↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君に贈る最後の物語、最後の一輪に愛を込めて  作者: (R× Y)ヤジド パシャ
第二章 涙の向こうにある物語.
9/20

第八話 君と選ぶ、いつもと違う一日

約束した土曜日。


航平と結衣は、本屋を訪れ、一緒に昼食を取りました。


好きな本のこと、好きな食べ物のこと、そして、これから一緒にやってみたいこと。


何気ない会話を重ねるうちに、二人の間には小さな約束が増えていきます。


それは、まだ恋と呼ぶには早いのかもしれません。


けれど、次に会える日を楽しみにする気持ちは、確かに二人の中で育ち始めていました。

 土曜日の朝。


 水野航平は、鏡の前で三度目になる身だしなみの確認をしていた。


 寝癖はない。


 シャツにも目立つしわはない。


 財布とスマートフォン、それから読みかけの文庫本も鞄に入れた。


 忘れ物はないはずだった。


「……何やってるんだ、俺」


 鏡に映った自分を見ながら、航平は呟いた。


 今日は早坂結衣と出かける。


 駅前の本屋で待ち合わせをして、そのあと一緒に昼食を取る。


 それだけだ。


 特別な行事でもなければ、誰かの誕生日でもない。


 友人と出かけることくらい、今までにもあった。


 なのに、今朝はいつもより早く目が覚めた。朝食を食べている間も、時計を見る回数が多かった気がする。


 待ち合わせの時間には、まだ十分すぎるほど余裕がある。


 それでも、これ以上家にいると、意味もなく時計を眺め続けてしまいそうだった。


「……もう行くか」


 航平は鞄を肩に掛け、玄関へ向かった。


 靴を履き、扉を開ける。


 春の風が頬を撫でた。


 駅へ向かう道には、休日を楽しむ人々の姿があった。買い物袋を提げた夫婦、小さな子どもと手を繋ぐ母親、部活動へ向かう学生たち。


 いつもの通学路なのに、平日とは少し違う景色に見える。


 航平は歩きながら、スマートフォンを取り出した。


 待ち合わせの時間まで、あと二十分。


 早く着きすぎても、仕方がない。


 そう思って画面を閉じたのに、数歩進んだところで、また時間を確認してしまった。


「……落ち着けよ」


 誰も見ていないことを確認してから、航平は小さく息を吐いた。


 そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。


 画面には、見覚えのある名前が表示されている。


『早坂結衣』


『おはよう、水野くん! 今日はよろしくね。もう家を出た?』


 航平は立ち止まった。


 何と返せばいいのか、ほんの少しだけ考える。


 そして、短く返信した。


『おはよう。今、駅に向かってるところ。早坂は?』


 すぐに返事が届いた。


『私も向かってるよ! 楽しみ!』


 その最後の一言を見て、航平の指が止まった。


 楽しみ。


 結衣も、今日を楽しみにしている。


 そう分かっただけなのに、胸の奥が少し軽くなった。


 航平は画面を閉じ、再び歩き出した。


 今度は、時計を確認しなかった。


     *


 駅前に着いたのは、待ち合わせの十二分前だった。


 休日の駅前は、平日よりも人通りが多い。


 改札から出てくる人々の流れを避けながら、航平は約束した場所へ向かった。


 待ち合わせ場所は、駅前にある大きな時計の下。


 そこから少し先に、二人が行く予定の書店がある。


 航平は時計を見上げた。


 まだ早い。


 仕方なく、近くの店の看板を眺めながら待つことにした。


 そのときだった。


「水野くーん!」


 聞き慣れた声が、人混みの向こうから聞こえた。


