第十一話 一冊の本から始まる会話
結衣が笑った理由を、もっと知りたい。
そう思い始めた航平でしたが、誰かを知る方法は、特別な会話だけではありません。
好きな本を紹介すること。意見が違っても、一緒に考えること。失敗を笑い合い、困ったときには助け合うこと。
そんな何気ない時間の中で、航平は結衣の新しい一面と、友人たちの意外な一面を知っていきます。
水曜日の朝。
水野航平が教室に入ると、黒板の隅に見慣れない文字が書かれていた。
『図書委員会からのお知らせ――おすすめ本紹介コーナー』
その下には、今週の金曜日までに紹介したい本を一冊選び、短い推薦文を提出すること、と書かれている。
「……おすすめ本か」
航平は足を止めた。
本を読むことも、物語を書くことも好きだ。紹介したい本なら、いくつか思い浮かぶ。
ただ、自分の好きなものを人に勧めるとなると、少し考えてしまう。
どこが面白いのか。
何を伝えれば、その本を知らない人にも興味を持ってもらえるのか。
そして、もし相手が面白くないと感じたら。
そこまで考えたところで、航平は小さく息を吐いた。
「朝から黒板とにらめっこか?」
背後から声がして、振り返る。
佐久間駿だった。
「何を考えてたんだ?」
「おすすめ本のこと」
「ああ、これか。俺も見たぞ」
駿は黒板を見上げた。
「推薦文って、どのくらい書けばいいんだろうな。『面白いので読んでください』でいいか?」
「それは推薦文というより感想だろ」
「面白いという感想を伝えているんだから、間違ってはいない!」
「説明が雑すぎる」
「なら、『とても面白いので、ぜひ読んでください』!」
「文字数が増えただけじゃないか」
「水野、お前は俺の創作意欲を否定するのか!」
「創作意欲という言葉をそんなに軽く使うな」
航平が呆れていると、駿の後ろから成瀬明里が顔を出した。
「推薦文を書く前に、まず本を選びなさいよ。あなた、最近まともに本を読んでいるの?」
「読んでるぞ!」
「何を?」
「……漫画」
「小説じゃないのね」
「漫画だって立派な物語だろ!」
明里は一瞬だけ考えた。
「それはそうね」
「おっ、認めたな!」
「でも、今回のコーナーに漫画を出していいかは、図書委員会に確認した方がいいわよ」
「……そこまで考えてなかった」
「でしょうね」
駿は黒板を見つめ、難しい顔をした。
「本を選ぶところから、俺の戦いは始まっているのか……」
「まだ何も始まってないわよ」
二人のやり取りを聞きながら、航平は笑った。
そのとき、教室の入口から橘蒼太が入ってきた。
「おはよう」
「おはよう、橘」
蒼太は黒板を見上げると、少しだけ眉を上げた。
「おすすめ本か。これなら、普段あまり本を読まない人にも興味を持ってもらえるかもしれないな」
「蒼太は何か勧めたい本があるのか?」
航平が尋ねると、蒼太は少し考えた。
「あるにはある。でも、紹介文を書くとなると難しそうだ」
「どうして?」
「面白いと思った理由を、短い文章にまとめるのが苦手なんだ。読んでいるときは気にならなかったのに、いざ説明しようとすると、何を話せばいいのか分からなくなる」
航平は、その気持ちが少し分かる気がした。
好きなものを言葉にするのは、簡単なようで難しい。
「……確かに」
「水野なら得意そうだけど」
「そう見えるだけだよ」
「そうなのか?」
蒼太が不思議そうに首を傾げたところで、始業のチャイムが鳴った。
駿は慌てて自分の席へ戻り、明里も教科書を取り出す。
航平は黒板の文字をもう一度見てから、席に着いた。
どの本を紹介しよう。
そう考えながら、彼は鞄の中に入れていた一冊の本を思い出した。
結衣に勧められた、あの物語。
何でもない日常を描いた、静かな作品。
もし紹介するとしたら、どんな言葉を書けばいいのだろう。
航平は、まだ答えを見つけられないまま教科書を開いた。
*
一時間目の終わり。
藤本先生が教室に入ってくると、いつものように出席を確認したあと、黒板の端に書かれたお知らせについて話し始めた。
「すでに気づいている者もいると思うが、図書委員会が本の紹介コーナーを作るそうだ。各クラスからも推薦文を募集している。興味がある者は、今週中に提出してくれ」
先生は教卓の上に、見本として用意された紹介カードを置いた。
