第六話 また明日、と言える相手
誰かと話したいと思うこと。
明日も会えたらいいなと思うこと。
航平にとって、それは今まであまり意識したことのない気持ちでした。
何でもない日常の中で、彼の心に小さな変化が生まれ始めます。
目を覚ましたとき、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
枕元の時計を見る。
いつもと同じ時間だった。
慌てて起きる必要もなければ、二度寝をする余裕もない。学校へ行く準備を始めるには、ちょうどいい時間だ。
俺は布団から出て、洗面所へ向かった。
顔を洗い、制服に着替え、朝食を取る。
いつもどおりの朝。
昨日の夜に書いた日記は、机の引き出しにしまってある。物語の続きを書いたノートも、その隣に置いたままだ。
どちらも、まだ大したものではない。
誰かに見せるほどの内容でもないし、読み返して感心するような文章でもない。
それでも、昨夜はいつもより長く机に向かっていた。
何を書こうかと考える時間が、思ったよりも楽しかったからだ。
「……そろそろ行くか」
鞄を持ち、玄関を出る。
春の空気は少し冷たかったが、歩いているうちに心地よくなってきた。
通学路には、同じ制服を着た生徒たちがいる。
前を歩く二人組は、昨日の授業で出された課題について話していた。少し離れたところでは、誰かが友達を見つけて手を振っている。
どこにでもある、いつもの朝の風景だ。
俺は歩きながら、昨日の放課後を思い出した。
結衣と二人で話したこと。
好きな本のこと。
彼女が手帳に書き残している、何でもない出来事のこと。
そして、別れ際に交わした言葉。
――また明日。
ただの挨拶だ。
明日も学校で会うのだから、特別な意味などない。
そう分かっているのに、思い出すと少しだけ気持ちが軽くなる。
「……何を考えてるんだ、俺は」
小さく呟いて、歩く速度を少し上げた。
考えすぎるのは、いつもの悪い癖だ。
今日は今日で、やらなければならないことがある。
課題もあるし、授業もある。放課後に残って物語を書くかどうかだって、まだ決めていない。
だから、まずは目の前の一日を過ごせばいい。
そう考えて、俺は学校へ向かった。
*
教室に入ると、駿の声が真っ先に聞こえてきた。
「だから、これは俺のせいじゃないって!」
「どう考えても佐久間のせいでしょ」
「成瀬、お前は俺の話を最後まで聞いたのか!?」
「聞いたうえで言ってるの」
「ひどすぎる!」
どうやら、朝から何かあったらしい。
俺は鞄を机に置き、二人のほうを見た。
「おはよう。今度は何をしたんだ?」
「航平! 聞いてくれ!」
「うん。何をしたんだ?」
「最初から俺が悪い前提で話すな!」
駿は机の上に置かれたプリントを指差した。
「昨日、グループで提出する課題があっただろ?」
「うん」
「俺、ちゃんと自分の担当分はやってきたんだよ」
「それで?」
「家で印刷しようとしたら、プリンターのインクが切れてた」
「……それは、まあ」
「だから、朝、学校で印刷しようと思ってたんだ!」
明里がすかさず口を挟む。
「その結果、家を出る時間が遅くなって、駅まで走って、途中でプリントを落としたんでしょ?」
「……はい」
「しかも、拾ってくれた人にお礼を言うのを忘れた」
「……はい」
「それで、提出する分が一枚足りなくなった」
「……はい」
「どう考えても、計画性がないだけじゃない」
「うぐっ……!」
駿が机に突っ伏した。
「俺の青春、厳しい……」
「青春と計画性は関係ないと思うぞ」
俺が言うと、明里が頷いた。
「そうそう。航平の言うとおり」
「お前ら、息ぴったりすぎないか!?」
「意見が一致してるだけだよ」
「それが一番つらいんだよ!」
駿が顔を上げ、俺をじっと見た。
「……ところで航平」
「何だよ」
「お前、最近ちょっと機嫌よくない?」
「は?」