 振り返る。


 結衣がこちらに向かって手を振っていた。


 今日は制服ではない。


 淡いクリーム色のカーディガンに、落ち着いた色のスカート。肩に掛けた小さな鞄が歩くたびに揺れている。


 学校で見慣れた姿とは少し違っていた。


 航平は、思わず彼女を見つめた。


「お待たせ!」


 結衣は彼の前で足を止め、少しだけ息を整えた。


「ごめんね。待った?」


「いや。俺も今来たところだから」


 嘘ではない。


 ただし、駅に着いてからは少し時間が経っている。


「よかった。私、ちょっと早く着いちゃうかもって思ってたんだけど」


「……早坂も早く来たんだ」


「うん。なんだか、家にいても落ち着かなくて」


 そう言って、結衣は笑った。


「今日は楽しみにしてたから」


 航平は返事をしようとして、言葉に詰まった。


 自分も同じ理由で早く家を出たとは、何となく言いづらかった。


「……俺も、楽しみにしてたよ」


 結局、口から出たのはそんな言葉だった。


 結衣が一瞬、目を丸くする。


 それから、ゆっくりと笑みを深めた。


「そっか」


 たった二文字だった。


 けれど、その声はどこか嬉しそうだった。


「じゃあ、行こうか!」


「うん」


 二人は並んで歩き始めた。


 最初は、駅前の人混みを避けるために、自然と歩幅を合わせていた。


 しかし、駅から離れて人通りが少なくなると、今度は互いの歩く速さを意識するようになった。


 航平が少し速く歩けば、結衣が隣に並ぶ。


 結衣が店先の本の広告に目を留めれば、航平も足を緩める。


 そんな小さなことを繰り返しながら、二人は書店へ向かった。


「ねえ、水野くん」


「何?」


「今日は、どんな本を探すつもり?」


「まだ決めてないかな。普段は、気になったものを手に取ることが多いから」


「へえ。表紙で決めたりする?」


「表紙も見るけど、あらすじを読むことが多いよ」


「やっぱり小説を書く人って感じだね」


「どういう意味?」


「物語の中身が気になるんだろうなって」


 結衣は楽しそうに言った。


「私は表紙に惹かれて買っちゃうこともあるよ。もちろん、あらすじも読むけどね」


「失敗したことは?」


「あるよ。表紙がすごくきれいで、絶対に面白いと思ったのに、読んでみたら思っていたのと全然違ったり」


「それでも最後まで読む?」


「うーん……ものによるかな。でも、途中で読むのをやめたら、その本が本当は何を伝えたかったのか分からない気がして」


 結衣は少し考えたあと、続けた。


「だから、最後まで読むことが多いよ。好きになれない物語でも、最後まで読んだら、最初とは違う印象になることもあるし」


 航平は彼女の横顔を見た。


 その言葉には、どこか聞き覚えがあった。


 初めて自分の小説を読んだときも、結衣は簡単に物語を否定しなかった。


 悲しい結末に疑問を持ちながらも、登場人物の気持ちを知ろうとしていた。


 彼女はきっと、物語を読むとき、結末だけを見ているわけではないのだろう。


「……早坂らしいね」


「え?」


「最後までちゃんと読もうとするところ」


 結衣は少し驚いたように彼を見た。


「私らしい?」


「うん。前に俺の小説を読んでくれたときも、登場人物のことをちゃんと考えてくれたから」


 結衣はしばらく黙っていた。


 やがて、照れくさそうに視線を前へ戻した。


「……だって、せっかく書いた物語だもん。ちゃんと知りたいよ」


 その言葉を聞いて、航平は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 自分が書いたものを、知りたいと言ってくれる人がいる。


