第七話 君と過ごす昼休み
誰かと一緒に食べる昼食。
何気ない会話と、小さな約束。
それだけで、いつもの一日が少し違って見えることがあります。
航平はまだ、自分の心に生まれ始めた変化を知りません。
けれど、土曜日に結衣と過ごす時間を、少しだけ楽しみにしているようです。
昼休みのチャイムが鳴る少し前から、教室の空気は落ち着きを失い始めていた。
「なあ航平。今日の昼、購買行くか?」
隣の席から顔を覗かせた佐久間駿が、手に小銭を握りながら尋ねてくる。
「行かない」
「即答かよ。さては今日も弁当か?」
「そうだけど」
「いいよなあ、毎日弁当。俺なんて朝、母さんに起こされて、弁当を受け取って、玄関で靴を履いてる途中に家を追い出されたぞ」
「それ、弁当を作ってもらえてるだけ十分じゃない?」
前の席で振り返った成瀬明里が、呆れた顔で口を挟んだ。
「追い出されたって、あんたが家を出る時間を守らなかっただけでしょ」
「細かいことは気にするな、明里」
「細かくない。毎朝のことでしょうが」
「お前、俺の母さんみたいなこと言うなよ!」
「誰が好き好んであんたのお母さんになるのよ!」
いつもの言い合いが始まった。
水野航平は、机の上に置いていた文庫本を閉じた。
この二人は、朝からよくこれだけ言い合えるものだと思う。
しかも不思議なことに、駿は明里に言い返されると余計に楽しそうな顔をする。明里のほうは本気で呆れているように見えるのだが、時折、ほんの一瞬だけ口元が緩むことがあった。
もっとも、本人たちに指摘したところで認めるはずもない。
「お前ら、今日も元気だな」
窓際の席で本を読んでいた橘蒼太が、顔を上げずに言った。
「蒼太も混ざれよ!」
「遠慮しておく。昼飯を食う前に疲れそうだから」
「冷たいな!」
「平和な判断だと思うけど」
航平がそう付け加えると、駿がこちらを向いた。
「お前、最近ちょっと明里みたいになってない?」
「どういう意味だよ」
「俺に対する扱いが雑になった」
「気のせいだろ」
「その返し方がもう雑なんだよ!」
教室のあちこちで笑い声が起きる。
誰かが友達を呼び、別の誰かが机を動かす。窓の外からは運動部の掛け声が聞こえ、廊下を走る生徒を教師が注意する声も響いていた。
高校三年生の春。
受験や進路の話題が増え始めているとはいえ、昼休みの教室には、まだいつもどおりの騒がしさがあった。
航平はその空気を嫌いではなかった。
自分から輪の中心に入っていくことは少ない。けれど、こうして何でもない会話を聞きながら過ごす時間は、案外心地よかった。
――少なくとも、以前はそれで十分だった。
ふと、昨日の放課後のことが頭をよぎる。
『じゃあ、また明日ね』
早坂結衣は、別れ際にそう言って笑った。
特別な言葉ではない。
誰もが使う、ありふれた挨拶だ。
それなのに、昨夜から何度も思い出している自分がいる。
航平は眉間にしわを寄せた。
なぜ、あんな一言が気になるのだろう。
「……航平?」
「ん?」
「今、絶対に俺の話を聞いてなかっただろ」
駿の顔が目の前にあった。
「聞いてたよ」
「じゃあ、俺が何の話をしてたか言ってみろ」
「……購買のパンの話?」
「さっきの話だよ!」
「じゃあ、聞いてないな」
「認めるの早すぎだろ!」
また笑い声が起きる。
航平も小さく笑った。
そのとき、昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴った。
教室の空気が一気に緩む。
「よし、購買!」
駿が勢いよく立ち上がった。
「明里、何か買ってきてやろうか?」
「いらない。お弁当あるから」
「じゃあ、俺の分も作ってくれ!」
「どうしてそうなるのよ!」
「将来の練習!」
「何の将来よ!」
航平は鞄から弁当箱を取り出しながら、二人のやり取りを聞いていた。
今日もいつもどおりの昼休み。
そう思っていた。
教室の入口から、聞き覚えのある声がするまでは。
「水野くん、いる?」
その声に、航平の手が止まった。
