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君に贈る最後の物語、最後の一輪に愛を込めて  作者: (R× Y)ヤジド パシャ
第二章 涙の向こうにある物語.
13/20

第十二話 君が好きなもの、君が見ている景色

好きな本の話をして、同じ時間を過ごして、少しずつ相手のことを知っていく。


けれど、誰かを知るということは、その人の好きなものを知るだけではない。


何に悩み、何を大切にして、どんな未来を思い描いているのか。


いつも笑っている少女にも、彼女だけが見ている景色がある。


そのことを、航平はまだ知らなかった。

 木曜日の朝。


 水野航平が教室に入ると、窓際の席で佐久間駿が机に突っ伏していた。


「……終わった」


 鞄を下ろすより先に、そんな声が聞こえてきた。


「おはよう。朝から人生を終わらせるなよ」


「航平。お前、昨日の現代文の課題やった?」


「やったけど」


「見せて」


「嫌だ」


「即答!?」


 駿が勢いよく顔を上げた。


「友達だろ! 困ってる友達を助けるのが友情だろ!」


「友達だからこそ、自分でやったほうがいいって教えてるんだよ」


「その優しさ、今はいらない!」


「じゃあ、必要なのは何?」


「答え!」


「それは友情じゃなくてカンニングだろ」


 航平が笑うと、隣の席で鞄を整理していた橘蒼太も、小さく肩を揺らした。


「駿、昨日の放課後、何してたんだ?」


「……ゲーム」


「なるほど。自業自得だな」


「蒼太まで!?」


「安心しろ。俺も課題は終わってない」


「おお、仲間!」


「ただし、俺は今からやる」


「仲間の定義が崩壊した!」


 騒がしい声が教室に広がる。


 黒板には、日直が書いた今日の日付と、藤本先生からの連絡事項が並んでいた。窓の外では、風に揺れた木々の葉が朝日を受けている。登校してきた生徒たちが席を埋めるにつれて、教室はいつもの音で満たされていった。


