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君に贈る最後の物語、最後の一輪に愛を込めて  作者: (R× Y)ヤジド パシャ
第一章 出会いを紡ぐ物語
7/22

第六話 また明日、と言える相手

誰かと話したいと思うこと。


明日も会えたらいいなと思うこと。


航平にとって、それは今まであまり意識したことのない気持ちでした。


何でもない日常の中で、彼の心に小さな変化が生まれ始めます。

 目を覚ましたとき、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。


 枕元の時計を見る。


 いつもと同じ時間だった。


 慌てて起きる必要もなければ、二度寝をする余裕もない。学校へ行く準備を始めるには、ちょうどいい時間だ。


 俺は布団から出て、洗面所へ向かった。


 顔を洗い、制服に着替え、朝食を取る。


 いつもどおりの朝。


 昨日の夜に書いた日記は、机の引き出しにしまってある。物語の続きを書いたノートも、その隣に置いたままだ。


 どちらも、まだ大したものではない。


 誰かに見せるほどの内容でもないし、読み返して感心するような文章でもない。


 それでも、昨夜はいつもより長く机に向かっていた。


 何を書こうかと考える時間が、思ったよりも楽しかったからだ。


「……そろそろ行くか」


 鞄を持ち、玄関を出る。


 春の空気は少し冷たかったが、歩いているうちに心地よくなってきた。


 通学路には、同じ制服を着た生徒たちがいる。


 前を歩く二人組は、昨日の授業で出された課題について話していた。少し離れたところでは、誰かが友達を見つけて手を振っている。


 どこにでもある、いつもの朝の風景だ。


 俺は歩きながら、昨日の放課後を思い出した。


 結衣と二人で話したこと。


 好きな本のこと。


 彼女が手帳に書き残している、何でもない出来事のこと。


 そして、別れ際に交わした言葉。


 ――また明日。


 ただの挨拶だ。


 明日も学校で会うのだから、特別な意味などない。


 そう分かっているのに、思い出すと少しだけ気持ちが軽くなる。


「……何を考えてるんだ、俺は」


 小さく呟いて、歩く速度を少し上げた。


 考えすぎるのは、いつもの悪い癖だ。


 今日は今日で、やらなければならないことがある。


 課題もあるし、授業もある。放課後に残って物語を書くかどうかだって、まだ決めていない。


 だから、まずは目の前の一日を過ごせばいい。


 そう考えて、俺は学校へ向かった。


     *


 教室に入ると、駿の声が真っ先に聞こえてきた。


「だから、これは俺のせいじゃないって!」


「どう考えても佐久間のせいでしょ」


「成瀬、お前は俺の話を最後まで聞いたのか!?」


「聞いたうえで言ってるの」


「ひどすぎる!」


 どうやら、朝から何かあったらしい。


 俺は鞄を机に置き、二人のほうを見た。


「おはよう。今度は何をしたんだ?」


「航平! 聞いてくれ!」


「うん。何をしたんだ?」


「最初から俺が悪い前提で話すな!」


 駿は机の上に置かれたプリントを指差した。


「昨日、グループで提出する課題があっただろ?」


「うん」


「俺、ちゃんと自分の担当分はやってきたんだよ」


「それで?」


「家で印刷しようとしたら、プリンターのインクが切れてた」


「……それは、まあ」


「だから、朝、学校で印刷しようと思ってたんだ!」


 明里がすかさず口を挟む。


「その結果、家を出る時間が遅くなって、駅まで走って、途中でプリントを落としたんでしょ?」


「……はい」


「しかも、拾ってくれた人にお礼を言うのを忘れた」


「……はい」


「それで、提出する分が一枚足りなくなった」


「……はい」


「どう考えても、計画性がないだけじゃない」


「うぐっ……!」


 駿が机に突っ伏した。


「俺の青春、厳しい……」


「青春と計画性は関係ないと思うぞ」


 俺が言うと、明里が頷いた。


「そうそう。航平の言うとおり」


「お前ら、息ぴったりすぎないか!?」