「長い感想文を書く必要はない。どんな本なのか、どこが気に入ったのか、そして、どんな人に読んでほしいのか。その三つを意識すると、書きやすいだろう」
数人の生徒が見本をのぞき込む。
「先生、漫画でもいいんですか?」
駿が手を挙げた。
藤本先生は、少し考えてから答えた。
「今回の募集対象は図書室に所蔵されている本だ。漫画については、図書委員会に確認してみるといい」
「分かりました!」
駿は元気よく返事をした。
「……ただし、佐久間。推薦文を書くなら、内容をきちんと説明できるものを選ぶこと」
「はい!」
「それから、紹介する本を読んだことがない人にも伝わる文章にすること。あらすじを全部書いてしまうと、読む楽しみがなくなるからな」
航平は先生の言葉をノートの端に書き留めた。
読んだことがない人にも伝わる文章。
結末を明かさずに、面白さを伝える。
小説を書くときにも、同じことを考えたことがある。
どこまで説明すれば、読者に伝わるのか。
何をあえて書かずに残せば、読み手が想像できるのか。
自分がいつも書いている悲しい物語なら、結末へ向かう流れを考えることはできる。
けれど、誰かに「読んでみたい」と思ってもらう文章を書くとなると、話は別だった。
「では、今日の授業を始めよう」
先生が教科書を開く。
航平もそれに続いた。
今は授業に集中しよう。
そう思ったものの、頭の片隅には、まだおすすめ本のことが残っていた。
*
昼休み。
いつものように机を寄せて昼食を食べていると、駿が弁当箱を置き、真剣な顔で宣言した。
「俺、決めたぞ」
「何を?」
航平が尋ねる。
「おすすめする本だ!」
「もう決まったのか?」
「もちろん!」
駿は胸を張った。
「ただし、まだ先生に漫画を紹介していいか確認していない」
明里が箸を止めた。
「決まったんじゃなかったの?」
「紹介したい作品が決まったんだ。提出できるかどうかは、これから確認する」
「順番が逆よ」
「大丈夫だ。情熱はある!」
「情熱だけで提出条件は変わらないわよ」
蒼太が弁当を食べながら口を挟んだ。
「まあ、好きなものを紹介したいという気持ちは大事だと思う」
「そうだろ、橘!」
駿は勢いよく蒼太の方を向いた。
「俺は、その作品の良さを全力で伝えるつもりだ!」
「でも、紹介文は短いんだろう?」
「……そこが問題なんだ」
急に声の勢いが弱くなった。
明里は、思わず吹き出した。
「そこまで考えてなかったのね」
「うるさい! 好きな作品の魅力を短い文章で伝えるなんて、難しいに決まってるだろ!」
「それは分かるけど」
航平は、少し考えてから言った。
「まず、どこが一番好きなのか、一つだけ選んでみたらどうだ?」
「一つだけ?」
「うん。全部を伝えようとすると、まとまらなくなるから。例えば、登場人物が好きなのか、物語の展開が好きなのか、それとも読み終えたあとに残る気持ちが好きなのか」
駿は黙り込んだ。
普段なら、すぐに何か言い返してくるはずだった。
それだけ真剣に考えているらしい。
「……なるほど」
やがて、駿が頷いた。
「つまり、最初から全部を語ろうとするなってことか」
「そういうこと」
「よし。なら、俺は登場人物の魅力を伝える!」
「何の作品なのか、まだ知らないけどな」
蒼太が言うと、駿は勢いよく笑った。
「それは提出できると分かってからのお楽しみだ!」
「秘密にする意味ある?」
明里の問いに、駿は答えなかった。
代わりに、航平へ視線を向ける。
「それで、水野。お前は何を紹介するんだ?」
「まだ迷ってる」
「小説を書くくらい本が好きなのに?」
「好きだからこそ、迷うんだよ」
航平は弁当箱の蓋を閉じた。
「自分が面白いと思ったところを、そのまま書けばいいとは限らないだろ。読んだことがない人に、どう伝えればいいのか……」
「じゃあ、早坂さんに聞いてみたら?」
明里が何気なく言った。
航平は顔を上げる。
「……早坂さんに?」
「だって、あなたが最近読んだ本を勧めてくれたのは早坂さんなんでしょう? 読む側の意見を聞いてみればいいじゃない」
「確かに」
蒼太も頷いた。
「自分とは違う視点があるかもしれない」
駿が、にやりと笑った。
「なるほど。つまり、早坂さんと本の話をする口実ができたわけだな」
