第五話 放課後、二人だけの読書時間
物語の感想を伝え合った二人は、今度は本の好みや、日々の小さな出来事について話し始めます。
特別な事件がなくても、誰かと過ごす時間は、少しずつ心に残っていくものです。
翌朝、俺はいつもより少し早く教室に着いた。
理由は、特にない。
目覚ましが鳴る前に目が覚めて、いつもより早く家を出ただけだ。
……少なくとも、そういうことにしておきたい。
教室の窓からは、朝の光が差し込んでいた。まだ登校している生徒は少なく、机を引く音も、誰かの笑い声も聞こえない。
俺は自分の席に鞄を置き、窓を少しだけ開けた。
春の風が頬を撫でる。
昨日の夜、俺は物語の続きを書いた。
ほんの数行だけだ。少年が朝を迎え、窓を開け、少女が好きだった花に水をやる。それだけの場面だった。
物語を大きく変えるような出来事は何もない。
それでも、書き終えたあと、すぐにノートを閉じることができなかった。
続きを書いてみようと思えたことが、少し不思議だったからだ。
「……よし」
俺は鞄からノートを取り出しかけて、やめた。
学校で読み返す必要はない。
そう思って鞄に手を戻したところで、背後から声がした。
「おはよう、航平。今日は早いな」
振り返ると、佐久間駿が教室の入口に立っていた。
「おはよう。お前こそ、いつもより早くないか?」
「俺は朝から健康的な生活を送る男だからな」
「昨日、寝坊しかけたって言ってなかったか?」
「過去の失敗をいつまでも引きずるな」
「昨日の話だけど」
「人間は成長する生き物なんだよ」
駿は自信満々に言い切ると、自分の席へ向かった。
そして鞄を置くなり、こちらを振り返った。
「それで?」
「……何が?」
「早坂さん」
「朝の挨拶より先にその話か」
「挨拶はしただろ」
「そういう問題じゃない」
駿は椅子を引いて座り、机に頬杖をついた。
「昨日、感想を聞いたんだろ? どうだった?」
「……よかったよ」
「へえ」
「ちゃんと最後まで読んでくれたし、いろいろ考えてくれたみたいだった」
「そっか」
駿は、いつものように大げさに騒ぐことはなかった。
ただ、少しだけ嬉しそうに笑った。
「なら、よかったじゃん」
「……うん」
「で、続きは?」
「何でそうなるんだよ」
「いや、あの早坂さんが続きを読みたいって言ったんだろ?」
「言ったけど、まだ書き終わってない」
「書いてるのか?」
「……少しだけ」
しまった、と思ったときには遅かった。
駿の目が輝いた。
「おお! やっぱり書いてるんじゃねえか!」
「声が大きい!」
「いやいや、これは喜ばしいことだろ!」
「何が喜ばしいんだよ」
「親友が新しい一歩を踏み出したんだぞ? 祝わずにはいられないだろ!」
「大げさだな……」
「そういうところが大事なんだよ」
駿は満足そうに頷いた。
そのとき、教室の入口から明里が入ってきた。
「朝から何を騒いでるの?」
「航平が物語の続きを書き始めた!」
「……へえ?」
明里が俺を見る。
「それはよかったじゃん」
「だから、そんな大したことじゃないって」
「でも、前は書かなかったんでしょ?」
「……まあ」
「じゃあ、大したことじゃないとは言えないんじゃない?」
明里はそう言って、自分の席に鞄を置いた。
「佐久間、今日は少しだけ褒めてあげたら?」
「俺は最初から褒めてるぞ!」
「声が大きいだけで、内容は薄いけどね」
「何だと!?」
「ほら、また大きい」
「ぐっ……!」
駿が悔しそうに口を閉じた。
俺は思わず笑った。
いつもどおりの朝だった。
駿が騒いで、明里が呆れて、俺がそのやり取りに巻き込まれる。
けれど、昨日までとは少しだけ違うことがある。
今夜も、物語を書いてみようと思っている。
そして、もし続きを書けたら。
結衣に読んでもらいたいと思っていた。
そう考えた自分に気づいて、俺はそっと視線を窓の外へ逃がした。
*
朝のホームルームが始まる頃には、教室はすっかり賑やかになっていた。
机を寄せて話す生徒。提出物を慌てて探す生徒。昨日のテレビ番組について盛り上がっている生徒。
藤本先生が教室に入ってくると、少しずつ声が小さくなっていく。
「おはよう。まずは連絡事項からだ。今週提出の課題は、金曜日までだからな。今日のうちに終わらせろとは言わないが、前日の夜に慌てることのないように」
