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君に贈る最後の物語、最後の一輪に愛を込めて  作者: R×Y (Yazid)
第一章 出会いを紡ぐ物語
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第四話 初めて誰かに読ませる物語

誰にも読ませるつもりのなかった物語を、初めて誰かに手渡した航平。


その結末を読んだ結衣が見つけたのは、悲しみの中に残された、小さな明日でした。

 放課後の教室には、昼間とは違う静けさがあった。


 窓の外から聞こえてくる運動部の掛け声。廊下を駆けていく生徒たちの足音。遠くの教室から漏れる笑い声。


 それらは確かに聞こえているのに、教室の中だけは、まるで一日の終わりを惜しむように穏やかだった。


 俺は自分の机に座り、開いたままのノートを眺めていた。


 ノートの端には、昨日書き加えた一文がある。


 ――それでも、少年は明日を迎えた。


 たった一行。


 それだけなのに、何度見返しても、どこか自分の書いた文章ではないような気がした。


 今までの俺なら、あの少年が明日を迎えたところで物語を終わらせたりはしなかっただろう。


 病気の少女を失い、何もできなかった自分を責め、最後には彼自身も世界から背を向ける。


 そういう結末なら、いくらでも思いつく。


 むしろ、そちらのほうが自然に書ける。


 それなのに、今回は違った。


 あの少女に言われたからだろうか。


 ――どうして、この子は幸せになれないの?


