第九話 月曜日、君の好きな物語
休日に一緒に出かけた航平と結衣。
楽しかった一日の記憶は、月曜日になっても消えずに残っていました。
けれど、学校には友人たちとの賑やかな日常があり、二人だけでは知らなかった相手の一面もあります。
好きな本の話から始まった小さなつながりは、少しずつ、二人の日常に溶け込み始めていました。
月曜日の朝。
目覚まし時計が鳴る少し前に、水野航平は目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光は、まだ淡い。窓の外では、小鳥の声が聞こえている。
普段なら、もう少し布団の中にいたいと思う時間だった。
けれど、今日は違った。
航平は枕元のスマートフォンに手を伸ばした。画面には、昨夜のうちに読み終えた本の表紙が表示されている。土曜日に早坂結衣が勧めてくれた一冊だ。
最後まで読み終えたものの、彼女がどこを気に入っていたのか、まだ完全には分からなかった。
物語そのものは、特別な事件が次々と起こるような作品ではない。
主人公が学校へ行き、友人と昼食を食べ、帰り道に寄り道をする。
ただ、それだけの毎日が描かれている。
それなのに、読み終えたあとには、不思議と登場人物たちのことが気になった。
大きな悲劇も、誰かの死もない。
それでも、彼らが過ごした時間には、確かな意味があった。
「……こういう物語も、悪くないんだな」
独り言をこぼし、航平は本を閉じた。
机の上には、読みながら書き留めた短いメモが残っている。
その隣には、土曜日に結衣と撮った写真があった。
正確には、彼女が撮影したオムライスと、自分が撮ったハンバーグの写真だ。二人で並んで写ったものではない。
それでも、同じテーブルで食事をしていた時間を思い出すには十分だった。
航平はしばらく写真を見つめたあと、スマートフォンを伏せた。
「……学校、行くか」
誰に聞かせるでもなく呟いて、ベッドから起き上がる。
いつもと同じ月曜日。
ただ、いつもより少しだけ、家を出るのが楽しみだった。
*
「おはよう、水野」
教室に入ると、すでに席に着いていた橘蒼太が顔を上げた。
「おはよう」
「今日は早いな」
「いつもと同じくらいだと思うけど」
「いや、いつもはもう少し眠そうな顔をしている」
「朝から人の顔を観察するなよ」
「観察じゃない。確認だ」
「何の確認だよ……」
航平が鞄を机の横に掛けると、蒼太は机に頬杖をついた。
「土曜日、何かあった?」
「……どうして?」
「いや。今日は少し機嫌がよさそうだから」
「そうか?」
「本人が気づいていないなら、たぶん本当だな」
蒼太はそれ以上追及せず、手元の問題集へ視線を戻した。
その淡々とした態度が、かえって航平を落ち着かなくさせる。
機嫌がよさそう。
そんなふうに見えるほど、顔に出ていたのだろうか。
航平が考えていると、教室の入口から聞き慣れた声が響いた。
「おーい、水野! 月曜日から難しい顔して何考えてるんだ?」
佐久間駿が、鞄を肩に掛けたまま近づいてくる。
「別に何も」
「その返事、絶対何かあるやつじゃん」
「お前は俺の返事を何だと思ってるんだ」
「長年の付き合いによる分析結果だ」
「分析の精度が低すぎる」
「朝から仲がいいわね、あんたたち」
後ろから成瀬明里が口を挟んだ。
駿は振り返り、得意げに胸を張る。
「当然だろ。俺と水野の友情は、そう簡単には揺るがないからな」
「じゃあ、昨日のメッセージで私に課題の答えを聞いてきた理由を説明してくれる?」
「それは友情とは別の話だ!」
「便利な友情ね」
「お前、俺にだけ厳しくないか?」
「自分の行動を振り返ってから言いなさい」
二人の言い合いが始まり、航平は小さく息を吐いた。
いつも通りの光景だ。
駿が騒ぎ、明里が冷静に切り返し、蒼太が必要なときだけ一言を添える。
この三人といると、静かに考え事をする時間は減る。
その代わり、何も考えずに笑っていられる時間が増える。
航平は、それを嫌だと思ったことがなかった。