先生の視線が、教室の後ろのほうへ向いた。
「特に佐久間。お前は毎回、締め切り直前に騒いでいるだろう」
「先生、今回は違います!」
「その言葉は、課題を提出してから聞こう」
教室に笑い声が広がった。
「ひどいですよ、先生!」
「信頼は日々の積み重ねだ、佐久間」
「人生って厳しい……」
「課題を出せばいいだけだ」
「正論が痛い!」
駿が机に突っ伏す。
明里が小声で言った。
「自業自得でしょ」
「成瀬、聞こえてるぞ!」
「聞こえるように言ったもの」
藤本先生は苦笑しながら、黒板に今日の予定を書き始めた。
授業が始まると、教室の空気も自然と落ち着いていく。
俺はノートを開き、先生の説明を書き留めた。
進路のこと、課題のこと、卒業後のこと。
考えなければならないことは、まだいくらでもある。
それでも、以前よりも少しだけ、自分の中に余白ができた気がした。
放課後に何をするか。
誰と話すか。
そんな小さなことを、楽しみにしてもいいのかもしれない。
授業の合間、ふと窓の外を見る。
校庭の木々が風に揺れていた。
そのとき、前の席の生徒が消しゴムを落とした。拾って渡すと、彼は小さく礼を言って、再び黒板へ向き直る。
何でもないやり取り。
特別な意味などない。
けれど、日常というのは、きっとこういう小さな出来事が積み重なってできている。
俺はノートの端に書きかけた文字を見つめた。
――少年は、窓を開けた。
昨夜書いた文章が、ふと頭をよぎる。
物語の中の少年も、いつかこんなふうに、何でもない一日を過ごすのだろうか。
悲しいことがあったあとも、授業を受けて、食事をして、誰かと言葉を交わす。
そういう時間を書いてみてもいいのかもしれない。
「水野、次の問題を読んでくれ」
「……はい」
先生に呼ばれ、俺は慌てて顔を上げた。
教室の何人かが、くすくすと笑っている。
「ずいぶん真剣に考え込んでいたな。問題は聞いていたか?」
「……すみません。途中から聞き逃しました」
「正直でよろしい。では、教科書の該当箇所を読んでくれ」
俺は教科書を開き、指定された文章を読み上げた。
読み終えると、先生は頷いた。
「ありがとう。考え事もいいが、授業の内容も忘れないようにな」
「はい」
席に座ると、駿がこちらを振り返り、声を潜めた。
「何を考えてたんだ?」
「授業のこと」
「嘘つけ」
「……どうしてそう思う?」
「お前が授業のことを考えてるときは、そんな顔しない」
「どんな顔だよ」
「物語を書いてるときの顔」
俺は、少しだけ言葉に詰まった。
駿はそれ以上追及せず、前を向いた。
その何気ない一言が、なぜか心に残った。
*
昼休み。
俺たちはいつものように机を寄せて昼食を取っていた。
駿は今日も購買のパンを二つ買っている。明里は弁当を広げ、蒼太は窓際の席で静かに食事をしていた。
「そういえば、早坂さんって本を読むのが好きなのかな」
明里が、ふと思い出したように言った。
「急にどうした?」
俺が尋ねると、明里は箸を止めた。
「昨日、航平の小説を読んだんでしょ? それで、どんな本を読む人なのかなって思って」
「……さあ。聞いたことないな」
「じゃあ、今度聞いてみれば?」
「そんなに簡単に聞けるものかな」
「何で?」
「何でって……」
改めて考えてみると、俺は結衣のことをほとんど知らなかった。
好きな食べ物も、好きな本も、休日に何をしているのかも。
彼女がどんなふうに笑うのか、どんな言葉を選ぶのか。
それは少しずつ分かってきた気がする。
けれど、彼女がどんな日々を送っているのかは、まだ知らない。
「聞けばいいだろ」
駿が、パンを食べながら言った。
「そんな難しいことか?」
「……いや」
「別に、好きな食べ物くらい聞いたっていいじゃん。俺なんか、蒼太の好きなゲームまで知ってるぞ」
「お前が勝手に話を聞き出しただけだろ」
蒼太が淡々と返す。
「それも立派なコミュニケーションだ!」
「相手の許可を取れ」
「厳しいな、お前!」
明里が笑った。
「でも、そういうことだよ、航平。何か特別な話をしようとしなくてもいいんじゃない?」
「特別な話?」
「うん。何が好きとか、何が苦手とか。そういう話をしていくうちに、少しずつ相手のことが分かるんだと思う」
俺は弁当の蓋を閉じ、少し考えた。
