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紫煙と鉄錆のワルツ  作者: 伝福 翠人


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10/12

路地裏の処刑人

帝都の東部、ドック地区。


昼間は蒸気クレーンの駆動音と港湾労働者の怒号で沸き返るこの場所も、夜になれば鉄と油の腐臭が漂う墓場へと変わる。


「……話が違うぞ! こんな化け物が来るなんて聞いていない!」


廃倉庫の闇に、男の悲鳴が響いた。


帝国の機密情報を横流ししていた中堅官僚だ。彼は尻餅をつき、後退る。


その視線の先には、黒い外套を纏った一人の男が佇んでいた。


アリスティア・E・クロフォード。


だが、今の彼に昼間の「放蕩貴族」の面影はない。


ただ静かに、感情の抜け落ちた瞳で獲物を見下ろしている。


「化け物とは失礼な。私はただの掃除屋ですよ」


「や、やれ! 焼き殺せ!」


官僚が叫ぶと同時に、護衛の男が前に出た。


全身から揺らめく陽炎が立ち昇る。


汚染者(ギフト持ち)。それも、空気を触媒に高熱を発するタイプか。


「死ねェッ!」


護衛が腕を振るう。轟音と共に紅蓮の炎が倉庫内を舐め尽くす。


鉄骨が赤熱し、ドラム缶が破裂する。


だが、炎が晴れた後、そこにアリスティアの姿はなかった。


「……遅い」


声は、天井から降ってきた。


アリスティアは梁の上に逆さまに張り付き、指先を指揮者のように弾く。


ヒュンッ。


風を切る音さえもしない。


月明かりに、何かが一瞬だけ銀色に煌めいた。


「が、あ……?」


護衛の男が首を押さえる。


指の隙間から、鮮血が噴き出した。


熱で空気が歪んでいるはずの空間を、彼の『鋼糸』は正確に切り裂いていたのだ。


高熱で溶断されるよりも速く、肉を断つ。


「君の炎は派手だが、隙が多い。……ワルツを踊るには無粋だね」


アリスティアが着地すると同時に、護衛の首がゴトリと落ちた。


官僚が音もなく失禁する。


「ひ、ひぃ……! 助け……」


「残念ながら、慈悲は在庫切れでして」


アリスティアは指を一本だけ動かす。


見えない糸が官僚の四肢を絡め取り、操り人形のように吊り上げた。


骨が砕ける不快な音が響く。


闇に消える断末魔を聞きながら、アリスティアは懐中時計を確認した。


「……予定より三十秒オーバーか。エレナとの夜食に遅れてしまう」


彼は冷たく呟き、返り血一つ浴びていない外套を翻した。


ドック地区から二ブロック離れた、会員制クラブの裏路地。


ここにもまた、死の匂いが濃厚に漂っていた。


「ぐ、う……ぁ……」


恰幅の良い男が、路地の泥水に顔を突っ込んで痙攣している。


帝国の軍需省次官。


彼の上に、一人の女が跨っていた。


娼婦のような派手なドレス。だが、その顔は聖女のように穏やかだ。


エレナ・ヴィスコンティ。


「教えていただけますか? 『エーテル・ハート』の輸送ルートを」


彼女の指先が、男の頬を優しく撫でる。


ジュッ、と肉が焼ける音がした。


「ぎゃああああっ!?」


「お静かに。……私の体液は、少し刺激が強いのです。あなたの素敵な顔が溶けてしまう前に、教えてくださいな」


エレナは微笑む。


彼女の異能【体液変質】。


今、彼女の汗と涙は、鉄板すら溶かす強酸へと変質している。


「い、言う! 言うから……!」


男が早口で喋った座標と暗号コード。


エレナはそれを頭の中に刻み込むと、愛おしそうに男の唇に指を当てた。


「ありがとうございます。……では、おやすみなさい」


彼女は男の口元に、一滴の涙を落とす。


それが喉を焼き切り、永遠の沈黙を与えるまで、数秒もかからなかった。


エレナは立ち上がり、ドレスの裾を払う。


ふと、彼女は夜空を見上げた。


分厚い雲の切れ間から覗く月が、妙に赤く見えた。


「妹(あの子)も、この月を見ているのかしら」


感傷は一瞬。


彼女はすぐさま「毒婦」の顔に戻り、闇へと身を躍らせた。


帰路。


帝都特有の濃霧ロンドン・フォグが、視界を白く染め上げていた。


一寸先も見えない乳白色の世界。


アリスティアは石畳の上を、音もなく歩いていた。


(……気配)


