第十話 君が笑った理由
結衣に勧められた本を読み終えた航平は、何気ない日常にも大切なものがあるのだと、少しずつ気づき始めていました。
けれど、誰かと過ごす時間の中で、自分がどんな顔をしているのかまでは分かりません。
授業中の小さな出来事をきっかけに、航平は結衣の意外な一面を知ることになります。
そして、友人たちと交わす賑やかな会話の中で、二人の距離もまた、ほんの少しだけ変わっていくのでした。
月曜日の翌朝。
水野航平が教室へ入ると、窓際の席で数人のクラスメイトが週末の話をしていた。
「それでさ、結局どっちの店に行ったんだ?」
「駅前の方。思ってたより混んでたけど、ケーキはおいしかったよ」
「いいなあ。私も行けばよかった」
そんな会話が、教室のあちこちから聞こえてくる。
誰かにとっては、昨日食べたケーキの話。
誰かにとっては、部活動で失敗した話。
そして誰かにとっては、これから始まる一日の話だった。
航平は自分の席に鞄を置き、窓の外へ目を向けた。
春の空はよく晴れている。
校庭では、体育の授業に使う道具を運んでいる生徒たちがいた。グラウンドの端では、運動部の生徒が朝練習の片づけをしている。
いつもと変わらない朝。
けれど、昨日の夜に結衣と交わしたメッセージを思い出すと、自然と口元が緩んだ。
『今度、詳しく聞かせてね!』
彼女の言葉が、まだ頭に残っている。
「……何をにやけてんだ?」
不意に、背後から声がした。
振り返ると、駿が立っていた。
「にやけてない」
「いや、今ちょっと笑ってただろ」
「普通に外を見てただけだよ」
「窓の外に何があるんだ?」
「空」
「知ってるわ!」
駿が大げさに肩を落とした。
「お前、最近、俺への返しが冷たくないか?」
「昔からだろ」
「ひどい!」
「朝から元気ね、佐久間」
明里が二人の横を通り過ぎながら言った。
「元気じゃない。俺は今、友情の危機に直面している」
「それなら、まず自分の声量を改善したら?」
「声量と友情に何の関係があるんだよ!」
「朝から騒がしいと、友達が減るかもしれないってこと」
「成瀬、お前は俺の友達だろ!?」
「今、少し考え直しているところ」
「裏切り者!」
そのやり取りを聞いて、航平はとうとう笑ってしまった。
駿がすかさず指を差す。
「ほら! 今、絶対に笑った!」
「……お前たちの会話が面白かっただけだよ」
「つまり俺のおかげだな!」
「どうしてそうなるんだ」
「笑いを提供するのも、友人の重要な役割だからな」
「自分で言うことじゃないでしょう」
明里の冷静な指摘に、今度は蒼太が小さく笑った。
航平も笑いながら、ふと思う。
こんなふうに、理由もなく笑うことがある。
誰かが面白いことを言ったから。
友人がくだらないことで言い争っているから。
ただ、その場にいることが楽しいから。
今までだって、同じように笑っていたはずだ。
それなのに最近は、そうした瞬間を以前よりも意識するようになっていた。
何でもない時間にも、残しておきたいものがある。
それを教えてくれたのは、たぶん――。
「水野?」
「……ん?」
駿の声で我に返る。
「また考え事か?」
「いや。何でもない」
「本当かあ?」
「本当だよ」
駿はまだ疑っているようだったが、始業のチャイムが鳴ったため、それ以上は追及しなかった。
航平は教科書を取り出し、黒板へ向き直った。
今日も、いつもと同じ一日が始まる。
けれど、その一日の中で何が起こるのかは、まだ誰にも分からなかった。
*
一時間目は、国語だった。
藤本先生が教壇に立ち、教科書を開くように指示する。
「今日は、この短編の読解を進める。すでに読んできた者もいると思うが、登場人物の行動だけでなく、その行動に至った理由も考えてみてほしい」
黒板に、作品の題名と登場人物の名前が書かれていく。
物語は、ある少年が友人と喧嘩をしたまま、仲直りできずに卒業を迎えようとする話だった。
