第八話 君と選ぶ、いつもと違う一日
約束した土曜日。
航平と結衣は、本屋を訪れ、一緒に昼食を取りました。
好きな本のこと、好きな食べ物のこと、そして、これから一緒にやってみたいこと。
何気ない会話を重ねるうちに、二人の間には小さな約束が増えていきます。
それは、まだ恋と呼ぶには早いのかもしれません。
けれど、次に会える日を楽しみにする気持ちは、確かに二人の中で育ち始めていました。
土曜日の朝。
水野航平は、鏡の前で三度目になる身だしなみの確認をしていた。
寝癖はない。
シャツにも目立つしわはない。
財布とスマートフォン、それから読みかけの文庫本も鞄に入れた。
忘れ物はないはずだった。
「……何やってるんだ、俺」
鏡に映った自分を見ながら、航平は呟いた。
今日は早坂結衣と出かける。
駅前の本屋で待ち合わせをして、そのあと一緒に昼食を取る。
それだけだ。
特別な行事でもなければ、誰かの誕生日でもない。
友人と出かけることくらい、今までにもあった。
なのに、今朝はいつもより早く目が覚めた。朝食を食べている間も、時計を見る回数が多かった気がする。
待ち合わせの時間には、まだ十分すぎるほど余裕がある。
それでも、これ以上家にいると、意味もなく時計を眺め続けてしまいそうだった。
「……もう行くか」
航平は鞄を肩に掛け、玄関へ向かった。
靴を履き、扉を開ける。
春の風が頬を撫でた。
駅へ向かう道には、休日を楽しむ人々の姿があった。買い物袋を提げた夫婦、小さな子どもと手を繋ぐ母親、部活動へ向かう学生たち。
いつもの通学路なのに、平日とは少し違う景色に見える。
航平は歩きながら、スマートフォンを取り出した。
待ち合わせの時間まで、あと二十分。
早く着きすぎても、仕方がない。
そう思って画面を閉じたのに、数歩進んだところで、また時間を確認してしまった。
「……落ち着けよ」
誰も見ていないことを確認してから、航平は小さく息を吐いた。
そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面には、見覚えのある名前が表示されている。
『早坂結衣』
『おはよう、水野くん! 今日はよろしくね。もう家を出た?』
航平は立ち止まった。
何と返せばいいのか、ほんの少しだけ考える。
そして、短く返信した。
『おはよう。今、駅に向かってるところ。早坂は?』
すぐに返事が届いた。
『私も向かってるよ! 楽しみ!』
その最後の一言を見て、航平の指が止まった。
楽しみ。
結衣も、今日を楽しみにしている。
そう分かっただけなのに、胸の奥が少し軽くなった。
航平は画面を閉じ、再び歩き出した。
今度は、時計を確認しなかった。
*
駅前に着いたのは、待ち合わせの十二分前だった。
休日の駅前は、平日よりも人通りが多い。
改札から出てくる人々の流れを避けながら、航平は約束した場所へ向かった。
待ち合わせ場所は、駅前にある大きな時計の下。
そこから少し先に、二人が行く予定の書店がある。
航平は時計を見上げた。
まだ早い。
仕方なく、近くの店の看板を眺めながら待つことにした。
そのときだった。
「水野くーん!」
聞き慣れた声が、人混みの向こうから聞こえた。
振り返る。
結衣がこちらに向かって手を振っていた。
今日は制服ではない。
淡いクリーム色のカーディガンに、落ち着いた色のスカート。肩に掛けた小さな鞄が歩くたびに揺れている。
学校で見慣れた姿とは少し違っていた。
航平は、思わず彼女を見つめた。
「お待たせ!」
結衣は彼の前で足を止め、少しだけ息を整えた。
「ごめんね。待った?」
「いや。俺も今来たところだから」
嘘ではない。
ただし、駅に着いてからは少し時間が経っている。
「よかった。私、ちょっと早く着いちゃうかもって思ってたんだけど」
「……早坂も早く来たんだ」
「うん。なんだか、家にいても落ち着かなくて」
そう言って、結衣は笑った。
「今日は楽しみにしてたから」