「ところで、水野」
駿が突然こちらを向いた。
「何だよ」
「土曜日、何してた?」
「……普通に出かけてた」
「誰と?」
「友達と」
「その友達って、男?」
「どうして性別を限定する必要があるんだ」
「質問に質問で返すな!」
「お前が変な聞き方をするからだろ」
駿が机に手をついた。
「まさか……女か?」
「声が大きい」
「女なのか!?」
「佐久間、朝からうるさい」
明里が駿の制服の袖を引っ張った。
「ちょっと、静かにしなさい。まだホームルームも始まってないのよ」
「いや、これは重要な問題だろ!」
「あなたにとってだけね」
「水野の青春が懸かっているかもしれないんだぞ!」
「本人の青春を勝手に議題にしないで」
蒼太が問題集を閉じた。
「早坂さんじゃないのか」
その一言で、航平の動きが止まった。
「……何で、そこで早坂さんが出てくるんだよ」
「この前、放課後に君の教室へ来ていたから」
「それだけで決めつけるな」
「決めつけてはいない。候補を挙げただけだ」
「その候補の選び方が問題なんだよ」
駿の目が輝いた。
「待て。早坂って、あの早坂結衣?」
「名前を知ってるのか?」
「去年の文化祭準備で何度か見かけたことがある。ほとんど話したことはないけどな」
駿は腕を組み、何かを思い出すように天井を見上げた。
「でも、早坂さんが水野のところへ来るようになったのって、最近だよな?」
「……まあ」
「お前、いつの間に仲良くなったんだよ!」
「いつの間にって言われても……」
航平は言葉に詰まった。
いつからだろう。
最初は、原稿の結末について質問された。
次に、続きを読みたいと言われた。
放課後に一緒に本を読んで、また明日と約束した。
そして土曜日には、二人で出かけた。
順番に思い返せば説明できるはずなのに、それらをひとつの言葉でまとめようとすると、急に難しくなる。
「……本の話をしてただけだよ」
結局、航平はそう答えた。
「本の話ねえ?」
駿は疑いの目を向けた。
「それだけで休日に二人で出かけるのか?」
「本屋に行っただけだ」
「二人で?」
「……そうだよ」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、駿が勢いよく両手を叩いた。
「おおおっ! 水野が! 休日に! 女の子と!」
「だから声が大きいって!」
「何で隠してたんだよ!」
「隠してない!」
「成瀬、聞いたか!? こいつ、休日に早坂さんと二人で出かけたらしいぞ!」
「聞こえてるわよ。あなたが教室中に報告してるんだから」
明里は呆れたように言ったあと、航平へ視線を移した。
「それで? 楽しかった?」
駿の質問とは違う、ずいぶんと普通の聞き方だった。
航平は一瞬だけ迷った。
「……楽しかったよ」
そう答えると、明里の表情が少し柔らかくなった。
「なら、よかったじゃない」
「え?」
「だって、楽しかったんでしょ?」
「……まあ」
「だったら、それでいいじゃない」
明里はそれだけ言って、自分の席へ戻ろうとした。
しかし、二歩進んだところで振り返る。
「ちなみに、佐久間。あなたは人の恋愛事情を聞き出す前に、自分の課題を終わらせなさい」
「だから何で俺にだけ厳しいんだよ!」
「昨日、私に答えを聞いたからよ」
「それはもう忘れてくれ!」
「忘れないわ」
再び始まった言い合いを聞きながら、航平は苦笑した。
楽しかった。
自分の口から出た言葉が、思っていたよりも自然だったことに気づく。
土曜日のことを誰かに話すのは、少し気恥ずかしかった。
けれど、楽しかった時間を否定するつもりもなかった。
あの日、結衣が勧めてくれた本。
一緒に選んだ本。
食事をしながら交わした、何気ない会話。
そのひとつひとつを思い出すと、胸の奥がわずかに温かくなる。
航平はその感覚に名前を付けないまま、席に座った。
*
ホームルームが始まると、担任の藤本先生が教室へ入ってきた。
「おはよう。全員、席に着け」
ざわついていた教室が少しずつ静かになる。
