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君に贈る最後の物語、最後の一輪に愛を込めて  作者: R×Y (Yazid)
第二章 涙の向こうにある物語.
8/16

第七話 君と過ごす昼休み

誰かと一緒に食べる昼食。


何気ない会話と、小さな約束。


それだけで、いつもの一日が少し違って見えることがあります。


航平はまだ、自分の心に生まれ始めた変化を知りません。


けれど、土曜日に結衣と過ごす時間を、少しだけ楽しみにしているようです。

 昼休みのチャイムが鳴る少し前から、教室の空気は落ち着きを失い始めていた。


「なあ航平。今日の昼、購買行くか?」


 隣の席から顔を覗かせた佐久間駿が、手に小銭を握りながら尋ねてくる。


「行かない」


「即答かよ。さては今日も弁当か?」


「そうだけど」


「いいよなあ、毎日弁当。俺なんて朝、母さんに起こされて、弁当を受け取って、玄関で靴を履いてる途中に家を追い出されたぞ」


「それ、弁当を作ってもらえてるだけ十分じゃない?」


 前の席で振り返った成瀬明里が、呆れた顔で口を挟んだ。


「追い出されたって、あんたが家を出る時間を守らなかっただけでしょ」


「細かいことは気にするな、明里」


「細かくない。毎朝のことでしょうが」


「お前、俺の母さんみたいなこと言うなよ!」


「誰が好き好んであんたのお母さんになるのよ!」


 いつもの言い合いが始まった。


 水野航平は、机の上に置いていた文庫本を閉じた。


 この二人は、朝からよくこれだけ言い合えるものだと思う。


 しかも不思議なことに、駿は明里に言い返されると余計に楽しそうな顔をする。明里のほうは本気で呆れているように見えるのだが、時折、ほんの一瞬だけ口元が緩むことがあった。