顔を上げる。
入口に立っていたのは、早坂結衣だった。
彼女は教室の中を見回し、航平を見つけると、ぱっと表情を明るくした。
「あ、いた!」
まるで、探していたものをようやく見つけたような笑顔だった。
航平は一瞬、返事を忘れた。
「……早坂?」
「うん。お昼、今から?」
「そうだけど……どうしたの?」
「一緒に食べてもいい?」
あまりにも自然に尋ねられたせいで、航平はすぐに答えられなかった。
一緒に食べる。
つまり、結衣と。
昼休みに。
この教室で。
「……えっと」
「もしかして、誰かと約束してた?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「よかった!」
結衣は安心したように笑った。
その笑顔を見て、航平はようやく我に返った。
「……別に、いいけど」
「ありがとう!」
彼女は嬉しそうに答えると、航平の机の近くまでやって来た。
その様子を、駿が見逃すはずもなかった。
「おい、航平」
「何だよ」
「誰?」
「早坂さん」
「いや、それは見れば分かるわ!」
駿は結衣と航平を交互に見た。
「え、待て。お前ら、いつの間にそんな仲良くなったんだ?」
「別に、そんな……」
「昨日も来てたよね?」
明里が会話に加わった。
結衣は彼女に向き直り、にこやかに頭を下げた。
「うん。昨日も少しお話ししたよ。成瀬さん、久しぶり!」
「久しぶり。去年の文化祭準備以来かな?」
「そうそう! あのとき、教室の飾り付けで一緒になったよね」
「そうだったね」
明里は軽く笑ったあと、航平を見た。
「でも、航平と話してるところは初めて見たかも」
「そうなんです。水野くんの書いた小説を読ませてもらって、それで……」
「小説?」
駿の目が輝いた。
「航平、お前、いつの間に女の子に小説を読ませる仲になったんだよ!」
「その言い方をやめろ!」
「へえ。航平の小説をねえ?」
蒼太までこちらを見ていた。
「それは少し気になるな」
「蒼太まで乗らなくていいから」
航平は額に手を当てた。
結衣はそんな彼らを見て、くすくすと笑っている。
「みんな、仲がいいんだね」
「よくない!」
駿と航平の声が重なった。
明里が吹き出した。
「そこは息ぴったりじゃない」
「違うからな!」
今度は駿だけが叫んだ。
結衣はとうとう声を出して笑った。
その笑顔につられて、航平も少しだけ口元を緩める。
――こういうふうに笑うんだ。
彼女の笑顔を見るたび、航平は知らなかった一面を見つけるような気がした。
小説の結末について真剣に尋ねてきたときの表情。
物語の続きを楽しみにしていると伝えたときの、まっすぐな眼差し。
そして今、友人たちの騒がしさを楽しそうに眺める笑顔。
同じ人なのに、少しずつ違う。
航平は自分でも気づかないうちに、彼女を目で追っていた。
*
「それじゃあ、いただきます」
結衣が手を合わせる。
「いただきます」
航平も弁当箱の蓋を開けた。
結衣は航平の向かい側ではなく、隣の空いている席を借りて座っていた。
机を二つ寄せただけの、簡単な昼食の場所。
それなのに、航平はいつもより少しだけ落ち着かなかった。
「水野くんのお弁当、きれいだね」
「そう?」
「うん。ちゃんと彩りがあるし、おいしそう」
「……ありがとう」
褒められるとは思っていなかった。
航平は箸で卵焼きをつまみ、口に運ぶ。
結衣の弁当には、卵焼き、ブロッコリー、ミニトマト、それに小さなおにぎりが二つ入っていた。色の組み合わせがきれいで、どこか丁寧な印象を受ける。
「早坂の弁当も、おいしそうだね」
「本当?」
「うん」
「えへへ。よかった」
結衣は少し照れたように笑った。
「今日は自分で作ったんだ」
「自分で?」
「うん。朝、ちょっと早く起きて。お母さんに手伝ってもらうこともあるけど、今日は自分で作ってみたの」
「すごいな」
「そんなことないよ。卵焼きなんて、何回か失敗したし」
「失敗?」