少年は何度も謝ろうとする。
しかし、相手に拒絶されることが怖くて、結局何も言えない。
卒業式の日、少年は友人を見つけるものの、声を掛けることができなかった。
そして物語は、少年が一人で校門を出る場面で終わる。
「では、ここで質問だ」
藤本先生が教科書を閉じた。
「この物語の結末を、君たちはどう思う?」
教室が静かになる。
すぐに手を挙げる生徒はいなかった。
「悲しい結末だと思います」
最初に答えたのは、窓際に座る男子生徒だった。
「仲直りする機会があったのに、結局何もできなかったからです」
「なるほど。ほかには?」
別の生徒が手を挙げた。
「でも、相手にも事情があるかもしれないし、謝れば必ず仲直りできるわけじゃないと思います」
「それも一つの考え方だな」
藤本先生は頷いた。
「では、水野。お前はどう考える?」
突然名前を呼ばれ、航平は顔を上げた。
「……俺ですか?」
「そうだ。物語を書くことが好きなお前なら、何か考えがあるかもしれないと思ってな」
教室の視線が集まる。
航平は少しだけ考えた。
この物語の少年は、最後まで友人に声を掛けられなかった。
その理由は、臆病だったからだろうか。
それとも、相手のことを考えすぎてしまったからだろうか。
あるいは、謝ることよりも、拒絶されないことを優先してしまったのだろうか。
「……俺は、悲しい結末だと思います」
航平はゆっくりと答えた。
「ただ、少年が何もしなかったことだけが、悲しい理由じゃないと思います」
「というと?」
「謝りたいと思っていた時間も、相手に何を言うか考えていた時間も、少年にとっては本当の気持ちだったはずです。でも、それを相手に伝えないまま終わってしまった。だから……」
言葉を探す。
「自分の中にあった気持ちが、最後まで相手に届かなかったことが、悲しいんだと思います」
藤本先生は、しばらく航平を見つめていた。
「なるほど。気持ちが存在することと、それが相手に伝わることは、必ずしも同じではないということだな」
「……はい」
「いい意見だと思う。では、もしお前がこの物語を書くとしたら、結末を変えるか?」
航平は口を開きかけた。
すぐに答えは出てこなかった。
これまでなら、きっと変えなかっただろう。
少年は後悔を抱えたまま卒業し、その思いを胸にしまって生きていく。
それもまた、人生の一つの形だからだ。
けれど、今は少し違うことを考えていた。
「……変えるかもしれません」
「どんなふうに?」
「仲直りできるかどうかは、分からないです。でも、最後に一度だけでも、少年が自分の気持ちを伝えられる場面を書きたいと思います」
藤本先生は頷いた。
「相手が受け入れてくれるかどうかと、自分の気持ちを伝えることは、別の問題だからな」
航平はその言葉を、頭の中で繰り返した。
気持ちを伝えること。
相手がどう受け取るかは、相手にしか決められない。
だからこそ、伝えること自体には意味がある。
そう考えたことは、今まであまりなかった。
「では、今日の授業の最後に、この物語の別の結末を考えてもらおう。元の結末を否定する必要はない。自分ならどう描くのか、自由に考えてみてくれ」
教室に、鉛筆の音が広がった。
航平もノートを開いた。
別の結末。
どんな言葉を書けばいいのだろう。
少年が友人に謝る。
友人がそれを受け入れる。
二人は笑い合い、何事もなかったように別れる。
けれど、それでは簡単すぎる気がした。
相手が許してくれない可能性もある。
言葉を交わしても、以前の関係には戻れないかもしれない。
それでも、自分の気持ちを伝える。
航平は、ノートの端に一文を書いた。
――少年は、返事がもらえるかどうかを確かめるためではなく、自分が本当に伝えたかった言葉を届けるために、最後の一歩を踏み出した。
書き終えたところで、ふと前の席が気になった。
結衣が、真剣な顔でノートに何かを書いている。
