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紫煙と鉄錆のワルツ  作者: 伝福 翠人


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12/12

嘘つきたちの舞踏会

帝都の夜は、腐った肺の匂いがする。


幾千の煙突から吐き出される煤煙スモッグは、霧の都を分厚い灰色で塗り潰していた。ガス灯の淡い光さえも、湿った大気に絡め取られ、ぼんやりとした琥珀色の染みになって滲んでいる。


「……退屈だ」


アリスティア・E・クロフォードは、極上のシャンパンをあおりながら、唇の端だけで呟いた。


王立ホテルの大広間。クリスタルガラスのシャンデリアが頭上で煌めき、生演奏のワルツが流れている。着飾った紳士淑女たちが、まるで精巧な機械仕掛けの人形のようにくるくると回っていた。


「あら、アリスティア様ではありませんこと? 今夜も素敵ですわ」


「伯爵夫人こそ。そのドレス、まるで夜空を切り取ったようだ」


扇子で口元を隠した貴婦人に、アリスティアは慣れた手つきで愛想を振りまく。甘いマスクと、そこそこの家柄。そして「放蕩者の次男坊」という無害なレッテル。


これが、帝国の諜報員「人形師マリオネット」の擬態スキンだ。


(警備兵の配置は、東の回廊に三名、テラスに二名。……甘いな)


グラスを傾けるふりをして、視線だけを滑らせる。


今日の舞踏会には、海軍の提督が出席している。共和国のネズミが入り込むなら、給仕か、あるいは招待客の随伴者か。


思考を加速させながらも、アリスティアの表情は「退屈を持て余した遊び人」のまま微動だにしない。


その時だった。


群衆の隙間から、一人の女がよろめき出てきたのは。


「あっ……!」


小さな悲鳴と共に、赤ワインのグラスが宙を舞う。


標的は、アリスティアの純白のシャツ──にはならなかった。彼が一歩踏み出し、その華奢な体を受け止めたからだ。


ワインは深紅の絨毯に染みを作り、女の手から落ちたグラスを、アリスティアが曲芸じみた手つきで空中でキャッチしていた。


「おや。大丈夫かな、お嬢さん」


腕の中に、微かな花の香りが広がる。


見下ろすと、そこには今にも泣き出しそうな栗色の瞳があった。


流行遅れのドレス。飾り気のない髪。どこかの没落貴族の令嬢だろうか。この煌びやかな戦場(舞踏会)には似つかわしくない、儚げな少女。


「も、申し訳ありません……! 私、足がもつれてしまって……」


「気にする必要はない。この退屈な夜に起きた、とびきり素敵なハプニングだ」


アリスティアは甘く微笑み、彼女を立たせる。


その瞬間、彼の裏の思考が冷徹に計算を弾き出した。


(ドジな女だ。だが、身元はしっかりしていそうだ。……使えるな)


直近の任務のため、疑われない「隠れ蓑」としての婚約者を探していたところだ。この世間知らずそうな女なら、適当に操れるだろう。


一方。


頬を染めて縮こまる女──エレナ・ヴィスコンティもまた、潤んだ瞳の奥で舌打ちをしていた。


(最悪。ターゲットの動線を確認するつもりが、変な男に捕まったわ)


クロフォード家の次男。噂に聞く通りの軟派者。


共和国の工作員「毒婦ヴァイパー」としての勘が告げている。この男は、無害だ。


(……待って。無害な馬鹿なら、むしろ好都合じゃない?)


帝都での活動拠点アジトを確保するためには、確かな身分が必要だ。この男に取り入れば、貴族社会へのパスポートが手に入る。


「あの、お詫びにクリーニング代を……」


「いいや、金銭など無粋だ」


アリスティアは、エレナの手を取った。指先に、わずかに硬い感触がある。刺繍かピアノでも嗜んでいるのだろうか。


彼は恭しく腰を折る。


「代わりに、一曲踊っていただけるかな? 僕のシャツを汚した共犯者として」


「……はい、喜んで」


エレナは恥じらうように視線を伏せ、その手を取った。


互いに「カモを見つけた」と確信しながら、二人はダンスフロアの中央へと歩み出る。


ワルツの調べが高まる。


二人のステップは、驚くほど噛み合っていた。


アリスティアのリードは強引すぎず、エレナのフォローは空気のように軽やかだ。


「お名前を伺っても?」


「エレナ……エレナ・ヴィスコンティと申します」


「美しい名前だ。僕はアリスティア。よろしく、エレナ」


旋回するたびに、ドレスの裾が翻る。


その優雅な時間は、唐突な轟音によって引き裂かれた。


ガシャンッ!!