物語を書くとき、俺は登場人物の過去や性格を考える。
どんなものが好きなのか。
何が苦手なのか。
どうしてその言葉を選んだのか。
そういうことを積み重ねて、一人の人物を作っていく。
けれど、現実の人間は、設定を書けば分かるような存在ではない。
話してみなければ分からないことがある。
尋ねてみなければ、知ることのできないこともある。
「……そうだな」
俺が頷くと、駿がにやりと笑った。
「よし。じゃあ、次に早坂さんと会ったら、好きな食べ物を聞け」
「何でお前が指示するんだよ」
「親友としての助言だ」
「余計なお世話だ」
「じゃあ、好きな本でもいいぞ!」
「聞く内容を指定するな!」
明里が肩を震わせて笑っている。
「佐久間、あなた本当に楽しそうね」
「そりゃあ、親友の青春だからな!」
「自分の青春はどうしたの?」
「俺の青春は今ここにある!」
「それ、さっきも聞いた気がする」
「何度でも言うぞ!」
蒼太が飲み物を置いた。
「……その熱意を課題に向ければ、先生も喜ぶと思う」
「蒼太まで俺を課題の話に戻すな!」
笑い声が広がった。
俺も笑いながら、ふと思った。
好きなものを尋ねる。
苦手なものを知る。
何気ない話をする。
それだけで、相手のことが少しずつ分かっていくのなら。
結衣とも、そういう話をしてみたい。
物語の感想を聞くためだけではなく。
何かを教えてもらうためだけでもなく。
ただ、彼女がどんな人なのかを知るために。
そう思ったことを、俺は誰にも言わなかった。
*
放課後。
最後の授業が終わると、教室は一気に騒がしくなった。
部活動へ向かう生徒たちが鞄を持って立ち上がり、友達同士で帰る約束をしている声があちこちから聞こえる。
俺は机の上を片づけながら、窓の外を眺めていた。
今日は、結衣と会う約束をしているわけではない。
昨日も、今日のことは何も話していない。
それでも、彼女とまた話せたらいいなと思っていた。
「航平、帰るぞ」
駿が鞄を肩に掛ける。
「先に帰ってていいよ」
「……へえ?」
「何だよ」
「いや、最近のお前は放課後に用事が多いなと思って」
「別に、用事があるわけじゃない」
「じゃあ、何で帰らないんだ?」
「……少し、残っていこうと思って」
「何をするんだ?」
「本を読むとか」
「教室で?」
「悪いか?」
「いや、悪くはないけど」
駿は俺の机の上を見て、それから教室の時計を見た。
「ま、いいや。じゃあ、また明日な」
「うん。また明日」
「青春を楽しめよ!」
「その言い方をやめろ!」
駿は笑いながら教室を出ていった。
明里と蒼太も、少し遅れて帰っていく。
最後に明里が振り返った。
「航平、あまり遅くならないようにね」
「分かってるよ」
「それと、何かあったらちゃんと言葉にすること」
「……何の話?」
「さあ?」
明里は意味ありげに笑い、廊下へ消えた。
俺はため息をついた。
どうして、あいつらは何かにつけて意味ありげな顔をするのだろう。
……いや、俺が分かりやすいだけなのかもしれない。
教室が静かになった。
俺は鞄から文庫本を取り出し、窓際の席に座った。
読書をするつもりだった。
けれど、数ページ進んだところで、文字が頭に入ってこなくなった。
時計を見る。
放課後になってから、まだ十分ほどしか経っていない。
俺は本を閉じ、窓の外へ目を向けた。
運動部の生徒たちが、グラウンドを走っている。
誰かが転び、周囲の仲間が笑いながら手を差し伸べていた。
その様子を眺めていると、教室の入口から足音が聞こえた。
「……水野くん?」
顔を向ける。
結衣が、入口からこちらを覗いていた。
「早坂さん」
「まだ残ってたんだ」
「うん。ちょっと本を読もうと思って」
「そうなんだ」
結衣は教室の中を見回した。
「ほかの人は?」
「みんな帰ったよ」
「そっか。じゃあ……」
彼女は少しだけ迷ったあと、俺のほうへ歩いてきた。
「ここ、座ってもいい?」
「え?」
「少しだけ、話したいなと思って」
俺は慌てて向かいの席を引いた。
「もちろん」
「ありがとう」
結衣は椅子に座り、鞄を机の横に掛けた。
窓から入る風が、彼女の髪をそっと揺らした。
誰もいない教室。
机と椅子が並び、黒板には今日の授業で書かれた文字がまだ残っている。
さっきまで聞こえていた運動部の声も、今は少し遠く感じられた。