「意見が一致してるだけだよ」


「それが一番つらいんだよ!」


 駿が顔を上げ、俺をじっと見た。


「……ところで航平」


「何だよ」


「お前、最近ちょっと機嫌よくない?」


「は?」


 あまりに突然の質問だったので、思わず聞き返してしまった。


「そうかな」


「そうだよ。今だって、いつもよりよく笑ってる」


「気のせいだろ」


「いや、俺の観察眼は確かだ」


「その観察眼で、昨日の課題の準備不足にも気づければよかったのにね」


「成瀬、お前は少し黙ってろ!」


 明里が笑う。


 俺は鞄から教科書を取り出しながら、駿の言葉を考えていた。


 機嫌がいい。


 そう見えるのだろうか。


 自分では、特に変わったつもりはなかった。


 ただ、昨日のことを思い出していただけだ。


 誰かと話したことを、もう一度思い返す。


 次に会ったら何を話そうかと、少しだけ考える。


 それだけのことが、そんなに顔に出るものなのだろうか。


「……お前、何か知ってるのか?」


 駿が、探るように目を細めた。


「何も知らないよ」


「本当か?」


「本当」


「ふーん……」


 駿は納得していない様子だったが、そこへ藤本先生が教室に入ってきた。


「おはよう。佐久間、席に着け。朝から元気なのは結構だが、授業が始まる前に教室を騒がしくしすぎないようにな」


「はい!」


「返事だけはいいな」


 先生が苦笑する。


 教室に笑い声が広がった。


 駿は渋々席に戻り、俺も教科書を開いた。


 ホームルームが始まる。


 連絡事項を聞き、課題の提出状況を確認し、今日の授業の準備をする。


 何でもない朝だった。


 けれど、駿に指摘されたことが、なぜか頭の片隅に残っていた。


 俺は、そんなに機嫌がよさそうに見えるのだろうか。


 答えは分からなかった。


 ただ、一つだけ思った。


 もし本当にそう見えるのなら、悪い気はしない。


 その理由を、無理に考える必要もない気がした。


     *


 午前中の授業は、いつもどおりに進んだ。


 黒板に書かれる文字をノートに写し、先生の説明を聞き、問題を解く。


 休み時間には、駿が昨日のテレビ番組について熱く語り、明里がその内容に突っ込みを入れていた。


 蒼太は二人の話を聞きながら、時折、短い一言で会話を終わらせる。


 そのたびに駿が抗議し、明里が笑う。


 変わらない日常。


 それなのに、休み時間が終わるたびに、俺は少しだけ時計を気にしていた。


 理由は分かっている。


 結衣に会いたかった。


 ……いや。


 別に、今すぐ会わなければならないわけではない。


 話したいことが山ほどあるわけでもない。


 昨日のように、好きな本の話をするだけでもいい。何か面白いことがあったのなら、それを聞かせてもらうだけでもいい。


 それだけでいいと思っていた。


 しかし、昼休みになっても、結衣は俺の教室には現れなかった。


 当然だ。


 彼女にも自分の教室があり、友達がいて、やることがある。


 俺と話すためだけに、毎回こちらへ来る理由などない。


 そう分かっているのに、少しだけ拍子抜けしてしまった。


「航平、箸が止まってるぞ」


 駿の声で我に返った。


「……え?」


「さっきから、ずっと同じところを見てる」


「そうか?」


「そうだよ。弁当、食べないならもらうぞ」


「食べるよ」


「じゃあ、早く食べろ。昼休みが終わる」


 駿は自分のパンを食べながら、俺の弁当を見ていた。


「……何だよ」


「いや、最近のお前、分かりやすいなと思って」


「何がだよ」


「何かを待ってるときの顔」


 俺は箸を止めた。


「……待ってない」


「じゃあ、何で廊下のほうを見てたんだ?」


「見てない」


「見てたよ」


 明里が即座に答えた。


「私も見た。さっきから何度も入口を気にしてたでしょ」


「……お前ら、食事に集中したらどうだ?」


「話を逸らしたね」


「逸らしてない」


「逸らしてるよ」


 蒼太が静かに弁当を食べながら言った。


「……まあ、誰かと話したいと思うのは、別に悪いことじゃないだろ」