 初めて会ったばかりの相手に、あんなふうに尋ねられるとは思わなかった。


 物語の結末について聞かれたはずなのに、まるで自分の胸の内を覗かれたような気分になった。


「……何を難しい顔してんだ?」


 突然、机の向こう側から声がした。


 顔を上げると、佐久間駿が俺の机に両手をついていた。


「いや、別に」


「その『別に』は絶対に別にじゃない顔だろ」


「人の顔を勝手に分析するな」


「親友の顔色を読むのも、親友の大切な仕事です」


「そんな仕事、頼んだ覚えはない」


「おいおい、冷たいなあ。俺たちの友情ってそんなもんだったのか?」


「少なくとも、お前が俺の机に寄りかかっている現状を友情とは呼ばないと思う」


「ひどっ!」


 駿は大げさに胸を押さえた。


 その隣では、帰り支度をしていた成瀬明里が、呆れたようにこちらを見ている。


「佐久間、うるさい。まだ残って勉強してる人もいるんだけど」


「俺の声がそんなに響くか?」


「廊下の向こうまで聞こえるくらいには」


「それは才能だな」


「騒音を才能って呼ぶの、初めて聞いた」


「褒め言葉として受け取っておく」


「誰も褒めてない」


 いつものやり取りだった。


 駿が余計なことを言い、明里が即座に切り返す。駿は反省するどころか、さらに調子に乗る。


 この二人の会話を聞いていると、どんなに深刻なことを考えていても、少しだけ馬鹿らしくなってくる。


 ……それはそれで、助かるのだけれど。


「で、水野」


「今度は何だよ」


「今日は寄り道するのか?」


「しない。帰る」


「即答だな」


「帰宅部だからな」


「帰宅部にも青春はあるんだぞ!」


「お前の青春は声量でできてるのか?」


 明里が吹き出した。


「航平、今日ちょっと冴えてるね」


「そうか?」


「うん。佐久間を黙らせる才能がある」


「お前ら、俺を何だと思ってるんだ……」


「声量の大きい友人」


「話が通じない友人」


「二人とも、俺への評価がひどすぎないか?」


 駿が本気で傷ついたような顔をしたので、俺は思わず笑ってしまった。


 そのときだった。


「水野くん」


 教室の入口から、聞き覚えのある声がした。


 俺たち三人がそちらを向く。


 入口に立っていたのは、昨日も一昨日も、俺の前に現れた少女だった。


 柔らかな茶色の髪が肩の向こうへ流れている。片手には鞄を持ち、もう片方の手は胸元の鞄の紐に添えられていた。


 早坂結衣。


 昨日、俺の書いた物語の続きを楽しみにしていると言った少女。


 そして今、俺の教室に来ている少女。


「……早坂さん?」


 名前を呼ぶと、彼女はほっとしたように笑った。


「よかった。まだいたんだね」


「うん。帰るところだったけど……どうしたの?」


「ちょっと、お願いがあって」


 お願い。


 その言葉に、俺の頭の中で何かが小さく警鐘を鳴らした。


 まさか、昨日の続きを今すぐ書いてほしいと言うのだろうか。


 いや、さすがにそれはないか。


 俺が勝手に身構えていると、駿が俺の肩越しに顔を出した。


「えっと……早坂さん、だよな?」


 結衣は駿のほうを見て、小さく首を傾げた。


「そうだけど……佐久間くん、だよね?」


「おお、覚えてくれてたのか!」


「去年の文化祭準備で、何度か見かけたから。クラスの飾りを運んでたとき、すごく大きな声で指示してた人でしょ?」


「指示じゃなくて、みんなを鼓舞してたんだよ!」


「そっか。じゃあ、鼓舞の声が大きかった人」


「結局、声が大きいのは変わらないんだな……」


 駿が肩を落とす。


 明里は口元を押さえながら笑っていた。


「私は成瀬明里。早坂さんとは、文化祭の準備で少し話したことがあるよね」


「あ、うん。覚えてる。ポスターの色を一緒に考えてくれたよね」


「そうそう。あのときはありがとう」


「こちらこそ」


 二人は自然に挨拶を交わした。


 駿と明里は結衣のことを知っていたらしい。正確には、顔と名前、それから去年の文化祭で少し関わった程度なのだろう。


 俺と同じだ。


 ただ、俺は彼女と話したのがほんの数日前で、彼女が俺の物語を読んでみたいと言ったことさえ、まだ現実感がない。


「それで、早坂さん。俺にお願いって?」


「あ、うん」


 結衣は俺に向き直った。


 少しだけ、緊張したように鞄の紐を握り直す。


「この前の話なんだけど……水野くんの書いた物語、読ませてもらえないかな?」


 その言葉を聞いた瞬間、俺は返事を忘れた。


 駿がこちらを見た。


 明里も、何かを察したように俺と結衣を交互に見ている。


 教室のざわめきが、急に遠くなった気がした。


 読ませてほしい。


 俺の物語を。


 自分以外の誰かに。


 ……本当に?