航平は返事をしようとして、言葉に詰まった。
自分も同じ理由で早く家を出たとは、何となく言いづらかった。
「……俺も、楽しみにしてたよ」
結局、口から出たのはそんな言葉だった。
結衣が一瞬、目を丸くする。
それから、ゆっくりと笑みを深めた。
「そっか」
たった二文字だった。
けれど、その声はどこか嬉しそうだった。
「じゃあ、行こうか!」
「うん」
二人は並んで歩き始めた。
最初は、駅前の人混みを避けるために、自然と歩幅を合わせていた。
しかし、駅から離れて人通りが少なくなると、今度は互いの歩く速さを意識するようになった。
航平が少し速く歩けば、結衣が隣に並ぶ。
結衣が店先の本の広告に目を留めれば、航平も足を緩める。
そんな小さなことを繰り返しながら、二人は書店へ向かった。
「ねえ、水野くん」
「何?」
「今日は、どんな本を探すつもり?」
「まだ決めてないかな。普段は、気になったものを手に取ることが多いから」
「へえ。表紙で決めたりする?」
「表紙も見るけど、あらすじを読むことが多いよ」
「やっぱり小説を書く人って感じだね」
「どういう意味?」
「物語の中身が気になるんだろうなって」
結衣は楽しそうに言った。
「私は表紙に惹かれて買っちゃうこともあるよ。もちろん、あらすじも読むけどね」
「失敗したことは?」
「あるよ。表紙がすごくきれいで、絶対に面白いと思ったのに、読んでみたら思っていたのと全然違ったり」
「それでも最後まで読む?」
「うーん……ものによるかな。でも、途中で読むのをやめたら、その本が本当は何を伝えたかったのか分からない気がして」
結衣は少し考えたあと、続けた。
「だから、最後まで読むことが多いよ。好きになれない物語でも、最後まで読んだら、最初とは違う印象になることもあるし」
航平は彼女の横顔を見た。
その言葉には、どこか聞き覚えがあった。
初めて自分の小説を読んだときも、結衣は簡単に物語を否定しなかった。
悲しい結末に疑問を持ちながらも、登場人物の気持ちを知ろうとしていた。
彼女はきっと、物語を読むとき、結末だけを見ているわけではないのだろう。
「……早坂らしいね」
「え?」
「最後までちゃんと読もうとするところ」
結衣は少し驚いたように彼を見た。
「私らしい?」
「うん。前に俺の小説を読んでくれたときも、登場人物のことをちゃんと考えてくれたから」
結衣はしばらく黙っていた。
やがて、照れくさそうに視線を前へ戻した。
「……だって、せっかく書いた物語だもん。ちゃんと知りたいよ」
その言葉を聞いて、航平は胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分が書いたものを、知りたいと言ってくれる人がいる。
それは、思っていた以上に嬉しいことだった。
*
書店に入ると、紙とインクの匂いが二人を迎えた。
休日の店内には、家族連れや学生、棚の前で本を探している人々がいる。
入り口近くには新刊が並び、奥へ進むと小説の棚が見えてきた。
「わあ……」
結衣が目を輝かせる。
「やっぱり本屋さんっていいね」
「そんなに好きなの?」
「うん。知らなかった物語に出会える場所だから」
結衣は棚を眺めながら、ゆっくりと歩いた。
「図書館も好きだけど、本屋さんは自分で本を選んで、気に入ったら家に連れて帰れるでしょう?」
「家に連れて帰る、か」
「そう。何度も読み返せるし、好きなところに付箋を貼ったりもできるし」
「本に付箋を?」
「えっ、貼らないの?」
「俺は、しおりを挟むくらいかな」
「もったいない! 好きな言葉を見つけたら、すぐに分かるようにしておきたいじゃない」
結衣はそう言って、少し得意げに笑った。
「今度、私のお気に入りの本を見せてあげるね。付箋がいっぱい付いてるから」
「……それは少し気になるな」
「でしょう?」
彼女は満足そうに頷いた。
小説の棚に着くと、結衣は一冊の本を手に取った。
「これ、前に話した本の作者さんの別の作品なんだ」