藤本先生は出席簿を教卓に置き、黒板の端に日付を書いた。
「三年生になって、そろそろ学校生活にも慣れてきた頃だと思う。ただし、慣れてきたからといって気を抜かないように」
「はーい」
教室のあちこちから返事が上がる。
「返事だけは立派だな。では、今日の連絡だが、進路希望調査の提出期限が今週の金曜日になっている。まだ提出していない者は、忘れずに出すこと」
進路という言葉に、教室の空気が少しだけ変わった。
卒業まで、まだ時間があるように感じる。
けれど、三年生になった以上、未来について考えなければならない。
進学するのか。
就職するのか。
どこへ行き、何を学び、何を仕事にするのか。
それぞれが、少しずつ答えを求められる時期だった。
「水野。お前は提出したか?」
隣の席から駿が小声で聞いてきた。
「まだ」
「俺も」
「お前は先週、書くって言ってなかったか?」
「言った。だが、人生というのは予定通りに進まないものだ」
「進路希望調査を後回しにしてるだけだろ」
前の席の明里が振り返った。
「佐久間、聞こえてるわよ」
「どうしてお前はいつも俺の会話を聞いてるんだ!?」
「声が大きいからよ」
藤本先生が咳払いをした。
「佐久間。成瀬。話が盛り上がっているところ悪いが、進路について何か意見があるなら、あとで聞こうか」
「いえ、何もありません!」
二人の声がぴたりと揃った。
教室に笑いが起こる。
藤本先生は苦笑しながら、進路希望調査の用紙を配るよう指示した。
航平は用紙を受け取り、空欄に目を落とす。
第一希望。
第二希望。
将来の目標。
文字にしてみると、普段はぼんやりと考えているだけのことが、急に現実味を帯びてくる。
航平には、ひとつだけ、比較的はっきりしているものがあった。
物語を書くこと。
けれど、それを将来の仕事にしたいのかと聞かれれば、まだ自信を持って答えられない。
好きだから続けている。
書いている間は、登場人物たちの気持ちを考えられる。
自分にはできない選択をさせ、言えない言葉を言わせ、現実では出会えない結末を作れる。
それでも、書いたものを誰かに読んでもらうことには、ずっと抵抗があった。
自分の考えを見られるような気がするからだ。
「水野」
藤本先生が教卓から声を掛けた。
「小説を書くことが好きだと言っていたな」
「……はい」
「それは進路の選択肢に入っているのか?」
クラスの何人かが、こちらを振り向いた。
航平は少しだけ姿勢を正した。
「まだ、分かりません」
「そうか。好きなことを仕事にするのは、簡単な話ではない。ただ、今すぐ答えを決めなければならないわけでもない」
藤本先生は、航平の手元にある用紙へ目を向けた。
「何を大切にしたいのか。それを考えることも、進路を決めるためには必要だ。職業の名前だけで考えず、自分がどんな生活を送りたいのかも考えてみるといい」
「……はい」
先生はそれ以上、無理に答えを求めなかった。
航平は用紙を見つめ直す。
どんな生活を送りたいのか。
そんなことを、これまで真剣に考えたことはなかった。
物語の中なら、登場人物たちの未来をいくらでも想像できる。
けれど、自分自身の未来については、いつも曖昧なままだった。
チャイムが鳴り、ホームルームが終わる。
駿が机に突っ伏した。
「進路って、どうしてこんなに難しいんだ……」
「あなたが普段から考えていないからでしょう」
「成瀬、お前は決まってるのか?」
「まだ全部は決めていないわ。でも、何をしたいのかは考えてる」
「俺だって考えてるぞ」
「何を?」
「……まずは、今日の昼飯」
「でしょうね」
「おい! 今のは冗談だ!」
明里が笑い、蒼太も小さく肩を揺らした。
航平もつられて笑った。
進路について考えなければならないことは変わらない。
それでも、すぐに答えが出ないからといって、何も始められないわけではないのだろう。
そう思ったとき、なぜか土曜日に読んだ本の主人公が頭に浮かんだ。
彼もまた、何か特別な目標を持っていたわけではない。
ただ、今日という一日を過ごしていた。