「……ああ」


 やっと、それだけ答えた。


「もちろん。昨日、そういう話をしたしね」


「よかった」


 結衣は心から安心したように笑った。


 その笑顔を見て、俺はようやく、自分がどれだけ緊張していたのかを自覚した。


 別に、誰かに読ませること自体が初めてというわけではない。


 国語の授業で書いた作文なら、先生に提出したこともある。読書感想文をクラスで発表したことだってある。


 けれど、あれは違う。


 自分の考えをまとめた文章と、自分が本当に書きたいと思って書いた物語は、似ているようでまるで違う。


 物語には、書いた人間の見たものや、考えたこと、隠しておきたい気持ちまで、知らないうちに入り込んでしまう。


 登場人物の言葉を借りて、本当は自分が言えなかったことを書いてしまうこともある。


 だから俺は、誰かに読ませるつもりで物語を書いたことがなかった。


 読まれなければ、説明する必要もない。


 理解されなくても、傷つくことはない。


 それで十分だと思っていた。


「……水野くん?」


「え?」


「もしかして、困らせちゃった?」


 結衣の声で我に返る。


「いや、違う。そういうわけじゃない」


「本当?」


「本当だよ」


 俺は机の横に掛けていた鞄を引き寄せた。


 その中には、授業用のノートや教科書のほかに、何度も読み返した原稿が入っている。


 家に帰ったら続きを書こうと思って、昨日から持ち歩いていたものだ。


 いつもなら、誰にも見られないように鞄の奥へしまっておく。


 今日は、それを取り出さなければならない。


「ちょっと待ってて」


 鞄の中を探る。


 原稿は、折れないようにクリアファイルに挟んであった。


 取り出した紙の束を見つめる。


 何度も読み返した文章。何度も書き直した言葉。消しては書き、書いては消した跡。


 そして最後のページには、昨日付け足した一文がある。


 ――それでも、少年は明日を迎えた。


 この一行を、彼女はどう読むのだろう。


 俺が差し出す前に、駿が横から覗き込んできた。


「おっ、それが例の小説か?」


「覗くな」


「いや、気になるだろ。航平が小説を書いてるのは知ってたけど、実際の原稿を見るのは初めてだし」


「見せるために持ってきたわけじゃない」


「じゃあ、何のために持ってきたんだよ」


「……続きを考えるため」


「なるほど。つまり、見せる予定はなかったけど、見せる相手ができたわけだ」


「佐久間」


「はい」


「余計な分析をするな」


「はい……」


 駿は素直に一歩下がった。


 その様子を見て、明里が小さく笑う。


「でも、よかったじゃん。読んでくれる人がいるなんて」


「……まあ」


「航平が書いたものを、ちゃんと読んでみたいって思ったんでしょ?」


 俺は答えられなかった。


 結衣が、俺の手元の原稿を見つめていたからだ。


 興味本位で眺めているのではない。


 早く読ませてほしいと急かしているわけでもない。


 ただ、俺が渡すのを待っている。


 その当たり前のような姿勢が、かえって俺を戸惑わせた。


 物語を読んでほしいと願ったことは、何度もある。


 自分の中では、そう思っていた。


 けれど、本当に誰かが読んでくれるとなった途端、何を書いていたのかさえ分からなくなりそうだった。


「……これ」


 俺は原稿を差し出した。


「まだ完成してないところもあるけど、一応、最後まで書いてある」


 結衣は両手でそれを受け取った。


「ありがとう」


 紙の束を大切そうに抱えたあと、彼女は一枚目をめくろうとした。


 その瞬間。


「……あ、待って」


 俺の口から、思わず声が出た。


 結衣の手が止まる。


「どうしたの?」


「いや、その……」


 何を言うつもりだったのだろう。


 面白くないかもしれない。


 文章が拙いかもしれない。


 登場人物の気持ちが伝わらないかもしれない。


 そんなことは、今さら言うまでもない。


 それでも、何か言わなければいけない気がした。


「……結構、暗い話だから」


 結局、出てきたのはそんな言葉だった。


 結衣は一度、原稿へ視線を落とした。


 それから俺を見る。


「うん。知ってる」


「……そうだったね」


「でも、暗い話だから読みたくないって思ったことはないよ」


 彼女はそう言って、穏やかに微笑んだ。


「私は、水野くんがどんな物語を書いたのか知りたいんだもの」


 胸の奥が、妙な具合にざわついた。


 暗い話だから、仕方がない。


 悲しい結末だから、仕方がない。


 そう言ってしまえば、俺は何も説明しなくて済む。


 それなのに彼女は、そんな理由を最初から気にしていないようだった。


「……じゃあ、感想を聞かせてくれる?」


