この食堂の待ち時間についてだ」
俺は周囲を見渡した。
現在は午後二時を過ぎているため、食堂は比較的空いている。
しかし、昼食時間帯には利用者が集中するのだろう。
窓口は三つ。
厨房から料理を受け取り、会計を済ませる形式になっている。
「……そうですね」
俺は少し考えた。
「まず、利用者の流れを確認したいです」
「……流れ?」
「はい。注文に時間がかかっているのか、料理の提供に時間がかかっているのか、会計に時間がかかっているのか。それによって対策が変わると思います」
ユリウスの目が細められた。
「……続けてくれ」
「もし注文が原因なら、事前に献立を掲示しておくのもいいでしょう。料理の提供が原因なら、調理工程を見直す必要がありますし、会計が原因なら、混雑する時間帯だけ担当者を増やす方法もあります」
俺は前世の経験を思い出していた。
ゲーム会社の広報部でも、イベント会場の運営で似たような問題があった。
受付に長い列ができる。
物販の会計が追いつかない。
入場者の動線が悪く、会場内が混雑する。
そういう問題は、単純に人を増やせば解決するものではない。
まず、どこに時間がかかっているのかを確認する必要がある。
「……なるほど」
ユリウスは頷いた。
「君の言う通りだ。まずは現状を把握するべきだな」
「はい」
「では、明日の昼食時間帯に、実際の利用状況を確認してみよう」
「それがいいと思います」
俺は頷いた。
すると、ユリウスが小さく笑った。
「……面白いな、君は」
……ん?
何だ、その言葉。
「……別に、普通のことを言っただけですよ?」
「ああ。だが、その普通のことを、具体的に説明できる人間は意外と少ない」
ユリウスは俺を見つめた。
「君は、物事を感情ではなく、仕組みとして考えるんだな」
……まあ、そうかもしれない。
俺は仕事で、感覚だけに頼った判断をしないようにしてきた。
数字や事実を確認し、原因を整理する。
それが基本だ。
「……そうですね」
俺は頷いた。
すると。
『ユリウス好感度+15』
「…………」
……おい。
またか。
またなのか。
俺は天井を仰いだ。
もう、何も言いたくない。
そんな俺の様子を見て、ユリウスが不思議そうに首を傾げた。
「……どうした?」
「……いえ、何でもありません」
俺は無理やり微笑んだ。
すると、ユリウスは少しだけ楽しそうに笑った。
「……君は、表情が豊かだな」
『ユリウス好感度+5』
……だから!
なんでだよ!
◇
視察が終わった頃には、午後四時近くになっていた。
俺は学院の応接室で、ようやく椅子に腰を下ろした。
ユリウスは向かい側に座り、今日の視察結果を整理している。
「……ふむ」
彼は書類を確認したあと、俺へ視線を向けた。
「リリア。今日は助かった」
「……いえ」
「君の意見は参考になった。今後も、学院運営について相談させてもらいたい」
……はい?
俺は目を瞬かせた。
「……今後も、ですか?」
「ああ」
ユリウスは当然のように頷いた。
「君には、学院運営の改善に協力してもらいたい」
……いや。
待てよ。
俺、聖女だよな?
学院の運営担当者じゃないよな?
なんで昨日から、どんどん仕事が増えてるんだ?