表紙には、夕暮れの街並みと、小さな駅のホームが描かれていた。
「登場人物たちが、それぞれ悩みを抱えながら生活していくお話なの。大きな事件はないんだけど、読み終わったあとに、少しだけ自分の生活も大切にしたくなるんだよ」
航平は本を受け取った。
裏表紙のあらすじに目を通す。
そこには、進路に悩む高校生と、長年同じ喫茶店に通う老人、そして故郷を離れようとしている女性の物語が描かれていた。
「……面白そうだね」
「本当? よかった!」
結衣は嬉しそうに笑った。
「水野くんにも読んでほしかったんだ」
「どうして?」
尋ねてから、航平は少しだけ後悔した。
結衣は、そんなことを聞かれるとは思っていなかったようで、首を傾げた。
「どうしてって……水野くん、いつも悲しい物語を書くでしょう?」
「……うん」
「だから、こういうお話を読んだら、何か違うものが見えるのかなって思ったの」
航平は手元の本を見つめた。
自分の書く物語を否定されているわけではない。
結衣はただ、自分の知らない世界を教えようとしてくれている。
「……読んでみるよ」
「うん!」
結衣は満足そうに頷いた。
それから、少しだけ悪戯っぽい表情を浮かべる。
「感想、聞かせてね」
「分かった」
「ちゃんと最後まで読んでよ?」
「……分かってるよ」
「ふふっ。約束だからね」
彼女は小指を立てかけ、昨日の昼休みのことを思い出したように笑った。
航平も、つられて小さく笑った。
結衣が手に取った本を、自分の鞄に入れる。
そして、二人はそれぞれ別の棚へ向かった。
航平はしばらく小説の棚を眺めていたが、ふと、少し離れた場所にいる結衣へ目を向けた。
彼女は文庫本を二冊手に取り、表紙と裏表紙を見比べている。
時折、首を傾げたり、小さく頷いたりしていた。
普段、教室で見る姿とは少し違う。
友人たちと笑っているときの結衣も、物語について話しているときの結衣も知っている。
けれど、今の彼女は、好きなものに囲まれて、誰にも急かされずに自分の時間を楽しんでいた。
航平は、その様子を見ていると、自然と頬が緩むのを感じた。
――楽しそうだな。
ただ、そう思った。
そして、その表情をもう少し見ていたいと思った。
「……あれ?」
結衣が顔を上げた。
視線が合う。
「水野くん、何か見つかった?」
「……いや」
「本当?」
「本当だよ」
結衣は少し疑わしそうに目を細めたあと、ふっと笑った。
「じゃあ、こっちに来て。これ、どっちがいいと思う?」
彼女が差し出したのは、二冊の小説だった。
どちらも同じ作者の作品らしい。
「こっちは、幼なじみの二人が大人になってから再会する話で、こっちは、旅先で出会った人たちとの思い出を描いた話なんだって」
「……早坂は、どっちが気になるの?」
「うーん……どっちも気になる」
「それなら、両方買えばいいんじゃない?」
「そんなに簡単に言わないでよ!」
結衣は思わず笑った。
「お小遣いにも限りがあるんだからね?」
「それはそうか」
「もう。水野くんって、たまに大胆なこと言うよね」
彼女は二冊の本を見比べ、しばらく悩んだあと、旅先で出会った人々の物語を選んだ。
「よし、今日はこっち!」
「決まった?」
「うん。もう一冊は、また今度のお楽しみ」
結衣は本を胸元に抱えた。
その姿を見て、航平はふと思った。
次に来るときも、隣にいられたらいい。
また、彼女が本を選ぶ様子を見られたらいい。
けれど、その考えが浮かんだ瞬間、少しだけ戸惑った。
自分は、何を期待しているのだろう。
航平は考えを振り払うように、棚へ視線を戻した。
まだ、答えは出なかった。
*
会計を済ませた二人は、書店を出た。
結衣は紙袋を大切そうに抱え、満足げな顔をしている。
「いい買い物ができた!」
「よかったね」
「うん。水野くんは?」
「俺も一冊買ったよ」
航平は鞄の中に入れた本を思い浮かべた。
結衣が勧めてくれた、日常を描く物語。
まだ一ページも読んでいないのに、すでに少し楽しみになっていた。