「……何か、変な感じだね」
結衣が言った。
「何が?」
「教室に二人だけっていうのが」
「確かに、普段はこんなことないね」
「うん。いつもはもっと賑やかだもんね」
「佐久間がいるからね」
「あはは。佐久間くん、元気だよね」
「元気というか、うるさいというか……」
「でも、楽しそうだった」
結衣は窓の外へ目を向けた。
「水野くんも、みんなといるときはよく笑うんだね」
「……そうかな」
「うん。昨日もそう思ったよ」
俺は少しだけ視線を逸らした。
自分が笑っているところを、誰かに指摘されるのは不思議な気分だった。
いつも笑っていないつもりもない。
ただ、自分がどんな顔をしているかなど、あまり気にしたことがなかった。
「早坂さんも、よく笑うよね」
「私?」
「うん」
「そうかなあ」
「そうだと思う」
結衣は頬に指を当てて考え込んだ。
「……じゃあ、お互いさまだね」
「何が?」
「お互いに、相手が笑っているところを見てるってこと」
「……まあ、そうなるのかな」
彼女は満足そうに頷いた。
何でもない会話だった。
それなのに、少しだけ心地よかった。
話題を探さなくてもいい。
何か気の利いたことを言わなくてもいい。
ただ、思いついたことを口にして、それに相手が答えてくれる。
そんな時間があることを、俺は久しぶりに意識した。
*
「そういえば、水野くんって、普段から本を読むの?」
結衣が、机の上の文庫本を指差した。
「うん。小説が多いかな」
「どんな小説?」
「いろいろ。ミステリーも読むし、ファンタジーも読む。人間関係を描いたものも好きだよ」
「へえ。意外と幅広いんだね」
「そうかな」
「うん。悲しい物語ばかり書いてるから、読むのもそういう本ばかりなのかと思ってた」
「……悲しい物語を書く人間は、悲しい物語しか読まないと思われてるのか」
「だって、そういうイメージがあるんだもの」
「偏見だなあ」
「ごめんごめん」
結衣は楽しそうに笑った。
「でも、ミステリーも読むんだね。私も好きだよ」
「本当?」
「うん。犯人が誰なのか考えながら読むのが楽しいの。途中で予想が外れると悔しいけど」
「分かる。伏線だと思っていたものが、全然違う意味だったりするんだよね」
「そうそう! それで、最後まで読んでから最初のほうを読み返したくなるの」
「……ああ、それはある」
思いがけず、会話が弾んだ。
今まで、結衣と話すときは、どこか物語のことを意識していた。
彼女が俺の小説をどう思ったのか。
どこが悲しかったのか。
なぜ続きを読みたいと思ったのか。
けれど今は、そんなことを考えなくても話せている。
同じ本を読んで、同じところで驚いたり、違うところに注目したりする。
そのことが、少し楽しかった。
「早坂さんは、どんな本が好きなの?」
「そうだなあ……」
結衣は少し考えた。
「恋愛小説も好きだし、ミステリーも好き。あと、日常の何気ない出来事を描いた話も好きかな」
「日常の話?」
「うん。大きな事件が起こるわけじゃないのに、読み終わると、なんだか心に残る話ってあるでしょ?」
「……あるね」
「登場人物が特別なことをしなくても、誰かと話したり、一緒にご飯を食べたり、同じ景色を見たり。それだけで、その人たちのことを好きになれるような話」
結衣は窓の外を見つめながら言った。
「そういう物語を読むと、何でもない毎日も、ちゃんと大切なものなんだなって思えるんだ」
俺は、すぐには答えられなかった。
昨日、書き始めた続きを思い出していた。
少年が窓を開ける。
花に水をやる。
朝食を食べる。
それだけの場面。
書きながら、こんな文章に意味があるのだろうかと思った。
大きな出来事があるわけでもない。
読者を驚かせるような展開もない。
それなのに、結衣はそういう物語が好きだと言った。
「……そういう話を書くのって、難しそうだね」
「どうして?」
「何も起こらないのに、読んでいる人に何かを感じてもらわなきゃいけないから」
結衣は目を瞬かせたあと、ゆっくりと頷いた。
「確かに、難しいかもしれないね。でも、何も起こらないわけじゃないと思う」
「え?」
「登場人物の気持ちが少し変わったり、昨日まで気づかなかったことに気づいたり。そういうのも、ちゃんと物語の中で起こっていることだもの」
彼女は机の上に両手を置いた。