足を止める。


十メートル先。霧の向こうから、誰かが歩いてくる。


ただの通行人ではない。


足音が、あまりにも整いすぎている。呼吸の音が、完全に制御されている。


アリスティアの指先が、無意識に鋼糸を探った。


一方、霧の向こうのエレナもまた、足を止めていた。


肌を刺すような、純度の高い殺気。


この霧の中で、自分の存在を正確に捉えている「獣」がいる。


(……同業者。それも、手練れ)


彼女はドレスの袖口に隠した毒針を、指の間に挟んだ。


二人は動かない。


互いの顔は見えない。


だが、そのシルエットから放たれるプレッシャーだけで、相手の実力が測れる。


「…………」


沈黙が、言葉以上に雄弁に語る。


『通れ』『邪魔をするな』『動けば殺す』


張り詰めた糸のような緊張。


一滴の水滴が落ちる音が、引き金になりかけたその時。


『こちらだ! 悲鳴が聞こえたぞ!』


遠くで憲兵の笛が鳴り響いた。


蒸気車両のサイレンが近づいてくる。


フッ。


二人の気配が、同時に霧散した。


アリスティアは屋根の上へ。エレナはマンホールの下へ。


互いに一度も顔を合わせることなく、ただ濃厚な死の予感だけを残して、二つの影は夜に溶けた。


クロフォード邸。


深夜二時。


アリスティアは書斎の窓から音もなく滑り込み、黒い外套を暖炉の隠し底に放り込んだ。


シャツを着替え、髪を乱し、酒の匂いをさせる香水を首筋に吹きかける。


完璧だ。


「……アリスティア様?」


ノックと共に、扉が開く。


そこには、純白のネグリジェを纏い、ランタンを持ったエレナが立っていた。


眠い目をこすりながら、心配そうに彼を見つめる。


「まあ……今までどちらへ? お姿が見えないので、心配しておりましたのよ」


「ああ、すまない。悪友に捕まってね。少し飲みすぎてしまった」


アリスティアは千鳥足で近づき、エレナの肩を抱く。


その瞬間。


彼の鼻腔が、微かな違和感を捉えた。


(……下水の臭い。それに、火薬と焦げた肉の匂いが、香水の下に隠れている)


エレナもまた、アリスティアの胸に顔を埋めながら、瞳を細めていた。


(……潮風と、鉄錆の臭い。港に行っていたのね、この男)


アリスティアの視線が、エレナの足元に落ちる。


スリッパの縁に、ほんのわずかだが、黒い泥が付着していた。ドック地区特有の、重油を含んだ粘土質の泥だ。


「……ふふ。お酒臭いですわ、アリスティア様」


「君こそ、夜更かしは肌に毒だよ」


二人は微笑み合う。


その笑顔の裏で、パズルのピースがカチリと嵌まる音がした。


(やはり、現場にいたのは君か)


(あの時の殺気……あれは、あなただったのね)


確信は、もはや疑いようもない。


目の前にいるのは、愛すべき婚約者ではない。


いつか殺し合うことになるかもしれない、最強の敵だ。


「おやすみなさい、エレナ」


「ええ、良い夢を。アリスティア様」


寝室の扉が閉まる。


分厚い木の板一枚を隔てて、二人は同時に、冷酷な獣の笑みを浮かべた。


(次は逃がさないよ、毒婦ヴァイパー


(首を洗って待っててね、人形師マリオネット


帝都の夜は深い。


ワルツのテンポは、ここから加速していく。

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