「もちろん」


「正直な感想でいいから」


「うん」


「つまらなかったら、つまらないって言ってくれていい」


「……水野くん」


「何?」


「先回りして、自分の逃げ道を作ってない?」


「え?」


 思わず顔を上げた。


 結衣は少し困ったように笑っている。


「つまらないって言われてもいい、とか。暗い話だから、とか。先にそう言っておけば、もし私が気に入らなくても傷つかずに済むと思ってるんじゃない?」


「……」


「違ったら、ごめんね。でも、なんとなくそう思った」


 言葉が出てこなかった。


 図星だったから、というのもある。


 けれど、それ以上に驚いていた。


 彼女は、まだ俺の物語を一度も読んでいない。


 それなのに、俺が原稿を渡すことにどれほど迷っていたのか、見抜かれたような気がした。


「……早坂さんって、意外と鋭いね」


「そう?」


「うん。もう少し、何でも笑って受け流す人かと思ってた」


「ひどいなあ。私だって、いろいろ考えてるんだよ?」


「それは失礼しました」


「よろしい」


 結衣は得意げに頷いた。


 その表情があまりにも自然だったので、俺は小さく笑ってしまった。


 彼女は、俺が思っていたよりもずっと、物事をよく見ているらしい。


 明里が時計を確認した。


「早坂さん、これから読むの?」


「うん。でも、家に帰ってからにしようかな。ちゃんと集中して読みたいし」


「そっか。じゃあ、航平は明日まで感想を待つことになるね」


「……別に、急いでないよ」


「へえ?」


 明里が意味ありげに目を細める。


「何だよ」


「別に?」


「その顔で言われても説得力がない」


「ふふっ。じゃあ、私は帰るね。佐久間、あなたも早く帰りなさいよ」


「なんで俺だけ指導されてるんだ?」


「航平よりあなたのほうが帰り支度が遅いから」


「俺は友達との交流を大切にしているだけだ!」


「はいはい」


 明里は鞄を肩に掛け、結衣へ手を振った。


「またね、早坂さん」


「うん。またね、成瀬さん」


 駿も俺の肩を軽く叩いた。


「じゃあな、航平。明日、感想を聞かせてもらえよ」


「お前が聞くのか?」


「そりゃ気になるだろ!」


「早坂さんの感想を勝手に聞こうとするなよ」


「おっ、もう庇うのか?」


「そういう意味じゃない!」


「はいはい。そういうことにしておいてやるよ」


「おい!」


 駿は笑いながら教室を出ていった。


 明里もその後を追い、二人の言い争う声が廊下の向こうへ遠ざかっていく。


 残された俺と結衣は、しばらく顔を見合わせた。


「……賑やかな友達だね」


「毎日あんな感じだよ」


「楽しそう」


「楽しいというか、疲れるというか……」


「でも、水野くんも楽しそうだったよ?」


「……そうかな」


「うん」


 結衣は、そう言って笑った。


 俺はそれ以上、何も言わなかった。


 窓から差し込む夕方の光が、彼女の髪の輪郭を柔らかく照らしている。


 結衣は原稿を鞄へしまった。


「じゃあ、私も帰るね」


「うん」


「読んだら、ちゃんと感想を伝えるから」


「……分かった」


「約束ね」


 彼女は小指を立てるようなことはしなかった。


 ただ、念を押すように俺の目を見た。


 その視線から逃げることもできず、俺は頷いた。


「約束」


「よし。それじゃあ、また明日」


「……また明日」


 結衣は軽く手を振り、教室を出ていった。


 その背中が廊下の角に消えるまで、俺はなぜか席を立てなかった。


 机の上には、何も残っていない。


 いつもなら、原稿を鞄にしまえばそれで終わりだった。


 誰にも読ませない。


 誰にも感想を求めない。


 それが俺の書き方だった。


 けれど今、俺の物語は俺の手元を離れている。


 早坂結衣という、まだ知り合ったばかりの少女の鞄の中に。


 彼女は、どんな顔をして読むのだろう。


 悲しいと思うだろうか。


 登場人物に腹を立てるだろうか。


 それとも、何も感じないだろうか。


 考え始めると、いくつもの想像が浮かんでは消えていく。


「……何を気にしてるんだ、俺は」


 小さく呟いて、鞄を肩に掛けた。


 感想を聞かせてほしいと言ったのは俺だ。


 なら、どんな感想であっても受け止めればいい。


 それだけのことだ。


 そう自分に言い聞かせながら、俺は教室を後にした。


     *


 翌朝。


 目覚まし時計が鳴る少し前に目が覚めた。


 窓の外は、まだ薄い青色をしている。


 布団の中でしばらく天井を眺めてから、俺はゆっくりと起き上がった。


 洗面所で顔を洗い、制服に着替え、朝食を済ませる。


 いつもと変わらない朝。