彼女もまた、自分なりの結末を考えているのだろう。
その横顔を見ていると、航平は不意に、彼女ならどんな結末を書くのか知りたくなった。
「水野。手が止まっているぞ」
藤本先生の声が飛んできた。
「すみません!」
慌ててノートに目を戻す。
教室のどこかで、小さな笑い声が聞こえた。
航平は耳が熱くなるのを感じながら、再びペンを動かした。
*
授業の終わり。
藤本先生が、生徒たちに書いた結末を発表するよう促した。
何人かの生徒が、それぞれ違う物語を語った。
少年が友人を追いかけて謝る結末。
友人もまた謝りたかったことに気づく結末。
仲直りはできなくても、最後に笑顔で別れる結末。
どれも同じ物語から生まれたものなのに、書き手によって結末は大きく変わっていた。
「では、最後に早坂」
名前を呼ばれた結衣が、少し驚いて顔を上げる。
「はい」
「お前の考えた結末を聞かせてくれ」
結衣はノートを見てから、ゆっくりと立ち上がった。
「私が考えたのは……少年が、友人に謝ろうとするところまでは同じです。でも、相手がすぐに許してくれるかどうかは、書きませんでした」
「ほう?」
「少年は、自分の気持ちを伝えます。友人は何も答えないかもしれないし、怒るかもしれない。それでも少年は、最後に一つだけ、ありがとうって言うんです」
結衣は、ノートに視線を落とした。
「友人と過ごした時間が楽しかったこと。喧嘩をしたことを後悔していること。仲直りしたいと思っていたこと。そういう気持ちを、ちゃんと伝えられたから」
少しだけ息を吸う。
「たとえ二人が前と同じ関係に戻れなくても、一緒に過ごした時間まで、なかったことにはならないと思うんです」
教室が静かになった。
結衣は照れくさそうに笑った。
「……以上です」
藤本先生は、ゆっくりと頷いた。
「ありがとう。関係がどう変わるかだけでなく、それまでに過ごした時間にも目を向けたわけだな」
「はい」
「それも大切な視点だと思う」
結衣が席に座ると、航平はノートを見つめたまま動かなかった。
一緒に過ごした時間まで、なかったことにはならない。
その言葉が、胸の奥に残っていた。
誰かと出会い、同じ時間を過ごし、そしていつか別れる。
そのとき、関係がどう変わったとしても、共に過ごした時間は消えない。
だからこそ、人は誰かと過ごした時間を大切にするのだろうか。
航平は、答えの出ない問いを心の中に残した。
そして、ほんの少しだけ、結衣のことを知りたいと思った。
彼女は、どうしてそう考えたのだろう。
どうして、物語の中の登場人物たちが過ごした時間を、そんなにも大切に思えるのだろう。
それを聞いてみたい。
今までなら、わざわざ誰かに尋ねようとは思わなかったことだった。
*
二時間目と三時間目が終わり、昼休みになった。
駿が弁当箱を持ち上げながら、航平の席へやって来た。
「なあ、水野。さっきの授業、何か妙に真剣だったな」
「授業なんだから、真剣に受けるだろ」
「いや、いつも以上にってこと」
「そうか?」
「そうだよ。特に早坂さんの発表を聞いてるとき」
航平の箸が止まった。
「……何を見てたんだよ」
「お前の顔」
「人の顔ばかり見てるな」
「友人観察は大切な趣味だからな」
「そんな趣味、今すぐやめろ」
「残念ながら、やめる予定はない!」
「誇らしげに言わないで」
明里が椅子を引き、航平たちの近くに座った。
蒼太も弁当を持ってきて、いつものように机を寄せる。
「それで、今日の授業だけど」
蒼太が話題を変えた。
「同じ物語でも、結末がずいぶん変わるものだな」
「まあ、書く人が違えば考え方も違うからな」
駿が唐揚げを頬張る。
「俺なら、最後に友人が突然海外へ旅立つ展開にする!」
「何でだよ」
「驚きが必要だろ!」
「授業の課題に驚きはいらないわよ」
明里が即座に切り捨てた。
「じゃあ、友人が実は大富豪の御曹司だったっていうのは?」