俺は恋愛イベントを回避したいだけなのに。
「……あの、ユリウス様」
「何だ?」
「私、学院の運営について、正式な権限があるわけではないんですが……」
「それは問題ない。必要なら、評議会へ提案して権限を与えればいい」
……いや。
そういう問題じゃない。
俺は仕事を増やしたくないんだよ。
そもそも、前世では残業に追われて死ぬほど疲れていたんだぞ。
異世界に来てまで、また仕事漬けになるのは勘弁してくれ。
「……少し、考えさせてください」
俺は慎重に答えた。
ユリウスは意外にもあっさりと頷いた。
「構わない。無理にとは言わないさ」
……よかった。
この人も、案外まともだ。
俺は安堵した。
すると、ユリウスが懐から一枚の紙を取り出した。
「では、こちらだけ確認しておいてくれ」
「……何ですか?」
「今日の視察結果を踏まえた、改善提案の草案だ」
……早いな。
もう作ったのか。
俺は紙を受け取り、目を通した。
そこには、今日確認した問題点と、改善の方向性が簡潔にまとめられていた。
しかも、優先順位まで設定されている。
……すごいな。
こいつ、本当に仕事ができる。
「……よくまとまっていますね」
俺が感心すると、ユリウスは少しだけ得意げに笑った。
「当然だ。私はヴァレンシュタイン公爵家の人間だからな」
……出た。
俺様系。
まあ、実際に能力があるから腹は立たないけど。
「ただ、一つだけ修正したほうがいいと思います」
「……ほう?」
ユリウスが眉を上げた。
「どこだ?」
「ここです。食堂の改善案ですが、現状の利用者数や待ち時間を確認する前に、設備を増設する計画になっています」
「……それが?」
「先ほどお話ししたように、まずは原因の特定が必要です。設備を増やしても、問題が別のところにあれば、効果が出ない可能性があります」
ユリウスは黙って書類を見つめた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど。確かに、その通りだ」
彼はペンを取り出し、該当箇所を修正した。
「君の指摘は正しい。助かった」
「いえ」
俺は微笑んだ。
……よし。
今日も、仕事は順調だ。
少なくとも、変な恋愛イベントには発展していない。
そう思った瞬間。
『特殊イベント発生』
『公爵令息との共同事業契約』
「…………」
……え?
共同事業契約?
何だ、それ。
俺が固まっていると、ユリウスが突然立ち上がった。
「……リリア」
「……はい?」
「君に、一つ提案がある」
……嫌な予感がする。
「……何でしょう?」
ユリウスは俺の前に歩み寄り、真剣な表情で告げた。
「私と、正式に契約を結ばないか?」
「…………」
……契約?
俺は眉を寄せた。
「……どういう契約ですか?」
「今後、学院運営や王都の公共事業について、君には助言者として協力してもらいたい」
……なるほど。
仕事の契約か。
それなら、まあ理解できる。
ただし、条件は確認しないといけない。
「……報酬は?」
俺が尋ねると、ユリウスが一瞬だけ目を見開いた。
そして、楽しそうに笑った。
「ははっ! なるほど、君はそういう人間か!」
……何だよ。
仕事するなら報酬を確認するのは普通だろ。
「もちろん、相応の報酬を用意する。具体的な金額は、業務内容に応じて相談しよう」
「勤務時間は?」
「……勤務時間?」
「はい。協力するにしても、無制限に仕事を引き受けるわけにはいきませんから」
ユリウスは少し考えた。
「……確かに、その通りだな」
「それと、業務範囲も明確にしたいです。何でもかんでも任されると、対応できなくなりますので」
俺は真剣だった。
前世でも、仕事の範囲が曖昧なまま引き受けて、後から面倒なことになるケースを何度も見てきた。
異世界だからといって、その点を曖昧にするわけにはいかない。
「……なるほど」
ユリウスは、しばらく俺を見つめていた。
そして、不意に微笑んだ。
「……ますます気に入った」
……ん?
待て。
今、何て言った?
「君は、実に面白い」
ユリウスは俺の手を取った。
「ぜひ、私のそばで働いてほしい」
……え?
ちょっと待て。
その言い方。
何か、違う意味に聞こえるんだけど。
「……あの、仕事の話ですよね?」
「もちろんだ」
ユリウスは当然のように頷いた。
「まずは仕事から始めよう」
……まずは?
まずはって何だよ。
その先に何があるんだよ!
『ユリウス好感度+20』
『ユリウスとの関係が変化しました』
『関係:興味のない聖女 → 手放したくない人材』
……人材。
人材か。
まあ、それならいい。
恋愛対象じゃなくて、仕事のできる人材として評価されているんだろう。
そうだ。
きっとそうに違いない。
俺は無理やり納得した。
すると、さらに新しい画面が現れた。
『特殊イベント解放』
『イベント名:公爵令息の独占契約』
『条件:ユリウス好感度50以上』
『現在のユリウス好感度:55』
「…………」
……独占契約?
おい。
待てよ。
俺、仕事の契約の話をしてたよな?
なんで恋愛イベントになってるんだよ!