 もっとも、本人たちに指摘したところで認めるはずもない。


「お前ら、今日も元気だな」


 窓際の席で本を読んでいた橘蒼太が、顔を上げずに言った。


「蒼太も混ざれよ!」


「遠慮しておく。昼飯を食う前に疲れそうだから」


「冷たいな!」


「平和な判断だと思うけど」


 航平がそう付け加えると、駿がこちらを向いた。


「お前、最近ちょっと明里みたいになってない?」


「どういう意味だよ」


「俺に対する扱いが雑になった」


「気のせいだろ」


「その返し方がもう雑なんだよ!」


 教室のあちこちで笑い声が起きる。


 誰かが友達を呼び、別の誰かが机を動かす。窓の外からは運動部の掛け声が聞こえ、廊下を走る生徒を教師が注意する声も響いていた。


 高校三年生の春。


 受験や進路の話題が増え始めているとはいえ、昼休みの教室には、まだいつもどおりの騒がしさがあった。


 航平はその空気を嫌いではなかった。


 自分から輪の中心に入っていくことは少ない。けれど、こうして何でもない会話を聞きながら過ごす時間は、案外心地よかった。


 ――少なくとも、以前はそれで十分だった。


 ふと、昨日の放課後のことが頭をよぎる。


『じゃあ、また明日ね』


 早坂結衣は、別れ際にそう言って笑った。


 特別な言葉ではない。


 誰もが使う、ありふれた挨拶だ。


 それなのに、昨夜から何度も思い出している自分がいる。


 航平は眉間にしわを寄せた。


 なぜ、あんな一言が気になるのだろう。


「……航平?」


「ん?」


「今、絶対に俺の話を聞いてなかっただろ」


 駿の顔が目の前にあった。


「聞いてたよ」


「じゃあ、俺が何の話をしてたか言ってみろ」


「……購買のパンの話?」


「さっきの話だよ!」


「じゃあ、聞いてないな」


「認めるの早すぎだろ!」


 また笑い声が起きる。


 航平も小さく笑った。


 そのとき、昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴った。


 教室の空気が一気に緩む。


「よし、購買!」


 駿が勢いよく立ち上がった。


「明里、何か買ってきてやろうか?」


「いらない。お弁当あるから」


「じゃあ、俺の分も作ってくれ!」


「どうしてそうなるのよ!」


「将来の練習!」


「何の将来よ!」


 航平は鞄から弁当箱を取り出しながら、二人のやり取りを聞いていた。


 今日もいつもどおりの昼休み。


 そう思っていた。


 教室の入口から、聞き覚えのある声がするまでは。


「水野くん、いる?」


 その声に、航平の手が止まった。


 顔を上げる。


 入口に立っていたのは、早坂結衣だった。


 彼女は教室の中を見回し、航平を見つけると、ぱっと表情を明るくした。


「あ、いた!」


 まるで、探していたものをようやく見つけたような笑顔だった。


 航平は一瞬、返事を忘れた。


「……早坂?」


「うん。お昼、今から?」


「そうだけど……どうしたの?」


「一緒に食べてもいい?」


 あまりにも自然に尋ねられたせいで、航平はすぐに答えられなかった。


 一緒に食べる。


 つまり、結衣と。


 昼休みに。


 この教室で。


「……えっと」


「もしかして、誰かと約束してた?」


「いや、そういうわけじゃないけど」


「よかった!」


 結衣は安心したように笑った。


 その笑顔を見て、航平はようやく我に返った。


「……別に、いいけど」


「ありがとう!」


 彼女は嬉しそうに答えると、航平の机の近くまでやって来た。


 その様子を、駿が見逃すはずもなかった。


「おい、航平」


「何だよ」


「誰?」


「早坂さん」


「いや、それは見れば分かるわ!」


 駿は結衣と航平を交互に見た。


「え、待て。お前ら、いつの間にそんな仲良くなったんだ?」


「別に、そんな……」


「昨日も来てたよね?」


 明里が会話に加わった。


 結衣は彼女に向き直り、にこやかに頭を下げた。


「うん。昨日も少しお話ししたよ。成瀬さん、久しぶり!」


「久しぶり。去年の文化祭準備以来かな?」


「そうそう! あのとき、教室の飾り付けで一緒になったよね」


「そうだったね」


 明里は軽く笑ったあと、航平を見た。


「でも、航平と話してるところは初めて見たかも」


「そうなんです。水野くんの書いた小説を読ませてもらって、それで……」


「小説?」


 駿の目が輝いた。


「航平、お前、いつの間に女の子に小説を読ませる仲になったんだよ!」


「その言い方をやめろ!」


「へえ。航平の小説をねえ?」


 蒼太までこちらを見ていた。


「それは少し気になるな」


「蒼太まで乗らなくていいから」


 航平は額に手を当てた。