それだけでも、物語にはなっていた。
*
昼休み。
窓の外から、運動部の掛け声が聞こえてくる。
教室では机を寄せ合う生徒たちがいて、購買へ走る生徒たちがいて、友人同士でスマートフォンの画面を見せ合っている生徒たちもいた。
駿は弁当箱を机の上に置きながら、深々と息を吐いた。
「腹減った……。午前中、進路の話を聞いてたら余計に疲れた」
「聞いていたというより、途中から寝そうになっていただろ」
航平が言うと、駿は勢いよく顔を上げた。
「失礼な。俺は真剣に考えていたぞ」
「進路を?」
「今日の昼飯をどうやって最大限おいしく食べるかを」
「それを真剣に考えるな」
「食事は大切だろ!」
「それは否定しないけど」
明里が椅子を引いて、二人の近くに座った。
「はいはい。食事の重要性についての討論は、食べながらにしてください」
蒼太も自分の弁当を持ってやって来る。
いつの間にか、四人で机を囲む形になっていた。
「そういえば、水野」
駿が箸を持ったまま、にやりと笑った。
「土曜日に食べたもの、早坂さんと同じだったのか?」
「違う。俺はハンバーグで、早坂さんはオムライス」
「ちゃんと覚えてるんだな」
「……一緒に食べたんだから、覚えてるだろ」
「へえー」
「何だよ、その顔」
「いや? 別に?」
駿は明らかに何かを面白がっていた。
明里がその肩を小突く。
「佐久間。あんまりからかわないの」
「まだ何も言ってないだろ!」
「顔がうるさいのよ」
「顔に声量の概念を持ち込むな!」
蒼太は弁当のおかずを口に運びながら、航平に尋ねた。
「その本は読んだ?」
「うん。昨日の夜に読み終えた」
「早いな」
「続きが気になって、一気に読んだ」
「面白かった?」
航平は少し考えた。
「面白かったよ。派手な展開はないけど、読み終わったあとに、登場人物たちがその後どうしてるのか気になった」
「それなら、いい本だったんだろうな」
蒼太の言葉に、航平は頷いた。
「……たぶん」
駿が箸を止める。
「その本、早坂さんのおすすめなんだよな?」
「そうだけど」
「じゃあ、感想を伝えたのか?」
「まだ」
「何でだよ。せっかく勧めてもらったんだから、面白かったって言えばいいじゃん」
「学校で会ったら言うつもりだよ」
「会ったら?」
駿は大げさに目を見開いた。
「お前、早坂さんと連絡先を交換してないのか?」
航平は黙った。
「……交換してる」
「してるのかよ!」
「声が大きい!」
駿の声が教室の半分に届いたらしく、近くの生徒がこちらを見た。
明里は額に手を当てた。
「もう……。あなたは本当に」
「いや、だって大事なことだろ! 連絡先を交換してるなら、感想くらい送ればいいじゃないか!」
「別に、今すぐ送らなくてもいいだろ」
「いいか、水野。人間関係というのは、日々の積み重ねが大切なんだ」
「お前、さっきまで昼飯の話しかしてなかっただろ」
「それとこれとは別だ!」
「説得力がないなあ」
蒼太が静かに言う。
駿は一瞬だけ言葉を失い、それから咳払いをした。
「とにかくだ。面白かったなら、ちゃんと伝えるべきだと思うぞ」
その言い方は、いつものからかいとは少し違っていた。
航平は駿の顔を見た。
駿はすぐにいつもの笑顔に戻り、弁当の唐揚げを頬張った。
「まあ、俺ならそうする!」
「最後の一言で台無しね」
明里が呆れたように言った。
航平は弁当箱の蓋に視線を落とした。
感想を伝える。
確かに、難しいことではない。
けれど、結衣に対しては、ほんの些細な言葉でも、どうしてか慎重になってしまう。
面白かった。
勧めてくれてありがとう。
それだけでいいはずなのに、送ったあとの彼女の反応を想像してしまう。
喜んでくれるだろうか。
それとも、もっと詳しい感想を聞きたいと思うだろうか。
考え始めると、文章がまとまらなくなる。
「……あとで送ってみるよ」
航平がそう言うと、駿は満足そうに頷いた。
「よし!」
「何でお前が達成感を得てるんだよ」
「友人の成長を見守るのも、友人の務めだからな」
