朝食の席の探り合い
クロフォード邸の朝は、重苦しいほど静かだ。
窓の外には、いつものように鉛色の空が垂れ込めている。遠くで響く工場の汽笛が、巨大な獣の唸り声のように屋敷の壁を震わせていた。
「おはよう、エレナ。昨夜はよく眠れたかな?」
小食堂に現れたアリスティアは、寝癖のついた髪を指で梳きながら、気だるげに椅子を引いた。
シャツのボタンを一つ開け、あくびを噛み殺すその姿は、どこからどう見ても緊張感のない放蕩貴族そのものだ。
「ええ、とても。……枕が変わると眠れない質なのですが、不思議と安心しておりましたわ」
エレナは花が綻ぶような笑みを返す。
もちろん、嘘だ。
一睡もしていない。屋敷の見取り図を頭に叩き込み、使用人の巡回ルートを把握し、アリスティアの寝室へ続く隠し通路がないか壁を叩いて回っていたのだから。
「それはよかった。僕もだ。君がいると思うだけで、悪夢も逃げ出したらしい」
アリスティアもまた、愛想よく微笑む。
彼もまた、一睡もしていない。
屋敷の結界を「対スパイ仕様」に書き換え、寝室の扉に髪の毛一本ほどの細工を施し、枕の下に愛用のワイヤーリールを忍ばせていたのだから。
「さあ、召し上がれ。粗末なものだが」
執事がパンとスクランブルエッグを運んでくる。
エレナは「僭越ながら」と断って、ティーポットを手に取った。
「アリスティア様。紅茶をお淹れしますわ。……私、これくらいしかできませんけれど」
「おや、嬉しいね。君が淹れてくれるなら、泥水でも美味しく頂けそうだ」
エレナの手つきは優雅だった。
ポットからカップへ、琥珀色の液体が音もなく注がれる。
その一瞬。
彼女の小指が、わずかにポットの蓋の縁を撫でた。爪の間に仕込んでおいた微粉末が、湯気と共に溶け込む。
『ベラドンナの変種』
即効性の猛毒ではない。服用者の心拍数を跳ね上がらせ、一時的に瞳孔を開かせる神経作用剤だ。
これでアリスティアが動揺したり、あるいは異常な代謝機能で毒を中和したりすれば、彼は「ただの人間」ではないことになる。
(さあ、飲みなさい。可愛いアリスティア様)
エレナはソーサーを彼の前に置く。
アリスティアは礼を言い、カップを口元へ運んだ。
鼻先をくすぐるダージリンの香り。
その奥に潜む、わずかな違和感。
アリスティアの嗅覚が、脳内の警鐘を鳴らす。
(……阿片系の植物アルカロイドか? いや、もう少し刺激が強い。幻覚作用はないようだが……自白剤の類か?)
普通の人間なら気づかないレベルの不純物。
だが、彼にはわかる。
アリスティアはカップの縁で唇を湿らせ、上目遣いにエレナを見た。彼女は無垢な瞳で、小首をかしげてみせる。
(試したな、狸め)
毒見をさせるわけにはいかない。拒否すれば怪しまれる。
ならば、答えは一つ。
アリスティアは喉を鳴らし、カップの中身を一気に煽った。
「……!」
エレナの眉が、ほんの一ミリだけ動く。
アリスティアは空になったカップを置き、満足げに息を吐いた。
「素晴らしい香りだ。市販の茶葉とは思えない。……何か、特別な魔法でもかけたのかな?」
「ま、魔法だなんて。……隠し味に、庭のハーブを少し」
「なるほど。どうりで体が熱くなるわけだ。君の愛のせいかと思ったよ」
冗談めかして笑うアリスティアの顔色は、変わらない。
脈拍も、呼吸も、一定のリズムを刻んでいる。
幼少期から組織に叩き込まれた毒物耐性(ミトリダート法)の賜物だ。この程度の量なら、彼の肝臓は数分で分解してしまう。
(反応なし……? あれだけの量を飲んで、顔色一つ変えないなんて)
エレナの背筋に、冷たいものが走る。
鈍感なのか。それとも、化け物なのか。
「お返しに、パンをどうぞ」
アリスティアが銀のバスケットを差し出す。
彼は右手に持ったバターナイフで、丁寧にバターを塗りたくる。
そのナイフを、柄の方を向けてエレナに渡した。
「ああ、すまない。手が滑った」
渡す瞬間、指先が離れるのが早すぎた。
銀のナイフが落下する。
重力に従い、鋭い刃先がエレナの太腿へと落ちていく──その軌道を、アリスティアは見逃さない。
エレナの手が動いた。
無造作に、しかし的確に。
落ちていくナイフの柄を、空中で摘み取る。
その速度、人間離れした反射神経。
「……あっ」
エレナは自分が掴んでしまったことに気づき、慌てて取り落とすふりをした。
カチャン、と皿の上でナイフが踊る。
「ご、ごめんなさい! 私ったら、慌ててしまって……」
「いや、見事な反応だ。まるで猫のようだね」
アリスティアは目を細める。
今のナイフには、重心をずらすための鉛を仕込んであった。素人が咄嗟に掴める代物ではない。
(やはり、ただの没落令嬢じゃない。……昨夜の動きもマグレかと思っていたが、あれは訓練された「技術」だ)
(……見られた? いえ、今のフォローで誤魔化せたはず。ただの偶然だと思ってくれているわよね?)