 それは、思っていた以上に嬉しいことだった。


     *


 書店に入ると、紙とインクの匂いが二人を迎えた。


 休日の店内には、家族連れや学生、棚の前で本を探している人々がいる。


 入り口近くには新刊が並び、奥へ進むと小説の棚が見えてきた。


「わあ……」


 結衣が目を輝かせる。


「やっぱり本屋さんっていいね」


「そんなに好きなの?」


「うん。知らなかった物語に出会える場所だから」


 結衣は棚を眺めながら、ゆっくりと歩いた。


「図書館も好きだけど、本屋さんは自分で本を選んで、気に入ったら家に連れて帰れるでしょう?」


「家に連れて帰る、か」


「そう。何度も読み返せるし、好きなところに付箋を貼ったりもできるし」


「本に付箋を?」


「えっ、貼らないの?」


「俺は、しおりを挟むくらいかな」


「もったいない! 好きな言葉を見つけたら、すぐに分かるようにしておきたいじゃない」


 結衣はそう言って、少し得意げに笑った。


「今度、私のお気に入りの本を見せてあげるね。付箋がいっぱい付いてるから」


「……それは少し気になるな」


「でしょう?」


 彼女は満足そうに頷いた。


 小説の棚に着くと、結衣は一冊の本を手に取った。


「これ、前に話した本の作者さんの別の作品なんだ」


 表紙には、夕暮れの街並みと、小さな駅のホームが描かれていた。


「登場人物たちが、それぞれ悩みを抱えながら生活していくお話なの。大きな事件はないんだけど、読み終わったあとに、少しだけ自分の生活も大切にしたくなるんだよ」


 航平は本を受け取った。


 裏表紙のあらすじに目を通す。


 そこには、進路に悩む高校生と、長年同じ喫茶店に通う老人、そして故郷を離れようとしている女性の物語が描かれていた。


「……面白そうだね」


「本当? よかった!」


 結衣は嬉しそうに笑った。


「水野くんにも読んでほしかったんだ」


「どうして?」


 尋ねてから、航平は少しだけ後悔した。


 結衣は、そんなことを聞かれるとは思っていなかったようで、首を傾げた。


「どうしてって……水野くん、いつも悲しい物語を書くでしょう?」


「……うん」


「だから、こういうお話を読んだら、何か違うものが見えるのかなって思ったの」


 航平は手元の本を見つめた。


 自分の書く物語を否定されているわけではない。


 結衣はただ、自分の知らない世界を教えようとしてくれている。


「……読んでみるよ」


「うん!」


 結衣は満足そうに頷いた。


 それから、少しだけ悪戯っぽい表情を浮かべる。


「感想、聞かせてね」


「分かった」


「ちゃんと最後まで読んでよ?」


「……分かってるよ」


「ふふっ。約束だからね」


 彼女は小指を立てかけ、昨日の昼休みのことを思い出したように笑った。


 航平も、つられて小さく笑った。


 結衣が手に取った本を、自分の鞄に入れる。


 そして、二人はそれぞれ別の棚へ向かった。


 航平はしばらく小説の棚を眺めていたが、ふと、少し離れた場所にいる結衣へ目を向けた。


 彼女は文庫本を二冊手に取り、表紙と裏表紙を見比べている。


 時折、首を傾げたり、小さく頷いたりしていた。


 普段、教室で見る姿とは少し違う。


 友人たちと笑っているときの結衣も、物語について話しているときの結衣も知っている。


 けれど、今の彼女は、好きなものに囲まれて、誰にも急かされずに自分の時間を楽しんでいた。


 航平は、その様子を見ていると、自然と頬が緩むのを感じた。


 ――楽しそうだな。


 ただ、そう思った。


 そして、その表情をもう少し見ていたいと思った。


「……あれ?」


 結衣が顔を上げた。


 視線が合う。


「水野くん、何か見つかった?」


「……いや」


「本当?」


「本当だよ」


 結衣は少し疑わしそうに目を細めたあと、ふっと笑った。


「じゃあ、こっちに来て。これ、どっちがいいと思う?」


 彼女が差し出したのは、二冊の小説だった。


 どちらも同じ作者の作品らしい。


「こっちは、幼なじみの二人が大人になってから再会する話で、こっちは、旅先で出会った人たちとの思い出を描いた話なんだって」


「……早坂は、どっちが気になるの?」


「うーん……どっちも気になる」


「それなら、両方買えばいいんじゃない?」


「そんなに簡単に言わないでよ!」


 結衣は思わず笑った。


「お小遣いにも限りがあるんだからね?」


「それはそうか」


「もう。水野くんって、たまに大胆なこと言うよね」


 彼女は二冊の本を見比べ、しばらく悩んだあと、旅先で出会った人々の物語を選んだ。