「それじゃあ、お昼にしようか」
「そうだね!」
結衣が歩き出す。
航平は隣に並んだ。
駅前の通りには飲食店が並んでいる。休日ということもあり、どの店にもそれなりに人が入っていた。
「実はね、気になってるお店があるんだ」
結衣が言った。
「どんなお店?」
「洋食屋さん。ハンバーグとか、オムライスとかがあるの」
「へえ」
「前に友達が行ったことがあって、おいしかったって言ってたんだ。私、一度行ってみたかったの」
「じゃあ、そこに行こう」
「いいの?」
「うん。早坂が行きたいところなら」
結衣は一瞬、歩みを緩めた。
「……そっか」
それから、少し照れたように笑った。
「ありがとう」
航平は、彼女がなぜそんな表情をしたのか分からなかった。
ただ、嬉しそうにしているのを見て、自分も嬉しくなった。
それだけだった。
*
洋食屋は、駅前の大通りから一本入ったところにあった。
木製の看板には店名が書かれ、窓際には小さな観葉植物が並んでいる。
店内は明るく、落ち着いた雰囲気だった。
二人は窓際の席に案内された。
「わあ、いい感じのお店だね」
結衣がメニューを開く。
「どれもおいしそう……」
「そんなに迷う?」
「迷うよ! オムライスも食べたいし、ハンバーグも気になるし、クリームコロッケもおいしそうだし……」
「全部頼めば?」
「だから、お小遣いに限りがあるんだってば!」
結衣が頬を膨らませた。
航平は思わず笑った。
「ごめん」
「絶対、面白がってるでしょ」
「少しだけ」
「もう!」
そう言いながらも、結衣は笑っていた。
結局、結衣はデミグラスソースのオムライスを、航平はハンバーグのセットを注文した。
料理が届くまでの間、二人は学校の話をした。
昨日の授業で藤本先生が出した課題のこと。
駿が提出物を忘れかけて、明里に助けられていたこと。
蒼太が授業中に先生の質問へ淡々と答え、教室の笑いを誘ったこと。
「駿くんって、いつもあんな感じなの?」
結衣が尋ねた。
「うん。だいたいあんな感じ」
「楽しそうだよね」
「本人は、毎日何かしら楽しんでると思う」
「成瀬さんも、駿くんには遠慮しないんだね」
「明里は、誰に対しても言うことは言うから」
航平は少し考えた。
「でも、ちゃんと周りを見てるよ。駿が本当に困ってるときは、何だかんだ助けるし」
「……そうなんだ」
結衣は微笑んだ。
「いい友達だね」
「うん。そう思う」
その言葉に、航平は少しだけ自分の友人たちのことを考えた。
普段は騒がしくて、からかわれて、面倒に感じることもある。
けれど、何でもない時間を一緒に過ごしてくれる人がいる。
そのことを、以前よりもありがたく感じるようになった。
料理が運ばれてきた。
「お待たせしました」
結衣の前には、つやのあるデミグラスソースが掛かったオムライスが置かれた。
航平の前には、ハンバーグとサラダ、ライスが並ぶ。
「おいしそう……!」
結衣の目が輝いた。
「写真、撮ってもいい?」
「もちろん」
彼女はスマートフォンを取り出し、オムライスを撮影した。
それから、少し迷ったあと、航平の料理にもカメラを向けた。
「水野くんのも撮っていい?」
「……別にいいけど」
「ありがとう!」
結衣は二人の料理が一緒に写るように、少しだけ角度を調整した。
画面を確認し、満足そうに頷く。
「よし、撮れた!」
「何かに載せるの?」
「ううん。自分で見返すため」
結衣はスマートフォンをしまった。
「楽しかった日のことって、写真に残しておくと、あとで見たときに思い出せるでしょう?」
「……そうだね」
航平は自分の料理を見下ろした。
写真に残すほどのことだろうか。
いつもの食事と同じように、食べれば終わるものだ。
けれど、今日の昼食は、いつもとは違う。
結衣と一緒に来た店。
彼女が嬉しそうにメニューを選んでいたこと。
料理を前にして、目を輝かせていたこと。
そうしたものも、写真に残るのだろう。
「……俺も、撮っておこうかな」