視線が交差する。
二人は同時に、甘ったるい笑顔を浮かべた。
「さあ、冷めないうちに召し上がれ」
「はい、あなたも」
平和な朝食の風景。
だが、テーブルの下では、互いの足がいつ蹴り出せるようにつま先立ちになり、ナプキンの下の手は、いつでも武器を握れるように構えられていた。
午後。
二人は帝都の中央通りへ繰り出した。
煤煙を吐き出す蒸気車がひっきりなしに行き交い、石畳を馬蹄が叩く音が響く。
アリスティアはエレナの手を引き、ショーウィンドウの前を歩いていた。
「この店はどうかな? 君に似合う宝石がありそうだ」
「素敵ですわ。でも、そんな高価なもの……」
「遠慮はいらない。僕の財布は、君のためにある」
歯の浮くような台詞を吐きながら、アリスティアは周囲を警戒する。
尾行はなし。だが、人混みの熱気が肌を刺す。
その時だ。
『きゃあああっ!!』
悲鳴が上がった。
交差点の向こうから、制御を失った自律型の蒸気貨物車が突っ込んできたのだ。
蒸気を噴き上げ、暴走する鉄の塊。
それは不運にも、歩道にいたアリスティアたちの背後へと迫る。
「危ない!」
誰かが叫ぶより早く、アリスティアは動いた。
普通なら、突き飛ばす。
あるいは、共に地面に伏せる。
だが彼は、エレナの腰を抱き寄せると、まるでダンスのステップを踏むようにその場を回転した。
ゴォォォォォッ!!
突風が頬を薙ぐ。
貨物車の鋭利なバンパーが、アリスティアの背中を数センチの差で掠めていく。
彼は回転の遠心力を利用し、エレナを抱えたまま、近くの街灯の陰へと滑り込んだ。
あまりにも流麗な、無駄のない動き。
「……ッ」
エレナは、アリスティアの腕の中で息を呑んだ。
恐怖ではない。
今、彼が見せた瞳。
貨物車の軌道を完全に見切り、最短距離で回避ルートを選んだ、その氷のような眼差し。
それは、獲物を前にした獣──いや、任務を遂行する「同業者」の目だった。
一瞬の静寂。
蒸気車が建物の壁に激突して止まる音が、遅れて響く。
「……怪我はないかい? エレナ」
ふと我に返ったように、アリスティアが表情を崩した。いつもの、優男の顔に戻っている。
「す、すごい……。アリスティア様、今の動き……」
「あー……怖かったね。必死だったから、自分でもどうやったか覚えてないよ。火事場の馬鹿力ってやつかな?」
彼は大げさに肩をすくめ、震えるふりをする。
だが、エレナは見ていた。
彼の手が、自分の腰に触れるその位置。
人体を最も効率よく運ぶための重心を、正確に捉えていたことを。
(偶然? ……いいえ、ありえない。今の回避行動は、軍隊格闘術の応用……それも、特殊部隊クラスの)
エレナの胸中で、疑惑が確信へと変わりつつあった。
「……ええ。本当に、頼もしいですわ」
エレナは彼の胸に顔を埋め、震えるふりをした。
その口元だけが、歪に笑う。
(見つけた。……あなたが「何か」を隠していることはわかったわ)
夕暮れ時。
二人は老舗の宝飾店で、婚約指輪を選んでいた。
アリスティアが選んだのは、大きなサファイアがあしらわれた銀の指輪だ。
「この青は、君の瞳には敵わないけれど」
「まあ……お上手ですこと」
アリスティアは、エレナの薬指にそれを嵌める。
サイズは完璧だ。
当然だろう。昨夜、彼女の手を握った瞬間に計測済みだ。
そして、この指輪の台座には、帝国技術局が開発した極小の「感音式盗聴器」が埋め込まれている。
(これで君の独り言も、寝言も、全て筒抜けだ。可愛いスパイさん)
「一生、大切にしますわ」
エレナは指輪を愛おしそうに撫でる。
その指先が、サファイアの裏側にある微細な継ぎ目を探り当てる。
(重心がおかしい。石の裏に空洞があるわね。……発信機か、盗聴器か。随分と手の込んだプレゼントだこと)
彼女は感涙にむせぶ演技をしながら、心の中で冷ややかに計算する。
この指輪をどう利用してやろうか。偽の情報を流すか、それとも逆に相手の受信機を辿るか。
「帰ろうか。夜風が冷えてきた」
「はい、アリスティア様」
二人は寄り添って店を出る。
繋いだ手と手。その指にはまった冷たい金属の輪は、愛の誓いではなく、互いを縛る鎖だった。
帰宅後。
それぞれの私室に入った瞬間、二人の仮面が剥がれ落ちる。
アリスティアは洗面台に駆け込み、喉に指を突っ込んで胃の中身を戻した。
耐性があるとはいえ、毒は毒だ。気分のいいものではない。
「……食えない女だ。次はどんな手で来る?」
鏡に映る自分の顔は、蒼白だが、口元には凶暴な笑みが浮かんでいた。
一方、客間に案内されたエレナは、与えられたドレッサーの前で指輪を外した。
ランプの火にかざし、その構造を透かし見る。
「……クロフォード家の放蕩息子。とんだ食わせ物ね」
彼女はヘアピンを取り出し、指輪の細工を弄り始めた。
盗聴器を生かしたまま、ノイズだけを混ぜる。あるいは、特定の周波数でハウリングを起こさせるために。
「面白くなってきたわ。……どちらが先に尻尾を出すか、勝負しましょう?」
壁一枚を隔てた同じ屋敷の中で。
二人の詐欺師は、同じ月を見上げながら、全く同じことを考えていた。
(愛しているふりをして、必ず君の喉笛を食いちぎってやる)