「よし、今日はこっち!」


「決まった?」


「うん。もう一冊は、また今度のお楽しみ」


 結衣は本を胸元に抱えた。


 その姿を見て、航平はふと思った。


 次に来るときも、隣にいられたらいい。


 また、彼女が本を選ぶ様子を見られたらいい。


 けれど、その考えが浮かんだ瞬間、少しだけ戸惑った。


 自分は、何を期待しているのだろう。


 航平は考えを振り払うように、棚へ視線を戻した。


 まだ、答えは出なかった。


     *


 会計を済ませた二人は、書店を出た。


 結衣は紙袋を大切そうに抱え、満足げな顔をしている。


「いい買い物ができた!」


「よかったね」


「うん。水野くんは?」


「俺も一冊買ったよ」


 航平は鞄の中に入れた本を思い浮かべた。


 結衣が勧めてくれた、日常を描く物語。


 まだ一ページも読んでいないのに、すでに少し楽しみになっていた。


「それじゃあ、お昼にしようか」


「そうだね!」


 結衣が歩き出す。


 航平は隣に並んだ。


 駅前の通りには飲食店が並んでいる。休日ということもあり、どの店にもそれなりに人が入っていた。


「実はね、気になってるお店があるんだ」


 結衣が言った。


「どんなお店?」


「洋食屋さん。ハンバーグとか、オムライスとかがあるの」


「へえ」


「前に友達が行ったことがあって、おいしかったって言ってたんだ。私、一度行ってみたかったの」


「じゃあ、そこに行こう」


「いいの?」


「うん。早坂が行きたいところなら」


 結衣は一瞬、歩みを緩めた。


「……そっか」


 それから、少し照れたように笑った。


「ありがとう」


 航平は、彼女がなぜそんな表情をしたのか分からなかった。


 ただ、嬉しそうにしているのを見て、自分も嬉しくなった。


 それだけだった。


     *


 洋食屋は、駅前の大通りから一本入ったところにあった。


 木製の看板には店名が書かれ、窓際には小さな観葉植物が並んでいる。


 店内は明るく、落ち着いた雰囲気だった。


 二人は窓際の席に案内された。


「わあ、いい感じのお店だね」


 結衣がメニューを開く。


「どれもおいしそう……」


「そんなに迷う?」


「迷うよ! オムライスも食べたいし、ハンバーグも気になるし、クリームコロッケもおいしそうだし……」


「全部頼めば?」


「だから、お小遣いに限りがあるんだってば!」


 結衣が頬を膨らませた。


 航平は思わず笑った。


「ごめん」


「絶対、面白がってるでしょ」


「少しだけ」


「もう!」


 そう言いながらも、結衣は笑っていた。


 結局、結衣はデミグラスソースのオムライスを、航平はハンバーグのセットを注文した。


 料理が届くまでの間、二人は学校の話をした。


 昨日の授業で藤本先生が出した課題のこと。


 駿が提出物を忘れかけて、明里に助けられていたこと。


 蒼太が授業中に先生の質問へ淡々と答え、教室の笑いを誘ったこと。


「駿くんって、いつもあんな感じなの?」


 結衣が尋ねた。


「うん。だいたいあんな感じ」


「楽しそうだよね」


「本人は、毎日何かしら楽しんでると思う」


「成瀬さんも、駿くんには遠慮しないんだね」


「明里は、誰に対しても言うことは言うから」


 航平は少し考えた。


「でも、ちゃんと周りを見てるよ。駿が本当に困ってるときは、何だかんだ助けるし」


「……そうなんだ」


 結衣は微笑んだ。


「いい友達だね」


「うん。そう思う」


 その言葉に、航平は少しだけ自分の友人たちのことを考えた。


 普段は騒がしくて、からかわれて、面倒に感じることもある。


 けれど、何でもない時間を一緒に過ごしてくれる人がいる。


 そのことを、以前よりもありがたく感じるようになった。


 料理が運ばれてきた。


「お待たせしました」


 結衣の前には、つやのあるデミグラスソースが掛かったオムライスが置かれた。


 航平の前には、ハンバーグとサラダ、ライスが並ぶ。


「おいしそう……!」


 結衣の目が輝いた。


「写真、撮ってもいい?」


「もちろん」


 彼女はスマートフォンを取り出し、オムライスを撮影した。


 それから、少し迷ったあと、航平の料理にもカメラを向けた。


「水野くんのも撮っていい?」


「……別にいいけど」


「ありがとう!」


 結衣は二人の料理が一緒に写るように、少しだけ角度を調整した。


 画面を確認し、満足そうに頷く。


「よし、撮れた!」


「何かに載せるの?」


「ううん。自分で見返すため」


 結衣はスマートフォンをしまった。