「勝手に成長の機会にするな」
四人の笑い声が、昼休みの教室に混ざった。
*
午後の授業は、午前中よりも長く感じられた。
黒板に並ぶ文字をノートに写しながら、航平は何度か窓の外へ目を向けた。
春の空は明るい。
雲がゆっくりと流れている。
いつもなら、授業の合間に物語の続きを考えてしまうことがある。登場人物の台詞や、次に起こる出来事、そして最後にどんな結末を用意するのか。
けれど、今日は少し違った。
ノートの端に書いたのは、物語の台詞ではなく、昨夜読み終えた本についての短い感想だった。
――何も起こらない一日にも、残しておきたい瞬間がある。
書いてから、航平はその一文を見つめた。
自分が書いたものなのに、どこか他人の言葉のように感じられた。
本の主人公が過ごした日々。
土曜日に結衣と歩いた道。
昼食のとき、彼女がオムライスの写真を撮っていた姿。
そのひとつひとつが、頭の中で静かにつながっていく。
「……水野」
先生に名前を呼ばれ、航平は顔を上げた。
「はい」
「今、説明したところだ。ここの答えは?」
黒板を見る。
一瞬、頭が真っ白になった。
教室のあちこちから、くすくすと笑い声が聞こえる。
航平は慌ててノートを確認し、何とか答えを口にした。
「……正解だ。だが、次は黒板も見ておくように」
「すみません」
席に着くと、駿が小さくこちらを振り返った。
「お前まで授業中に上の空かよ」
「お前と一緒にするな」
「じゃあ、何を考えてたんだ?」
「……本のこと」
「早坂さんに勧められた本?」
「そう」
駿は一瞬だけ驚いたような顔をした。
それから、口元を緩める。
「ふーん」
「その顔をやめろ」
「どの顔だよ」
「人をからかう直前の顔」
「そんなもの、俺にあるか?」
「あるわよ」
前の席から明里が即答した。
「成瀬、お前は授業に集中しろ!」
「あなたが大きな声を出すからよ!」
先生の視線が再びこちらへ向く。
三人は同時に前を向いた。
航平はノートの端に書いた一文を、そっと指でなぞった。
今度は、続きを考えるためではない。
忘れないようにするためだった。
*
放課後。
ホームルームが終わると、生徒たちは部活動や帰宅の準備を始めた。
廊下には、運動部の掛け声や、階段を駆け下りる足音が響いている。
航平は鞄に教科書をしまいながら、机の中から進路希望調査の用紙を取り出した。
まだ、ほとんど空欄のままだ。
「水野、帰るぞ」
駿が鞄を肩に掛けていた。
「悪い。少し残る」
「進路希望調査?」
「それもあるけど……」
航平は、鞄の中から一冊の本を取り出した。
土曜日に結衣が勧めてくれた本だ。
「早坂さんに、これの感想を伝えようと思って」
駿は口を開きかけたが、その隣で明里が素早く彼の腕をつかんだ。
「分かったわ。頑張ってね、水野」
「え? ああ、うん」
「ほら、佐久間。私たちは先に行くわよ」
「いや、でも……!」
「でも、じゃないの」
明里は駿を引っ張りながら、教室の入口へ向かった。
駿は何度か振り返ったが、明里の容赦ない視線に負けたらしい。
「水野! また明日な!」
「おう」
「変なことがあったら報告しろよ!」
「何も起こらないよ!」
「それは分からないだろ!」
「佐久間!」
明里の声が廊下に響き、二人の姿が見えなくなった。
教室には、まだ何人かの生徒が残っていた。
窓際では、女子生徒たちが部活動の予定について話している。廊下を通る生徒が、友人に手を振っていた。
その中に、見覚えのある姿があった。
結衣だ。
彼女は教室の入口から中を覗き、航平を見つけると、少しだけ表情を明るくした。
「水野くん」
「早坂さん。どうしたの?」
「図書室に行こうと思ってたんだけど、帰る前にちょっと寄ってみたの」
「そっか」
「……忙しかった?」
「いや、大丈夫」
結衣は、机の上に置かれた本に気づいた。
「あ、それ……!」
「うん。勧めてくれた本、昨日読み終わったんだ」
「本当?」
結衣の顔がぱっと明るくなる。
「どうだった? 面白かった?」