 その言葉に、俺は黙った。


 蒼太は俺を見ずに続けた。


「相手にも都合があるから、毎回うまくいくとは限らないけどな」


「……分かってるよ」


「なら、いいんじゃないか」


 蒼太はそれだけ言って、再び箸を動かした。


 駿は俺と蒼太を交互に見たあと、何かを言いかけた。


 しかし、明里が先に口を開いた。


「佐久間。今、余計なことを言おうとしたでしょ」


「な、何のことだ?」


「顔に書いてある」


「そんな馬鹿な!」


「書いてあるよ。『ここでからかったら面白そう』って」


「成瀬、お前の洞察力は恐ろしいな……!」


「褒めても何も出ないよ」


 いつもの調子に戻った二人を見て、俺は小さく笑った。


 そうだ。


 会えないからといって、今日という日がつまらなくなるわけではない。


 友達と昼食を食べて、くだらない話をして、午後の授業を受ける。


 それだって、俺にとっては大切な時間だ。


 結衣と出会う前から、こういう日々はずっと続いていた。


 今さら、それを忘れる必要はない。


 ただ、その日々の中に、もう一つ楽しみが増えただけなのだ。


 そう考えると、少しだけ気持ちが落ち着いた。


「……よし」


「何がよしなんだ?」


 駿が首を傾げる。


「何でもない」


「怪しいなあ……」


「いいから食べろ」


「はいはい」


 駿は不満そうにしながらも、残りのパンを口に運んだ。


 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。


 俺たちは弁当箱を片づけ、午後の授業の準備を始めた。


     *


 午後の授業が終わる頃には、窓の外の光が少し傾いていた。


 藤本先生が最後に課題について説明し、明日までに必要なものを確認する。


「それから、来週の予定については、明日もう一度連絡する。聞き逃さないようにな。以上だ」


 先生が教室を出ていくと、あちこちから椅子を引く音が響いた。


「終わったあああ!」


 駿が大きく伸びをした。


「まだ課題が残ってるでしょ」


 明里が冷静に言う。


「聞こえない!」


「現実から逃げるな」


「今日はもう十分頑張った!」


「何を?」


「授業を受けた!」


「全員そうだよ」


 蒼太が鞄を持ち上げた。


「……俺は図書室に寄ってから帰る」


「お、何の本を借りるんだ?」


「課題に使う資料」


「真面目か!」


「お前も少しは見習ったら?」


 明里が駿を指差す。


「俺は俺のやり方で頑張る!」


「そのやり方で昨日プリントを落としたんでしょ」


「まだその話をするのか!?」


 俺は笑いながら、教科書を鞄にしまった。


 今日はどうしよう。


 まっすぐ帰ってもいいし、図書室へ寄ってもいい。


 昨日の続きを書くのも悪くない。


 結衣とは、今日まだ話していない。


 彼女が何をしているのか、何か変わったことがあったのか、少し気になった。


 しかし、こちらから会いに行く理由があるわけでもない。


 昨日は向こうから来てくれた。


 だからといって、今日も同じように会えるとは限らない。


 ……そう考えながら、俺は鞄を持ち上げた。


「航平」


 駿が、教室の出口で振り返った。


「今日は一緒に帰るか?」


「……そうだな」


 今日は、こいつらと帰るのもいいかもしれない。


 そう思って頷きかけたとき。


「水野くん!」


 廊下から声がした。


 聞き覚えのある声だった。


 俺は、ゆっくりと顔を上げた。


 教室の入口に、結衣が立っていた。


 片手に鞄を持ち、少しだけ息を弾ませている。


 どうやら、俺を探していたらしい。


「……早坂さん?」


「よかった、まだいた」


 結衣は安心したように笑った。


「帰っちゃったかと思った」


「いや、今ちょうど帰ろうとしてたところだけど」


「そっか。間に合ってよかった」


 彼女は胸元の鞄の紐を握り直した。


 俺は、何を聞けばいいのか分からなくなった。


 今日、初めて顔を合わせた。


 それなのに、彼女が自分を探してくれたという事実だけで、胸の奥が少し温かくなった。