あまりに突然の質問だったので、思わず聞き返してしまった。
「そうかな」
「そうだよ。今だって、いつもよりよく笑ってる」
「気のせいだろ」
「いや、俺の観察眼は確かだ」
「その観察眼で、昨日の課題の準備不足にも気づければよかったのにね」
「成瀬、お前は少し黙ってろ!」
明里が笑う。
俺は鞄から教科書を取り出しながら、駿の言葉を考えていた。
機嫌がいい。
そう見えるのだろうか。
自分では、特に変わったつもりはなかった。
ただ、昨日のことを思い出していただけだ。
誰かと話したことを、もう一度思い返す。
次に会ったら何を話そうかと、少しだけ考える。
それだけのことが、そんなに顔に出るものなのだろうか。
「……お前、何か知ってるのか?」
駿が、探るように目を細めた。
「何も知らないよ」
「本当か?」
「本当」
「ふーん……」
駿は納得していない様子だったが、そこへ藤本先生が教室に入ってきた。
「おはよう。佐久間、席に着け。朝から元気なのは結構だが、授業が始まる前に教室を騒がしくしすぎないようにな」
「はい!」
「返事だけはいいな」
先生が苦笑する。
教室に笑い声が広がった。
駿は渋々席に戻り、俺も教科書を開いた。
ホームルームが始まる。
連絡事項を聞き、課題の提出状況を確認し、今日の授業の準備をする。
何でもない朝だった。
けれど、駿に指摘されたことが、なぜか頭の片隅に残っていた。
俺は、そんなに機嫌がよさそうに見えるのだろうか。
答えは分からなかった。
ただ、一つだけ思った。
もし本当にそう見えるのなら、悪い気はしない。
その理由を、無理に考える必要もない気がした。
*
午前中の授業は、いつもどおりに進んだ。
黒板に書かれる文字をノートに写し、先生の説明を聞き、問題を解く。
休み時間には、駿が昨日のテレビ番組について熱く語り、明里がその内容に突っ込みを入れていた。
蒼太は二人の話を聞きながら、時折、短い一言で会話を終わらせる。
そのたびに駿が抗議し、明里が笑う。
変わらない日常。
それなのに、休み時間が終わるたびに、俺は少しだけ時計を気にしていた。
理由は分かっている。
結衣に会いたかった。
……いや。
別に、今すぐ会わなければならないわけではない。
話したいことが山ほどあるわけでもない。
昨日のように、好きな本の話をするだけでもいい。何か面白いことがあったのなら、それを聞かせてもらうだけでもいい。
それだけでいいと思っていた。
しかし、昼休みになっても、結衣は俺の教室には現れなかった。
当然だ。
彼女にも自分の教室があり、友達がいて、やることがある。
俺と話すためだけに、毎回こちらへ来る理由などない。
そう分かっているのに、少しだけ拍子抜けしてしまった。
「航平、箸が止まってるぞ」
駿の声で我に返った。
「……え?」
「さっきから、ずっと同じところを見てる」
「そうか?」
「そうだよ。弁当、食べないならもらうぞ」
「食べるよ」
「じゃあ、早く食べろ。昼休みが終わる」
駿は自分のパンを食べながら、俺の弁当を見ていた。
「……何だよ」
「いや、最近のお前、分かりやすいなと思って」
「何がだよ」
「何かを待ってるときの顔」
俺は箸を止めた。
「……待ってない」
「じゃあ、何で廊下のほうを見てたんだ?」
「見てない」
「見てたよ」
明里が即座に答えた。
「私も見た。さっきから何度も入口を気にしてたでしょ」
「……お前ら、食事に集中したらどうだ?」
「話を逸らしたね」
「逸らしてない」
「逸らしてるよ」
蒼太が静かに弁当を食べながら言った。
「……まあ、誰かと話したいと思うのは、別に悪いことじゃないだろ」
その言葉に、俺は黙った。
蒼太は俺を見ずに続けた。
「相手にも都合があるから、毎回うまくいくとは限らないけどな」
「……分かってるよ」
「なら、いいんじゃないか」
蒼太はそれだけ言って、再び箸を動かした。
