1 レオナ視点
目が覚めると、何も覚えていなかった。
私の名前は、レオナ・ヒックス。伯爵家の娘なのだと聞かされても、記憶の扉は固く閉ざされたまま。
ここはウォード侯爵家が所有する古い塔の最上階だと、彼が教えてくれた。
重たい鉄の扉には外側から鍵が掛けられている。部屋にひとつだけの窓の向こうには、どこまでも深い森が広がっているだけ。
彼――侯爵家次男フィデル・ウォード様は私の婚約者だ。と言っても私には、婚約者の記憶は何ひとつ残っていない。だが、彼は記憶を失った私にとって、唯一の頼れる存在だった。
フィデル様は毎日塔を訪れる。
重々しい音とともに鉄の扉が開かれると、彼が姿を現す。お伽噺の中から飛び出したみたいなまばゆい金色の髪、吸い込まれそうなどこまでも澄んだ青い瞳。その甘く優しい眼差しで彼は必ず告げるのだ。
「ここにいれば安全だ」
「誰よりも愛しているよ、レオナ」
と。
彼はいつものように私の座る長椅子の隣に腰掛け、私の亜麻色の髪を指に絡ませている。
「私にはどうして、記憶がないのでしょう?」
問いかけると、私の髪で遊んでいた彼の指がぴたりと止まった。
「――学園の階段から落ち、頭を強く打ったのだ。三ヶ月意識が戻らなかった」
「階段から……事故、ですか?」
目を閉じて学園の階段を思い起こそうとしても、真っ暗な世界には何も浮かぶ気配はなかった。
「いいや、違う。事故なんかじゃない君は……クリステルに突き落とされたんだ」
「……クリステル?」
顔を上げ、フィデル様の方を向くと、澄んだ青の瞳に翳りが浮かんでいた。
「クリステル・ホークショー。学園の同級生で、この国の第三王女だった女さ。彼女は、君に酷い嫌がらせをしていたのだ。だが安心してくれ、あの女は僕が断罪し、国境の修道院に送ったからね」
閉ざされた心の扉の向こう側で、蠢く記憶の欠片。
ぐにゃりと折られた羽ペン。
机にぶちまけられた黒いインク。
破り捨てられた教科書。
頭から浴びせられた泥水の冷たさ。
――そして。
『君があの方に嫌がらせを受けているのは、君自身に原因があるのだろう』
突き放すような冷淡な男の声。
その夜、私は夢を見た。
白銀に鮮血を一滴落としたみたいなプラチナピンクの髪。春を告げるライラックの瞳。どこまでも可憐で清楚。地味な私とは正反対の天使と呼ぶにふさわしい少女の姿。
天使は優雅に微笑み、隣に並ぶ男に体を寄せた。
『私が貴方の婚約者のはずです』
私の言葉に男は見せつけるように天使の腰を抱き、澄んだ青い瞳で私を見下した。
『……私に婚約を申し入れたのは、あの鉱山を手に入れるためなのですね』
私は無言で立ち去ろうとする男に手を伸ばすが、強く振り払われてしまった。
『ああ、そうさ。おまえのような女、誰も愛さない』
体がふわりと浮き上がった私の耳にこびりついた、男の本心。
そのまま私は階段を転がり落ちていった――
ハッと目を覚ますと、呼吸が乱れ目尻を涙が伝って枕を冷たく濡らしている。
「私を愛してなどいなかったのね」
呟いた声は夜の闇に吸い込まれて消えた。
「誰よりも愛しているよ、レオナ。また明日」
今日も私に優しく微笑みかけたフィデル様の背中を見送る。
バタンと、扉が閉まる音が鈍く響いた。
視線を扉に向けながら、ふと小さな違和感を覚える。いつもならば聞こえる施錠の音がしなかったのだ。
もしかして、と力を込めて押すと、重たい音をたてながら扉が外へと開かれた。
扉の向こうには、人が二人並ぶのがやっとのひんやりとした石造りの床と、そこから下へと伸びる螺旋階段。
私は吸い寄せられるように、数歩進み階段を一段、一段降りていく。けれど、次の一歩を踏み下ろした瞬間、唐突に視界がぐにゃりと歪んだ。
「あ……」
激しい目眩に襲われ、これ以上進むことを身体が全力で拒んでいるようだった。思わずその場にしゃがみ込んでしまう。
夢の中の浮遊感が甦り、恐ろしさに喉が詰まる。
怖い。階段を転がり落ちた衝撃も、今こうして身動きが取れないことも。何もかもが怖い。
どのくらいそうしていただろうか。コツン、コツンと階段を昇る規則正しい足音が次第に近づいて来た。ここを訪れる人物はひとりしかいない。フィデル様の足音だ。
「レオナ!」
私に気づいたフィデル様が慌てた声で私の名前を呼んだ。
次の瞬間、私の体は宙に浮き横抱きにされてしまう。彼はそのままふらつきもせず最上階を目指した。
最上階にたどり着くと、すっかり馴染んだ寝台に横たえられる。
「君は、ここにいればいいんだ。ずっと僕が愛してあげるよ」
私の手を両手で包み込んだ彼は、どこまでも優しい笑顔を浮かべ私を愛していると囁いた。
『おまえのような女、誰も愛さない』
そう吐き捨てたのと同じ声で。
私は、誰にも愛されない。
固く閉ざされていた心の扉が、ゆっくりと開く気配がした――