 なのに、頭の片隅ではずっと、昨日の原稿のことを考えていた。


 もう結衣の手元にあるのだから、俺にできることは何もない。


 それなのに、朝食を食べているときも、歯を磨いているときも、ふとした瞬間に彼女の顔が浮かんでくる。


 ……我ながら、落ち着かない。


 家を出て、いつもの道を歩いた。


 通学路には、同じ制服を着た生徒たちがちらほら見える。交差点の近くでは、近所の小学生がランドセルを揺らしながら走っていた。


 春の風が吹き、歩道の端に残っていた桜の花びらが、アスファルトの上を転がっていく。


 校門をくぐると、朝練を終えた運動部の生徒たちが、汗を拭きながら校舎へ戻っていた。


 教室に入ると、すでに駿が自分の席でパンを食べていた。


「おはよう、航平」


「おはよう。朝からパンか?」


「朝だからパンだろ」


「その理屈なら、昼も夜もパンになるぞ」


「実際、パンはいつ食べてもうまい」


「否定はしないけど」


 駿は最後の一口を飲み込み、にやりと笑った。


「で?」


「……何が?」


「感想」


「まだ何も聞いてない」


「じゃあ、早坂さんは?」


「来てないだろ」


「いやあ、そろそろ来るんじゃないかと思ってな」


「何でだよ」


「昨日、あんな約束をしてたから」


「お前、どこまで聞いてたんだ……」


「聞こえてきた分だけ」


「つまり、全部じゃないか」


「人聞きが悪いな。俺は耳がいいんだ」


「余計なところで発揮するな」


 駿が笑った。


 俺は鞄を机の横に掛け、教科書を取り出した。


 まだ朝のホームルームまで時間がある。


 結衣が来るかどうかなんて、分からない。


 感想だって、今日中に聞けるとは限らない。


 それなのに、教室の入口へ視線を向けてしまう自分がいた。


「……航平」


 今度は駿が、少しだけ声を落とした。


「何?」


「そんなに気になるなら、普通に聞けばいいんじゃね?」


「何を?」


「読んだかどうか」


「……別に、催促するつもりはないよ」


「そっか」


 駿はそれ以上、からかわなかった。


 いつもなら、ここで余計な一言を挟むはずなのに。


 俺が不思議に思っていると、駿は空になったパンの袋を丸めながら言った。


「まあ、誰かに自分の書いたものを読んでもらうって、結構勇気がいるんだろうな」


「……」


「俺は小説なんて書かないから、よく分からないけどさ。少なくとも、航平が人に見せるのを嫌がってたのは知ってる」


「嫌がってたというか……必要がなかっただけだよ」


「そういうことにしておいてもいいけど」


 駿は、少しだけ笑った。


「でも、読んでくれる人がいるなら、悪いことじゃないんじゃね?」


 俺は教科書を開いたまま、何も答えなかった。


 駿の言葉が、思っていたよりも素直に胸へ入ってきたからだ。


 しばらくして、明里が教室へ入ってきた。


「おはよう。何の話?」


「航平が早坂さんの感想を気にしてる話」


「佐久間!」


「おはよう、航平。今日も分かりやすいね」


「お前まで……」


 明里は楽しそうに笑いながら、自分の席へ向かった。


「まあ、でも。早坂さんなら、適当に読んで終わりにはしないんじゃない?」


「……どうしてそう思う?」


「だって、わざわざ航平のところまで来て、読みたいって言ったんでしょ?」


「それは、そうだけど」


「だったら、少なくとも興味はあるんだよ。どういう結末を書く人なのか、とか。どうしてそんな物語を書くのか、とか」


 明里は鞄から筆箱を取り出しながら続けた。


「誰かに興味を持ってもらえるって、案外すごいことだと思うよ」


 俺は窓の外へ目を向けた。


 校庭では、体育の授業に使う道具を先生が運んでいる。グラウンドの端では、数人の生徒がボールを蹴りながら笑っていた。


 誰も、俺の物語のことなど知らない。


 俺がどんな結末を書いてきたのかも。


 どんなことを考えながら、あの一文を書き加えたのかも。


 けれど、一人だけ。


 その続きを知りたいと言ってくれた人がいる。


 そう考えると、昨日までとは少しだけ、教室の景色が違って見えた。


「席に着け。ホームルームを始めるぞ」


 藤本先生が入ってきた。


 駿が慌てて自分の席へ戻り、明里も教科書を机に置く。


「今日は進路希望調査の提出について確認する。まだ出していない者は、今日の放課後までに必ず提出すること。それから、今週の課題も忘れるなよ」


 先生の声に、教室のあちこちから小さなため息が漏れた。


「先生、進路希望って、まだ迷っていてもいいんですか?」


 前の席の生徒が尋ねた。


「もちろんだ。迷っているなら、今の時点で考えていることを書けばいい。進路は一度書いたら絶対に変えられない、というものじゃないからな。ただし、何も考えずに空欄で出すのはやめてくれ」