「最初は甘くしすぎちゃったの。それで慌てて調整したら、今度は味がよく分からなくなって……」
結衣は思い出したように苦笑した。
「最後はちゃんと食べられる味になったから、大丈夫!」
「それはよかった」
「……水野くんは、料理するの?」
「簡単なものなら。卵を焼いたり、野菜を切ったり」
「へえ。じゃあ、今度教えてほしいな」
「俺が?」
「うん。何か一緒に作ったら楽しそうじゃない?」
航平は箸を止めた。
一緒に作る。
結衣と。
台所に並んで、料理をする。
想像してみると、妙に現実味がなかった。
いや、現実味がないというより、どうしてそんな場面を想像しているのか、自分でもよく分からない。
「……俺でよければ」
「やった!」
結衣は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、いつか一緒に作ろうね」
「うん」
たったそれだけの約束だった。
日付も決まっていないし、何を作るかも決まっていない。
それなのに、航平はその約束を忘れないようにしようと思った。
ふと、結衣の視線が航平の弁当箱に向いた。
「ねえ、水野くん」
「何?」
「その卵焼き、一つもらってもいい?」
「え?」
「私のと交換しない?」
結衣は自分の弁当箱に入っている卵焼きを箸でつまんだ。
「こっちが私の。水野くんのも一つ食べてみたいな」
「……いいけど」
航平は自分の卵焼きを一つ取り、結衣の差し出した小皿に載せた。
結衣も自分の卵焼きを彼の小皿に置く。
「ありがとう。いただきます!」
彼女は航平の卵焼きを口に運んだ。
少しの間、味を確かめるように噛んでから、目を丸くする。
「おいしい!」
「普通の卵焼きだけど」
「でも、おいしいよ。味付け、ちょうどいいね」
「……そうかな」
「うん。私、こういう味好き」
結衣はもう一口食べたいと言いかけて、慌てて首を振った。
「ごめんね。せっかくのお弁当なのに、もらっちゃって」
「別に、いいよ。俺も早坂のを食べてみたいし」
「本当? じゃあ、どうぞ」
航平は受け取った卵焼きを口に運んだ。
ほんのりとした甘さが広がる。
「おいしい」
「本当?」
「うん。俺は好きだな」
結衣が黙った。
ほんの一瞬だけ、視線が泳ぐ。
それから、彼女は頬をわずかに赤くして笑った。
「……そっか。よかった」
航平はその変化に気づいたものの、理由までは分からなかった。
自分の言葉が、彼女を喜ばせた。
それだけは分かった。
その事実が、なぜか嬉しかった。
「おーい、お二人さん」
背後から駿の声が飛んできた。
「何?」
航平が振り返る。
駿は購買のパンを片手に、にやにやと笑っていた。
「卵焼きの交換なんて、ずいぶん仲がいいじゃないか」
「ただ交換しただけだろ」
「へえー。俺にも一口くれよ、航平」
「嫌だ」
「即答!?」
「自分で買ってきたパンがあるだろ」
「そういう問題じゃねえ!」
明里が駿の肩を叩いた。
「人の弁当に口を出してないで、自分の昼ご飯を食べなさいよ」
「いや、俺だって交換くらいしたいだろ!」
「誰と?」
「……」
駿の視線が明里の弁当箱に向いた。
明里はすぐに察したらしい。
「絶対に嫌」
「まだ何も言ってないだろ!」
「顔に書いてあるのよ!」
蒼太がパンの袋を開けながら、ぼそりと呟いた。
「昼休みって、こんなに騒がしかったっけ」
「お前も楽しんでるだろ!」
「否定はしない」
結衣は笑いをこらえながら、もう一度弁当箱に目を落とした。
「みんなと食べるお昼って、楽しいね」
その言葉に、航平は何となく彼女を見た。
「……そうだね」
結衣は何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、水野くん。前に話した本、覚えてる?」
「ああ。日常の中に小さな変化がある話だよね」
「そう、それ!」
彼女は嬉しそうに頷いた。
「私、あの本を読み返してたんだけど、やっぱり好きだなって思ったの。大きな事件が起こるわけじゃないのに、登場人物たちの気持ちが少しずつ変わっていくところが好き」