 椅子を引く音。鞄から教科書を出す音。昨日のテレビ番組の話。週末の予定。小テストがあることを今さら思い出して騒ぐ声。


 特別なことなど、何もない朝だった。


「水野くん、おはよう」


 その声が聞こえたとき、航平は反射的に教室の入り口へ目を向けていた。


 早坂結衣が、クラスメイトの女子と話しながら入ってくるところだった。


 彼女は友人に何かを言われて笑い、軽く手を振ってから自分の席へ向かった。途中で航平と目が合うと、ほんの少しだけ足を止める。


「おはよう、航平くん」


「おはよう」


 それだけのやり取りだった。


 けれど、結衣は通り過ぎる直前、彼にだけ聞こえる声で付け加えた。


「昨日のおすすめ本の文章、ちゃんと覚えてるからね」


「……何を?」


「一緒に考えたやつ。学校の図書室に貼り出されるんでしょう? 楽しみ」


「ああ、あれか」


「自分たちが書いた文章が、知らない誰かに読まれるんだよ。ちょっと不思議じゃない?」


 結衣はそう言って、席へ向かった。


 航平は彼女の背中を見送ってから、自分の机に目を落とした。


 知らない誰かに読まれる。


 今まで、自分の書いた物語を読んでもらう相手は、ほとんどいなかった。書き終えた原稿は引き出しにしまい、誰にも見せずに次の話を書き始める。それが当たり前だった。


 だからこそ、結衣と一緒に書いた短い紹介文が、学校の図書室に並ぶということに、まだ少し実感が湧かなかった。


「……なあ、航平」


 いつの間にか、駿がこちらを覗き込んでいた。


「何?」


「今、結衣さんが来たとき、ちょっと嬉しそうだったぞ」


「普通に挨拶しただけだろ」


「俺の観察眼を舐めるな」


「その観察眼で課題の提出日も観察しておけばよかったのに」


「痛いところを突くな!」


 駿が机を叩く。


 その音に、前の席にいた成瀬明里が振り返った。


「朝からうるさい。廊下まで聞こえてるんだけど」


「俺だけのせいじゃないだろ!」


「じゃあ、二人とも静かにして」


「俺は被害者だ!」


「被害者は課題を忘れないと思うけど」


「明里、お前、今日いつもより厳しくない?」


「いつもどおりよ。あなたがいつもどおり騒がしいだけ」


 明里は涼しい顔で前を向いた。


 駿は何か言い返そうとして、結局、口を閉じた。


 航平はその様子を見て、思わず笑った。


 最近、教室で笑う回数が増えた気がする。


 理由を考えようとして、彼はやめた。


 考えたところで、うまい言葉は見つからない。


 ただ、以前よりも学校の朝が少しだけ騒がしく、少しだけ楽しく感じられるようになっていた。


     *


 一時間目の現代文では、藤本先生が教科書を閉じて、教室を見渡した。


「さて。来週から進路希望の個人面談を始める。大学、専門学校、就職。まだ迷っている人もいるだろうが、今の時点で考えていることは整理しておくように」


 教室の空気が、ほんの少し変わった。


 さっきまで課題のことで騒いでいた駿も、机の上のノートに目を落とした。


「進路か……」


 誰かが小さく呟く。


「まだ決まってない人は、何も考えていないという意味じゃないからな。迷っているなら、何に迷っているのかを考えること。誰かの期待だけで決めるのではなく、自分が何をしたいのかも考えるように」


 藤本先生の言葉を聞きながら、航平はノートの端に視線を落とした。


 自分が何をしたいのか。


 答えは、ある。


 物語を書きたい。


 できれば、ずっと。


 けれど、それを職業にしたいのかと聞かれれば、簡単には頷けなかった。


 好きなことを仕事にして、もし書けなくなったらどうするのだろう。


 物語を書くことが、義務になってしまったら。


 今は誰にも見せずに書けるからこそ、自由でいられるのかもしれない。


「水野」


「はい」


「お前は、卒業後の進路について考えているか?」


 不意に名前を呼ばれ、航平は顔を上げた。


「……まだ、迷っています」


「そうか。何に迷っている?」


 教室中の視線が、わずかにこちらへ集まった気がした。


 航平は一瞬、言葉に詰まる。


 書くことが好きだとは言える。けれど、好きなことを将来に結びつけるのが怖いという話を、教室で説明するのは難しかった。


「好きなことを、そのまま仕事にしていいのか……というところです」


 藤本先生は、すぐには答えなかった。


 やがて、少し考えるように頷いた。


「好きなことを仕事にするのは、簡単なことではないだろうな。好きだからこそ、苦しくなることもある。ただ、仕事にしなければ好きでいられるのか、それも実際にやってみなければ分からない」