駿は俺と蒼太を交互に見たあと、何かを言いかけた。
しかし、明里が先に口を開いた。
「佐久間。今、余計なことを言おうとしたでしょ」
「な、何のことだ?」
「顔に書いてある」
「そんな馬鹿な!」
「書いてあるよ。『ここでからかったら面白そう』って」
「成瀬、お前の洞察力は恐ろしいな……!」
「褒めても何も出ないよ」
いつもの調子に戻った二人を見て、俺は小さく笑った。
そうだ。
会えないからといって、今日という日がつまらなくなるわけではない。
友達と昼食を食べて、くだらない話をして、午後の授業を受ける。
それだって、俺にとっては大切な時間だ。
結衣と出会う前から、こういう日々はずっと続いていた。
今さら、それを忘れる必要はない。
ただ、その日々の中に、もう一つ楽しみが増えただけなのだ。
そう考えると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「……よし」
「何がよしなんだ?」
駿が首を傾げる。
「何でもない」
「怪しいなあ……」
「いいから食べろ」
「はいはい」
駿は不満そうにしながらも、残りのパンを口に運んだ。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
俺たちは弁当箱を片づけ、午後の授業の準備を始めた。
*
午後の授業が終わる頃には、窓の外の光が少し傾いていた。
藤本先生が最後に課題について説明し、明日までに必要なものを確認する。
「それから、来週の予定については、明日もう一度連絡する。聞き逃さないようにな。以上だ」
先生が教室を出ていくと、あちこちから椅子を引く音が響いた。
「終わったあああ!」
駿が大きく伸びをした。
「まだ課題が残ってるでしょ」
明里が冷静に言う。
「聞こえない!」
「現実から逃げるな」
「今日はもう十分頑張った!」
「何を?」
「授業を受けた!」
「全員そうだよ」
蒼太が鞄を持ち上げた。
「……俺は図書室に寄ってから帰る」
「お、何の本を借りるんだ?」
「課題に使う資料」
「真面目か!」
「お前も少しは見習ったら?」
明里が駿を指差す。
「俺は俺のやり方で頑張る!」
「そのやり方で昨日プリントを落としたんでしょ」
「まだその話をするのか!?」
俺は笑いながら、教科書を鞄にしまった。
今日はどうしよう。
まっすぐ帰ってもいいし、図書室へ寄ってもいい。
昨日の続きを書くのも悪くない。
結衣とは、今日まだ話していない。
彼女が何をしているのか、何か変わったことがあったのか、少し気になった。
しかし、こちらから会いに行く理由があるわけでもない。
昨日は向こうから来てくれた。
だからといって、今日も同じように会えるとは限らない。
……そう考えながら、俺は鞄を持ち上げた。
「航平」
駿が、教室の出口で振り返った。
「今日は一緒に帰るか?」
「……そうだな」
今日は、こいつらと帰るのもいいかもしれない。
そう思って頷きかけたとき。
「水野くん!」
廊下から声がした。
聞き覚えのある声だった。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
教室の入口に、結衣が立っていた。
片手に鞄を持ち、少しだけ息を弾ませている。
どうやら、俺を探していたらしい。
「……早坂さん?」
「よかった、まだいた」
結衣は安心したように笑った。
「帰っちゃったかと思った」
「いや、今ちょうど帰ろうとしてたところだけど」
「そっか。間に合ってよかった」
彼女は胸元の鞄の紐を握り直した。
俺は、何を聞けばいいのか分からなくなった。
今日、初めて顔を合わせた。
それなのに、彼女が自分を探してくれたという事実だけで、胸の奥が少し温かくなった。
「……何かあった?」
「ううん。大したことじゃないんだけど」
結衣は一度、廊下のほうを振り返った。