「……どうして、そうなるんだよ」
「違うのか?」
「本の紹介文について聞きたいだけだよ」
「はいはい」
「その返事をやめろ!」
明里が呆れたように笑った。
「でも、いいんじゃない? せっかくなら、いろいろな人の意見を聞いてみなさいよ」
航平は少し考えた。
結衣に聞いてみる。
それ自体は、難しいことではないはずだった。
彼女は本を読むのが好きで、物語について自分の考えを持っている。
相談すれば、きっと真剣に答えてくれるだろう。
ただ、話しかける理由ができたことを、少し嬉しいと思っている自分がいた。
「……そうするよ」
航平が答えると、駿は満足そうに頷いた。
「よし! これで俺たちの本紹介計画は順調だな!」
「いつから、あなたの計画になったのよ」
明里の声に、昼休みの教室で笑いが起こった。
*
午後の授業が終わると、航平は鞄から一冊の本を取り出した。
結衣に勧められた本だ。
紹介文を書くなら、やはりこれがいいと思った。
派手な展開はない。
誰かが世界を救うわけでも、人生を大きく変える事件が起きるわけでもない。
ただ、登場人物たちが毎日を過ごしている。
一緒に昼食を食べ、何気ない会話を交わし、時にはすれ違いながらも、また次の日を迎える。
以前の航平なら、それだけの物語を紹介したいと思っただろうか。
自信はなかった。
けれど今は、この本が誰かに届いたらいいと思っていた。
「水野くん」
教室の入口から声がした。
顔を上げると、結衣が立っていた。
「早坂さん」
「今、帰るところ?」
「ううん。ちょっと本のことで考えてた」
航平は、机の上の本を持ち上げた。
「おすすめ本の紹介文、これにしようと思うんだけど……」
「わあ、あの本?」
結衣が近づいてくる。
「決めたんだね!」
「うん。でも、どう紹介すればいいか迷ってて」
「よかったら、一緒に考える?」
彼女はごく自然にそう言った。
航平は少し驚いた。
「いいの?」
「もちろん。私もその本が好きだから、どんなふうに紹介するのか気になるし」
結衣は机の横に立ち、本を見つめた。
「どこが一番好きだった?」
その質問に、航平はすぐには答えられなかった。
好きな場面なら、いくつも思い浮かぶ。
主人公が友人と笑い合う場面。
帰り道に、いつもと違う店へ寄る場面。
一人で過ごしていた登場人物が、少しずつ誰かと一緒にいることに慣れていく場面。
どれも、好きだった。
「……難しいな」
航平が正直に言うと、結衣は笑った。
「ふふ。全部好きなんだ?」
「そういうわけじゃ……いや、そうなのかもしれない」
「じゃあ、好きな場面じゃなくて、読み終わったときの気持ちから考えてみたら?」
「読み終わったときの気持ち?」
「うん。例えば、私はこの本を読んだあと、登場人物たちが次の日にどんなことをするのか、気になったんだ」
結衣は窓の外へ目を向けた。
「本を閉じても、物語の中の人たちは、きっとその世界で生活しているでしょう? だから、もう少しだけ一緒にいたいって思ったの」
航平は彼女を見つめた。
もう少しだけ、一緒にいたい。
その言葉が、胸の奥に残った。
物語の登場人物に対してだけではない。
誰かと過ごした時間が終わったあと、もう少しだけ一緒にいたいと思うこと。
それは、どんな気持ちなのだろう。
「……そういう感想なら、書けるかもしれない」
「本当?」
「うん。ありがとう」
結衣は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、少し考えてみようよ」
彼女は近くの机を引き寄せ、椅子に腰を下ろした。
航平も隣の席に座る。
二人で本を開き、ページをめくりながら、紹介文に使えそうな言葉を考え始めた。
*
「『何気ない日常の中に、小さな幸せを見つけられる物語』……とか?」
航平がノートに書いた文章を読み上げると、結衣は少し考えた。
「いいと思う。でも、もう少しだけ、どんな人に読んでほしいのかが分かるといいかも」
「どんな人に……」
「例えば、忙しい毎日を過ごしている人とか。何か特別なことがないと、幸せじゃないって思ってしまう人とか」
「なるほど」
航平は、ノートに新しい言葉を書き加えた。
『何気ない日常の中に、小さな幸せを見つけられる物語。特別な出来事がなくても、誰かと過ごす時間が大切なのだと気づかせてくれます』
