路地裏の処刑人
帝都の東部、ドック地区。
昼間は蒸気クレーンの駆動音と港湾労働者の怒号で沸き返るこの場所も、夜になれば鉄と油の腐臭が漂う墓場へと変わる。
「……話が違うぞ! こんな化け物が来るなんて聞いていない!」
廃倉庫の闇に、男の悲鳴が響いた。
帝国の機密情報を横流ししていた中堅官僚だ。彼は尻餅をつき、後退る。
その視線の先には、黒い外套を纏った一人の男が佇んでいた。
アリスティア・E・クロフォード。
だが、今の彼に昼間の「放蕩貴族」の面影はない。
ただ静かに、感情の抜け落ちた瞳で獲物を見下ろしている。
「化け物とは失礼な。私はただの掃除屋ですよ」
「や、やれ! 焼き殺せ!」
官僚が叫ぶと同時に、護衛の男が前に出た。
全身から揺らめく陽炎が立ち昇る。
汚染者(ギフト持ち)。それも、空気を触媒に高熱を発するタイプか。
「死ねェッ!」
護衛が腕を振るう。轟音と共に紅蓮の炎が倉庫内を舐め尽くす。
鉄骨が赤熱し、ドラム缶が破裂する。
だが、炎が晴れた後、そこにアリスティアの姿はなかった。
「……遅い」
声は、天井から降ってきた。
アリスティアは梁の上に逆さまに張り付き、指先を指揮者のように弾く。
ヒュンッ。
風を切る音さえもしない。
月明かりに、何かが一瞬だけ銀色に煌めいた。
「が、あ……?」
護衛の男が首を押さえる。
指の隙間から、鮮血が噴き出した。
熱で空気が歪んでいるはずの空間を、彼の『鋼糸』は正確に切り裂いていたのだ。
高熱で溶断されるよりも速く、肉を断つ。
「君の炎は派手だが、隙が多い。……ワルツを踊るには無粋だね」
アリスティアが着地すると同時に、護衛の首がゴトリと落ちた。
官僚が音もなく失禁する。
「ひ、ひぃ……! 助け……」
「残念ながら、慈悲は在庫切れでして」
アリスティアは指を一本だけ動かす。
見えない糸が官僚の四肢を絡め取り、操り人形のように吊り上げた。
骨が砕ける不快な音が響く。
闇に消える断末魔を聞きながら、アリスティアは懐中時計を確認した。
「……予定より三十秒オーバーか。エレナとの夜食に遅れてしまう」
彼は冷たく呟き、返り血一つ浴びていない外套を翻した。
ドック地区から二ブロック離れた、会員制クラブの裏路地。
ここにもまた、死の匂いが濃厚に漂っていた。
「ぐ、う……ぁ……」
恰幅の良い男が、路地の泥水に顔を突っ込んで痙攣している。
帝国の軍需省次官。
彼の上に、一人の女が跨っていた。
娼婦のような派手なドレス。だが、その顔は聖女のように穏やかだ。
エレナ・ヴィスコンティ。
「教えていただけますか? 『エーテル・ハート』の輸送ルートを」
彼女の指先が、男の頬を優しく撫でる。
ジュッ、と肉が焼ける音がした。
「ぎゃああああっ!?」
「お静かに。……私の体液は、少し刺激が強いのです。あなたの素敵な顔が溶けてしまう前に、教えてくださいな」
エレナは微笑む。
彼女の異能【体液変質】。
今、彼女の汗と涙は、鉄板すら溶かす強酸へと変質している。
「い、言う! 言うから……!」
男が早口で喋った座標と暗号コード。
エレナはそれを頭の中に刻み込むと、愛おしそうに男の唇に指を当てた。
「ありがとうございます。……では、おやすみなさい」
彼女は男の口元に、一滴の涙を落とす。
それが喉を焼き切り、永遠の沈黙を与えるまで、数秒もかからなかった。
エレナは立ち上がり、ドレスの裾を払う。
ふと、彼女は夜空を見上げた。