「昨日、話してた本のことなんだけどね」
「本?」
「うん。私が好きだって言った、日常の何気ない出来事を描いた小説」
「ああ」
「それで、今朝、家を出る前に本棚を見てたら、前に読んだ本を思い出したの。水野くんも好きそうだなって思って」
結衣は少し照れくさそうに笑った。
「だから、今度、題名を教えようと思って」
俺は、すぐには答えられなかった。
彼女は、昨日の会話を覚えていた。
俺がどんな本を読むのかを聞き、好きな物語について話したことを。
そして、その会話を思い出して、俺にも教えてみようと思ってくれた。
それが、こんなに嬉しいことだとは思わなかった。
「……ありがとう」
「え?」
「覚えていてくれたんだなと思って」
結衣は一瞬きょとんとしたあと、笑った。
「だって、昨日話したばかりだよ?」
「……それもそうか」
「もう。水野くんって、ときどき不思議なことを言うね」
「よく言われる」
「佐久間くんとか?」
「……主に佐久間」
結衣が楽しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、俺まで自然に笑ってしまう。
少し離れたところでは、駿が口元を押さえていた。
嫌な予感がする。
「……佐久間」
「はい!」
「何も言うなよ」
「まだ何も言ってないだろ!」
「顔に出てる」
「成瀬と同じことを言うな!」
明里は呆れたようにため息をついた。
「ほら、佐久間。帰るよ。二人の邪魔をしない」
「邪魔って何だよ! 俺は親友として見守っているだけだ!」
「それを邪魔って言うの」
「ぐっ……!」
駿は悔しそうに顔をしかめたあと、俺を指差した。
「航平! 明日、ちゃんと報告しろよ!」
「何の報告だ!」
「それは明日のお楽しみだ!」
「勝手に決めるな!」
駿と明里は言い争いながら教室を出ていった。
蒼太も、去り際に一言だけ残した。
「……また明日」
「うん。また明日」
教室に残ったのは、俺と結衣だけだった。
昨日と同じように、夕方の光が窓から差し込んでいる。
けれど、今日は昨日よりも少しだけ、自然に話せる気がした。
*
「それで、どんな本なの?」
俺が尋ねると、結衣は嬉しそうに題名を教えてくれた。
俺はその名前を聞いたことがなかった。
「知らないな……」
「本当? じゃあ、今度持ってこようか?」
「いいの?」
「うん。私の家にあるから」
「それなら、読んでみたい」
「よかった!」
結衣は、まるで自分の好きなものを褒められたように喜んだ。
「すごく派手な話じゃないんだけどね。主人公が友達と話したり、家族と食事をしたり、帰り道に寄り道したりする話なの」
「……面白そうだね」
「うん。読んでいると、主人公の友達まで好きになっちゃうんだよ」
「それは、いい小説だな」
「でしょ?」
結衣は得意げに頷いた。
「それでね、私が一番好きなのは、主人公が何でもない日に『今日はいい日だったな』って思うところなの」
「何でもない日なのに?」
「そう。特別なことがあったわけじゃないんだよ。ただ、友達と笑って、ご飯を食べて、帰り道に少し遠回りしただけ」
彼女は窓の外へ視線を向けた。
「でも、そういう日って、あとから思い出すと、結構大切だったりするでしょう?」
「……そうかもしれない」
「だから、私はその場面が好きなんだ」
俺は、彼女の言葉を聞きながら、昨日の自分の日記を思い出した。
今日、結衣と放課後に話をした。
好きな本について教えてもらった。
明日も、また話せたらいいと思った。
何でもないことばかりだ。
誰かに話しても、特別面白い話にはならないだろう。
けれど、俺はそれを書き残した。
忘れたくないと思ったからだ。
「……早坂さん」
「何?」
「その小説、読んだら感想を話してもいい?」
「もちろん!」
結衣は、すぐに頷いた。
「私も、水野くんがどう思ったのか聞きたい」