「……何かあった?」


「ううん。大したことじゃないんだけど」


 結衣は一度、廊下のほうを振り返った。


「昨日、話してた本のことなんだけどね」


「本?」


「うん。私が好きだって言った、日常の何気ない出来事を描いた小説」


「ああ」


「それで、今朝、家を出る前に本棚を見てたら、前に読んだ本を思い出したの。水野くんも好きそうだなって思って」


 結衣は少し照れくさそうに笑った。


「だから、今度、題名を教えようと思って」


 俺は、すぐには答えられなかった。


 彼女は、昨日の会話を覚えていた。


 俺がどんな本を読むのかを聞き、好きな物語について話したことを。


 そして、その会話を思い出して、俺にも教えてみようと思ってくれた。


 それが、こんなに嬉しいことだとは思わなかった。


「……ありがとう」


「え?」


「覚えていてくれたんだなと思って」


 結衣は一瞬きょとんとしたあと、笑った。


「だって、昨日話したばかりだよ?」


「……それもそうか」


「もう。水野くんって、ときどき不思議なことを言うね」


「よく言われる」


「佐久間くんとか?」


「……主に佐久間」


 結衣が楽しそうに笑った。


 その笑顔を見ていると、俺まで自然に笑ってしまう。


 少し離れたところでは、駿が口元を押さえていた。


 嫌な予感がする。


「……佐久間」


「はい!」


「何も言うなよ」


「まだ何も言ってないだろ!」


「顔に出てる」


「成瀬と同じことを言うな!」


 明里は呆れたようにため息をついた。


「ほら、佐久間。帰るよ。二人の邪魔をしない」


「邪魔って何だよ! 俺は親友として見守っているだけだ!」


「それを邪魔って言うの」


「ぐっ……!」


 駿は悔しそうに顔をしかめたあと、俺を指差した。


「航平! 明日、ちゃんと報告しろよ!」


「何の報告だ!」


「それは明日のお楽しみだ!」


「勝手に決めるな!」


 駿と明里は言い争いながら教室を出ていった。


 蒼太も、去り際に一言だけ残した。


「……また明日」


「うん。また明日」


 教室に残ったのは、俺と結衣だけだった。


 昨日と同じように、夕方の光が窓から差し込んでいる。


 けれど、今日は昨日よりも少しだけ、自然に話せる気がした。


     *


「それで、どんな本なの?」


 俺が尋ねると、結衣は嬉しそうに題名を教えてくれた。


 俺はその名前を聞いたことがなかった。


「知らないな……」


「本当? じゃあ、今度持ってこようか?」


「いいの?」


「うん。私の家にあるから」


「それなら、読んでみたい」


「よかった!」


 結衣は、まるで自分の好きなものを褒められたように喜んだ。


「すごく派手な話じゃないんだけどね。主人公が友達と話したり、家族と食事をしたり、帰り道に寄り道したりする話なの」


「……面白そうだね」


「うん。読んでいると、主人公の友達まで好きになっちゃうんだよ」


「それは、いい小説だな」


「でしょ?」


 結衣は得意げに頷いた。


「それでね、私が一番好きなのは、主人公が何でもない日に『今日はいい日だったな』って思うところなの」


「何でもない日なのに?」


「そう。特別なことがあったわけじゃないんだよ。ただ、友達と笑って、ご飯を食べて、帰り道に少し遠回りしただけ」


 彼女は窓の外へ視線を向けた。


「でも、そういう日って、あとから思い出すと、結構大切だったりするでしょう?」


「……そうかもしれない」


「だから、私はその場面が好きなんだ」


 俺は、彼女の言葉を聞きながら、昨日の自分の日記を思い出した。


 今日、結衣と放課後に話をした。


 好きな本について教えてもらった。


 明日も、また話せたらいいと思った。


 何でもないことばかりだ。


 誰かに話しても、特別面白い話にはならないだろう。


 けれど、俺はそれを書き残した。


 忘れたくないと思ったからだ。


「……早坂さん」


「何?」


「その小説、読んだら感想を話してもいい?」


「もちろん!」


 結衣は、すぐに頷いた。