 結衣はそんな彼らを見て、くすくすと笑っている。


「みんな、仲がいいんだね」


「よくない!」


 駿と航平の声が重なった。


 明里が吹き出した。


「そこは息ぴったりじゃない」


「違うからな!」


 今度は駿だけが叫んだ。


 結衣はとうとう声を出して笑った。


 その笑顔につられて、航平も少しだけ口元を緩める。


 ――こういうふうに笑うんだ。


 彼女の笑顔を見るたび、航平は知らなかった一面を見つけるような気がした。


 小説の結末について真剣に尋ねてきたときの表情。


 物語の続きを楽しみにしていると伝えたときの、まっすぐな眼差し。


 そして今、友人たちの騒がしさを楽しそうに眺める笑顔。


 同じ人なのに、少しずつ違う。


 航平は自分でも気づかないうちに、彼女を目で追っていた。


     *


「それじゃあ、いただきます」


 結衣が手を合わせる。


「いただきます」


 航平も弁当箱の蓋を開けた。


 結衣は航平の向かい側ではなく、隣の空いている席を借りて座っていた。


 机を二つ寄せただけの、簡単な昼食の場所。


 それなのに、航平はいつもより少しだけ落ち着かなかった。


「水野くんのお弁当、きれいだね」


「そう?」


「うん。ちゃんと彩りがあるし、おいしそう」


「……ありがとう」


 褒められるとは思っていなかった。


 航平は箸で卵焼きをつまみ、口に運ぶ。


 結衣の弁当には、卵焼き、ブロッコリー、ミニトマト、それに小さなおにぎりが二つ入っていた。色の組み合わせがきれいで、どこか丁寧な印象を受ける。


「早坂の弁当も、おいしそうだね」


「本当?」


「うん」


「えへへ。よかった」


 結衣は少し照れたように笑った。


「今日は自分で作ったんだ」


「自分で?」


「うん。朝、ちょっと早く起きて。お母さんに手伝ってもらうこともあるけど、今日は自分で作ってみたの」


「すごいな」


「そんなことないよ。卵焼きなんて、何回か失敗したし」


「失敗?」


「最初は甘くしすぎちゃったの。それで慌てて調整したら、今度は味がよく分からなくなって……」


 結衣は思い出したように苦笑した。


「最後はちゃんと食べられる味になったから、大丈夫!」


「それはよかった」


「……水野くんは、料理するの?」


「簡単なものなら。卵を焼いたり、野菜を切ったり」


「へえ。じゃあ、今度教えてほしいな」


「俺が?」


「うん。何か一緒に作ったら楽しそうじゃない?」


 航平は箸を止めた。


 一緒に作る。


 結衣と。


 台所に並んで、料理をする。


 想像してみると、妙に現実味がなかった。


 いや、現実味がないというより、どうしてそんな場面を想像しているのか、自分でもよく分からない。


「……俺でよければ」


「やった!」


 結衣は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、いつか一緒に作ろうね」


「うん」


 たったそれだけの約束だった。


 日付も決まっていないし、何を作るかも決まっていない。


 それなのに、航平はその約束を忘れないようにしようと思った。


 ふと、結衣の視線が航平の弁当箱に向いた。


「ねえ、水野くん」


「何?」


「その卵焼き、一つもらってもいい?」


「え?」


「私のと交換しない?」


 結衣は自分の弁当箱に入っている卵焼きを箸でつまんだ。


「こっちが私の。水野くんのも一つ食べてみたいな」


「……いいけど」


 航平は自分の卵焼きを一つ取り、結衣の差し出した小皿に載せた。


 結衣も自分の卵焼きを彼の小皿に置く。


「ありがとう。いただきます!」


 彼女は航平の卵焼きを口に運んだ。


 少しの間、味を確かめるように噛んでから、目を丸くする。


「おいしい!」


「普通の卵焼きだけど」


「でも、おいしいよ。味付け、ちょうどいいね」


「……そうかな」


「うん。私、こういう味好き」


 結衣はもう一口食べたいと言いかけて、慌てて首を振った。


「ごめんね。せっかくのお弁当なのに、もらっちゃって」


「別に、いいよ。俺も早坂のを食べてみたいし」


「本当? じゃあ、どうぞ」


 航平は受け取った卵焼きを口に運んだ。


 ほんのりとした甘さが広がる。


「おいしい」


「本当?」


「うん。俺は好きだな」


 結衣が黙った。


 ほんの一瞬だけ、視線が泳ぐ。


 それから、彼女は頬をわずかに赤くして笑った。


「……そっか。よかった」


 航平はその変化に気づいたものの、理由までは分からなかった。


 自分の言葉が、彼女を喜ばせた。


 それだけは分かった。


 その事実が、なぜか嬉しかった。


「おーい、お二人さん」


 背後から駿の声が飛んできた。


「何?」