「はーい……」


「返事はいいな。中身も伴わせるように」


 先生が苦笑すると、教室に小さな笑いが広がった。


 進路。


 卒業したら、何をするのか。


 大学へ進むのか、就職するのか。


 俺も考えていないわけではない。


 ただ、まだはっきりとは決められずにいた。


 文章を書くことは好きだ。


 物語を考える時間も嫌いではない。


 けれど、それを将来の仕事にしたいのかと聞かれると、答えに詰まってしまう。


 好きなことを仕事にできたら、きっと幸せなのだろう。


 でも、好きなことだからこそ、失うのが怖いという気持ちもあった。


 もし、自分の書いた物語が誰にも読まれなくなったら。


 もし、何も書けなくなったら。


 そう考えると、簡単には決められない。


「水野」


「はい」


 不意に先生に呼ばれ、俺は顔を上げた。


「進路希望調査は、もう書いたか?」


「まだ、少し迷っていて……」


「そうか。迷うこと自体は悪くない。ただ、迷っている理由くらいは、自分で分かっておいたほうがいいぞ」


「迷っている理由、ですか」


「そうだ。選択肢が多すぎて決められないのか。それとも、選んだあとに後悔するのが怖いのか。理由によって、考え方も変わってくるからな」


 先生はそう言って、教卓の上の書類を整えた。


「焦って答えを出す必要はない。でも、自分が何を恐れているのかくらいは、少しずつ考えておくといい」


「……分かりました」


 先生は頷き、別の生徒へ話を移した。


 俺は机の上の進路希望調査を見つめた。


 選んだあとに後悔するのが怖い。


 それは、確かにあるのかもしれない。


 物語だってそうだ。


 登場人物に何をさせるか。


 どんな言葉を言わせるか。


 どんな結末を与えるか。


 俺はいつだって、自分が選んだ結末が間違いではないと証明するように、悲しい物語を書いてきた。


 悲しい結末なら、少なくとも現実から目を逸らしてはいない。


 幸せな結末を書いて、もしそれが嘘のように思えたら。


 もし、現実にはそんな結末など存在しないのだと感じてしまったら。


 だから、最初から期待しなければいい。


 ……そういう考え方を、いつの間にか身につけていたのかもしれない。


 授業が始まる。


 先生の説明を聞き、ノートを取り、問題を解く。


 いつもと変わらない時間が過ぎていく。


 けれど、時折、鞄の中に原稿が入っていないことを思い出してしまった。


 あれは今、結衣の手元にある。


 俺の知らない場所で、俺の知らない時間に、彼女が読んでいるかもしれない。


 そう思うたびに、落ち着かない気持ちになった。


     *


 昼休み。


 俺たちはいつものように、机を寄せて昼食を取っていた。


 駿は購買で買った焼きそばパンを頬張り、明里は弁当箱の蓋を開けている。橘蒼太は窓際の席に座り、飲み物の蓋を開けながら、静かに俺たちの会話を聞いていた。


「そういえば、水野」


 蒼太がこちらを見た。


「昨日、早坂さんに小説を渡したんだって?」


「……誰から聞いたんだよ」


「佐久間」


「お前、何でも話すな!」


「別に秘密にしてないだろ」


「そうだけどさ!」


 駿が反論する。


 蒼太は気にした様子もなく、ストローをくわえた。


「それで、どうだった?」


「どうだったって……渡しただけだよ。まだ感想は聞いてない」


「そうか」


 蒼太はそれだけ言って、弁当の蓋を閉じた。


「何だよ、その反応」


「いや。水野が自分の小説を誰かに渡すのは珍しいと思っただけ」


「……まあ、そうかもしれない」


「なら、いい機会なんじゃないか」


「何が?」


「自分の文章を、書いた本人以外がどう読むのか知る機会」


 蒼太は淡々と言った。


「自分では伝わると思っていたことが伝わらなかったり、逆に、意識していなかったところを気に入られたりする。そういうことはあるだろ」


「……あるのかな」


「あるんじゃないか。俺は小説を書かないから、知らないけど」


「知らないのかよ」


「だから、一般論だ」


 蒼太の表情は変わらない。


 それでも、その言葉は妙に納得できた。


 自分の書いたものが、他人にどう読まれるのか。


 俺は今まで、そんなことを考えたことがなかった。


 いや、考えないようにしていたのかもしれない。


「でもさ」


 駿が焼きそばパンを置いた。


「早坂さん、どうして航平の小説を読みたいと思ったんだろうな?」


「本人に聞けば?」


 明里が即座に返す。


「いや、そういうことじゃなくて。普通、知り合ったばかりの相手の小説を、わざわざ読みたいって思うか?」


「思う人は思うでしょ。物語が好きなら」


「早坂さんって、物語好きなのか?」


「さあ?」


「さあって……」


「私は、早坂さんとそんなに親しいわけじゃないもの。文化祭で少し話した程度だし」


 明里は箸を動かしながら続けた。


「でも、あの子は航平の話を聞いて、ちゃんと自分の言葉で質問してたよね。少なくとも、適当に相槌を打っていただけには見えなかった」


「……うん」


 俺は頷いた。


 結衣の言葉を思い出す。


 どうして、この子は幸せになれないの?