 航平は黙って聞いていた。


「今すぐ決める必要はない。だが、何を選んでも、選んだ先で考え続けることはできる。進路を決めるというのは、一生分の答えを出すことではないからな」


「……はい」


「まずは、自分が何を大切にしたいのかを考えてみるといい」


 藤本先生はそう言って、次の生徒へ視線を移した。


 授業が再開してからも、航平はしばらく先生の言葉を考えていた。


 一生分の答えを出す必要はない。


 その言葉は、なぜか心に残った。


 自分は物語の結末を決めるとき、いつも一生分の答えを出そうとしていたのかもしれない。


 登場人物の人生を、最後の一行で決める。


 その一行を間違えれば、すべてが台無しになるような気がしていた。


 だから、悲しい結末を選ぶことが多かった。


 少なくとも、悲しみなら、自分にも分かる気がしたから。


 けれど現実の人生は、物語の最後の一行だけで終わるものではない。


 そんな当たり前のことを、航平はまだうまく理解できずにいた。


     *


 昼休み。


 航平が弁当箱を机に置くと、駿が椅子を反対向きにして座った。


「お前、進路どうするんだ?」


「さっきの話?」


「そう。俺はまだ全然決まってない。親には大学も考えろって言われてるけど、大学に行きたい理由があるかって聞かれると微妙なんだよな」


 いつもの調子より、少しだけ真面目な声だった。


 駿は箸袋を指先で弄びながら続ける。


「別に勉強が嫌いってわけじゃないんだけどさ。何を勉強したいのかって言われると、困る」


「それなら、興味のあることから探せばいいんじゃないか?」


「その興味のあることが、ゲームなんだよ」


「ゲームの何が好きなんだ?」


「え?」


「遊ぶこと自体? それとも、どうやって作られてるのかとか、ストーリーとか」


 駿は少しだけ考えた。


「……ストーリーも好きだし、ゲームの中で何ができるか考えるのも好きだな。友達と協力して攻略するのも楽しいし」


「じゃあ、そのあたりから調べてみればいいんじゃないか。ゲームを作る仕事もあるし、プログラムや企画、シナリオを書く仕事もあるだろ」


「お前、急に進路相談の先生みたいなこと言うじゃん」


「聞かれたから答えただけだよ」


「なるほど……ゲーム制作、か」


 駿は何度かその言葉を繰り返した。


 その様子を見ていた蒼太が、弁当の卵焼きを口に運びながら言う。


「俺は、まだ何も決めてない。でも、何も決めてないってことを理由に、何も調べないのは違う気がするな」


「蒼太、お前、たまにすごくまともなこと言うよな」


「たまにって何だよ」


「普段は眠そうだから」


「お前がうるさいから眠くなるんだ」


「俺、環境音扱いされてない?」


「だいたい合ってる」


 蒼太の淡々とした返答に、航平は吹き出した。


 駿も文句を言いながら笑っている。


 そのとき、明里が自分の弁当を持ってやってきた。


「何の話?」


「進路。駿がゲーム制作に興味あるかもしれないって話」


「へえ」


 明里は駿を見た。


「いいんじゃない? 向いてるかどうかは別として、好きなことがあるなら調べてみれば」


「お前、今さらっと失礼なこと言っただろ」


「だって、まだ何も調べてないんでしょう?」


「これから調べるんだよ!」


「なら、いいじゃない」


 明里はあっさりと話を終わらせた。


 駿は不満そうに口を尖らせたが、すぐに表情を緩めた。


「……まあ、そうだな。ちょっと調べてみるか」


 航平は二人のやり取りを見ながら、ふと思った。


 誰かと話すことで、自分では気づかなかったものが見えてくることがある。


 それは、物語についても、将来についても、同じなのかもしれない。


「そういえば、水野」


 明里がこちらを向いた。


「あなたは、小説を書く仕事に興味があるんでしょう?」


「……どうして分かった?」


「この前、進路希望の紙を見ていたとき、書く欄のところでずっと手が止まっていたから」


「見てたのか」


「たまたま目に入っただけよ」


 明里は悪びれもせずに言った。


「別に、作家になりたいなら目指してみてもいいと思うけど」


「簡単に言うなあ」


「簡単な話だとは言ってないわ。目指すかどうかを、今のうちから諦めなくてもいいって言ってるの」


 航平は返事をしなかった。


 明里は彼の表情を見て、少しだけ声を柔らかくした。


「少なくとも、あなたの書くものを読みたいって思う人はいるんでしょう?」


 その言葉に、航平は顔を上げた。


 頭に浮かんだのは、赤みがかった茶色の髪と、楽しそうに笑う少女の顔だった。


 物語の結末に疑問を持ち、続きを読みたいと言ってくれた人。


 悲しい結末しか書けない自分に、別の可能性を見せてくれた人。


「……いるよ」


 気づけば、そう答えていた。


 明里は少しだけ目を細めた。


「なら、今はそれで十分なんじゃない?」