「もっといらない」
「二人とも、物語をどうしたいんだよ……」
航平が呆れると、蒼太が静かに言った。
「でも、佐久間の案も、書き方によっては面白くなるかもしれない」
「だろ!?」
駿が身を乗り出した。
「蒼太、お前は分かってるな!」
「ただし、今回の課題とは別の話だ」
「最後に余計な一言を付けるな!」
明里が笑い、航平も笑った。
昼食を食べながら、話題は授業から進路、部活動、最近見た映画へと移っていった。
蒼太は、将来についてまだ迷っているものの、文章を書くことや本を読むことに関わる仕事にも興味があるらしいと話した。
「へえ。蒼太も本が好きなんだな」
航平が言うと、蒼太は肩をすくめた。
「好きというより、読むのが苦じゃないだけだ。長い文章を読むのは、そこまで疲れない」
「それ、十分に長所だと思うけど」
明里が言った。
「そうかな」
「そうよ。得意なことって、自分では当たり前だと思っていることも多いから」
「成瀬、お前、急にいいこと言うじゃん!」
駿が感心したように声を上げる。
「急にって何よ」
「いや、普段は俺への攻撃ばかりだから」
「それはあなたが攻撃されるようなことばかりするからでしょう」
「ほら、やっぱり!」
「佐久間、話が進まないから少し黙って」
蒼太が淡々と言った。
「お前まで俺を黙らせようとするのか!?」
「昼食を食べているだけだ」
「それが一番強い反論だな……」
航平は笑いながら、弁当の最後のおかずを口に運んだ。
こうして友人たちと過ごしていると、会話は次々と変わっていく。
真面目な話をしていたかと思えば、すぐにくだらない冗談が始まる。
誰かが失敗をすれば笑い、誰かが困っていれば、文句を言いながらも手を貸す。
そんな関係が、航平には心地よかった。
ふと、結衣がこの輪の中にいたら、どんなふうに話すのだろうと思った。
駿の冗談に笑うだろうか。
明里と一緒になって駿をからかうだろうか。
それとも、蒼太と静かに話すのだろうか。
考えていると、駿がこちらを覗き込んだ。
「……水野?」
「何だよ」
「また早坂さんのこと考えてた?」
「考えてない!」
反射的に答えてしまった。
三人の視線が集まる。
「……今のは、ちょっと怪しいわね」
明里が言った。
「だろ!?」
駿が勢いよく頷く。
「お前、分かりやすすぎるぞ!」
「だから、違うって!」
「じゃあ、何を考えてたんだ?」
蒼太まで尋ねてきた。
航平は口を閉じた。
友人たちに、何を考えていたのか説明するのは難しい。
結衣と仲良くなりたいと思っている。
彼女の好きな本を知りたい。
どんなことに笑い、何を大切にしているのかを知りたい。
そういう気持ちを、わざわざ言葉にして説明するのは、まだ少し恥ずかしかった。
「……お前たち、昼飯を食べることに集中しろよ」
結局、そう言うしかなかった。
駿は声を上げて笑った。
「はいはい! 分かったよ!」
明里は呆れながらも、楽しそうに笑っていた。
蒼太は何も言わず、弁当箱の蓋を閉じた。
航平も、つられて笑った。
*
昼休みの終わりが近づいた頃、航平は教室の外へ出た。
飲み物を買いに行くつもりだったが、廊下の窓際で立ち止まった。
窓の向こうには、中庭が見える。
植え込みの近くで、数人の生徒が楽しそうに話していた。
風が吹くたび、木々の葉が小さく揺れている。
「水野くん?」
声を掛けられ、振り返った。
結衣が立っていた。
手には、小さなノートを持っている。
「早坂さん。どうしたの?」
「ちょっと、教室の外で風に当たろうと思って」
彼女は窓の外を見た。
「今日は暖かいね」
「そうだね」
短い会話のあと、二人は並んで窓の外を眺めた。
教室の中から、駿の大きな声が聞こえてくる。
何かを主張しているらしいが、内容までは分からなかった。
結衣がくすりと笑う。
「水野くんのクラスって、楽しそうだね」
「……うるさいだけだよ」
「ふふ。でも、楽しそう」