 彼女は、物語の中の少女が病気であることに驚いたわけでも、悲しい結末にただ泣いたわけでもなかった。


 結末そのものに疑問を持った。


 俺が当然だと思っていたものを、当然ではないと言った。


「航平」


 駿が、珍しく真面目な顔をした。


「感想がどうであれ、ちゃんと聞いてやれよ」


「……分かってる」


「いや、お前、たまに自分が納得できないこと言われると、すぐ考え込むだろ」


「そんなことない」


「ある」


「あるね」


「あるな」


 明里と蒼太まで頷いた。


「……お前ら、俺を何だと思ってるんだ」


「考えすぎるやつ」


「考えすぎて黙るやつ」


「黙っている間に、さらに考えすぎるやつ」


「三段活用にするな」


 駿が笑い、明里も肩を揺らした。


 俺はため息をついた。


 けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。


 こいつらは、俺が何を考えているのか全部分かっているわけではない。


 それでも、俺が黙り込んでいることには気づいてくれる。


 そのことを、今さらながらありがたいと思った。


「まあ、安心しろよ」


 駿が言った。


「早坂さんがどんな感想を言っても、俺たちはお前の味方だからな」


「……お前、何か勘違いしてないか?」


「何を?」


「別に、人生を左右するような話をしているわけじゃない」


「そうか? お前にとっては、結構大事なことなんじゃないの?」


 俺は返事をしなかった。


 駿はそれを見て、少しだけ笑った。


「ほらな」


「何がだよ」


「大事なんじゃん」


「……うるさい」


「はいはい」


 駿は再びパンを手に取った。


 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。


 俺たちは弁当箱を片づけ、机を元の位置へ戻した。


 午後の授業が始まる。


 黒板に書かれる文字をノートへ写しながら、俺はふと思った。


 もし結衣が、俺の物語を気に入らなかったら。


 それでも、俺は彼女に続きを読ませたいと思うだろうか。


 もし、俺の書いた結末は間違っていると言われたら。


 俺は、それを否定せずに聞くことができるだろうか。


 答えは、まだ分からない。


 けれど、分からないからこそ、彼女の感想を聞いてみたいと思った。


     *


 放課後。


 授業を終えた生徒たちが、次々と教室を出ていった。


 運動部へ向かう者。図書室へ行く者。友人と寄り道の相談をする者。


 教室は、いつものように少しずつ空になっていく。


 俺は机の上を片づけながら、何度目か分からない時計の確認をしていた。


 別に、誰かを待っているわけではない。


 ただ、帰る準備をしているだけだ。


 ……そういうことにしておこう。


「航平」


 駿が鞄を肩に掛けた。


「今日は一緒に帰るか?」


「悪い。ちょっと用事がある」


「へえ?」


「何だよ」


「いや、用事ねえ」


「その顔をやめろ」


「どんな顔だよ」


「全部分かってます、みたいな顔」


「実際、だいたい分かってるしな」


「分かってないだろ」


「まあな!」


 駿はあっさり笑った。


「じゃあ、また明日。早坂さんによろしくな」


「だから、まだ会うと決まったわけじゃ……」


「はいはい」


 駿は手を振って、廊下へ出ていった。


 その後を追うように、明里と蒼太も教室を出る。


 明里は去り際に振り返り、意味ありげに笑った。


「航平。あんまり考えすぎないこと」


「……努力する」


「よろしい」


 彼女は満足そうに頷き、駿の声がするほうへ歩いていった。


 教室に一人残される。


 窓の外では、運動部の練習が始まっていた。


 ボールが地面を叩く音。誰かの掛け声。風に揺れる木々の葉。


 俺は鞄を持ち上げた。


 結局、今日は会えないかもしれない。


 結衣は家で読んでいるのかもしれないし、まだ最初の数ページしか読んでいないかもしれない。


 感想を聞くのは明日でもいい。


 そう思って、教室の扉へ向かった。


「水野くん!」


 廊下から声がした。


 足を止める。


 振り向くと、結衣がこちらへ歩いてきていた。


 少し息が弾んでいる。


 走ってきたのだろうか。


「早坂さん?」


「よかった。まだ帰ってなかった」


「どうしたの?」


「えっと……」


 結衣は一度、鞄を開けた。


 中から、見覚えのあるクリアファイルを取り出す。


「これ、返そうと思って」


「ああ……もう読んだの?」


「うん」


 思わず、言葉を失った。


 昨日、渡したばかりだ。


 家に帰ってから読むと言っていたけれど、まさか一晩で読み終えたのだろうか。


「……全部?」


「全部」


「そっか」


 それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。


 結衣は原稿を両手で持ち、俺へ差し出した。


「ありがとう。読ませてくれて」


「……どうだった?」


 自分でも驚くほど、声が小さくなった。


 結衣はすぐには答えなかった。


 俺の顔を見て、それから手元の原稿へ視線を落とす。


 その沈黙が、ひどく長く感じられた。


 やっぱり、面白くなかったのだろうか。


 文章が分かりにくかったのかもしれない。


 少女の気持ちが伝わらなかったのかもしれない。


 あるいは、最後まで読む価値もないと思われたのだろうか。


 考えが悪いほうへ傾きかけた、そのとき。


「……悲しかった」


 結衣が言った。


 俺は、顔を上げた。


「最後まで読んで、すごく悲しかった。どうしてこの子がこんな目に遭わなきゃいけないんだろうって、何度も思った」


「……」


「男の子の気持ちも、少し分かる気がしたよ。大切な人に何かあったとき、何をすればいいのか分からなくなっちゃうことって、あると思うから」


 結衣は言葉を選ぶように、ゆっくりと話した。


「でもね、私……最後の一文を読んだとき、少しだけ安心したんだ」


「最後の一文?」


「うん。『それでも、少年は明日を迎えた』ってところ」


 胸の奥が、強く跳ねた。


 彼女は、あの一文を覚えていた。


 俺が昨日、何度も見返していた一文。


 書いた本人でさえ、どうしてそこに書き加えたのか、うまく説明できない一文。


 結衣は、それを読んでくれた。


「もちろん、少女がいなくなったことは悲しいよ。少年がこれからも寂しい思いをするかもしれないことも、簡単には受け入れられない」


 彼女は原稿の端を、指先でそっと押さえた。


「でも、少年までいなくなってしまったら……少女が一緒に過ごした時間も、二人が笑ったことも、全部、そこで止まってしまう気がしたの」


 俺は黙って聞いていた。


「だから、少年が明日を迎えたって書いてあって、よかったと思った。悲しいことがなくなったわけじゃないし、すぐに幸せになれるわけでもないけど……それでも、明日があるんだって」


 結衣はそこで、少しだけ笑った。


「私、あの一文が好き」


 胸の奥に、言葉にできないものが広がった。


 自分が書いた文章を褒められたから、というだけではない。


 文章の上手さを評価されたわけでもない。


 俺がなぜあの一文を書き加えたのか、自分でも分からなかったものを、彼女は彼女なりに受け止めてくれた。


 そして、そこに意味を見つけてくれた。


「……そっか」


 ようやく出てきた言葉は、それだけだった。


「うん」


「ありがとう」


 俺がそう言うと、結衣は少し目を丸くした。


「え?」


「読んでくれて、ありがとう。ちゃんと最後まで読んでくれて……そういう感想を聞かせてくれて、ありがとう」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。