「私も、水野くんがどう思ったのか聞きたい」


「分かった。じゃあ、今度読んでみるよ」


「約束ね」


「うん、約束」


 二人で笑った。


 それから、俺たちは教室を出た。


 昇降口へ向かう廊下には、まだ何人かの生徒が残っていた。部活動へ向かう生徒たちが走っていき、窓際では、帰り支度を終えた女子生徒たちが楽しそうに話している。


 階段を下り、靴を履き替える。


 校門を出ると、春の風が頬を撫でた。


「水野くんは、これから帰るの?」


「うん。早坂さんは?」


「私も。途中まで同じ方向だと思うよ」


「そうなんだ」


「うん。だから、少し一緒に歩いてもいい?」


 俺は、思わず彼女の顔を見た。


 結衣は、何でもないことのように笑っている。


 それなのに、俺の胸は少しだけ騒がしくなった。


「……もちろん」


 そう答えると、彼女は嬉しそうに頷いた。


 俺たちは並んで歩き始めた。


 学校の周りには、帰宅する生徒たちの姿があった。


 自転車に乗って帰る者。友達と寄り道の相談をしている者。部活動の道具を抱えて歩く者。


 俺たちも、その中の一組にすぎない。


「そういえば、早坂さんは、学校が終わったあとって何をしてるの?」


 昼休みに考えていたことを思い出し、俺は尋ねてみた。


「日によるかな。家に帰って宿題をしたり、買い物を頼まれたり、友達と寄り道したり」


「寄り道もするんだ」


「するよ? 水野くんはしないの?」


「俺は、基本的にはまっすぐ帰るかな」


「そっか。じゃあ、今度一緒に寄り道してみる?」


「……え?」


 結衣は、少しだけ悪戯っぽく笑った。


「嫌?」


「いや、嫌じゃないけど……」


「じゃあ、決まり!」


「まだ、どこに行くかも決めてないだろ」


「あっ、それもそうだね」


 彼女は少し考え込んだ。


「うーん……本屋さんとか?」


「本屋?」


「うん。私、よく本屋さんに行くんだ。新しい本を見たり、気になった本の表紙を眺めたりするのが好きで」


「それなら、俺も行ってみたい」


「本当? じゃあ、今度ね」


「うん」


 今度。


 その言葉が、また一つ増えた。


 今度、本を持ってきてもらう。


 今度、感想を話す。


 今度、一緒に本屋へ行く。


 どれも、まだ実現していない約束だ。


 けれど、実現していないからこそ、これから先に続いている。


 そんなふうに思えた。


 しばらく歩くと、道が二つに分かれる交差点に着いた。


 結衣が足を止める。


「あ、私、こっちだから」


「そっか」


「水野くんは?」


「俺は反対側」


「じゃあ、ここまでだね」


「うん」


 結衣は鞄を持ち直した。


 少しだけ風が吹き、彼女の髪が揺れる。


「今日はありがとう」


「……え? 何が?」


「一緒に帰ってくれて」


「いや、俺も楽しかったよ」


 そう答えると、結衣は嬉しそうに笑った。


「よかった」


 それから、いつものように手を振った。


「また明日、 水野くん」


 俺も手を振り返した。


「……また明日、早坂さん」


 彼女は交差点を曲がり、少しずつ遠ざかっていく。


 俺はその背中を見送ったあと、自分の帰り道へ向き直った。


 また明日。


 昨日も聞いた言葉。


 今日も交わした言葉。


 明日になれば、また同じように会えるかもしれない。


 そう思うと、自然と足取りが軽くなった。


     *


 家に帰り、夕食を済ませたあと、俺は自分の部屋へ向かった。


 机の引き出しを開け、二冊のノートを取り出す。


 一冊は物語を書くためのもの。


 もう一冊は、日々の出来事を書き残すためのもの。


 俺はまず、日記のノートを開いた。


 今日の日付を書く。


 それから、しばらく考えた。


 朝、駿に機嫌がいいと指摘されたこと。


 授業を受けたこと。


 昼休みに、いつもの友人たちと話したこと。


 放課後、結衣が本を紹介してくれたこと。


 そして、一緒に帰ったこと。


 書きたいことは、昨日よりも少しだけ増えていた。


 俺はペンを動かした。


 ――今日は、早坂結衣と一緒に帰った。