すると、ユリウスが俺の手を軽く握り直した。
「リリア」
「……はい?」
「君のような人材を、他の者に渡すつもりはない」
……出た。
俺様系の台詞。
しかも、今の状況だと意味が二重に聞こえる。
人材としてなのか。
恋愛対象としてなのか。
どっちなんだよ!
「……あの」
「何だ?」
「独占契約は、ちょっと……」
俺が言いかけると、ユリウスは不思議そうに首を傾げた。
「……独占?」
「あ、いえ、その……」
しまった。
ゲーム画面の言葉を、そのまま口にしてしまった。
「……私、他の人とも仕事をする予定があるので、専属という形は難しいです」
俺は慌てて説明した。
ユリウスは少し考えたあと、頷いた。
「なるほど。確かに、君は王子殿下や騎士団長とも関わっているからな」
「……はい」
「では、専属契約ではなく、必要に応じて協力する形にしよう」
……よし。
話が通じた。
俺は安堵した。
ところが。
『独占契約イベント:条件変更』
『ユリウスは主人公を独占できないことを理解しました』
『ユリウスの競争心が刺激されました』
『ユリウス好感度+10』
「…………」
……は?
俺は固まった。
おい。
ちょっと待て。
なんで断ったのに好感度が上がるんだよ!
普通、下がるだろ!
しかも競争心って何だよ!
俺を商品みたいに奪い合うな!
ユリウスは、そんな俺の心情など知る由もなく、楽しそうに微笑んでいた。
「……リリア。君との仕事が、ますます楽しみになってきた」
……俺は全然楽しみじゃねえよ。
そう言いたかったが、何とか飲み込んだ。
◇
午後四時。
俺は学院の自室で、ようやく一息ついていた。
今日は朝から健康診断。
午後は学院視察。
そして、またしても攻略対象の好感度が上がってしまった。
……何なんだ、この世界。
俺が何をしても、結局は恋愛フラグに変換される。
まるで、世界そのものが俺に恋愛を強要しているみたいじゃないか。
「……なあ、ミャルティア」
「なんだ?」
白猫が机の上で丸くなっていた。
「このゲーム、バグってない?」
「……ばぐ?」
「お前にはわからないか」
俺はため息をついた。
「要するに、何をしても恋愛イベントが発生するんだよ」
「それが乙女ゲームというものであろう?」
「いや、そうなんだけどさ……」
俺は頭を抱えた。
「普通、好感度ってプレイヤーの選択によって上がったり下がったりするものだろ?」
「ふむ」
「なのに、俺の場合は何を選んでも上がるんだよ。これ、おかしくない?」
猫神はしばらく考えていた。
そして、小さく頷いた。
「……確かに、妙ではあるな」
……お?
珍しく同意したぞ。
「やっぱり?」
「うむ。お前の運命には、何者かが干渉している可能性がある」
「……何者か?」
俺は昨夜の声を思い出した。
六人目の攻略対象。
正体不明の男。
そして、セシルが言っていた、魂に重ねられた別の運命。
……まさか。
「……それって、六人目の男と関係あるのか?」
猫神は黙った。
しばらくして、静かに答えた。
「……まだ、わからぬ」
……珍しいな。
こいつが、こんなに真面目な顔をするなんて。
俺が何か言おうとした、そのときだった。
扉がノックされた。
「リリア様。王宮より、お手紙が届いております」
……手紙?
俺は嫌な予感がした。
そういえば、今日は三者会談の結果通知が届く予定だった。
王子。
騎士団長。
魔導師。
三人が俺について話し合うという、意味不明な会議である。
……勘弁してくれよ。
俺は恐る恐る封筒を受け取った。
王家の紋章が入った、立派な封筒だった。
中には一枚の書類が入っていた。
俺はゆっくりと読み始めた。
『聖女リリア・ベルフォード様への支援体制について』
……支援体制?
何だ、それ。
『王立学院および王宮関係機関は、聖女様の円滑な活動を支援するため、以下の体制を整備することを決定しました』
……ん?
『第一王子レオンハルト:王宮関連業務の支援担当』
『騎士団長カイル:安全管理および護衛担当』
『宮廷魔導師エリオット:魔力研究および技術支援担当』
……なるほど。
それぞれの専門分野で、俺を支援してくれるということか。
まあ、悪くない。
むしろ、仕事の負担が減るならありがたい。
俺は少しだけ安心した。
ところが。
『支援体制の円滑な運営を目的として、聖女様専用の活動拠点を新たに設置することを決定しました』
……活動拠点?