頭上の巨大なシャンデリアが、支えを失って落下したのだ。


悲鳴。怒号。砕け散るクリスタル。


舞い上がった埃が煙幕となり、視界を遮る。


(来たか)


(始まったわね)


二人の思考が重なる。


シャンデリアの落下は合図だ。会場の四方から、給仕に化けていた男たちが銃を抜くのが見えた。狙いは来賓席の提督。


だが、アリスティアとエレナは、その射線上にいた。


「キャッ!?」


「伏せて!」


アリスティアはエレナを抱き寄せ、守るように回転する。


その動きは、傍目には愛する女性を瓦礫から庇う英雄的な行為に見えただろう。


だが、その実態は異なる。


彼は抱き寄せた勢いを利用し、右手の指先を弾いた。


袖口から放たれたのは、肉眼では視認できない極細の鋼糸。


それは空を裂き、アリスティアの背後から迫っていた暗殺者の足首に絡みつく。


指を、わずかに曲げる。


ただそれだけで、鋼鉄をも切断する糸が男の腱を断ち切った。


「ぐあッ!?」


男がバランスを崩し、派手に転倒する。その手から放たれた銃弾は、狙いを外れて天井を撃ち抜いた。


(……ふん、運のない奴だ。瓦礫に足を取られたか)


アリスティアは表情一つ変えず、恐怖に震えるエレナの頭を撫でる。


だが、その胸元に顔を埋めていたエレナもまた、ただ震えていたわけではなかった。


アリスティアの背後から、もう一人の男がナイフを構えて迫っていたのだ。


エレナは「恐怖でしがみつく」ふりをして、アリスティアの脇の下から手を伸ばす。


その指には、髪から抜き取った一本のヘアピンが握られていた。


先端に塗布されているのは、即効性の神経毒。


すれ違いざま。


彼女は流れるような動作で、男の太腿の動脈を一突きした。


「……ッ、が」


男は声もなく崩れ落ちる。毒が回るまで数秒。心臓麻痺に見えるだろう。


「怖い……! アリスティア様……!」


「大丈夫だ、僕がついている。じっとして」


二人は抱き合ったまま、煙の中をステップ踏むように移動する。


偶然を装い、あるいは事故に見せかけ、襲い来る障害を排除していく。


アリスティアの糸が宙を舞い、エレナの毒針が闇を刺す。


騒乱が収束するまで、わずか数分。


提督を狙ったテロリストたちは、全員が「不運な事故」や「謎の転倒」によって制圧されていた。


警備兵たちが遅れて雪崩れ込んでくる。


アリスティアは、腕の中で小刻みに震えている(と見える)エレナを解放した。


「怪我はないかい、エレナ」


「は、はい……アリスティア様こそ」


「ああ。君のおかげかな。君を抱きしめていたから、運の神様が味方してくれたようだ」


アリスティアは心にもないことを言いながら、周囲の惨状を見回す。


(やれやれ。僕の糸に気付いた者はなしか。……しかし、この子もよく無事だったな。流れ弾の一つくらい当たってもおかしくなかったが)


「私も……アリスティア様がいなければ、どうなっていたか」


エレナは涙目のまま、上目遣いで彼を見る。


(チョロい男。私の毒殺現場を、特等席で見ながら気付かないなんて。……でも、悪運だけは強いみたいね)


互いに相手を「運のいい一般人」だと結論づけ、二人は安堵の溜息をついた。


その「安堵」の意味が、全く異なることも知らずに。


騒動の後、二人は夜風に当たるためバルコニーに出ていた。


眼下には、ガス灯に照らされた帝都の街並みが広がっている。煤煙を含んだ風が、火照った頬を冷やしていく。


吊り橋効果。


今の状況を表すなら、その言葉が最も適切だろう。


死線を共に潜り抜けた(と錯覚している)男女の間には、奇妙な高揚感があった。


アリスティアは、手すりにもたれて切り出した。


「単刀直入に言おう。……僕と、結婚してくれないか」


突拍子もない提案。だが、この空気なら許される。


彼は真剣な眼差しを作る。


「今日、君と出会って運命を感じた。君となら、どんな困難も乗り越えられる気がするんだ」


(というのは建前だ。家柄よし、見た目よし、そして何より御しやすい。潜入工作のパートナーとして、君以上の隠れ蓑はいない)


エレナは驚きに目を丸くし、やがて頬を薔薇色に染めた。


「……本気、なのですか? 私のような、つまらない女で……」


「君がいいんだ、エレナ」


「……はい。喜んで、お受けしますわ」


彼女は恥じらうように微笑み、アリスティアの胸に飛び込んだ。


(チョロすぎる。でも、これでクロフォード家の内情を探れるわ。機密情報の在処、必ず吐かせてみせる)


二人は月光の下、長く熱い口づけを交わした。


その影で、一羽の機械仕掛けのフクロウが飛び立ち、闇夜へと消えていく。


それぞれが所属する組織への、「潜入成功」の報告を乗せて。


翌朝。


帝都新聞の一面には、こんな見出しが踊った。


『王立ホテルの惨劇! 愛の力で生き残った英雄的カップル、婚約へ』


記事に掲載された二人の写真は、幸せそうに微笑み合っている。


だが、その新聞をそれぞれの隠れ家で広げたアリスティアとエレナの表情は、紙面とは対照的に、氷のように冷え切っていた。


「……さて。仕事ダンスの時間だ」


二人の声が、別の場所で、同時に重なった。

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