 ――彼女は、俺が知らなかった本を教えてくれた。


 ――今度、一緒に本屋へ行くことになった。


 そこまで書いて、俺は少しだけ笑った。


 こうして並べてみると、本当に何でもない出来事ばかりだ。


 けれど、今日という一日を振り返ると、昨日よりも少しだけ、たくさんのことを思い出せる。


 彼女の声。


 笑った顔。


 本の話をするときの、楽しそうな表情。


 そして、別れ際の言葉。


 ――また明日。


 俺は、その一文を日記に書き加えようとして、ペンを止めた。


 別に、わざわざ書かなくてもいい。


 毎日交わす挨拶なのだから。


 けれど、少し考えたあと、俺はその言葉を書き残した。


 ――また明日、と言える相手がいる。


 書き終えた瞬間、胸の奥が少しだけくすぐったくなった。


「……何を書いてるんだ、俺は」


 昨日も、同じようなことを呟いた気がする。


 自分の気持ちを文章にするのは、思っていたより難しい。


 物語の登場人物なら、いくらでも考えられる。


 悲しんだ理由も、怒った理由も、誰かを大切に思う理由も。


 それなのに、自分のことになると、途端に言葉が見つからなくなる。


 俺は日記を閉じ、物語のノートを開いた。


 昨夜までに書いた文章を読み返す。


 少年は朝を迎え、窓を開ける。


 花に水をやり、朝食を食べる。


 それから、一日を過ごしていく。


 その先に、どんな出来事を書けばいいのだろう。


 今までなら、悲しい出来事を用意していたかもしれない。


 少年が新しい人と出会い、その人を大切に思うようになる。


 そして、再び失う。


 そうすれば、物語に悲しみを加えることができる。


 けれど、今はそれだけでは足りない気がした。


 悲しい出来事が起こるまでの時間。


 誰かと笑ったこと。


 何でもない話をしたこと。


 相手の好きなものを知り、少しだけ世界が広がったこと。


 そういう時間があってこそ、失ったときの悲しみも生まれるのではないだろうか。


 いや、それだけではない。


 失わなかったとしても、その時間自体に意味があるのかもしれない。


 俺はペンを手に取り、ノートの続きを書き始めた。


 今度は、悲しい結末を考えるためではない。


 少年が、どんな一日を過ごすのか。


 何を見て、何を感じて、誰と話すのか。


 それを、少しずつ書いてみようと思った。


 もちろん、すぐに上手く書けるわけではない。


 何度も言葉を消し、書き直した。


 けれど、今日は途中でペンを置かなかった。


 気づけば、時計の針は思っていたよりも進んでいた。


 俺はノートを閉じ、机の上を片づけた。


 明日も学校がある。


 授業があって、駿が騒いで、明里が呆れて、蒼太が冷静な一言を放つ。


 そして、結衣に会えるかもしれない。


 明日、何を話そう。


 紹介してもらった本のことを、もう少し聞いてみようか。


 それとも、昨夜書いた物語の続きを、少しだけ見せてみようか。


 そんなことを考えているうちに、自然と笑みが浮かんだ。


 俺は、ようやく気づき始めていた。


 明日を楽しみにすることは、何か特別な予定があるときだけではないのだ。


 誰かと会うこと。


 言葉を交わすこと。


 今日の続きを、また一緒に過ごせるかもしれないと思うこと。


 それだけでも、明日を待つ理由になる。


 机の明かりを消す前に、俺はもう一度、日記のノートを開いた。


 最後の一文を読み返す。


 ――また明日、と言える相手がいる。


 それは、俺が今まで書いてきた物語には、あまり登場しなかった言葉だった。


 悲しい結末の中には、別れの言葉がある。


 もう会えないという言葉がある。


 取り返しのつかない後悔や、伝えられなかった気持ちがある。


 けれど、明日も会えるという言葉は、ほとんど書いたことがなかった。


 当たり前すぎて、物語にする価値がないと思っていたのかもしれない。


 今なら、少しだけ分かる気がした。


 当たり前だからといって、大切ではないわけではない。


 いつも交わしている言葉だからといって、何も感じないわけではない。