分厚い雲の切れ間から覗く月が、妙に赤く見えた。
「妹(あの子)も、この月を見ているのかしら」
感傷は一瞬。
彼女はすぐさま「毒婦」の顔に戻り、闇へと身を躍らせた。
帰路。
帝都特有の濃霧が、視界を白く染め上げていた。
一寸先も見えない乳白色の世界。
アリスティアは石畳の上を、音もなく歩いていた。
(……気配)
足を止める。
十メートル先。霧の向こうから、誰かが歩いてくる。
ただの通行人ではない。
足音が、あまりにも整いすぎている。呼吸の音が、完全に制御されている。
アリスティアの指先が、無意識に鋼糸を探った。
一方、霧の向こうのエレナもまた、足を止めていた。
肌を刺すような、純度の高い殺気。
この霧の中で、自分の存在を正確に捉えている「獣」がいる。
(……同業者。それも、手練れ)
彼女はドレスの袖口に隠した毒針を、指の間に挟んだ。
二人は動かない。
互いの顔は見えない。
だが、そのシルエットから放たれるプレッシャーだけで、相手の実力が測れる。
「…………」
沈黙が、言葉以上に雄弁に語る。
『通れ』『邪魔をするな』『動けば殺す』
張り詰めた糸のような緊張。
一滴の水滴が落ちる音が、引き金になりかけたその時。
『こちらだ! 悲鳴が聞こえたぞ!』
遠くで憲兵の笛が鳴り響いた。
蒸気車両のサイレンが近づいてくる。
フッ。
二人の気配が、同時に霧散した。
アリスティアは屋根の上へ。エレナはマンホールの下へ。
互いに一度も顔を合わせることなく、ただ濃厚な死の予感だけを残して、二つの影は夜に溶けた。
クロフォード邸。
深夜二時。
アリスティアは書斎の窓から音もなく滑り込み、黒い外套を暖炉の隠し底に放り込んだ。
シャツを着替え、髪を乱し、酒の匂いをさせる香水を首筋に吹きかける。
完璧だ。
「……アリスティア様?」
ノックと共に、扉が開く。
そこには、純白のネグリジェを纏い、ランタンを持ったエレナが立っていた。
眠い目をこすりながら、心配そうに彼を見つめる。
「まあ……今までどちらへ? お姿が見えないので、心配しておりましたのよ」
「ああ、すまない。悪友に捕まってね。少し飲みすぎてしまった」
アリスティアは千鳥足で近づき、エレナの肩を抱く。
その瞬間。
彼の鼻腔が、微かな違和感を捉えた。
(……下水の臭い。それに、火薬と焦げた肉の匂いが、香水の下に隠れている)
エレナもまた、アリスティアの胸に顔を埋めながら、瞳を細めていた。
(……潮風と、鉄錆の臭い。港に行っていたのね、この男)
アリスティアの視線が、エレナの足元に落ちる。
スリッパの縁に、ほんのわずかだが、黒い泥が付着していた。ドック地区特有の、重油を含んだ粘土質の泥だ。
「……ふふ。お酒臭いですわ、アリスティア様」
「君こそ、夜更かしは肌に毒だよ」
二人は微笑み合う。
その笑顔の裏で、パズルのピースがカチリと嵌まる音がした。
(やはり、現場にいたのは君か)
(あの時の殺気……あれは、あなただったのね)
確信は、もはや疑いようもない。
目の前にいるのは、愛すべき婚約者ではない。
いつか殺し合うことになるかもしれない、最強の敵だ。
「おやすみなさい、エレナ」
「ええ、良い夢を。アリスティア様」
寝室の扉が閉まる。
分厚い木の板一枚を隔てて、二人は同時に、冷酷な獣の笑みを浮かべた。
(次は逃がさないよ、毒婦)
(首を洗って待っててね、人形師)
帝都の夜は深い。
ワルツのテンポは、ここから加速していく。