「楽しかった日のことって、写真に残しておくと、あとで見たときに思い出せるでしょう?」


「……そうだね」


 航平は自分の料理を見下ろした。


 写真に残すほどのことだろうか。


 いつもの食事と同じように、食べれば終わるものだ。


 けれど、今日の昼食は、いつもとは違う。


 結衣と一緒に来た店。


 彼女が嬉しそうにメニューを選んでいたこと。


 料理を前にして、目を輝かせていたこと。


 そうしたものも、写真に残るのだろう。


「……俺も、撮っておこうかな」


「え?」


「今日のこと。あとで見返せるように」


 結衣は少し驚いたように彼を見た。


 そして、ゆっくりと笑った。


「うん。いいと思う」


 航平はスマートフォンを取り出し、料理の写真を撮った。


 画面の中に、二人分の昼食が並んでいる。


 たった一枚の写真。


 それでも、撮り終えたあと、何となく消したくないと思った。


「いただきます」


 二人は手を合わせた。


 結衣はスプーンでオムライスをすくい、口に運ぶ。


 次の瞬間、ぱっと表情が明るくなった。


「おいしい!」


「そんなに?」


「うん! 卵がふわふわで、ソースもおいしい!」


 結衣はもう一口食べた。


 その幸せそうな顔を見て、航平は自然と笑ってしまった。


「……そんなに嬉しそうに食べるんだね」


「だって、おいしいんだもん」


「それは分かるけど」


「水野くんだって、おいしいものを食べたら嬉しくなるでしょう?」


「まあ、それは」


「じゃあ、一緒だね」


 結衣はそう言って、また笑った。


 航平もハンバーグを口に運ぶ。


 確かに、おいしかった。


 けれど、今は料理の味だけではなく、目の前で楽しそうに食事をしている結衣の表情まで、記憶に残りそうだった。


 食事が進むにつれて、二人の会話も少しずつ増えていった。


 好きな食べ物。


 苦手な野菜。


 休日の過ごし方。


 最近読んだ本。


 そして、いつかやってみたいこと。


「水野くんは、料理が上手になったら何を作りたい?」


 結衣が尋ねた。


「……特に考えたことはないな」


「えー、何かあるでしょう?」


「そうだな……自分で作ったものを、誰かにおいしいって言ってもらえたら嬉しいかも」


 答えてから、航平は少し驚いた。


 普段なら、こんな質問に深く考えず答えていたはずだ。


 けれど、今は違った。


 自分が作ったものを誰かに食べてもらう。


 その相手が喜んでくれる。


 そんな光景を、自然に想像していた。


「……それ、いいね」


 結衣が優しく笑った。


「私も、誰かにおいしいって言ってもらえると嬉しいから」


「早坂は、もう十分上手だと思うけど」


「えっ?」


「この前の卵焼き、おいしかったよ」


 結衣が固まった。


 それから、みるみるうちに頬が赤くなる。


「……覚えてたの?」


「覚えてるよ」


「そ、そっか……」


 結衣は視線を落とし、スプーンでオムライスを小さくすくった。


「……ありがとう」


 声が、いつもより小さかった。


 航平は不思議に思ったものの、それ以上は尋ねなかった。


 ただ、彼女が嬉しそうにしているのを見て、自分まで嬉しくなった。


     *


 昼食を終えた二人は、駅前の広場へ向かった。


 午後の日差しは柔らかく、春の風が心地よかった。


 広場の近くでは、小さな子どもが母親と手を繋いで歩いている。ベンチに座って談笑する人々の姿もあった。


「今日はありがとう、水野くん」


 結衣が言った。


「本、買えたし、お昼もおいしかったし。すごく楽しかった」


「……俺も楽しかったよ」


 航平は素直に答えた。


 結衣は少し驚いたように彼を見た。


「本当?」


「うん」


「よかった」


 彼女は、ほっとしたように笑った。


 その顔を見て、航平は気づいた。


 結衣も、自分と同じように気にしていたのかもしれない。


 今日を楽しんでもらえただろうか。


 自分と過ごして、退屈ではなかっただろうか。


 そんなことを、少しだけ心配していたのかもしれない。


「……早坂」


「何?」


「また、どこかに行こう」


 言葉が自然に出ていた。


 結衣は目を見開いた。


 航平自身も、言ってから驚いた。


 いつもなら、別れ際に次の約束を自分から提案することは少なかった。


 誘われれば応じる。


 予定が合えば、一緒に出かける。


 それで十分だった。


 けれど、今日は違った。


 今日一日が終わってしまうことを、少しだけ惜しいと思っていた。


 だから、次の約束が欲しかった。