その反応を見て、航平は少しだけ笑った。
「面白かったよ。最初は、こんなに静かな物語で最後まで読めるのかなって思ったけど」
「うんうん」
「読み終わったら、登場人物たちのその後が気になった。特別な事件がなくても、ちゃんと物語になるんだなって」
結衣は、嬉しそうに目を細めた。
「よかった」
「早坂さんは、どうしてこの本が好きなの?」
尋ねると、彼女は少し考えた。
「うーん……。登場人物たちが、何でもないことをちゃんと覚えているところかな」
「何でもないこと?」
「うん。誰かが好きだと言ったものとか、一緒に歩いた道とか、いつもと違う帰り道とか。そういうことって、そのときは何でもないのに、あとから思い出すと、すごく大切だったりするでしょう?」
結衣は、窓の外へ視線を向けた。
「私は、そういう場面が好きなの。何か大きなことが起こらなくても、その人が誰かと一緒に過ごした時間は、ちゃんと残るんだなって思えるから」
航平は返事をしなかった。
できなかった、と言った方が正しいかもしれない。
結衣の言葉が、胸の奥に静かに落ちていった。
土曜日のことを思い出す。
本屋で彼女が棚の前を行き来していた姿。
どの本を勧めようかと、真剣に悩んでいた横顔。
オムライスの写真を撮り、少し照れながら料理について話していた声。
あの時間は、特別な出来事だっただろうか。
少なくとも、航平にとっては、忘れたくない時間になっていた。
「……俺も」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
「え?」
「俺も、そういう場面をちゃんと書けるようになりたい」
結衣は驚いたように瞬きをした。
「航平くんの物語、悲しい場面はすごく印象に残るよ。でも、悲しくなる前の時間も、もっと読んでみたいなって思う」
「悲しくなる前の時間……」
「うん。登場人物が笑っていたり、友達とくだらない話をしていたり、好きなものを誰かに教えてあげたり。そういう時間があるからこそ、読んでいる人も、その人たちのことを好きになるんじゃないかな」
航平は、手元の本を見下ろした。
「……そうかもしれない」
「もちろん、悲しい物語が駄目ってことじゃないよ。私は、航平くんの書く物語も好きだし」
結衣は少し慌てて付け加えた。
「ただ……悲しい結末だけじゃなくて、そこにたどり着くまでに、どんな時間があったのかも知りたいの」
彼女は言葉を選びながら話していた。
自分の意見を押しつけたいわけではない。
航平が書いてきたものを否定したいわけでもない。
ただ、彼の物語をもっと知りたいのだ。
その気持ちが伝わってきた。
「……ありがとう」
航平が言うと、結衣は首を傾げた。
「どうして、お礼?」
「俺の書いたものを、そんなふうに考えて読んでくれる人がいるのは……嬉しいから」
言い終えてから、航平は少しだけ視線を逸らした。
こんなことを誰かに言ったのは、初めてだった。
結衣も、すぐには返事をしなかった。
それから、頬をほんのり赤くして笑った。
「……そっか。よかった」
教室の窓から、柔らかな風が吹き込んできた。
机の上に置かれたプリントが一枚、端を揺らす。
二人の間に沈黙が落ちた。
けれど、それは気まずい沈黙ではなかった。
何かを無理に話さなくても、今はこのままでいい。
そんなふうに思える、短い時間だった。
やがて結衣が、ふと思い出したように口を開く。
「そうだ。昨日の本、返すのはいつでもいいからね」
「え?」
「もし気に入ったなら、もう一度読み返してもいいし。ほかにもおすすめしたい本があるんだ」
「……ほかにも?」
「うん。今度は、もう少し笑えるものとか」
彼女はいたずらっぽく笑った。
「航平くんが、どんなところで笑うのか気になるから」
「俺だって笑うよ」
「本当かなあ」
「本当だって」
「じゃあ、今度確かめてみようかな」
「……好きにしてくれ」
航平は苦笑した。
結衣は、そんな彼の顔を見て、また楽しそうに笑った。
「約束ね」
「……うん」