 航平が振り返る。


 駿は購買のパンを片手に、にやにやと笑っていた。


「卵焼きの交換なんて、ずいぶん仲がいいじゃないか」


「ただ交換しただけだろ」


「へえー。俺にも一口くれよ、航平」


「嫌だ」


「即答!?」


「自分で買ってきたパンがあるだろ」


「そういう問題じゃねえ!」


 明里が駿の肩を叩いた。


「人の弁当に口を出してないで、自分の昼ご飯を食べなさいよ」


「いや、俺だって交換くらいしたいだろ!」


「誰と?」


「……」


 駿の視線が明里の弁当箱に向いた。


 明里はすぐに察したらしい。


「絶対に嫌」


「まだ何も言ってないだろ!」


「顔に書いてあるのよ!」


 蒼太がパンの袋を開けながら、ぼそりと呟いた。


「昼休みって、こんなに騒がしかったっけ」


「お前も楽しんでるだろ!」


「否定はしない」


 結衣は笑いをこらえながら、もう一度弁当箱に目を落とした。


「みんなと食べるお昼って、楽しいね」


 その言葉に、航平は何となく彼女を見た。


「……そうだね」


 結衣は何かを思い出したように顔を上げた。


「そういえば、水野くん。前に話した本、覚えてる?」


「ああ。日常の中に小さな変化がある話だよね」


「そう、それ!」


 彼女は嬉しそうに頷いた。


「私、あの本を読み返してたんだけど、やっぱり好きだなって思ったの。大きな事件が起こるわけじゃないのに、登場人物たちの気持ちが少しずつ変わっていくところが好き」


「……分かる気がする」


「本当?」


「うん。何でもない一日でも、誰かと過ごすことで意味が変わることってあると思うから」


 言ってから、航平は少し驚いた。


 そんなことを、自分から話すつもりはなかった。


 結衣も意外そうに彼を見ていた。


「水野くんって、そういうことも考えるんだね」


「どういう意味?」


「ううん。小説の話をしているときは、もっと難しいことを考えているのかなって思ってたから」


「……俺だって普通のことくらい考えるよ」


「ふふっ、ごめんごめん」


 結衣は楽しそうに笑った。


「でも、今の言葉、好きだな」


 航平の手が止まる。


「……え?」


「誰かと過ごすことで、一日が違う意味になるっていう話」


 結衣は窓の外を見た。


 春の風に揺れる木々の向こうで、運動部の生徒たちが走っている。


「私も、そう思うから」


 その横顔は、いつもの明るい笑顔とは少し違って見えた。


 穏やかで、どこか大切なものを思い浮かべているような顔だった。


 航平は、何を言えばいいのか分からなかった。


 けれど、今の言葉を忘れたくないと思った。


     *


 昼休みが終わるころ、結衣は弁当箱を片づけ始めた。


「今日は一緒に食べてくれてありがとう」


「いや、俺は別に……」


「また一緒に食べてもいい?」


 航平は思わず彼女を見た。


 結衣は少しだけ不安そうに、それでも期待するようにこちらを見つめている。


 断る理由なんてなかった。


 それなのに、航平は返事をするまでに一拍かかった。


「……もちろん」


 口にしてから、自分の声が思ったよりも柔らかかったことに気づいた。


 結衣の表情が明るくなる。


「よかった。じゃあ、また誘うね」


「うん」


「約束!」


 結衣は小指を立てかけて、途中で思いとどまった。


「あ、でも、指切りするほどのことでもないか」


「……別に、してもいいけど」


「え?」


「いや、その……約束なら、別に」


 自分でも何を言っているのか分からなくなった。


 結衣は目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。


「じゃあ、約束ね」


 彼女は小指を差し出した。


 航平は少し迷ってから、自分の小指を絡めた。


 ほんの一瞬、指先が触れる。


 それだけなのに、妙に意識してしまった。


「ゆーびきりげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます」


 結衣が小さな声で歌う。


 航平も、ぎこちなくそれに合わせた。


 指が離れる。


「これで約束成立!」


「……子どもみたいだな」


「いいじゃない。約束って、そういうところが大事なんだよ」


 結衣は笑いながら、弁当袋を持ち上げた。


「じゃあ、またね、水野くん」


「うん。また」


 彼女が教室を出ていく。


 航平は、その背中を少しだけ目で追った。


 そして、机の上に残された自分の弁当箱に視線を落とす。


 卵焼きは一つ減っていた。


 たったそれだけの変化だ。


 けれど、いつも一人で食べていた昼食とは、何かが違っていた。


 誰かと食べること。


 自分の好きな味を相手に知ってもらうこと。