「……うん!」


 結衣は、嬉しそうに頷いた。


「行こう! 今度は、私が別の本屋さんを案内してあげるね」


「楽しみにしてる」


「それから、おいしいお店も探そうよ」


「いいね」


「あと、今度は水野くんが読みたい本も教えてね」


「分かった」


 約束が、少しずつ増えていく。


 次に行く場所。


 食べたいもの。


 読みたい本。


 どれも、まだ予定にすぎない。


 けれど、その一つひとつが、これからの時間へと繋がっているように思えた。


「じゃあ、また学校でね」


 結衣が言った。


「うん。また月曜日」


 航平は答えた。


 結衣は数歩進んでから、振り返った。


「水野くん!」


「何?」


「今日は、誘ってよかった!」


 そう言って、彼女は笑った。


 航平は返事をする前に、少しだけ目を瞬かせた。


 誘ってよかった。


 その言葉が、胸の奥に残った。


「……俺も、来てよかったよ」


 今度は、迷わず答えられた。


 結衣は満足そうに頷き、手を振って歩いていった。


 航平も、彼女が見えなくなるまで、その背中を見送った。


     *


 帰宅した航平は、自室に鞄を置いた。


 買ってきた本を取り出し、机の上に並べる。


 一冊は、結衣が勧めてくれた物語。


 もう一冊は、自分で選んだ小説だった。


 どちらも、まだ読み始めていない。


 けれど、今日という一日を思い返すと、自然と手が伸びたのは、結衣が勧めてくれたほうだった。


 表紙を眺める。


 夕暮れの駅。


 そこに立つ人物たちは、どんな物語を生きるのだろう。


 航平は本を開いた。


 最初のページに目を通す。


 文章は静かで、特別な出来事はまだ起こっていなかった。


 それなのに、不思議と読み進めたいと思った。


 きっと、結衣がこの物語を好きだと言ったからだろう。


 彼女がどこに惹かれたのか。


 どんな場面で笑い、どんな言葉を大切にしたのか。


 それを知りたいと思った。


 航平は読み進めながら、ときどき手を止めた。


 印象に残った文章に、しおりを挟む。


 結衣なら、どこに付箋を貼るだろう。


 そんなことを考えて、少しだけ笑った。


 そして、机の引き出しからノートを取り出した。


 白いページを開き、ペンを握る。


 今日は、何を書こう。


 悲しい結末なら、いくらでも考えられる。


 けれど、今は違うものを書きたかった。


 誰かと出かけた日。


 一緒に本を選んだ日。


 同じ料理を食べて、笑い合った日。


 そして、次に会える日を楽しみにしている自分のこと。


 航平は、ゆっくりと文字を書き始めた。


 ――君と過ごした一日は、帰り道まで少しだけ明るかった。


 書き終えて、彼はペンを止めた。


 その一文を読み返す。


 少し恥ずかしい。


 けれど、消そうとは思わなかった。


 今日のことを、物語に残しておきたかった。


 結衣と過ごした時間を、ただの思い出として終わらせたくなかった。


 それがなぜなのか、まだ分からない。


 ただ、彼女と出会う前の自分なら、こんな一文を書こうとは思わなかったはずだ。


 航平はノートを閉じた。


 窓の外では、夕日がゆっくりと沈み始めている。


 月曜日になれば、また学校が始まる。


 いつもの教室。


 いつもの友人たち。


 そして、結衣に会える。


 そう考えただけで、胸の奥が少し温かくなった。


 航平は、机の上に置いた本をもう一度手に取った。


 まだ、物語は始まったばかりだ。


 自分の気持ちも、きっと同じなのだろう。


 名前のない感情を抱えたまま、彼は再び最初のページを読み始めた。


 今度は、結衣がどんな気持ちでこの物語を読んだのか、少しだけ想像しながら。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第八話では、航平と結衣が初めて休日に二人で出かけました。


二人は本を選び、一緒に食事をし、また出かけようと約束します。


大きな出来事が起こったわけではありません。


それでも、航平にとっては、これまでとは少し違う一日になりました。


誰かの好きなものを知りたいと思うこと。


一緒に過ごした時間を残しておきたいと思うこと。


そして、次に会える日を楽しみにすること。


航平はまだ、自分の気持ちに名前を付けられません。


けれど、彼の日常は少しずつ変わり始めています。


これからも二人がどんな時間を重ねていくのか、見守っていただけたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。