「何が?」


「書き続ける理由」


 航平は、言葉を失った。


 駿が何か言いたそうに口を開いたが、明里に睨まれて閉じる。


 蒼太は何も言わず、静かに弁当を食べていた。


 やがて駿が、わざとらしく咳払いをした。


「……なるほどな。つまり航平には、読者第一号がいるわけだ」


「その言い方はやめろ」


「お、否定が弱いぞ?」


「駿」


「はい、黙ります」


 明里が笑い、蒼太が小さく息を吐いた。


 航平も笑った。


 けれど、胸の奥には、さっきの言葉が残っていた。


 書き続ける理由。


 今まで、それは自分の中にしかないものだと思っていた。


 誰かが続きを待っている。


 その事実は、思っていた以上に大きかった。


     *


 放課後。


 最後の授業が終わると、教室のあちこちで椅子を引く音がした。


 部活動へ向かう生徒。友人と駅まで帰る約束をする生徒。机に残ったプリントを慌てて鞄に詰め込む生徒。


 航平がノートを閉じていると、教室の入り口から声がした。


「航平くん、今、少し時間ある?」


 結衣だった。


「ああ。どうした?」


「図書室に行こうと思って。おすすめ本の紹介文、掲示する場所を見ておきたくて」


「今日、もう貼り出されるのか?」


「ううん。まだ準備中みたい。でも、どんな感じになるのか気になって」


 結衣はそう言って、小さな笑みを浮かべた。


「それに、航平くんに聞きたいこともあるんだ」


「聞きたいこと?」


「うん。……来てくれる?」


 彼女が少しだけ首を傾げる。


 断る理由はなかった。


「分かった。ちょっと待って」


 航平が鞄を持ち上げると、駿がすかさず顔を出した。


「おやおや。放課後に二人で図書室ですか」


「図書室くらい普通に行くだろ」


「そうだな。俺も行こうかな」


「何しに?」


「本を読む」


「普段、漫画しか読まないくせに」


「漫画だって立派な本だろ!」


「その主張は間違ってないけど、今は図書室に行く理由として弱いわね」


 明里が横から口を挟んだ。


 駿は彼女を指差す。


「じゃあ、明里も一緒に行けばいいだろ!」


「私は委員会の仕事があるの。あなたと違って忙しいのよ」


「俺だって忙しいぞ。ゲームのイベントが――」


「はいはい」


「最後まで聞け!」


 結衣がくすくすと笑った。


「駿くんたちも、今度一緒に行こうよ。おすすめの本を探すの、楽しそうだし」


「本当に!?」


「うん。みんなで選んだら、知らない本にも出会えそうだし」


 駿の顔が明るくなる。


「よし、決まり! 俺のおすすめも紹介するからな!」


「その前に課題を終わらせなさい」


「明里、俺の母親なの?」


「あなたのお母さんは、あなたが課題を忘れていることを知らないでしょうね」


「そこは黙っててくれ!」


 また教室に笑い声が広がった。


 航平は、その光景を見てから結衣へ目を向けた。


 彼女も楽しそうに笑っていた。


 いつか、こんなふうにみんなで本を選ぶ日が来るのかもしれない。


 そう考えると、図書室へ向かう足取りが、ほんの少しだけ軽くなった。


     *


 図書室は、放課後の校舎の中でも静かな場所だった。


 窓から差し込む光が書架の背表紙を照らし、カウンターでは図書委員の生徒が返却された本を整理している。


 遠くから運動部の掛け声が聞こえてきたが、ここまで届くころには、ずいぶん小さくなっていた。


「なんか、落ち着くね」


 結衣が小さな声で言った。


「図書室が好きなのか?」


「好きだよ。もちろん、本を読むのも好きだけど」


 彼女は書架の間をゆっくり歩きながら、背表紙を眺めた。


「ここって、いろんな人の好きなものが集まってる場所でしょう?」


「好きなもの?」


「うん。誰かが書きたいと思ったことや、誰かが知りたいと思ったこと。誰かが伝えたかったことが、こうして一冊の本になって並んでる」


 結衣は、一冊の本に手を伸ばした。


 背表紙を指先でなぞり、少しだけ懐かしそうに笑う。


「だから、図書室に来ると、知らない誰かの頭の中を少しだけ覗いてるような気持ちになるんだ」


 航平は彼女の横顔を見た。


「……それ、面白い考え方だな」


「そう?」


「俺は、物語を書くとき、登場人物の頭の中を考えることが多いから。書いた人の頭の中を覗く、っていうのは、あまり考えたことがなかった」


「航平くんらしいね」


「どういう意味?」


「自分が書く側だからじゃない?」


 結衣は本を棚へ戻した。


「でも、読む側にも、読む側にしか見えないものがあると思うよ。同じ本でも、読んだ人によって感想が違うでしょう?」


「確かに」


「私は、登場人物が何をしたかだけじゃなくて、どうしてそうしたのかを考えるのが好きなんだ。自分だったらどうするかな、とか。この人は本当は何を言いたかったのかな、とか」