「分かった。じゃあ、今度読んでみるよ」
「約束ね」
「うん、約束」
二人で笑った。
それから、俺たちは教室を出た。
昇降口へ向かう廊下には、まだ何人かの生徒が残っていた。部活動へ向かう生徒たちが走っていき、窓際では、帰り支度を終えた女子生徒たちが楽しそうに話している。
階段を下り、靴を履き替える。
校門を出ると、春の風が頬を撫でた。
「水野くんは、これから帰るの?」
「うん。早坂さんは?」
「私も。途中まで同じ方向だと思うよ」
「そうなんだ」
「うん。だから、少し一緒に歩いてもいい?」
俺は、思わず彼女の顔を見た。
結衣は、何でもないことのように笑っている。
それなのに、俺の胸は少しだけ騒がしくなった。
「……もちろん」
そう答えると、彼女は嬉しそうに頷いた。
俺たちは並んで歩き始めた。
学校の周りには、帰宅する生徒たちの姿があった。
自転車に乗って帰る者。友達と寄り道の相談をしている者。部活動の道具を抱えて歩く者。
俺たちも、その中の一組にすぎない。
「そういえば、早坂さんは、学校が終わったあとって何をしてるの?」
昼休みに考えていたことを思い出し、俺は尋ねてみた。
「日によるかな。家に帰って宿題をしたり、買い物を頼まれたり、友達と寄り道したり」
「寄り道もするんだ」
「するよ? 水野くんはしないの?」
「俺は、基本的にはまっすぐ帰るかな」
「そっか。じゃあ、今度一緒に寄り道してみる?」
「……え?」
結衣は、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「嫌?」
「いや、嫌じゃないけど……」
「じゃあ、決まり!」
「まだ、どこに行くかも決めてないだろ」
「あっ、それもそうだね」
彼女は少し考え込んだ。
「うーん……本屋さんとか?」
「本屋?」
「うん。私、よく本屋さんに行くんだ。新しい本を見たり、気になった本の表紙を眺めたりするのが好きで」
「それなら、俺も行ってみたい」
「本当? じゃあ、今度ね」
「うん」
今度。
その言葉が、また一つ増えた。
今度、本を持ってきてもらう。
今度、感想を話す。
今度、一緒に本屋へ行く。
どれも、まだ実現していない約束だ。
けれど、実現していないからこそ、これから先に続いている。
そんなふうに思えた。
しばらく歩くと、道が二つに分かれる交差点に着いた。
結衣が足を止める。
「あ、私、こっちだから」
「そっか」
「水野くんは?」
「俺は反対側」
「じゃあ、ここまでだね」
「うん」
結衣は鞄を持ち直した。
少しだけ風が吹き、彼女の髪が揺れる。
「今日はありがとう」
「……え? 何が?」
「一緒に帰ってくれて」
「いや、俺も楽しかったよ」
そう答えると、結衣は嬉しそうに笑った。
「よかった」
それから、いつものように手を振った。
「また明日、 水野くん」
俺も手を振り返した。
「……また明日、早坂さん」
彼女は交差点を曲がり、少しずつ遠ざかっていく。
俺はその背中を見送ったあと、自分の帰り道へ向き直った。
また明日。
昨日も聞いた言葉。
今日も交わした言葉。
明日になれば、また同じように会えるかもしれない。
そう思うと、自然と足取りが軽くなった。
*
家に帰り、夕食を済ませたあと、俺は自分の部屋へ向かった。
机の引き出しを開け、二冊のノートを取り出す。
一冊は物語を書くためのもの。
もう一冊は、日々の出来事を書き残すためのもの。
俺はまず、日記のノートを開いた。
今日の日付を書く。
それから、しばらく考えた。
朝、駿に機嫌がいいと指摘されたこと。
授業を受けたこと。
昼休みに、いつもの友人たちと話したこと。
放課後、結衣が本を紹介してくれたこと。
そして、一緒に帰ったこと。
書きたいことは、昨日よりも少しだけ増えていた。
俺はペンを動かした。
――今日は、早坂結衣と一緒に帰った。
――彼女は、俺が知らなかった本を教えてくれた。