読み返すと、悪くないように思えた。
けれど、まだ少しだけ、よそ行きの文章に感じる。
「……これ、俺が書いたっていうより、誰かの感想をまとめたみたいだな」
航平が言うと、結衣はノートをのぞき込んだ。
「そうかな?」
「うん。間違ってはいないんだけど、俺が本当に感じたことが、まだ足りない気がする」
結衣はしばらく考えた。
「じゃあ、水野くんは、この本を読んで、何を思い出した?」
「思い出した?」
「うん。物語を読んでいると、自分の経験を思い出すことってない? 登場人物が誰かと笑っている場面を読んで、自分も友達と笑ったときのことを思い出したり」
航平は、静かに本を閉じた。
思い出したこと。
頭に浮かんだのは、土曜日の昼食だった。
結衣がオムライスの写真を撮っていたこと。
自分がハンバーグの写真を撮り、彼女に笑われたこと。
本屋でどの本を買うか、二人で迷ったこと。
そして、昨日の放課後、窓際で彼女と話した時間。
「……最近のことなら、少し」
「どんなこと?」
結衣は興味深そうに尋ねた。
航平は、少し迷ってから答えた。
「土曜日に、早坂さんと出かけたときのこと」
結衣の手が止まった。
「……私と?」
「うん。本屋に行って、一緒に昼食を食べたでしょう」
「うん」
「別に、特別なことをしたわけじゃないけど……」
航平は言葉を選んだ。
「帰ってからも、何を話したのかとか、どんな本を選んだのかとか、思い出すことがあったんだ。楽しかったから、また行けたらいいなって思った」
話し終えると、急に恥ずかしくなった。
ただの感想を伝えるつもりだった。
それなのに、気づけば、自分の気持ちに近いことまで話してしまっている。
結衣は、しばらく黙っていた。
やがて、頬を少し赤くしながら笑った。
「……私も、楽しかったよ」
「……そっか」
「うん。また一緒に行けたらいいね」
航平は、すぐには答えられなかった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……うん」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
結衣は照れくさそうに視線を落としたあと、ノートを指差した。
「じゃあ、今の気持ちを少しだけ入れてみたら?」
「今の?」
「うん。誰かと過ごした何気ない一日が、あとから大切な思い出になることもあるって。そういうところが、この本の魅力なんじゃないかな」
航平は、ゆっくりと頷いた。
自分が感じたこと。
結衣が感じたこと。
二つを合わせれば、最初よりもずっと自分らしい紹介文になるかもしれない。
彼はノートを開き直し、文章を書き始めた。
『何気ない日常を描いた、静かで温かな物語です。誰かと交わした会話や、一緒に過ごした時間は、そのときには特別に思えなくても、あとから大切な思い出になるのかもしれません。忙しい毎日の中で、身近な幸せを見つけたい人に読んでほしい一冊です』
書き終えた航平は、文章を読み返した。
「……これなら、いいかもしれない」
結衣も、ノートをのぞき込んだ。
「うん。私は好きだよ」
その一言で、航平の表情が少しだけ緩んだ。
「ありがとう。早坂さんのおかげだ」
「そんなことないよ。書いたのは航平くんでしょう?」
「でも、一人だったら、ここまで書けなかったと思う」
結衣は、照れくさそうに笑った。
「……じゃあ、二人で書いた文章ってことにしようか」
「え?」
「もちろん、提出するのは航平くんだけどね」
彼女は楽しそうに付け加えた。
航平も笑った。
「それじゃ、俺がずいぶん得をしてるな」
「いいんじゃない? 私も一緒に考えるのが楽しかったから」
何気ない言葉だった。
けれど、航平はその言葉を覚えておこうと思った。
一緒に考えるのが楽しかった。
彼女も、そう感じてくれた。
それだけで、今日の放課後が少し特別なものになった気がした。
*
「おーい、水野!」
教室の入口から、聞き慣れた声が響いた。
駿だった。
その隣には明里と蒼太もいる。
「何してるんだ? まだ帰ってなかったのか?」
駿が近づいてくると、机の上に広げられた本とノートを見た。
そして、航平と結衣を交互に見つめる。
「……なるほど」