「……だから、あの短編の女の子のことも気になったのか」


 航平がそう言うと、結衣は静かに頷いた。


「うん。あの子が何を考えていたのか、もっと知りたかった」


 その言葉に、航平は少しだけ視線を落とした。


 自分は、あの少女の気持ちを分かっているつもりだった。


 病気になり、周囲に心配をかけまいと笑い、最後には一人で静かに息を引き取る。


 悲しい話を書くために、必要な出来事を並べていた。


 けれど、結衣はその先を見ようとしていた。


 彼女が何を望み、何を恐れ、どんな言葉を聞きたかったのか。


 自分は、そこまで考えていただろうか。


「……航平くん?」


「あ、ごめん。少し考え事をしてた」


「また物語のこと?」


「まあ、そんなところ」


 結衣は彼を見つめてから、いたずらっぽく笑った。


「ねえ。今度、その女の子が元気だったころの話も書いてみたら?」


「元気だったころ?」


「うん。病気になる前に、どんな毎日を過ごしていたのか。何が好きで、どんなことで笑って、誰と仲がよかったのか」


 彼女は指を一本立てた。


「悲しい結末を変えるかどうかは、そのあとで考えてもいいんじゃない?」


 航平は、すぐには答えられなかった。


 病気になる前の少女。


 彼女にも、朝起きて学校へ行き、友達と話し、好きなものを食べて笑う日々があったはずだ。


 物語では、彼女が病気になった瞬間から、世界が少しずつ狭くなっていった。


 けれど、本当はその前にも、彼女の世界はあった。


 病気だけが、その人物のすべてではない。


「……書いてみるよ」


 航平は、ゆっくりと言った。


「すぐには書けないかもしれないけど」


「うん。すぐじゃなくていいよ」


 結衣は嬉しそうに笑った。


「私、そういう話も読んでみたい」


 その笑顔を見ていると、航平は不思議な気持ちになった。


 自分が書いたものを、誰かが読みたいと言ってくれる。


 ただそれだけのことが、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。


 答えは分からなかった。


 だから、彼はその気持ちを胸の奥にしまっておくことにした。


 いつか言葉にできる日が来るのかもしれない。


     *


 図書室を出る前、結衣は窓際の机に置かれた掲示物を見つけた。


「あ、これかな」


 そこには、図書委員が作成した「おすすめ本紹介コーナー」の案内が置かれていた。


 来週から、生徒たちが書いた紹介文を順番に掲示するらしい。紹介文には本の題名と作者名を記入し、読んでみたいと思った生徒が図書室で借りられるようにする、と説明が書かれている。