『設置場所:王立学院敷地内、旧貴賓館』
……旧貴賓館?
俺は眉を寄せた。
確か、学院の敷地内にある大きな建物だったはずだ。
王族や大貴族が滞在するための施設で、現在はほとんど使われていない。
……いや。
待てよ。
その建物って。
まさか。
『活動拠点には、聖女様専用の居住区画を設置します』
「…………」
……居住区画?
『また、各支援担当者が随時対応できるよう、同施設内に専用執務室を設けます』
「…………」
……専用執務室?
『支援担当者は、必要に応じて同施設内で勤務および宿泊することがあります』
「…………」
……宿泊?
俺はゆっくりと顔を上げた。
猫神が、楽しそうにこちらを見ていた。
「……なあ」
「なんだ?」
「これ、要するに……」
俺は震える声で尋ねた。
「……男三人と、同じ建物で暮らすってこと?」
猫神は、にっこり笑った。
「そういうことになるな」
「ふざけんなあああああ!」
俺は叫んだ。
何だよ、それ!
俺は仕事の負担を減らしたかっただけだぞ!
なんで男三人と共同生活することになるんだよ!
しかも、相手は全員攻略対象だぞ!
そんなの、十八禁乙女ゲームのイベント発生装置じゃないか!
「……断る!」
俺は即座に決めた。
こんな提案、絶対に断る。
俺には今の寮の部屋がある。
そこで静かに暮らせれば十分だ。
共同生活なんて御免だ。
そう思った瞬間。
『特殊イベント解放』
『イベント名:三人の紳士と一つ屋根の下』
『ハーレムルート進行度:35%』
「…………」
……おい。
ちょっと待て。
なんで進行度が増えた?
俺、まだ承諾してないぞ!
『主人公が共同生活を拒否する意思を確認しました』
『攻略対象たちの説得イベントを準備します』
「準備するなあああああ!」
俺の叫び声が寮に響き渡った。
◇
午後七時。
俺はベッドの上で、完全に燃え尽きていた。
もう、何も考えたくない。
朝から健康診断で魂の秘密がバレ、午後は公爵令息に仕事を評価され、夕方には攻略対象三人との共同生活を提案された。
……何だ、この一日。
前世の残業より疲れるぞ。
「……ミャルティア」
「なんだ?」
「俺、もう無理」
「何がだ?」
「このゲーム、難易度高すぎる」
猫神は楽しそうに笑った。
「まだ始まったばかりではないか」
「それが問題なんだよ!」
俺は枕を抱きしめた。
ゲーム開始三日目。
攻略対象五人と出会った。
好感度は、全員順調に上昇中。
しかも、隠し攻略対象まで存在している。
……もう、嫌だ。
普通に暮らしたいだけなのに。
「……なあ」
俺は猫神を見た。
「今夜、特別神託があるって言ってたよな?」
「うむ」
「それって、何?」
猫神は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「……そろそろ、話しておくべきかもしれぬな」
……ん?
何だ?
珍しく真面目な雰囲気だぞ。
猫神は俺の前に座り、金色の瞳を細めた。
「お前の持つ《ハズレスキル》についてだ」
「……スキル?」
「うむ。お前は、この能力を恋愛イベントを回避するために使っておるな?」
「そりゃそうだろ」
「だが、本来の用途は少し違う」
……え?
俺は眉を寄せた。
「……どういうこと?」
猫神は静かに告げた。
「《ハズレスキル》とは、定められた運命を外す力。だが、その本質は、運命そのものから自由になることにある」
……自由?
「お前は現在、乙女ゲームの主人公として存在している。つまり、この世界には、お前のために用意された物語がある」
「……まあ、そうだな」
「しかし、お前はその物語に従うことを拒否しておる」
「当然だろ」
「その結果、物語の外側にある運命が、少しずつ動き始めたのだ」
……外側?