「大きな出来事がなくても、その人にとって大切なことが起こる日はあるんじゃないかな」
俺は、彼女の言葉を頭の中で繰り返した。
大切なことが起こる日。
たとえば、誰かに自分の書いたものを読んでもらう日。
たとえば、その人が自分の知らなかったことを教えてくれる日。
たとえば、いつもなら気に留めなかった明日を、少しだけ楽しみにする日。
そういうものも、物語に書いていいのだろうか。
「……早坂さんって、物語を書くことはある?」
気づけば、そんなことを尋ねていた。
「私?」
「うん」
「うーん……授業で作文を書くくらいかな。小説を書いたことはないよ」
「そうなんだ」
「でも、読むのは好き。自分ではうまく書けないけど」
「読むのが好きなら、それでいいんじゃない?」
そう言うと、結衣は少し驚いた顔をした。
「……水野くんも、そういうこと言うんだね」
「どういうこと?」
「書けなきゃ意味がない、みたいなことを言うのかと思ってた」
「そんなことは思わないよ。読むのと書くのは、別の楽しさがあるだろうし」
「そっか」
結衣は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、これからもたくさん読むことにする」
「うん。それがいいと思う」
「水野くんの新しい物語も、楽しみにしてるね」
その言葉に、俺は少しだけ照れくさくなった。
「……まだ、どうなるか分からないけど」
「大丈夫。急かしてるわけじゃないから」
結衣はそう言って、軽く首を振った。
「書きたいと思ったときに書いてくれたらいいよ。私は、その続きを楽しみに待ってるから」
急かしているわけじゃない。
ただ、楽しみに待っている。
その違いが、俺にはありがたかった。
書かなければいけないと思うと、きっと苦しくなる。
けれど、書いてみたいと思えるのなら。
誰かが続きを待っていてくれることを、嬉しいと思えるのなら。
少しずつでも、先へ進めるのかもしれない。
*
「……そうだ」
結衣が、突然何かを思い出したように鞄を開けた。
「どうしたの?」
「これ、見てほしいものがあるんだ」
彼女が取り出したのは、小さな手帳だった。
表紙は淡い色で、角が少し擦れている。何度も使っているのだろうか。
「手帳?」
「うん。予定を書いたり、忘れたくないことを書いたりしてるの」
「へえ」
「大したことは書いてないよ。宿題とか、買い物とか、友達と会う約束とか」
結衣はページを開いた。
細かな文字が並んでいる。授業の課題、買うもの、家でやること。その合間に、小さな星や花の絵が描かれていた。
「……絵も描くんだ」
「え? ああ、これは落書き」
「上手だと思うけど」
「そんなことないよ。暇なときに描いてるだけ」
結衣は少し恥ずかしそうに手帳を閉じた。
「でも、こうやって書いておくと、あとで見返したときに思い出せるんだよね。何でもない日だったと思っていたのに、意外といろいろあったんだなって」
「……なるほど」
「水野くんも、書いてみたら?」
「俺はノートに物語を書いてるからなあ」
「物語とは別に、だよ」
結衣は人差し指を立てた。
「今日あったこととか、面白かったこととか。そういうのを少しだけ書いておくの」
「日記みたいなもの?」
「うん。でも、毎日書かなきゃいけないわけじゃないよ。書きたいときに書くだけ」
「それなら、続けられるかもしれない」
「でしょ?」
結衣は嬉しそうに頷いた。
「私も、毎日欠かさず書いてるわけじゃないからね。三日くらい忘れることもあるし」
「それは、結構あるんだね」
「……今のは聞かなかったことにして?」
「分かった。三日くらい忘れるんだね」
「水野くん!」
結衣が抗議する。
俺は笑った。
彼女も少し頬を膨らませたあと、結局、一緒に笑った。
その笑い声を聞きながら、俺は思った。
彼女は、物語の中にいる人物ではない。
当たり前のことだ。
けれど、俺はいつも、誰かを理解しようとするとき、知らないうちにその人の気持ちを想像して、答えを出そうとしてしまう。
結衣はこういう人だ。
きっと、こう考えている。
そうやって、実際に聞く前から分かったつもりになる。
でも、今こうして話していると、想像だけでは分からないことがたくさんあった。
好きな本。
手帳に書く小さなこと。