「私たちの文章、ここに並ぶんだね」


「そうみたいだな」


「なんだか緊張してきた」


「自分で書いた文章なのに?」


「自分で書いた文章だからだよ」


 結衣は真面目な顔で答えた。


「読んだ人が、その本を好きになってくれたら嬉しいし。逆に、紹介文を読んでも何も感じなかったら、ちょっと寂しいかもしれない」


「……そういうものなのか」


「そういうものだよ。航平くんだって、自分の物語を誰かに読んでもらうとき、何も感じないわけじゃないでしょう?」


 航平は返事をする代わりに、少しだけ笑った。


 何も感じないわけがなかった。


 怖い。


 恥ずかしい。


 期待してしまう。


 それでも、読んでほしい。


 自分でも矛盾していると思うほど、いくつもの感情が一緒になっていた。


「……結衣は、すごいな」


「え?」


「自分がどう感じてるか、ちゃんと言葉にできるから」


 結衣は一瞬、目を丸くした。


 それから、少し困ったように笑う。


「そんなことないよ。私だって、分からないことはたくさんあるもん」


「そうかな」


「そうだよ。分からないことがあるから、本を読んだり、誰かと話したりするんじゃない?」


 その言葉は、静かな図書室によく馴染んだ。


 航平は、ゆっくりと頷いた。


「……そうかもしれない」


 結衣は満足そうに笑った。


「じゃあ、帰ろうか。あんまり遅くなると、家で心配されちゃう」


「そうだな」


 二人は図書室を出て、昇降口へ向かった。


 廊下には、部活動へ急ぐ生徒たちの姿があった。窓から入る風が、掲示板の端に貼られた紙を揺らしている。


 昇降口で靴を履き替えると、結衣がふと思い出したように言った。


「そういえば、航平くんは普段、家で何をしてるの?」


「小説を書いてることが多いかな。あとは本を読んだり、普通に動画を見たり」


「動画も見るんだ」


「俺を何だと思ってるんだよ」


「ずっと机に向かって物語を書いてる人」


「……間違ってはいないけど」


「やっぱり!」


 結衣は楽しそうに笑った。


「私はね、家に帰ったら、よく夕飯の手伝いをするよ。料理するのも好きなんだ」


「へえ。得意料理とかある?」


「得意料理って言えるほどじゃないけど、卵焼きはよく作るかな」


「卵焼き?」


「うん。甘いのも、だしを入れたのも作るよ。家族の好みが違うから、たまに二種類作るの」


「それは大変そうだな」


「そうでもないよ。慣れたら楽しいし。あと、失敗したものを自分で食べればいいから」


「失敗することもあるんだ」


「あるよ! 私だって毎回完璧じゃないんだから!」


 結衣が少しだけ頬を膨らませた。


 その反応がおかしくて、航平は笑った。


「いや、悪い。ちょっと意外だったから」


「航平くん、私のことを何だと思ってるの?」


「……何でも器用にできる人?」


「それ、褒めてるようで、勝手なイメージだよね」


「ごめん」


「よろしい」


 結衣は、わざとらしく胸を張った。


 その姿が、さっきまで図書室で真剣に本の話をしていた彼女と同じ人物だということが、少し不思議だった。


 いや、同じ人物なのだ。


 本について話すときの結衣も、卵焼きの話をして笑う結衣も。


 航平がまだ知らなかっただけで、彼女の中には、たくさんの顔がある。


「……今度、食べてみたいな」


 気づけば、航平はそう口にしていた。


「え?」


「結衣の卵焼き。二種類作るんだろ?」


 言ってから、自分が何を言ったのか理解した。


 結衣も一瞬、きょとんとした顔をした。


 それから、頬にわずかに赤みが差す。


「……いいよ」


「え?」


「今度、機会があったらね。家族の分を作るときに、少し多めに作ればいいし」


 彼女は少しだけ視線を逸らしながら言った。


「でも、味の保証はしないからね」


「さっき、得意だって言ってなかった?」


「得意と完璧は違うの!」


「なるほど」


「絶対、今ちょっと笑ったでしょう」


「気のせいだよ」


「もう!」


 結衣が軽く航平の腕を叩いた。


 痛くはなかった。


 むしろ、その何気ないやり取りが、妙にくすぐったかった。


 今度。


 その言葉が、二人の間に残っていた。


 次に会う約束をしたわけではない。


 日付も、時間も決まっていない。


 それでも、次があることを自然に想像できた。


 それが少しだけ嬉しかった。


     *


 駅へ向かう道で、二人はしばらく学校の話をした。


 結衣が授業中に先生の言い間違いを聞いて笑いそうになったこと。航平が小テストで問題文を読み違えたこと。駿が課題を忘れたまま藤本先生に提出しようとして、教室で大騒ぎになったこと。