「え?」
「今日のこと。あとで見返せるように」
結衣は少し驚いたように彼を見た。
そして、ゆっくりと笑った。
「うん。いいと思う」
航平はスマートフォンを取り出し、料理の写真を撮った。
画面の中に、二人分の昼食が並んでいる。
たった一枚の写真。
それでも、撮り終えたあと、何となく消したくないと思った。
「いただきます」
二人は手を合わせた。
結衣はスプーンでオムライスをすくい、口に運ぶ。
次の瞬間、ぱっと表情が明るくなった。
「おいしい!」
「そんなに?」
「うん! 卵がふわふわで、ソースもおいしい!」
結衣はもう一口食べた。
その幸せそうな顔を見て、航平は自然と笑ってしまった。
「……そんなに嬉しそうに食べるんだね」
「だって、おいしいんだもん」
「それは分かるけど」
「水野くんだって、おいしいものを食べたら嬉しくなるでしょう?」
「まあ、それは」
「じゃあ、一緒だね」
結衣はそう言って、また笑った。
航平もハンバーグを口に運ぶ。
確かに、おいしかった。
けれど、今は料理の味だけではなく、目の前で楽しそうに食事をしている結衣の表情まで、記憶に残りそうだった。
食事が進むにつれて、二人の会話も少しずつ増えていった。
好きな食べ物。
苦手な野菜。
休日の過ごし方。
最近読んだ本。
そして、いつかやってみたいこと。
「水野くんは、料理が上手になったら何を作りたい?」
結衣が尋ねた。
「……特に考えたことはないな」
「えー、何かあるでしょう?」
「そうだな……自分で作ったものを、誰かにおいしいって言ってもらえたら嬉しいかも」
答えてから、航平は少し驚いた。
普段なら、こんな質問に深く考えず答えていたはずだ。
けれど、今は違った。
自分が作ったものを誰かに食べてもらう。
その相手が喜んでくれる。
そんな光景を、自然に想像していた。
「……それ、いいね」
結衣が優しく笑った。
「私も、誰かにおいしいって言ってもらえると嬉しいから」
「早坂は、もう十分上手だと思うけど」
「えっ?」
「この前の卵焼き、おいしかったよ」
結衣が固まった。
それから、みるみるうちに頬が赤くなる。
「……覚えてたの?」
「覚えてるよ」
「そ、そっか……」
結衣は視線を落とし、スプーンでオムライスを小さくすくった。
「……ありがとう」
声が、いつもより小さかった。
航平は不思議に思ったものの、それ以上は尋ねなかった。
ただ、彼女が嬉しそうにしているのを見て、自分まで嬉しくなった。
*
昼食を終えた二人は、駅前の広場へ向かった。
午後の日差しは柔らかく、春の風が心地よかった。
広場の近くでは、小さな子どもが母親と手を繋いで歩いている。ベンチに座って談笑する人々の姿もあった。
「今日はありがとう、水野くん」
結衣が言った。
「本、買えたし、お昼もおいしかったし。すごく楽しかった」
「……俺も楽しかったよ」
航平は素直に答えた。
結衣は少し驚いたように彼を見た。
「本当?」
「うん」
「よかった」
彼女は、ほっとしたように笑った。
その顔を見て、航平は気づいた。
結衣も、自分と同じように気にしていたのかもしれない。
今日を楽しんでもらえただろうか。
自分と過ごして、退屈ではなかっただろうか。
そんなことを、少しだけ心配していたのかもしれない。
「……早坂」
「何?」
「また、どこかに行こう」
言葉が自然に出ていた。
結衣は目を見開いた。
航平自身も、言ってから驚いた。
いつもなら、別れ際に次の約束を自分から提案することは少なかった。
誘われれば応じる。
予定が合えば、一緒に出かける。
それで十分だった。
けれど、今日は違った。
今日一日が終わってしまうことを、少しだけ惜しいと思っていた。
だから、次の約束が欲しかった。
「……うん!」
結衣は、嬉しそうに頷いた。
「行こう! 今度は、私が別の本屋さんを案内してあげるね」
「楽しみにしてる」
「それから、おいしいお店も探そうよ」
「いいね」