航平は少し考えてから頷いた。
「まあ、楽しいよ。佐久間は騒がしいし、成瀬は佐久間に厳しいし、橘はいつも冷静だけど」
「仲がいいんだね」
「長い付き合いだから」
「いいなあ」
結衣は、ほんの少しだけ声を柔らかくした。
「私も、そういう友達との時間って好きだよ。一緒にいるだけで楽しいって思える関係」
「早坂さんにも、そういう友達がいるんだ?」
「うん。クラスにもいるし、別のクラスにも。いつも一緒にいるわけじゃないけど、会えば普通に話せる友達がいるよ」
「そっか」
航平は、彼女が持っているノートに目を向けた。
「それ、何?」
「これ?」
結衣はノートを胸の前に持ち上げた。
「授業で書いた、別の結末」
「……ああ」
「まだ、ちゃんとまとまってないんだけどね」
「見せてもらってもいい?」
尋ねてから、航平は少しだけ驚いた。
自分から誰かの書いたものを読みたいと言うのは、珍しいことだった。
結衣も意外だったのか、目を丸くした。
「私の?」
「うん。どんなふうに書いたのか、気になって」
結衣はノートを開き、少し考えてから差し出した。
「……じゃあ、途中までだけど」
航平は、彼女の許可を得てノートに目を落とした。
そこには、授業で話した結末が、短い文章として書かれていた。
少年が友人のもとへ歩いていく。
謝ろうとして、何度も言葉に詰まる。
それでも最後には、伝えたいことを口にする。
友人はすぐには答えない。
少年は、その沈黙を受け止めながら、最後にありがとうと伝える。
そして、二人は別々の方向へ歩き始める。
元の関係に戻れたかどうかは、書かれていなかった。
ただ、少年が一度だけ振り返り、友人が歩いていく姿を見つめる場面があった。
航平は最後まで読み、ノートを閉じた。
「……いいと思う」
「本当?」
結衣の顔が明るくなる。
「うん。すぐに仲直りできるわけじゃないところが、特に」
「そこ、少し悩んだんだ」
結衣はノートを受け取りながら言った。
「仲直りできた方が、読んでいて嬉しいのかもしれない。でも、相手がどう思っているかは、少年には分からないでしょう?」
「そうだね」
「だから、最後まで分からないままにしてみたの。少年が伝えたことと、友人がどう受け止めるかは、別のことだから」
航平は、朝の授業で聞いた自分の言葉を思い出した。
気持ちが存在することと、それが相手に伝わることは、必ずしも同じではない。
二人は、似たことを考えていたらしい。
「……早坂さんって、物語を書くのが好きなの?」
航平が尋ねると、結衣は首を傾げた。
「どうだろう。自分で書くのは、そんなに得意じゃないよ。読む方が好き」
「そうなんだ」
「でも、読んでいると、こんな展開だったらいいなとか、この人は本当はこう思っているんじゃないかなとか、いろいろ考えちゃうんだ」
彼女は照れくさそうに笑った。
「だから、授業で別の結末を考えるのは楽しかったよ」
「……なるほど」
航平は、結衣のノートをもう一度見た。
文章は決して長くない。
けれど、彼女が何を大切にしているのかは、伝わってきた。
誰かの気持ちを、勝手に決めつけないこと。
それでも、自分の気持ちは伝えてみること。
そして、二人が過ごした時間を、なかったことにしないこと。
「……早坂さんの考え方、好きだな」
言った瞬間、航平は固まった。
結衣も、ぴたりと動きを止めた。
「え……?」
「いや、その……」
航平は慌てて言い直した。
「物語の考え方が、って意味で!」
「……あ、うん!」
結衣は少し頬を赤くしながら、何度も頷いた。
「分かってるよ。うん、分かってる!」
けれど、彼女の耳も赤くなっていた。
航平は窓の外へ視線を逸らした。
どうして、あんな言い方をしてしまったのだろう。
別に、間違ったことを言ったわけではない。
本当に、彼女の考え方が好きだと思ったのだ。
ただ、その言葉が思っていた以上に直接的だったことに、今さら気づいた。