――今度、一緒に本屋へ行くことになった。
そこまで書いて、俺は少しだけ笑った。
こうして並べてみると、本当に何でもない出来事ばかりだ。
けれど、今日という一日を振り返ると、昨日よりも少しだけ、たくさんのことを思い出せる。
彼女の声。
笑った顔。
本の話をするときの、楽しそうな表情。
そして、別れ際の言葉。
――また明日。
俺は、その一文を日記に書き加えようとして、ペンを止めた。
別に、わざわざ書かなくてもいい。
毎日交わす挨拶なのだから。
けれど、少し考えたあと、俺はその言葉を書き残した。
――また明日、と言える相手がいる。
書き終えた瞬間、胸の奥が少しだけくすぐったくなった。
「……何を書いてるんだ、俺は」
昨日も、同じようなことを呟いた気がする。
自分の気持ちを文章にするのは、思っていたより難しい。
物語の登場人物なら、いくらでも考えられる。
悲しんだ理由も、怒った理由も、誰かを大切に思う理由も。
それなのに、自分のことになると、途端に言葉が見つからなくなる。
俺は日記を閉じ、物語のノートを開いた。
昨夜までに書いた文章を読み返す。
少年は朝を迎え、窓を開ける。
花に水をやり、朝食を食べる。
それから、一日を過ごしていく。
その先に、どんな出来事を書けばいいのだろう。
今までなら、悲しい出来事を用意していたかもしれない。
少年が新しい人と出会い、その人を大切に思うようになる。
そして、再び失う。
そうすれば、物語に悲しみを加えることができる。
けれど、今はそれだけでは足りない気がした。
悲しい出来事が起こるまでの時間。
誰かと笑ったこと。
何でもない話をしたこと。
相手の好きなものを知り、少しだけ世界が広がったこと。
そういう時間があってこそ、失ったときの悲しみも生まれるのではないだろうか。
いや、それだけではない。
失わなかったとしても、その時間自体に意味があるのかもしれない。
俺はペンを手に取り、ノートの続きを書き始めた。
今度は、悲しい結末を考えるためではない。
少年が、どんな一日を過ごすのか。
何を見て、何を感じて、誰と話すのか。
それを、少しずつ書いてみようと思った。
もちろん、すぐに上手く書けるわけではない。
何度も言葉を消し、書き直した。
けれど、今日は途中でペンを置かなかった。
気づけば、時計の針は思っていたよりも進んでいた。
俺はノートを閉じ、机の上を片づけた。
明日も学校がある。
授業があって、駿が騒いで、明里が呆れて、蒼太が冷静な一言を放つ。
そして、結衣に会えるかもしれない。
明日、何を話そう。
紹介してもらった本のことを、もう少し聞いてみようか。
それとも、昨夜書いた物語の続きを、少しだけ見せてみようか。
そんなことを考えているうちに、自然と笑みが浮かんだ。
俺は、ようやく気づき始めていた。
明日を楽しみにすることは、何か特別な予定があるときだけではないのだ。
誰かと会うこと。
言葉を交わすこと。
今日の続きを、また一緒に過ごせるかもしれないと思うこと。
それだけでも、明日を待つ理由になる。
机の明かりを消す前に、俺はもう一度、日記のノートを開いた。
最後の一文を読み返す。
――また明日、と言える相手がいる。
それは、俺が今まで書いてきた物語には、あまり登場しなかった言葉だった。
悲しい結末の中には、別れの言葉がある。
もう会えないという言葉がある。
取り返しのつかない後悔や、伝えられなかった気持ちがある。
けれど、明日も会えるという言葉は、ほとんど書いたことがなかった。
当たり前すぎて、物語にする価値がないと思っていたのかもしれない。
今なら、少しだけ分かる気がした。
当たり前だからといって、大切ではないわけではない。
いつも交わしている言葉だからといって、何も感じないわけではない。
その言葉を交わせる相手がいること自体が、いつか振り返ったとき、かけがえのないものになることだってある。