「駿くんって、本当に毎日楽しそうだよね」


「楽しそうというか、騒がしいというか」


「でも、いい友達だね」


「……うん」


 航平は、少しだけ考えてから頷いた。


「昔からあんな感じなんだ。何かと面倒だけど、困ったときはちゃんと助けてくれる」


「明里さんも?」


「明里は……何だろうな。駿が変な方向に行きそうなときに、引き戻してくれる感じ」


「ふふっ。二人とも、いいコンビだね」


「本人たちに言ったら、全力で否定すると思う」


「そうかな?」


「特に駿は」


 駅前の交差点で、信号が赤に変わった。


 二人は並んで立ち止まる。


 夕方の風が、結衣の髪を軽く揺らした。


「ねえ、航平くん」


「ん?」


「航平くんは、友達といるとき、どんなことを考えてる?」


 少し意外な質問だった。


「どんなことって?」


「例えば、楽しいな、とか。もっと一緒にいたいな、とか」


 結衣は前を向いたまま続けた。


「私、友達と遊んでるときは、何でもない話をしているだけでも、けっこう楽しいんだ。帰ってから思い出して、また笑っちゃうこともあるし」


「……そうなんだ」


「うん。だから、何でもない時間って、案外大事なんじゃないかなって思う」


 信号が青に変わった。


 周囲の人々が歩き出す。


 航平も一歩を踏み出したが、結衣の言葉は頭の中に残っていた。


 何でもない時間。


 今までの自分は、物語の中で何かが起こる瞬間ばかりを書いていた。


 出会い。別れ。病気。告白。死。


 登場人物の人生を大きく変える出来事。


 けれど、その間にある時間を、どれほど丁寧に描いていただろう。


 朝、誰かに挨拶すること。


 一緒に昼食を食べること。


 帰り道で、好きな料理の話をすること。


 そんな何でもない時間も、その人物が生きている証なのではないだろうか。


「……俺も、楽しいよ」


 航平は言った。


 結衣がこちらを向く。


「え?」


「駿たちといるときも。……結衣と話しているときも」


 言葉にした途端、少しだけ恥ずかしくなった。


 大げさな意味を込めたつもりはなかった。


 ただ、本当にそう感じていたから、口にしただけだった。


 けれど、結衣はすぐには返事をしなかった。


 彼女は目を瞬かせてから、ゆっくりと笑った。


「……そっか」


 その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


「私も、楽しいよ」


 それだけ言うと、彼女は再び前を向いた。


 駅の改札が見えてくる。


 二人の帰る方向は、途中まで同じだった。


 改札の前で立ち止まると、結衣は鞄を持ち直した。


「じゃあ、また明日ね」


「うん。また明日」


 結衣は手を振って、改札の向こうへ歩いていった。


 航平は、彼女の姿が人混みに紛れるまで見送っていた。


 それから、自分の帰る方向へ歩き出す。


 胸の中に、はっきりと名前をつけられない気持ちがあった。


 嬉しい。


 楽しい。


 また話したい。


 今度はどんな話をするのだろう。


 そんなことを考えている自分に気づいて、航平は小さく息を吐いた。


 どうやら、彼女と過ごした時間は、家に帰るまで終わらないらしい。


     *


 帰宅すると、航平は鞄を机の横に置き、制服のまま椅子に座った。


 窓の外は、ゆっくりと夕暮れに染まっている。


 机の上には、書きかけの短編小説が置かれていた。


 病気の少女が主人公の物語。


 彼女は、自分の残された時間を知りながら、周囲の人々に笑顔を見せ続ける。


 航平は、ノートを開いた。


 今までなら、次に何が起こるかを考えていた。


 病状が悪化する場面。


 家族が涙を流す場面。


 主人公が最後に残す言葉。


 けれど、今日は違うことを考えていた。


 彼女は、病気になる前、どんな朝を迎えていたのだろう。


 どんな友達と、どんな話をしていたのだろう。


 好きな食べ物は何だったのだろう。


 誰かと帰り道を歩きながら、くだらない話をして笑ったことはあったのだろうか。


 彼女が失うものを描く前に、彼女が持っていたものを描いてみたい。


 航平は、ペンを持った。


 しばらく考えてから、新しいページに文字を書き始めた。


 ――彼女は、朝が苦手だった。


 ――目覚まし時計が鳴っても、あと五分だけと布団に潜り込む。


 ――母親に何度も呼ばれ、ようやく起き上がるころには、いつも家を出る時間が迫っていた。