 その言葉を交わせる相手がいること自体が、いつか振り返ったとき、かけがえのないものになることだってある。


 俺はノートを閉じた。


「……また明日、か」


 小さく呟いて、部屋の明かりを消した。


 明日も、いつもと同じような一日が始まるだろう。


 それでも、今日とは少しだけ違う一日になるかもしれない。


 そう思いながら、俺は眠りについた。


     *


 翌朝。


 教室の窓から、柔らかな光が差し込んでいた。


 俺が席に着くと、駿がいつものように話しかけてきた。


「おはよう、航平」


「おはよう」


「……何か、今日も機嫌よさそうだな」


「そうか?」


「そうだよ」


 駿は、にやりと笑った。


「まあ、悪いことじゃないけどな」


「……何だよ、それ」


「別に?」


 駿は肩をすくめ、自分の席へ戻っていった。


 しばらくして、明里が教室に入ってきた。


「おはよう。佐久間、朝から何をにやにやしてるの?」


「いや、航平がな」


「また航平?」


「最近、ちょっと変わったんだよ」


 明里は俺を見た。


「……そう?」


「そうなんだよ!」


 駿が大げさに頷く。


 俺はため息をついた。


「お前ら、朝から人のことを話題にするな」


「ごめんごめん」


 明里は笑いながら、自分の席へ向かった。


 俺は教科書を取り出し、机の上を整えた。


 いつもどおりの朝。


 何も変わっていない。


 けれど、教室の入口から誰かが入ってくるたびに、ほんの少しだけ目が向いてしまう。


 そして、しばらくして。


「水野くん、おはよう!」


 聞き覚えのある声がした。


 顔を上げる。


 結衣が、教室の入口から手を振っていた。


「……おはよう、早坂さん」


 俺も手を振り返す。


 彼女は友達に何かを言ってから、こちらへ歩いてきた。


「昨日話してた本なんだけどね、今度持ってくるね」


「うん。楽しみにしてる」


「それから、本屋さんのことも覚えてるからね」


「……覚えてるよ」


「よかった!」


 結衣は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、またあとでね」


「うん。またあとで」


 彼女は自分の教室へ戻っていった。


 その背中を見送ってから、俺は机の上の教科書へ視線を落とした。


 胸の奥が、少しだけ温かかった。


 昨日、日記に書いた言葉を思い出す。


 ――また明日、と言える相手がいる。


 今日も、その言葉を交わせた。


 それだけのことだ。


 それだけのことなのに、嬉しいと思った。


 俺は、そっと息を吐いた。


 悲しい物語を書くことしか知らなかった少年は、まだ、幸せというものをよく知らない。


 明日が来ることの意味も。


 誰かと過ごす時間の価値も。


 まだ、全部は分からない。


 けれど、少しずつ知っていけばいいのだと思った。


 今日の出来事を覚えておこう。


 明日も、また話そう。


 その先に何があるのかは、まだ分からない。


 それでも。


 今はただ、この何でもない日々が続いていくことを、少しだけ楽しみにしていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第六話では、航平が結衣と交わす「また明日」という言葉を、少しずつ特別に感じ始める様子を描きました。


二人はまだ恋人ではありません。お互いのことも、知り始めたばかりです。


それでも、相手の好きなものを知りたいと思うこと。次に会える日を楽しみにすること。そして、何でもない会話を心に残しておくこと。


そんな小さな変化が、航平の日常を少しずつ変えていきます。


これで、第一章「出会いを紡ぐ物語」は一区切りとなります。


悲しい結末ばかりを書いていた少年と、自分の物語の続きを知りたいと願う少女。


二人の出会いが、この先どんな時間につながっていくのか。


次の章でも、二人の日常と、少しずつ変化していく関係を見守っていただけたら嬉しいです。

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