俺は嫌な予感がした。
「……それって、六人目の男と関係ある?」
猫神はゆっくりと頷いた。
「……おそらくな」
……やっぱりか。
「……そいつ、何者なんだ?」
俺は尋ねた。
猫神は黙っていた。
長い沈黙のあと、静かに答えた。
「……我にも、すべてはわからぬ」
……え?
俺は目を見開いた。
「お前、創造神だろ?」
「うむ」
「この世界、作ったんだろ?」
「うむ」
「なのに、わからないの?」
猫神は少しだけ困ったような顔をした。
「……世界を創った者だからといって、世界のすべてを知っているわけではない」
……なるほど。
神様にも限界があるってことか。
いや、そんなことを言われても困るんだけど。
「……で、俺はどうすればいいんだ?」
「今まで通り、お前の望む道を進めばよい」
「……それで大丈夫なのか?」
「少なくとも、お前の《ハズレスキル》は、そのために存在している」
猫神は、少しだけ微笑んだ。
「運命に従う必要はない。お前がどう生きるかは、お前自身が決めることだ」
……何だよ。
珍しく、いいこと言うじゃないか。
俺は少しだけ感心した。
すると、猫神が得意げに胸を張った。
「ふふん。もっと褒めてもよいぞ」
「……台無しだよ」
俺は苦笑した。
そして、ベッドへ寝転がった。
……まあ、そうだな。
俺は俺だ。
今の身体が女でも、中身は変わらない。
だったら、自分の望む生き方を探せばいい。
恋愛したくないなら、しなければいい。
男に戻りたいなら、その方法を探せばいい。
そして、必要なら《ハズレスキル》を使えばいい。
「……よし」
俺は拳を握った。
「明日から、もっと本格的に恋愛イベントを回避してやる!」
「……ほう」
「まず、共同生活の提案は断る!」
「うむ」
「それから、攻略対象たちとの接触を減らす!」
「うむ」
「そして、仕事もほどほどにする!」
猫神は楽しそうに笑った。
「……できるとよいな」
「できるんだよ!」
俺は叫んだ。
そうだ。
今度こそ、平穏な生活を手に入れてやる。
絶対に。
絶対にだ。
すると、その瞬間。
『新たな称号を獲得しました』
「……ん?」
俺は画面を見た。
『称号:《五人の男に必要とされる聖女》』
『効果:攻略対象からの依頼発生率が上昇します』
「…………」
……おい。
何だ、それ。
依頼発生率?
仕事が増えるってこと?
俺は震える声で尋ねた。
「……ミャルティア」
「なんだ?」
「これ、仕事が増えるってこと?」
「……そうなるな」
「…………」
俺はゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、全力で叫んだ。
「俺は異世界に転生してまで、社畜になりたくねえんだよおおおおお!」
その声は、王立学院の寮全体に響き渡った。
ちなみに、翌朝には寮の管理人から苦情が来ることになるのだが、それはまた別の話である。
◇
同じ頃。
王都の地下深く。
誰も知らない場所で、一人の男が目を開けた。
薄暗い部屋。
古びた石壁。
中央には、巨大な魔法陣が描かれている。
男はゆっくりと立ち上がり、静かに呟いた。
「……ようやく、見つけた」
その声は、低く、穏やかだった。
男の顔は暗闇に隠れている。
ただ、その瞳だけが、淡い金色に輝いていた。
「……運命から外れようとする者」
男は、小さく笑った。
「……待っていたよ」
そして、静かに告げた。
「君が、この世界の物語を壊してくれることを」
その瞬間、男の足元に青白い文字が浮かび上がった。
『未登録シナリオ』
『第六攻略対象:起動』
『識別名:???』
『好感度:測定不能』
『攻略条件:運命から外れること』
男は文字を見下ろし、静かに微笑んだ。
「……さあ、始めようか」
そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「君だけが、この物語の結末を変えられるのだから」
次回・第4話「俺、イケメン五人の専属マネージャーになったんだが?」
共同生活を拒否するはずが、いつの間にか王宮と学院の共同事業を任されることになった俺。しかも攻略対象五人が、それぞれの立場から仕事を持ち込んでくる。恋愛を回避するために働いていたはずなのに、気がつけば五人全員の業務調整をする羽目に。俺、乙女ゲームの主人公だよな? なんで異世界でも管理職になってるんだよ!