忘れたくない日々。
それらは、彼女自身が教えてくれたことだ。
俺が勝手に作り上げた人物像ではない。
「……早坂さん」
「何?」
「その手帳、ずっと使ってるの?」
「うん。去年からかな」
「去年?」
「そう。文化祭の準備が忙しかったときに、忘れ物をしないように書き始めたの」
「ああ、去年の文化祭」
「うん。クラスごとに準備が違ったから、あちこち手伝いに行ってたら、何をどこまでやったのか分からなくなっちゃって」
結衣は苦笑した。
「それで、予定を書いておくようになったんだ。最初は忘れ物をしないためだったけど、いつの間にか、ちょっとしたことも書くようになってた」
「面白かったこととか?」
「そう。友達と食べたお菓子がおいしかったとか、帰り道で変な雲を見つけたとか」
「変な雲?」
「うん。犬みたいな形の雲があったの。写真を撮ろうとしたら、すぐに形が崩れちゃったけど」
「それは、ちょっと見てみたかったな」
「私も! もっと早く撮ればよかった」
結衣は悔しそうに言った。
それから、ふっと笑う。
「でも、手帳に書いておいたから、忘れずに済んだよ」
「……そっか」
何でもない出来事。
その日が終われば、忘れてしまいそうな出来事。
それでも、誰かにとっては残しておきたいものなのだ。
俺は、物語を書くことについて考えた。
悲しい出来事は、物語になりやすい。
大切な人を失う。夢が壊れる。取り返しのつかない選択をする。
そういう瞬間には、強い感情が生まれる。
けれど、楽しかったことや、誰かと笑ったこと、いつもと同じ帰り道も、その人の人生を形作っているはずだ。
どうして俺は、それをあまり書いてこなかったのだろう。
「……今度、俺も何か書いてみようかな」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
「本当?」
結衣の顔が明るくなった。
「うん。物語とは別に、今日あったこととか」
「いいと思う!」
「ただの日記になりそうだけど」
「それでもいいじゃない。誰かに見せるために書くわけじゃないんだし」
「……そうだね」
俺は頷いた。
誰かに読んでもらうためではなく、自分のために書く。
それも、悪くないのかもしれない。
結衣は手帳を鞄にしまい、時計を確認した。
「あ、もうこんな時間」
「本当だ」
「そろそろ帰らなきゃ」
「うん」
二人で椅子から立ち上がった。
机を元の位置へ戻し、窓を閉める。
黒板には、今日の授業の跡がまだ残っていた。
消し忘れた文字を見て、明日の授業が少しだけ楽しみになる。
……授業が楽しみというのは、少し違うかもしれないけれど。
「水野くん」
教室を出る直前、結衣が振り返った。
「また、こうやって話してもいい?」
俺は一瞬、言葉を失った。
「……もちろん」
返事は、思ったよりもすぐに出てきた。
「私、今日楽しかったから」
結衣は少し照れくさそうに笑った。
「本の話もできたし、手帳の話もできたし。水野くんが普段どんなことを考えてるのか、少し分かった気がする」
「……俺も、早坂さんのことが少し分かった気がするよ」
「本当?」
「うん。思っていたより、落書きが好きなんだなって」
「そこなの!?」
結衣が目を丸くする。
「いや、手帳の話もちゃんと覚えてるよ」
「本当かなあ……」
「本当だって」
「じゃあ、次に会ったとき、何を書いていたか当ててみてね」
「えっ、それは難しくない?」
「ふふっ。どうかな」
結衣は楽しそうに笑った。
そして、いつものように手を振った。
「それじゃあ、また明日」
「……また明日」
彼女が廊下の向こうへ歩いていく。
俺は、その姿を見送ったあと、少しだけその場に立っていた。
また明日。
昨日も、今日も、俺たちは同じ言葉を交わしている。
それなのに、今日は少しだけ、その言葉が違って聞こえた。
明日も話せたらいい。
明日も、彼女の知らない一面を知ることができたらいい。
そんなふうに思っている自分がいた。
*
家に帰ると、俺は夕食を済ませてから、自分の部屋へ向かった。
机の上には、いつものノートが置かれている。
俺は椅子に座り、しばらく表紙を眺めた。
今日、結衣と話したことを思い出す。
好きな本の話。
日常を描いた物語の話。
手帳に書き残している、何でもない出来事の話。