「何がなるほどなんだよ」
「いや、俺は何も言ってないぞ?」
「その顔がうるさいって、前にも言っただろ」
明里がため息をついた。
「佐久間、邪魔しないの。二人とも本の紹介文を考えているんでしょう?」
「分かってるって!」
駿は、ノートをのぞき込んだ。
「へえ、これが推薦文か。なかなかいいじゃないか」
「本当?」
結衣が尋ねると、駿は自信満々に頷いた。
「もちろん! 俺は文章を見る目があるからな!」
「じゃあ、何がよかったの?」
明里が尋ねた。
「……温かいところ?」
「具体的に説明して」
「……読んだら、温かい気持ちになりそうなところ?」
「さっきから同じことしか言ってないわよ」
「うるさい! 感覚で分かるんだ!」
蒼太がノートを読み、静かに口を開いた。
「俺は、最後の一文がいいと思う。どんな人に読んでほしいかが分かるから」
「そうか。ありがとう」
航平は頷いた。
「じゃあ、俺のも見てくれ!」
駿が鞄から一枚の紙を取り出した。
「漫画の紹介文について、図書委員会に聞いてきたんだ。今回は小説や一般書が対象らしい。だから、俺も小説にすることにした!」
「ちゃんと確認したんだ」
明里が少し感心したように言う。
「当然だろ!」
「それで、何を選んだの?」
「……今、考えてる」
「まだ決まってないのか!」
航平が思わず突っ込むと、駿は胸を張った。
「候補はある! だが、まだ運命の一冊に出会っていない!」
「本を運命で選ぶなよ……」
結衣が笑った。
「でも、いろいろな本を見てみるのは楽しそうだね」
「だろ!?」
駿は、すぐに元気を取り戻した。
「よし、今度みんなで図書室に行こうぜ! それぞれが好きな本を紹介し合うんだ!」
「みんなで?」
航平が聞き返す。
「そう。水野は本に詳しいし、早坂さんも本が好きだろ。蒼太も読むし、成瀬だって……」
「私は、そこまで詳しくないわよ」
明里は少し困ったように笑った。
「でも、誰かが好きなものを教えてもらうのは面白そうね」
「決まりだな!」
「まだ日程も決まってないわよ」
「じゃあ、日程も決める!」
駿が勢いよく言い切ると、蒼太が腕時計を見た。
「その前に、今日は帰った方がいい。図書室の閉館時間も近いし」
「……それもそうだな」
駿は、あっさりと納得した。
明里が笑いながら鞄を持ち上げる。
「本当に、思いついたらすぐに行動するんだから」
「行動力があると言ってくれ!」
「計画性がないと言ってるのよ」
「どっちも似たようなものだろ!」
「全然違うわ!」
二人の言い合いが再開する。
結衣は笑いながら、その様子を見ていた。
航平も、自然と笑っていた。
彼女がこの輪の中で笑っている。
それだけのことが、なぜか嬉しかった。
これまでは、結衣と二人で話す時間ばかりを考えていた。
けれど、こうして友人たちと一緒にいる彼女を見るのも、悪くない。
彼女には彼女の友人がいて、好きなものがあって、自分の考えがある。
それを知るたびに、彼女という人間が、少しずつ立体的になっていくような気がした。
「……航平くん?」
結衣に呼ばれ、航平は我に返った。
「どうしたの?」
「ううん。何だか、楽しそうだなって思って」
「……そうかな」
「うん」
結衣は微笑んだ。
「私も楽しいよ」
その言葉を聞いた瞬間、航平はまた少しだけ、胸が温かくなるのを感じた。
*
帰り道。
航平は、駿たちと駅へ向かう途中で、結衣と別れた。
彼女は途中で友人と合流する予定があるらしく、分かれ道で手を振った。
「また明日ね、航平くん」
「うん。また明日」
結衣の姿が遠ざかる。
駿が、隣から顔をのぞき込んだ。
「……水野」
「何だよ」
「今日、ずいぶん楽しそうだったな」
「……本の紹介文を書いてただけだよ」
「それだけで、あんなに笑うか?」
「お前たちが騒がしかったからだろ」
「俺たちのおかげか! それは光栄だな!」
「都合よく解釈するな」
蒼太が小さく笑った。
明里は、二人のやり取りを見てから、航平に言った。
「でも、よかったじゃない。好きなものについて、一緒に考えられる人がいるって」
航平は、少しだけ驚いて彼女を見た。
明里は前を向いたまま続けた。
「自分だけで考えていると、どうしても同じところをぐるぐる回ってしまうことがあるでしょう。誰かと話すと、自分では気づかなかったことが見つかるのよ」