何を約束したのか、具体的に決めたわけではない。
次に会う日も、どこへ行くかも、まだ何も決まっていない。
それでも、二人の間には、次の時間を楽しみにする理由がひとつ増えた。
*
校門を出ると、空は少しずつ夕方の色に変わり始めていた。
結衣は途中まで同じ方向だったため、航平と並んで歩いていた。
学校帰りの生徒たちが、友人と話しながら通り過ぎていく。
自転車のベルが鳴り、遠くから車の走る音が聞こえた。
「そういえば、今日の進路希望調査、もう書いた?」
結衣が尋ねた。
「まだ。早坂さんは?」
「私も、まだ考えているところ。やりたいことはいくつかあるんだけど、ひとつに決めるのは難しいね」
「……そうだよな」
「航平くんは、小説家になりたいの?」
まっすぐに尋ねられ、航平は歩く速度をほんの少し落とした。
「……分からない」
「そっか」
結衣は、それ以上急かさなかった。
「好きだから書いているけど、それを仕事にしたいのかって聞かれると、まだ答えられないんだ」
「うん」
「物語を書くのは好きだよ。でも、自分の書いたものを誰かに読んでもらうのは、少し怖い」
口にしてから、航平は意外に思った。
そんなことまで話すつもりではなかったのに。
結衣は、彼の方を向いた。
「どうして怖いの?」
「……自分の考えていることまで、見られるような気がするから」
「考えていること?」
「登場人物の気持ちとか、結末とか。どうしてそういう話を書くのか、とか」
航平は苦笑した。
「変だよな。読んでもらいたいと思って書いてるのに、読まれるのが怖いなんて」
「変じゃないと思うよ」
結衣の返事は、思っていたよりも早かった。
「自分の大切なものを誰かに見せるのって、勇気がいるでしょう?」
航平は黙って彼女を見た。
「私も、何かを本気で好きだって言うのは、少し恥ずかしいよ。相手に理解してもらえなかったら、どうしようって思うこともあるし」
「……早坂さんでも?」
「私でも、だよ」
結衣は笑った。
「だから、航平くんが怖いと思うのも、別におかしくないと思う。でも……」
彼女は少しだけ歩調を緩めた。
「私は、航平くんが書いた物語を読めてよかったって思ってるよ」
その言葉は、穏やかだった。
特別な励ましでもなければ、何かを変えるための約束でもない。
ただ、結衣が本当にそう思っていることを、そのまま伝えてくれた言葉だった。
航平は、胸の奥に生まれた感情をどう扱えばいいのか分からなかった。
嬉しい。
たぶん、それが一番近い。
けれど、それだけではないような気もした。
「……ありがとう」
今度は、さっきよりも自然に言えた。
「どういたしまして」
結衣は、いつもの明るい笑顔を見せた。
分かれ道に着くと、彼女は立ち止まった。
「じゃあ、また明日ね、航平くん」
「うん。また明日、早坂さん」
結衣は軽く手を振り、帰り道を歩いていった。
航平は、その背中が人混みに紛れるまで見送った。
それから、自分の帰る方向へ向き直る。
――また明日。
たったそれだけの言葉だった。
昨日までなら、友人と別れるときに何度も使っていた言葉だ。
なのに、今日は少しだけ違って聞こえた。
明日、彼女に会える。
そのことを、当たり前のように楽しみにしている自分がいる。
航平は空を見上げた。
夕方の雲が、薄い橙色に染まっていた。
*
帰宅後。
夕食を終え、自室に戻った航平は、机の上にノートを広げた。
進路希望調査の用紙は、まだ空欄が残っている。
けれど、今はそれを考える前に、書いておきたいことがあった。
ペンを持ち、今日一日のことを思い返す。
駿の騒がしい声。
明里の呆れた顔。
蒼太の何気ない一言。
藤本先生から聞いた、将来についての話。
そして、放課後に結衣と交わした会話。
どれも、物語にするほど特別な出来事ではないのかもしれない。
少なくとも、これまでの航平なら、そう考えていた。
悲しい結末へ向かう物語を書くなら、重要なのは、登場人物を待ち受ける悲劇の方だと思っていた。
だからこそ、そこへ至るまでの日常は、必要な分だけ描けばいい。