 相手の好きな味を知ること。


 次に一緒に食べる約束をすること。


 どれも、特別な出来事とは呼べない。


 それなのに、胸の奥に小さな温かさが残っていた。


「……なあ、航平」


 いつの間にか隣に立っていた駿が、真剣な顔をしていた。


「お前、今、絶対に何か考えてただろ」


「……別に」


「いや、絶対に考えてた。しかも、ちょっと嬉しそうだった」


「気のせいだ」


「お前、最近そればっかりだな!」


 明里が弁当箱を鞄にしまいながら、ため息をついた。


「駿。あんまりからかうと、航平が早坂さんと話しにくくなるでしょ」


「……え?」


 航平は思わず明里を見た。


 彼女は当たり前のことを言っただけという顔をしている。


「別に、からかうなって言ってるわけじゃないけど。二人が仲良くなるのは、二人の自由なんだから」


「明里……」


「何よ」


「お前、たまにはいいこと言うんだな」


「たまにはって何よ!」


 駿と明里がまた言い合いを始める。


 蒼太は二人を眺めてから、航平に視線を向けた。


「まあ、次の昼休みが楽しみだな」


「……何が?」


「さあ」


 蒼太はそれ以上何も言わず、教室の外へ出ていった。


 航平は小さく息を吐いた。


 まったく、今日は妙なことばかり言われる。


 そう思いながらも、頭の片隅では、すでに別のことを考えていた。


 ――次の昼休み。


 結衣は、本当にまた来てくれるのだろうか。


     *


 放課後。


 最後の授業が終わると、教室には帰り支度をする生徒たちの声が広がった。


 航平は教科書を鞄にしまいながら、机の中からノートを取り出した。


 授業中に思いついた物語の一節を書き留めておいたものだ。


 以前なら、こうした思いつきはすべて物語の結末に向かっていた。


 誰かが失い、誰かが傷つき、最後には取り返しのつかない別れが訪れる。


 悲しい結末を書くことに、迷いはなかった。


 しかし、最近は違う。


 物語の途中で登場人物が誰かと笑う場面や、何気ない会話を交わす場面が、以前よりも長く頭に残るようになった。


 今日の昼休みもそうだ。


 結衣と交換した卵焼き。


 彼女が「また一緒に食べてもいい?」と尋ねたときの表情。


 小指を絡めたときの、ほんの少しのためらい。


 どうして、そんなことばかり思い出してしまうのだろう。


「……小説の参考にでもするか」


 誰に聞かせるでもなく呟き、ノートを開く。


 ペン先を紙に当てる。


 けれど、すぐには書き出せなかった。


 何を書けばいいのか、分からなかったからだ。


 悲しい出来事なら、いくらでも思いつく。


 大切な人との別れ。


 叶わなかった願い。


 伝えられなかった言葉。


 そうしたものなら、登場人物が何を考え、どんな表情をするのか、自然に想像できた。


 けれど、誰かと昼食を食べて嬉しくなる気持ちは、どう書けばいいのだろう。


 次の約束ができて、それを楽しみにしてしまう気持ちは。


 指先が触れただけで、いつもと同じはずの時間が少し違って感じられることは。


 航平は、ペンを持ったまま考え込んだ。


「……難しいな」


「何が難しいの?」


 突然、すぐ近くから声がした。


 航平は顔を上げた。


 教室の入口に、結衣が立っていた。


「早坂……?」


「忘れ物を取りに来たの。そしたら水野くんがいたから」


 結衣は自分の席のほうへ歩いていき、机の中から小さなポーチを取り出した。


「まだ帰ってなかったんだね」


「うん。ちょっと考え事をしてて」


「小説?」


「……まあ、そんなところ」


 結衣は興味深そうにノートを覗き込んだ。


「何か書けた?」


「いや。まだ何も」


「そっか」


 彼女は無理に見ようとはせず、ポーチを鞄にしまった。


 それから、少し考えるように首を傾げる。


「ねえ、水野くん」


「何?」


「もしよかったら、今度、一緒に本屋さんに行かない?」


 航平は目を瞬かせた。


「本屋?」


「うん。前に話した本、別の作品も読んでみてほしいんだ。それに、水野くんがどんな本を選ぶのかも気になるし」


「俺が選ぶ本?」


「そう。好きな人が好きなものって、ちょっと気にならない?」


 結衣は言ってから、少しだけ首を傾げた。


「あ、今のは変な意味じゃなくてね。友達でも、好きな作家とか音楽とか、知りたくなることってあるでしょ?」


「……うん」


 航平は頷いた。


 けれど、彼女が言った「好きな人」という言葉が、なぜか耳に残っていた。


 友達でも。


 好きな人が好きなもの。


 彼女は何気なく言っただけなのだろう。


 それなのに、航平は返事をするまでに少し時間がかかった。


「……行こうか」


「本当?」


「うん。俺も、早坂がどんな本を好きなのか、もう少し知りたいし」