 航平はそこで手を止めた。


 思わず笑ってしまう。


 病気の少女の話なのに、まだ病気のことが出てこない。


 悲しい出来事も、涙も、別れもない。


 ただ、朝寝坊をする少女がいるだけだ。


 それなのに、彼女が少しだけ身近な人間になったような気がした。


 彼女は、悲しむために生まれた人物ではない。


 悲しい結末を迎えるためだけに存在しているわけでもない。


 彼女には、彼女自身の人生がある。


 航平は、ゆっくりと次の一行を書いた。


 ――彼女にとって、その朝は、いつもと何も変わらない一日の始まりだった。


 書き終えてから、彼はペンを置いた。


 何かが変わったわけではない。


 物語の結末も、まだ決まっていない。


 それでも、今までとは少し違うものを書けた気がした。


 机の隅に置かれたスマートフォンが震えた。


 画面を見ると、駿からメッセージが届いていた。


『今日の話を聞いて、ゲーム制作について調べてみた。思ったよりいろいろあるんだな』


 続けて、もう一通。


『まだ何になるか決めたわけじゃないけど、ちょっと面白そうだと思った』


 航平は、短く返信した。


『よかったじゃん。いろいろ見てみたらいいと思う』


 すぐに返事が来る。


『おう。お前も小説家、目指してみろよ』


 航平は画面を見つめた。


 その一言に、何と返せばいいのか分からなかった。


 しばらくして、彼はこう打った。


『……考えてみる』


 送信すると、駿から親指を立てたスタンプが返ってきた。


 航平はスマートフォンを置き、再びノートを見た。


 今日、結衣と話したこと。


 図書室で聞いた言葉。


 卵焼きの話をしたときの笑顔。


 駅前で交わした、何でもない会話。


 どれも、物語を大きく変えるような出来事ではない。


 けれど、思い返すと、自然に口元が緩んだ。


 航平は新しいページを開き、日記のように一行を書いた。


 ――誰かを知るということは、その人の知らなかった時間まで、少しずつ大切に思うことなのかもしれない。


 書き終えた文字を眺めて、彼は静かに息を吐いた。


 まだ、何も分かっていない。


 結衣がどんな未来を望んでいるのかも。


 何を恐れ、何を大切にしているのかも。


 自分が彼女のことを、これからどれほど知っていくのかも。


 それでも、もう少し知りたいと思った。


 彼女が好きな本のこと。


 彼女が作る卵焼きのこと。


 彼女が家で過ごす時間のこと。


 彼女が、何でもない一日の中で見つける小さな幸せのこと。


 そして、彼女がまだ誰にも話していないことがあるのなら、いつか、それを自分に話してくれる日が来るのだろうか。


 航平はノートを閉じた。


 明日は、どんな話をしよう。


 そう考えている自分に気づき、彼は少しだけ困ったように笑った。


 物語の続きを考えることには慣れている。


 けれど、誰かと過ごす明日のことを、こんなふうに楽しみに思うのは、まだ慣れていなかった。


 それでも。


 明日もまた、いつもの教室で彼女に会える。


 そのことが、今夜の彼には、十分すぎるほど嬉しかった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第十二話では、航平が結衣の好きな本だけでなく、料理や家で過ごす時間など、学校の外にある彼女の日常にも少しずつ目を向け始めました。


また、進路の話を通して、航平自身が小説を書くことを将来につなげられるのか、迷っていることも描いています。


好きなことを仕事にするのか。今はまだ決められなくても、考え続けることはできるのか。


駿もまた、自分の興味について考え始めました。明里や蒼太との会話も含めて、彼らがそれぞれ自分の未来を探していく姿を、これから少しずつ描いていきたいと思います。


そして航平は、結衣と過ごす何気ない時間を、以前よりも大切に感じるようになっています。


まだ恋と呼ぶには、本人にもよく分からない気持ち。


けれど、相手をもっと知りたいと思うことは、二人の距離が少しずつ変わり始めている証なのかもしれません。


悲しい出来事だけではなく、笑い合った時間も、何気ない会話も、誰かの人生を形作っていくものです。


そんな日々の積み重ねを、これからも丁寧に描いていけたらと思います。


次のお話も、読んでいただけたら嬉しいです。

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