「……分かる気がする」
「本当?」
「うん。何でもない一日でも、誰かと過ごすことで意味が変わることってあると思うから」
言ってから、航平は少し驚いた。
そんなことを、自分から話すつもりはなかった。
結衣も意外そうに彼を見ていた。
「水野くんって、そういうことも考えるんだね」
「どういう意味?」
「ううん。小説の話をしているときは、もっと難しいことを考えているのかなって思ってたから」
「……俺だって普通のことくらい考えるよ」
「ふふっ、ごめんごめん」
結衣は楽しそうに笑った。
「でも、今の言葉、好きだな」
航平の手が止まる。
「……え?」
「誰かと過ごすことで、一日が違う意味になるっていう話」
結衣は窓の外を見た。
春の風に揺れる木々の向こうで、運動部の生徒たちが走っている。
「私も、そう思うから」
その横顔は、いつもの明るい笑顔とは少し違って見えた。
穏やかで、どこか大切なものを思い浮かべているような顔だった。
航平は、何を言えばいいのか分からなかった。
けれど、今の言葉を忘れたくないと思った。
*
昼休みが終わるころ、結衣は弁当箱を片づけ始めた。
「今日は一緒に食べてくれてありがとう」
「いや、俺は別に……」
「また一緒に食べてもいい?」
航平は思わず彼女を見た。
結衣は少しだけ不安そうに、それでも期待するようにこちらを見つめている。
断る理由なんてなかった。
それなのに、航平は返事をするまでに一拍かかった。
「……もちろん」
口にしてから、自分の声が思ったよりも柔らかかったことに気づいた。
結衣の表情が明るくなる。
「よかった。じゃあ、また誘うね」
「うん」
「約束!」
結衣は小指を立てかけて、途中で思いとどまった。
「あ、でも、指切りするほどのことでもないか」
「……別に、してもいいけど」
「え?」
「いや、その……約束なら、別に」
自分でも何を言っているのか分からなくなった。
結衣は目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、約束ね」
彼女は小指を差し出した。
航平は少し迷ってから、自分の小指を絡めた。
ほんの一瞬、指先が触れる。
それだけなのに、妙に意識してしまった。
「ゆーびきりげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます」
結衣が小さな声で歌う。
航平も、ぎこちなくそれに合わせた。
指が離れる。
「これで約束成立!」
「……子どもみたいだな」
「いいじゃない。約束って、そういうところが大事なんだよ」
結衣は笑いながら、弁当袋を持ち上げた。
「じゃあ、またね、水野くん」
「うん。また」
彼女が教室を出ていく。
航平は、その背中を少しだけ目で追った。
そして、机の上に残された自分の弁当箱に視線を落とす。
卵焼きは一つ減っていた。
たったそれだけの変化だ。
けれど、いつも一人で食べていた昼食とは、何かが違っていた。
誰かと食べること。
自分の好きな味を相手に知ってもらうこと。
相手の好きな味を知ること。
次に一緒に食べる約束をすること。
どれも、特別な出来事とは呼べない。
それなのに、胸の奥に小さな温かさが残っていた。
「……なあ、航平」
いつの間にか隣に立っていた駿が、真剣な顔をしていた。
「お前、今、絶対に何か考えてただろ」
「……別に」
「いや、絶対に考えてた。しかも、ちょっと嬉しそうだった」
「気のせいだ」
「お前、最近そればっかりだな!」
明里が弁当箱を鞄にしまいながら、ため息をついた。
「駿。あんまりからかうと、航平が早坂さんと話しにくくなるでしょ」
「……え?」
航平は思わず明里を見た。
彼女は当たり前のことを言っただけという顔をしている。
「別に、からかうなって言ってるわけじゃないけど。二人が仲良くなるのは、二人の自由なんだから」
「明里……」
「何よ」
「お前、たまにはいいこと言うんだな」