「……そろそろ、教室に戻ろうか」
航平が言うと、結衣は小さく頷いた。
「うん」
二人は並んで歩き始めた。
廊下の向こうから、予鈴が聞こえてくる。
会話は途切れていたが、さっきまでの沈黙とは少し違っていた。
お互いに、何かを意識している。
それが何なのか、まだ二人とも、はっきりとは分からなかった。
*
午後の授業が終わる頃には、空に薄い雲が広がっていた。
教室では、部活動へ向かう生徒たちが慌ただしく帰り支度をしている。
駿は鞄を持ち上げ、航平の机を軽く叩いた。
「水野、今日は一緒に帰るぞ」
「今日は、って……いつも一緒に帰ってるだろ」
「細かいことは気にするな。友情を深めるための提案だ」
「お前、友情を深めるためなら何でも理由にするな」
「当然だ!」
「当然じゃないわよ」
明里が呆れた顔で割って入る。
「私は今日は委員会があるから先に行くけど、佐久間、帰りに課題を忘れないようにね」
「分かってるって!」
「本当に?」
「……たぶん」
「ほら、もう怪しい」
明里はため息をつき、教室を出ていった。
蒼太は、そんな三人を眺めながら鞄を肩に掛けた。
「俺も今日は寄るところがあるから、先に帰る」
「おう。また明日な」
航平が答えると、蒼太は軽く手を振った。
駿と航平も教室を出た。
階段を下りながら、駿がふと思い出したように尋ねる。
「そういえば、水野」
「何だよ」
「早坂さんとは、今度も出かけるのか?」
航平は足を止めそうになった。
「……まだ決まってないよ」
「そっか」
駿は、意外にもそれ以上からかわなかった。
「まあ、また行きたいなら誘ってみればいいんじゃないか?」
「……」
「相手だって、楽しかったなら、また行きたいと思うかもしれないだろ」
駿は前を向いたまま言った。
いつもの大げさな口調ではなかった。
ただ、友人として、ごく自然に話しているようだった。
航平は少しだけ驚いた。
「……佐久間って、そういうことも言えるんだな」
「おい。俺を何だと思ってるんだ!」
「騒がしいやつ」
「そこは否定できないけど、ほかにもあるだろ!」
「唐揚げに弱い」
「それは関係ない!」
駿が声を上げ、航平は笑った。
二人は校門を出て、駅へ向かう道を歩き始めた。
夕方の街には、学校帰りの生徒や買い物をする人々の姿があった。
横断歩道の信号が赤になり、二人は立ち止まる。
駿は、ふと真面目な顔をした。
「なあ、水野」
「今度は何だよ」
「お前が誰かと仲良くなるの、俺はいいことだと思ってるぞ」
航平は、すぐに返事ができなかった。
駿は照れ隠しのように鼻をこすった。
「別に、今まで友達がいなかったって話じゃないけどさ。お前って、自分のことをあんまり話さないだろ」
「……そうかな」
「そうだよ。小説の話ならいくらでもするくせに、自分がどう思ってるかって話になると、急に黙る」
「……」
「だから、早坂さんと話すことで、お前が少しでも自分のことを話せるようになったらいいんじゃないかって思っただけ」
信号が青に変わった。
駿は歩き出しながら、いつもの調子で付け加えた。
「まあ、恋愛に発展するなら、なおさら面白いけどな!」
「結局そこかよ!」
「当然だろ!」
航平は呆れながらも、笑ってしまった。
駿の言葉が、胸の中に残っていた。
自分のことを話さない。
確かに、そうかもしれない。
物語の中なら、登場人物の気持ちを考えられる。
けれど、自分の気持ちとなると、途端に言葉が見つからなくなる。
結衣と話していると、そんな自分でも、少しずつ言葉にできることがある。
それが、どうしてなのか。
まだ、よく分からなかった。
*
夜。
自室の机に向かった航平は、今日の授業で書いたノートを開いていた。
国語の課題として考えた、別の結末。
そして、その下に書き足した短いメモ。
彼はしばらく考えたあと、ノートの新しいページを開いた。
物語の冒頭を書くつもりだった。