「……そうだね」
航平は頷いた。
今日の紹介文も、最初はうまく書けなかった。
けれど、結衣と話しているうちに、自分がその本を読んで何を感じたのか、少しずつ言葉にできた。
誰かと一緒に考えることで、自分の気持ちが見えてくることもある。
そんな当たり前のことを、初めて実感した気がした。
「それに」
明里が、少しだけ笑った。
「早坂さんも楽しそうだったわよ」
航平は、返事に詰まった。
「……そう?」
「ええ」
「へえー」
駿が、またあの顔をした。
「お前、今、ちょっと嬉しそうだったぞ」
「……お前、本当に人の顔ばかり見てるな」
「友人観察が趣味だからな!」
「まだ続けてたのか、その趣味」
「一生続けるつもりだ!」
「迷惑すぎる……」
蒼太が、ぽつりと呟いた。
四人の笑い声が、夕方の道に広がる。
駅に着くと、それぞれの帰り道へ向かうため、短い挨拶を交わして別れた。
航平は電車に乗り、窓際の席に座った。
車窓を流れる街並みを眺めながら、今日のことを思い返す。
結衣と一緒に考えた紹介文。
好きな本について話した時間。
友人たちが加わって、賑やかになった教室。
そのどれもが、特別な事件ではなかった。
けれど、どれも忘れたくないと思った。
*
夜。
自室に戻った航平は、提出する推薦文を清書した。
文章を読み返し、誤字がないか確認する。
最後に名前を書き入れたところで、ペンを置いた。
机の上には、いつものノートが開かれている。
彼は今日一日のことを思い返し、短く書き留めた。
――好きなものを誰かに伝えるとき、初めて気づく気持ちがある。
少し考えてから、その下にもう一行を書き足した。
――そして、誰かと一緒に考えた時間も、いつか思い出になるのかもしれない。
航平は、ゆっくりと読み返した。
今日、結衣と過ごした時間を思い出す。
彼女が自分の言葉を真剣に聞いてくれたこと。
一緒に文章を考えてくれたこと。
最後に、二人で書いた文章だと言って笑ったこと。
そのときの彼女の顔が、今も頭に残っていた。
「……また、話したいな」
口に出してから、航平は少し驚いた。
以前なら、誰かと話したいと思っても、それをわざわざ言葉にすることはなかった。
明日会えたら話せばいい。
そう考えて、終わりにしていた。
けれど今は、明日になったら何を話そうかと考えている。
おすすめ本の紹介文を提出したこと。
駿が結局どんな本を選ぶのか。
みんなで図書室に行く話は、本当に実現するのだろうか。
そして、結衣が好きだと言っていた本のこと。
聞いてみたいことが、少しずつ増えていた。
航平はノートの最後に、もう一文を書いた。
――一冊の本から始まった会話は、まだ知らない君を知るための、最初の一歩なのかもしれない。
書き終えたあと、彼はペンを置いた。
悲しい結末を書くことしか考えていなかった少年は、今、物語の続きを楽しみにしている。
それは、ノートの中に書かれた登場人物たちの未来だけではない。
自分自身の、明日のことでもあった。
窓の外では、夜風が静かに吹いていた。
航平はノートを閉じ、明日の準備を整えた。
明日も学校がある。
授業があって、友人たちと話して、何気ない一日を過ごす。
そして、きっと結衣にも会える。
そのことを楽しみに思いながら、航平は机の明かりを消した。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第十一話では、学校のおすすめ本紹介をきっかけに、航平と結衣が一緒に文章を考えました。
自分が好きなものを、誰かに伝えること。
相手の意見を聞き、自分だけでは見つけられなかった言葉を見つけること。
そんな時間を通して、航平は自分の気持ちを少しずつ言葉にできるようになっています。
また、駿の行動力や明里の冷静な助言、蒼太の落ち着いた視点も、少しずつ彼ららしい形で物語に加わっています。
友人たちとの関係も、二人の関係と同じように、日々の積み重ねによって深まっていくものです。
一冊の本から始まった会話は、いつか、もっと多くの思い出につながっていくのでしょう。
まだ何でもない日々の中で、航平が何を知り、何を大切にしていくのか。
これからも見守っていただけたら嬉しいです。