「たまにはって何よ!」
駿と明里がまた言い合いを始める。
蒼太は二人を眺めてから、航平に視線を向けた。
「まあ、次の昼休みが楽しみだな」
「……何が?」
「さあ」
蒼太はそれ以上何も言わず、教室の外へ出ていった。
航平は小さく息を吐いた。
まったく、今日は妙なことばかり言われる。
そう思いながらも、頭の片隅では、すでに別のことを考えていた。
――次の昼休み。
結衣は、本当にまた来てくれるのだろうか。
*
放課後。
最後の授業が終わると、教室には帰り支度をする生徒たちの声が広がった。
航平は教科書を鞄にしまいながら、机の中からノートを取り出した。
授業中に思いついた物語の一節を書き留めておいたものだ。
以前なら、こうした思いつきはすべて物語の結末に向かっていた。
誰かが失い、誰かが傷つき、最後には取り返しのつかない別れが訪れる。
悲しい結末を書くことに、迷いはなかった。
しかし、最近は違う。
物語の途中で登場人物が誰かと笑う場面や、何気ない会話を交わす場面が、以前よりも長く頭に残るようになった。
今日の昼休みもそうだ。
結衣と交換した卵焼き。
彼女が「また一緒に食べてもいい?」と尋ねたときの表情。
小指を絡めたときの、ほんの少しのためらい。
どうして、そんなことばかり思い出してしまうのだろう。
「……小説の参考にでもするか」
誰に聞かせるでもなく呟き、ノートを開く。
ペン先を紙に当てる。
けれど、すぐには書き出せなかった。
何を書けばいいのか、分からなかったからだ。
悲しい出来事なら、いくらでも思いつく。
大切な人との別れ。
叶わなかった願い。
伝えられなかった言葉。
そうしたものなら、登場人物が何を考え、どんな表情をするのか、自然に想像できた。
けれど、誰かと昼食を食べて嬉しくなる気持ちは、どう書けばいいのだろう。
次の約束ができて、それを楽しみにしてしまう気持ちは。
指先が触れただけで、いつもと同じはずの時間が少し違って感じられることは。
航平は、ペンを持ったまま考え込んだ。
「……難しいな」
「何が難しいの?」
突然、すぐ近くから声がした。
航平は顔を上げた。
教室の入口に、結衣が立っていた。
「早坂……?」
「忘れ物を取りに来たの。そしたら水野くんがいたから」
結衣は自分の席のほうへ歩いていき、机の中から小さなポーチを取り出した。
「まだ帰ってなかったんだね」
「うん。ちょっと考え事をしてて」
「小説?」
「……まあ、そんなところ」
結衣は興味深そうにノートを覗き込んだ。
「何か書けた?」
「いや。まだ何も」
「そっか」
彼女は無理に見ようとはせず、ポーチを鞄にしまった。
それから、少し考えるように首を傾げる。
「ねえ、水野くん」
「何?」
「もしよかったら、今度、一緒に本屋さんに行かない?」
航平は目を瞬かせた。
「本屋?」
「うん。前に話した本、別の作品も読んでみてほしいんだ。それに、水野くんがどんな本を選ぶのかも気になるし」
「俺が選ぶ本?」
「そう。好きな人が好きなものって、ちょっと気にならない?」
結衣は言ってから、少しだけ首を傾げた。
「あ、今のは変な意味じゃなくてね。友達でも、好きな作家とか音楽とか、知りたくなることってあるでしょ?」
「……うん」
航平は頷いた。
けれど、彼女が言った「好きな人」という言葉が、なぜか耳に残っていた。
友達でも。
好きな人が好きなもの。
彼女は何気なく言っただけなのだろう。
それなのに、航平は返事をするまでに少し時間がかかった。
「……行こうか」
「本当?」
「うん。俺も、早坂がどんな本を好きなのか、もう少し知りたいし」
口にしてから、航平は自分の言葉を意識した。
知りたい。
そう思っていたのは、本当だった。
結衣は少し驚いたように彼を見たあと、ふわりと笑った。
「ありがとう。じゃあ、今度の土曜日はどう?」
「土曜日……」
航平は頭の中で予定を確認した。
特に用事はない。
「大丈夫だよ」
「やった! じゃあ、駅前の本屋さんで待ち合わせしよう」