「あと、今度は水野くんが読みたい本も教えてね」
「分かった」
約束が、少しずつ増えていく。
次に行く場所。
食べたいもの。
読みたい本。
どれも、まだ予定にすぎない。
けれど、その一つひとつが、これからの時間へと繋がっているように思えた。
「じゃあ、また学校でね」
結衣が言った。
「うん。また月曜日」
航平は答えた。
結衣は数歩進んでから、振り返った。
「水野くん!」
「何?」
「今日は、誘ってよかった!」
そう言って、彼女は笑った。
航平は返事をする前に、少しだけ目を瞬かせた。
誘ってよかった。
その言葉が、胸の奥に残った。
「……俺も、来てよかったよ」
今度は、迷わず答えられた。
結衣は満足そうに頷き、手を振って歩いていった。
航平も、彼女が見えなくなるまで、その背中を見送った。
*
帰宅した航平は、自室に鞄を置いた。
買ってきた本を取り出し、机の上に並べる。
一冊は、結衣が勧めてくれた物語。
もう一冊は、自分で選んだ小説だった。
どちらも、まだ読み始めていない。
けれど、今日という一日を思い返すと、自然と手が伸びたのは、結衣が勧めてくれたほうだった。
表紙を眺める。
夕暮れの駅。
そこに立つ人物たちは、どんな物語を生きるのだろう。
航平は本を開いた。
最初のページに目を通す。
文章は静かで、特別な出来事はまだ起こっていなかった。
それなのに、不思議と読み進めたいと思った。
きっと、結衣がこの物語を好きだと言ったからだろう。
彼女がどこに惹かれたのか。
どんな場面で笑い、どんな言葉を大切にしたのか。
それを知りたいと思った。
航平は読み進めながら、ときどき手を止めた。
印象に残った文章に、しおりを挟む。
結衣なら、どこに付箋を貼るだろう。
そんなことを考えて、少しだけ笑った。
そして、机の引き出しからノートを取り出した。
白いページを開き、ペンを握る。
今日は、何を書こう。
悲しい結末なら、いくらでも考えられる。
けれど、今は違うものを書きたかった。
誰かと出かけた日。
一緒に本を選んだ日。
同じ料理を食べて、笑い合った日。
そして、次に会える日を楽しみにしている自分のこと。
航平は、ゆっくりと文字を書き始めた。
――君と過ごした一日は、帰り道まで少しだけ明るかった。
書き終えて、彼はペンを止めた。
その一文を読み返す。
少し恥ずかしい。
けれど、消そうとは思わなかった。
今日のことを、物語に残しておきたかった。
結衣と過ごした時間を、ただの思い出として終わらせたくなかった。
それがなぜなのか、まだ分からない。
ただ、彼女と出会う前の自分なら、こんな一文を書こうとは思わなかったはずだ。
航平はノートを閉じた。
窓の外では、夕日がゆっくりと沈み始めている。
月曜日になれば、また学校が始まる。
いつもの教室。
いつもの友人たち。
そして、結衣に会える。
そう考えただけで、胸の奥が少し温かくなった。
航平は、机の上に置いた本をもう一度手に取った。
まだ、物語は始まったばかりだ。
自分の気持ちも、きっと同じなのだろう。
名前のない感情を抱えたまま、彼は再び最初のページを読み始めた。
今度は、結衣がどんな気持ちでこの物語を読んだのか、少しだけ想像しながら。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第八話では、航平と結衣が初めて休日に二人で出かけました。
二人は本を選び、一緒に食事をし、また出かけようと約束します。
大きな出来事が起こったわけではありません。
それでも、航平にとっては、これまでとは少し違う一日になりました。
誰かの好きなものを知りたいと思うこと。
一緒に過ごした時間を残しておきたいと思うこと。
そして、次に会える日を楽しみにすること。
航平はまだ、自分の気持ちに名前を付けられません。
けれど、彼の日常は少しずつ変わり始めています。
これからも二人がどんな時間を重ねていくのか、見守っていただけたら嬉しいです。