いつものように、登場人物の名前を決め、舞台を考え、最後に何が起こるのかを想像する。
しかし、今日はなかなか書き始められなかった。
頭に浮かぶのは、結衣の声だった。
『一緒に過ごした時間まで、なかったことにはならないと思うんです』
彼女は、どうしてあんなふうに言えたのだろう。
別れを恐れずにいられるのだろうか。
それとも、別れがあるからこそ、今を大切にしたいと思っているのだろうか。
航平には、分からなかった。
けれど、知りたいと思った。
彼女のことを、もっと。
何が好きなのか。
何を見て笑うのか。
どんなことに悩み、何を大切にしているのか。
物語を読むだけでは分からない、彼女自身のことを。
航平はペンを持ち直した。
そして、ようやく一文を書いた。
――少年は、少女が笑った理由を知りたいと思った。
書き終えてから、航平はしばらくその一文を見つめた。
物語の中の少年は、まだ何も知らない。
少女が何を考え、何を大切にしているのか。
ただ、彼女が笑ったとき、その理由を知りたいと思った。
それだけだった。
航平は、ペンを机に置いた。
「……これ、俺の話みたいだな」
小さく呟いてから、苦笑した。
偶然だろう。
たまたま、今日の出来事が頭に残っていただけだ。
そう思おうとした。
けれど、ノートを閉じることはできなかった。
自分が書いた一文を、もう一度読み返す。
少女が笑った理由を知りたい。
それは、物語を書くためだけの気持ちなのだろうか。
答えは出なかった。
航平は、机の端に置いてあったスマートフォンを手に取った。
結衣とのメッセージ画面を開く。
最後のやり取りは、昨夜の本の感想だった。
何か送ろうかと考えたが、今は特に用事がない。
それでも、画面を閉じる前に、今日の放課後のことを思い出した。
彼女のノートを読ませてもらったこと。
自分の言葉に、彼女が少しだけ頬を赤くしたこと。
そして、二人で並んで教室へ戻ったこと。
思い返すと、胸の奥がまた温かくなった。
航平はスマートフォンを置き、ノートに向き直った。
まだ、物語の続きを書くことはできない。
けれど、明日になれば、また彼女に会える。
そのときは、今日よりも少しだけ、彼女のことを知れるかもしれない。
そう考えると、自然と続きを書きたい気持ちが湧いてきた。
航平は新しい一行を書いた。
――知りたいと思うことから、物語は始まるのかもしれない。
ペン先が止まる。
窓の外では、静かな夜が広がっていた。
悲しい結末を書くことしか考えていなかった少年は、今、自分がまだ知らない誰かのことを知りたいと思っている。
それがどんな物語につながるのか、彼にはまだ分からない。
ただ、明日が来るのを楽しみにしていた。
そして、その明日にはきっと、今日とは違う小さな出来事が待っている。
そう思いながら、航平はノートを閉じた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第十話では、国語の授業をきっかけに、航平と結衣が物語の結末について、それぞれの考えを語りました。
二人の考え方には似ているところがあります。
けれど、航平はまだ、自分の気持ちを言葉にすることが得意ではありません。
だからこそ、結衣の言葉や表情に触れるたび、彼の中には新しい疑問が生まれていきます。
そして今回は、駿のいつもとは少し違う一面も描きました。
冗談ばかり言っているように見える彼も、友人のことをきちんと見ています。明里や蒼太も含め、それぞれが違う形で航平を支えているのです。
誰かを知りたいと思うこと。
その人が笑った理由を、もっと知りたいと思うこと。
それは、まだ恋と呼べるものではないかもしれません。
けれど、航平の中で何かが少しずつ動き始めているのは、確かなのでしょう。
これからも、二人と友人たちが過ごす何気ない日々を、見守っていただけたら嬉しいです。