「分かった」
「時間は、あとでメッセージするね」
そう言ってから、結衣は一瞬、何かを思い出したように口を閉じた。
「……あ、そうだ」
「どうしたの?」
「本屋さんのあと、お昼も一緒に食べない?」
航平は再び目を瞬かせた。
「お昼?」
「うん。せっかく出かけるんだし。私、駅前に気になってるお店があるんだ」
「……いいよ」
「本当? よかった!」
結衣は嬉しそうに両手を軽く合わせた。
「じゃあ、土曜日ね」
「うん。土曜日」
同じ言葉を繰り返す。
ただ、それだけで、約束が少しずつ現実になっていく気がした。
結衣が帰り支度を終え、教室の出口へ向かう。
扉の前で振り返り、彼女は笑った。
「また明日ね、水野くん」
「……うん。また明日」
扉が閉まる。
教室は、再び静かになった。
航平はしばらく、その場に立っていた。
土曜日。
駅前の本屋。
そのあと、一緒に昼食。
予定を書き留めるほど複雑な約束ではない。
けれど、忘れないようにしておこうと思った。
彼は鞄から手帳を取り出し、土曜日の欄に小さく書き込んだ。
――早坂と本屋に行く。
書き終えた文字を見つめる。
その下に、もう一言付け加えようかと考えた。
――楽しみ。
しかし、そこまで書いてしまうのは、何だか気恥ずかしかった。
航平はペンを置き、手帳を閉じた。
それでも、胸の奥に生まれた期待までは消えなかった。
*
その夜。
自室の机に向かった航平は、いつものようにノートを開いていた。
机の隅には、昼間に使った弁当箱が置かれている。洗って乾かしたあと、明日の準備のために出しておいたものだ。
何気なくそれを見て、昼休みのことを思い出す。
卵焼きを交換したこと。
結衣が「おいしい」と笑ったこと。
そして、次の約束をしたこと。
航平は小さく息を吐いた。
「……何なんだろうな、これ」
誰に尋ねるでもなく呟く。
答えはない。
そもそも、何を知りたいのかさえ、はっきりしていなかった。
ただ、明日も学校へ行けば、結衣に会える。
土曜日になれば、一緒に本屋へ行ける。
そう考えると、いつもより少しだけ、明日が楽しみだった。
航平はノートに目を落とした。
今日、書こうとして書けなかった物語の一節。
悲しい結末へ向かう登場人物ではなく、何でもない一日を過ごす登場人物のことを考えてみる。
誰かと昼食を食べる。
好きな本について話す。
次に会う約束をする。
それらの出来事には、劇的な展開などない。
けれど、その人物にとっては、きっと意味がある。
航平はペンを握り直した。
そして、ノートに一行を書いた。
――明日も、君に会えたらいいと思った。
書いたあと、しばらく動けなかった。
自分の気持ちを、そのまま文字にしたような一文だったからだ。
誰のための物語なのか。
誰に向けた言葉なのか。
今の航平には、まだ分からない。
けれど、書き直そうとは思わなかった。
窓の外では、春の夜が静かに更けていく。
航平はノートを閉じ、明日の準備を始めた。
明日も、学校へ行く。
いつもどおりの教室で、いつもどおりの授業を受ける。
そして、もしかしたら。
昼休みに、また彼女と話せるかもしれない。
その小さな可能性を、今の航平は楽しみにしていた。
まだ、それが恋なのかどうかは分からない。
ただ一つ確かなのは、彼の日常に、少しずつ新しい色が加わり始めているということだった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第七話では、航平と結衣が初めて一緒に昼食を取り、次の約束を交わしました。
二人にとっては、まだ友達としての小さな一歩です。
けれど、誰かの好きなものを知りたいと思うことや、次に会える日を楽しみにすることも、人との距離が近づいている証なのかもしれません。
次回は、二人が約束した本屋での時間を描いていきます。
航平と結衣の関係がどんなふうに変わっていくのか、これからも見守っていただけたら嬉しいです。