どれも、物語の結末とは関係のない話だった。
けれど、話している時間は楽しかった。
何かを失ったわけでもない。
大きな出来事が起こったわけでもない。
ただ、二人で話をした。
それだけで、今日という日が少しだけ特別になった気がした。
「……日記、か」
俺は机の引き出しから、使いかけの小さなノートを取り出した。
物語を書くためのノートとは違う。
まだ何も書かれていない、白いページが並んでいる。
何を書けばいいのか、少し迷った。
今日の出来事を、順番に書けばいいのだろうか。
朝、駿にからかわれたこと。
授業で先生に当てられたこと。
昼休みに、明里たちと話したこと。
放課後、結衣と二人で話したこと。
考えてみると、書けることは意外と多かった。
俺はペンを手に取った。
そして、最初のページに日付を書き、その下に一文を記した。
――今日は、早坂結衣と放課後に話をした。
書いてから、しばらくその文字を見つめる。
続けて何か書こうと思ったけれど、うまく言葉が浮かばなかった。
楽しかった。
そう書けばいいのだろうか。
でも、それだけでは少し足りない気がした。
何が楽しかったのか。
どうして、また話したいと思ったのか。
考えているうちに、少しずつ言葉が浮かんできた。
――好きな本の話をした。
――何でもない日にも、大切なことがあるのだと教えてもらった。
――明日も、また話せたらいいと思った。
最後の一文を書いた瞬間、俺は手を止めた。
「……何を書いてるんだ、俺は」
思わず苦笑する。
誰に見せるわけでもない。
だからこそ、こんなことを書いてしまったのだろうか。
いや、誰かに見せるためだったら、もっと違う言葉を選んでいたかもしれない。
格好をつけて、何でもないことのように書いて。
本当はどう思っているのか、自分でも分からなくなっていたかもしれない。
けれど、ここには俺しかいない。
だから、正直に書いてもいいのだろう。
俺はノートを閉じ、今度は物語のノートを開いた。
昨日書いた続きを読み返す。
少年は朝を迎え、窓を開け、花に水をやる。
その先に、どんな一日があるのだろう。
誰かと話すかもしれない。
食事をするかもしれない。
少女のことを思い出して、少しだけ寂しくなるかもしれない。
それでも、彼は一日を過ごしていく。
俺はペンを動かした。
すぐに上手く書けるわけではない。
何度も言葉を消して、書き直す。
それでも、昨日よりは少しだけ、続きを書くことが楽しかった。
誰かに読んでもらうことを考えながら書く。
自分だけでは気づけなかったことを、誰かが見つけてくれるかもしれない。
そんな可能性を、今は少しだけ信じてみたいと思った。
時計を見ると、思っていたよりも時間が過ぎていた。
俺はペンを置き、二冊のノートを並べた。
一冊には、物語の続きを。
もう一冊には、今日という日の記録を。
どちらも、まだ始まったばかりだ。
これから何を書くことになるのか、俺にも分からない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
明日、学校へ行けば、また結衣に会えるかもしれない。
そう思うと、少しだけ明日が楽しみになった。
俺は二冊のノートを引き出しにしまい、机の明かりを消した。
何でもない一日が終わる。
そして、明日もまた、新しい一日が始まる。
今までなら、それだけのことだった。
けれど今は、その当たり前の繰り返しの中に、まだ知らない何かがあるような気がしていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、航平と結衣が放課後の教室で、好きな本や日常の小さな出来事について語り合いました。
航平は、結衣のことを少しずつ知っていきます。同時に、自分が今まで見過ごしてきた日常にも、物語にできるものがあるのかもしれないと考え始めました。
二人の関係は、まだ恋と呼べるほど明確なものではありません。
けれど、また話したいと思うこと。明日会えるかもしれないと考えること。
そんな小さな気持ちも、二人にとって大切な変化なのだと思います。
次の一日が、二人にどんな時間を運んでくるのか。
引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。