 口にしてから、航平は自分の言葉を意識した。


 知りたい。


 そう思っていたのは、本当だった。


 結衣は少し驚いたように彼を見たあと、ふわりと笑った。


「ありがとう。じゃあ、今度の土曜日はどう?」


「土曜日……」


 航平は頭の中で予定を確認した。


 特に用事はない。


「大丈夫だよ」


「やった! じゃあ、駅前の本屋さんで待ち合わせしよう」


「分かった」


「時間は、あとでメッセージするね」


 そう言ってから、結衣は一瞬、何かを思い出したように口を閉じた。


「……あ、そうだ」


「どうしたの?」


「本屋さんのあと、お昼も一緒に食べない?」


 航平は再び目を瞬かせた。


「お昼?」


「うん。せっかく出かけるんだし。私、駅前に気になってるお店があるんだ」


「……いいよ」


「本当? よかった!」


 結衣は嬉しそうに両手を軽く合わせた。


「じゃあ、土曜日ね」


「うん。土曜日」


 同じ言葉を繰り返す。


 ただ、それだけで、約束が少しずつ現実になっていく気がした。


 結衣が帰り支度を終え、教室の出口へ向かう。


 扉の前で振り返り、彼女は笑った。


「また明日ね、水野くん」


「……うん。また明日」


 扉が閉まる。


 教室は、再び静かになった。


 航平はしばらく、その場に立っていた。


 土曜日。


 駅前の本屋。


 そのあと、一緒に昼食。


 予定を書き留めるほど複雑な約束ではない。


 けれど、忘れないようにしておこうと思った。


 彼は鞄から手帳を取り出し、土曜日の欄に小さく書き込んだ。


 ――早坂と本屋に行く。


 書き終えた文字を見つめる。


 その下に、もう一言付け加えようかと考えた。


 ――楽しみ。


 しかし、そこまで書いてしまうのは、何だか気恥ずかしかった。


 航平はペンを置き、手帳を閉じた。


 それでも、胸の奥に生まれた期待までは消えなかった。


     *


 その夜。


 自室の机に向かった航平は、いつものようにノートを開いていた。


 机の隅には、昼間に使った弁当箱が置かれている。洗って乾かしたあと、明日の準備のために出しておいたものだ。


 何気なくそれを見て、昼休みのことを思い出す。


 卵焼きを交換したこと。


 結衣が「おいしい」と笑ったこと。


 そして、次の約束をしたこと。


 航平は小さく息を吐いた。


「……何なんだろうな、これ」


 誰に尋ねるでもなく呟く。


 答えはない。


 そもそも、何を知りたいのかさえ、はっきりしていなかった。


 ただ、明日も学校へ行けば、結衣に会える。


 土曜日になれば、一緒に本屋へ行ける。


 そう考えると、いつもより少しだけ、明日が楽しみだった。


 航平はノートに目を落とした。


 今日、書こうとして書けなかった物語の一節。


 悲しい結末へ向かう登場人物ではなく、何でもない一日を過ごす登場人物のことを考えてみる。


 誰かと昼食を食べる。


 好きな本について話す。


 次に会う約束をする。


 それらの出来事には、劇的な展開などない。


 けれど、その人物にとっては、きっと意味がある。


 航平はペンを握り直した。


 そして、ノートに一行を書いた。


 ――明日も、君に会えたらいいと思った。


 書いたあと、しばらく動けなかった。


 自分の気持ちを、そのまま文字にしたような一文だったからだ。


 誰のための物語なのか。


 誰に向けた言葉なのか。


 今の航平には、まだ分からない。


 けれど、書き直そうとは思わなかった。


 窓の外では、春の夜が静かに更けていく。


 航平はノートを閉じ、明日の準備を始めた。


 明日も、学校へ行く。


 いつもどおりの教室で、いつもどおりの授業を受ける。


 そして、もしかしたら。


 昼休みに、また彼女と話せるかもしれない。


 その小さな可能性を、今の航平は楽しみにしていた。


 まだ、それが恋なのかどうかは分からない。


 ただ一つ確かなのは、彼の日常に、少しずつ新しい色が加わり始めているということだった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第七話では、航平と結衣が初めて一緒に昼食を取り、次の約束を交わしました。


二人にとっては、まだ友達としての小さな一歩です。


けれど、誰かの好きなものを知りたいと思うことや、次に会える日を楽しみにすることも、人との距離が近づいている証なのかもしれません。


次回は、二人が約束した本屋での時間を描いていきます。


航平と結衣の関係がどんなふうに変わっていくのか、これからも見守っていただけたら嬉しいです。

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