そう考えていたはずだった。
けれど、今は少し違う。
登場人物が何を好きなのか。
誰と笑い、何を大切にしているのか。
どんな言葉を交わし、どんな時間を過ごしてきたのか。
そういうものがあるから、物語の中の誰かを、もっと知りたいと思えるのかもしれない。
航平はノートに一行を書いた。
――何でもない一日を、誰かと覚えていたいと思った。
ペン先が止まる。
しばらく考えたあと、その下にもう一行を書き加えた。
――明日も会いたいと思える人がいることは、きっと小さな幸せなのだろう。
書き終えた瞬間、航平は目を瞬いた。
「……何を書いてるんだ、俺は」
思わず呟く。
今までなら、こんな文章は少し気恥ずかしくなって消していたかもしれない。
けれど、今回は消さなかった。
ノートを閉じる前に、彼はもう一度その二行を読み返した。
そして、土曜日に結衣と出かけたときの写真を思い出す。
あの時間を、また過ごしたい。
今度は別の本屋でもいい。
本を読んだ感想を話すだけでもいい。
彼女が笑って、自分も笑う。
そんな時間が、もう一度あったらいいと思った。
それは、物語の結末を変えるような大きな願いではない。
ただ、明日が来るのを少しだけ楽しみにするような、小さな願いだった。
航平は机の上を片づけ、明日の準備を始めた。
鞄に教科書を入れ、進路希望調査の用紙をファイルに挟む。
それから、結衣に勧められた本を、机の端にそっと置いた。
また彼女と話すために。
次に読む本を選んでもらうために。
そして、彼女が好きだと言った物語のことを、もう少し知るために。
窓の外では、夜が静かに深まっていた。
航平は明日の予定を確認し、スマートフォンを手に取る。
結衣とのメッセージ画面を開くと、しばらく文章を考えた。
何度か打ち直したあと、ようやく短いメッセージを送った。
『勧めてくれた本、読み終わったよ。面白かった。ありがとう』
送信したあと、航平はスマートフォンを机に置いた。
すぐに返事が来るとは限らない。
そう思っていたのに、数分もしないうちに画面が光った。
『本当? よかった! どの場面が好きだった?』
続けて、もう一通。
『今度、詳しく聞かせてね!』
航平は画面を見つめ、思わず笑みをこぼした。
『うん。また学校で』
短く返してから、彼はスマートフォンを伏せた。
たった数行のやり取り。
それだけなのに、明日の学校が少しだけ楽しみになった。
航平はまだ、その気持ちに名前を付けられない。
結衣に会いたいと思う理由も、彼女の言葉を何度も思い返してしまう理由も、はっきりとは分からない。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
悲しい結末を書くことしか考えていなかった少年は、いつの間にか、次の日のことを楽しみにするようになっていた。
そして、彼の物語にはまだ書かれていない時間が、少しずつ増え始めていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第九話では、休日を一緒に過ごした航平と結衣が、再び学校で顔を合わせました。
友人たちとの賑やかな会話や進路についての悩み、そして放課後に交わした何気ない言葉。
大きな事件が起こったわけではありませんが、航平は結衣の言葉を通して、自分がこれまで見過ごしてきた日常の大切さに気づき始めています。
誰かの好きなものを知りたいと思うこと。
自分の好きなものを、誰かに理解してもらえること。
そして、また明日会えることを楽しみにすること。
そんな小さな出来事が、二人の物語を少しずつ変えていきます。
まだ、二人の関係に名前はありません。
けれど、名前が付く前だからこそ生まれる気持ちもあるのかもしれません。
これから航平と結衣、そして二人を取り巻く友人たちが、どんな時間を重ねていくのか。
引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。