俺はノートを閉じた。
「……また明日、か」
小さく呟いて、部屋の明かりを消した。
明日も、いつもと同じような一日が始まるだろう。
それでも、今日とは少しだけ違う一日になるかもしれない。
そう思いながら、俺は眠りについた。
*
翌朝。
教室の窓から、柔らかな光が差し込んでいた。
俺が席に着くと、駿がいつものように話しかけてきた。
「おはよう、航平」
「おはよう」
「……何か、今日も機嫌よさそうだな」
「そうか?」
「そうだよ」
駿は、にやりと笑った。
「まあ、悪いことじゃないけどな」
「……何だよ、それ」
「別に?」
駿は肩をすくめ、自分の席へ戻っていった。
しばらくして、明里が教室に入ってきた。
「おはよう。佐久間、朝から何をにやにやしてるの?」
「いや、航平がな」
「また航平?」
「最近、ちょっと変わったんだよ」
明里は俺を見た。
「……そう?」
「そうなんだよ!」
駿が大げさに頷く。
俺はため息をついた。
「お前ら、朝から人のことを話題にするな」
「ごめんごめん」
明里は笑いながら、自分の席へ向かった。
俺は教科書を取り出し、机の上を整えた。
いつもどおりの朝。
何も変わっていない。
けれど、教室の入口から誰かが入ってくるたびに、ほんの少しだけ目が向いてしまう。
そして、しばらくして。
「水野くん、おはよう!」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げる。
結衣が、教室の入口から手を振っていた。
「……おはよう、早坂さん」
俺も手を振り返す。
彼女は友達に何かを言ってから、こちらへ歩いてきた。
「昨日話してた本なんだけどね、今度持ってくるね」
「うん。楽しみにしてる」
「それから、本屋さんのことも覚えてるからね」
「……覚えてるよ」
「よかった!」
結衣は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、またあとでね」
「うん。またあとで」
彼女は自分の教室へ戻っていった。
その背中を見送ってから、俺は机の上の教科書へ視線を落とした。
胸の奥が、少しだけ温かかった。
昨日、日記に書いた言葉を思い出す。
――また明日、と言える相手がいる。
今日も、その言葉を交わせた。
それだけのことだ。
それだけのことなのに、嬉しいと思った。
俺は、そっと息を吐いた。
悲しい物語を書くことしか知らなかった少年は、まだ、幸せというものをよく知らない。
明日が来ることの意味も。
誰かと過ごす時間の価値も。
まだ、全部は分からない。
けれど、少しずつ知っていけばいいのだと思った。
今日の出来事を覚えておこう。
明日も、また話そう。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
それでも。
今はただ、この何でもない日々が続いていくことを、少しだけ楽しみにしていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第六話では、航平が結衣と交わす「また明日」という言葉を、少しずつ特別に感じ始める様子を描きました。
二人はまだ恋人ではありません。お互いのことも、知り始めたばかりです。
それでも、相手の好きなものを知りたいと思うこと。次に会える日を楽しみにすること。そして、何でもない会話を心に残しておくこと。
そんな小さな変化が、航平の日常を少しずつ変えていきます。
これで、第一章「出会いを紡ぐ物語」は一区切りとなります。
悲しい結末ばかりを書いていた少年と、自分の物語の続きを知りたいと願う少女。
二人の出会いが、この先どんな時間につながっていくのか。
次の章でも、二人の日常と、少しずつ変化していく関係を見守っていただけたら嬉しいです。