 こんなに何度もありがとうと言うのは、普段の俺らしくない。


 けれど、ほかに言い方が見つからなかった。


 結衣は、ふっと表情を柔らかくした。


「どういたしまして」


 それから、彼女は少しだけ首を傾げた。


「ねえ、水野くん」


「何?」


「一つ、聞いてもいい?」


「……うん」


「この物語って、本当にこれで終わりなの?」


 その問いに、俺は息を止めた。


 終わり。


 確かに、原稿はそこで終わっている。


 少女がいなくなり、少年が明日を迎える。


 それ以上のことは書いていない。


 少年がその後、どんな人生を送るのか。


 少女との思い出を、どう抱えて生きていくのか。


 誰かと出会い、笑い、また何かを失うのか。


 俺は何も書かなかった。


 書く必要がないと思っていたからだ。


 少女がいなくなった時点で、物語の結末は決まっている。


 残された少年の未来を描いたところで、彼女が戻ってくるわけではない。


 だから、そこで終わらせた。


「……今のところは、そうだよ」


「そっか」


 結衣は頷いた。


 そして、原稿を俺へ返した。


「じゃあ、続きができたら、また読ませてね」


「……続き?」


「うん」


「でも、これは短編だし……」


「短編でも、続きがあってもいいんじゃない?」


 結衣は、当たり前のことを言うように答えた。


「それに、少年が明日を迎えたなら、その明日からどんなふうに生きていくのか、私は知りたいよ」


 俺は、手元の原稿を見つめた。


 今まで、物語は結末まで書き切れば完成するものだと思っていた。


 始まりがあって、途中に出来事があって、最後に結末がある。


 そこまで書けば、それでいい。


 けれど、結衣は違うことを言った。


 結末の先にも、物語があるのではないか。


 終わったと思っていた場所から、まだ何かが続いていくのではないか。


 そんなふうに考えたことは、なかった。


「……早坂さんは、変わってるね」


「えっ、また?」


「また?」


「この前も似たようなこと言われた気がする」


「言ったかもしれない」


「もう。ひどいなあ」


 結衣は頬を少し膨らませた。


 その顔がおかしくて、俺は笑った。


 彼女も、つられるように笑う。


 放課後の廊下に、二人分の笑い声が小さく響いた。


 しばらくして、結衣は鞄を持ち直した。


「それじゃあ、今日は帰るね」


「うん」


「また明日」


「……また明日」


 彼女は手を振り、階段のほうへ歩いていった。


 俺は、その後ろ姿を見送った。


 今度は、昨日のように立ち尽くしたままではなかった。


 結衣の姿が見えなくなると、俺も鞄を肩に掛けて歩き出した。


 廊下の窓から、夕方の光が差し込んでいる。


 階段を下りながら、俺はさっきの会話を思い返した。


 悲しかった。


 最後の一文が好き。


 続きができたら、また読ませてほしい。


 その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


 俺の物語を読んだ人間がいる。


 その人は、俺が考えていたのとは違う場所で立ち止まり、俺が見落としていたものを見つけた。


 それが、こんなにも不思議なことだとは思わなかった。


 校門を出ると、風が頬を撫でた。


 俺は歩きながら、ふと空を見上げた。


 春の空は、まだ明るかった。


 明日になれば、また学校がある。


 授業があって、駿が騒いで、明里が呆れて、蒼太が静かに笑う。


 そして、結衣もいる。


 今までは、明日が来ることに特別な意味など感じていなかった。


 今日が終われば明日が来る。


 ただ、それだけだった。


 けれど今は、少しだけ違う。


 明日になったら、また彼女と話せる。


 彼女が物語の続きを知りたいと言ってくれたことを、もう一度思い出せる。


 そんなことを考えている自分に気づいて、俺は苦笑した。


「……単純だな、俺も」


 誰に聞かせるでもなく呟いた。


 それでも、胸の中に残った温かさを、無理に消そうとは思わなかった。


     *


 その夜。


 机の上には、いつものノートが開かれていた。


 俺は椅子に座り、ペンを手に取った。


 原稿を返してもらったあと、家に帰るまでずっと考えていたことがある。


 少年が明日を迎えた、その先。


 彼は何をするのだろう。


 朝になったら、いつもどおり目を覚ますのだろうか。


 少女のいない部屋を見て、寂しさに立ち止まるのだろうか。


 彼女と過ごした時間を思い出して、何もできなくなるのだろうか。


 きっと、そういう日もある。


 何もかも忘れて笑える日ばかりではない。


 悲しみが消えてなくなるわけでもない。


 それでも、彼は明日を迎えた。


 なら、その先を書いてみてもいいのではないだろうか。


 俺はノートの最後のページを開いた。


 ペン先を紙に近づける。


 けれど、すぐには書けなかった。


 何を書けばいいのか分からない。


 少年に何をさせればいいのかも、分からない。


 今までなら、ここで筆を置いていたはずだ。


 書けないなら、無理に書く必要はない。


 物語はもう終わっている。


 そう言い聞かせて、別の話を書き始めていたかもしれない。


 けれど、今日は違った。


 結衣の言葉が、頭の中に残っていた。


 ――少年が明日を迎えたなら、その明日からどんなふうに生きていくのか、私は知りたいよ。


 俺は、ゆっくりと息を吐いた。


「……少しだけ、書いてみるか」


 誰に聞かせるでもなく呟き、ペンを動かす。


 最初の一文は、うまく書けなかった。


 消して、書き直す。


 それでも、しっくりこない。


 もう一度消し、少し考えてから、また書く。


 時間だけが過ぎていった。


 やがて、窓の外が暗くなり、部屋の中に机の明かりだけが残った頃。


 俺は、ようやく一つの文章を書き終えた。


 それは、劇的な出来事でも、奇跡でもなかった。


 少年が悲しみを乗り越えたわけでもない。


 ただ、失った少女との思い出を胸に抱えたまま、翌朝、窓を開ける。


 朝の空気を吸い込み、彼女が好きだった花に水をやる。


 そして、いつものように朝食を食べる。


 ほんの、それだけの場面だった。


 けれど俺は、その文章をすぐに消さなかった。


 しばらく読み返し、ペンを机に置いた。


「……こんなのも、ありなのか」


 自分で書いたものなのに、まだどこか不思議だった。


 悲しい結末を変えたわけではない。


 少女は戻ってこないし、少年の悲しみも消えていない。


 それでも、物語はそこで終わらなかった。


 悲しみのあとにも、朝が来る。


 失ったものを抱えたままでも、人は生きていく。


 そんな当たり前のことを、俺は今まで物語に書こうとしなかった。


 なぜだろう。


 少し考えてみたけれど、答えは見つからなかった。


 代わりに、俺はノートの隅に小さく書き添えた。


 ――続きは、また明日。


 書き終えた文字を見て、思わず笑ってしまった。


 明日。


 昨日までなら、物語の終わりを示す言葉にすぎなかった。


 けれど今は、続きを書くための言葉にもなっている。


 俺はノートを閉じた。


 机の上の時計は、いつの間にか遅い時間を示していた。


 明日も学校がある。


 授業を受けて、課題を片づけて、駿たちとくだらない話をする。


 そして、結衣に会う。


 ……そのとき、続きを書いたことを話してみようか。


 いや、まだ見せるほどのものではない。


 もう少し書いてからでもいいだろう。


 そう考えかけて、俺はふと手を止めた。


 また、先回りしている。


 まだ見せるほどではない。


 もう少し上手くなってから。


 もっと自信が持てるようになってから。


 そうやって、何度も先延ばしにしてきた。


 もちろん、何でもかんでも誰かに見せればいいというわけではない。


 書いたものを大切にすることも、必要だと思う。


 それでも。


 今日、結衣に読んでもらってよかった。


 そう思えたことだけは、確かだった。


 俺は椅子から立ち上がり、部屋の明かりを消した。


 暗くなった窓に、自分の姿がぼんやりと映っている。


 その向こうには、夜の空が広がっていた。


 明日になれば、また新しい一日が始まる。


 そして、俺の物語も。


 ほんの少しだけ、昨日とは違う続きを迎えるのかもしれない。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第四話では、航平が初めて自分の物語を結衣に読んでもらいました。


結衣が気に入ってくれたのは、華やかな場面でも、悲しみを乗り越える奇跡でもなく、たった一行の「明日」でした。


航平自身も、まだ自分が何を伝えたいのか、はっきりとは分かっていません。


それでも、誰かに読んでもらったことで、今までなら書かなかった続きを書き始めます。


二人の間に生まれた小さな変化が、これからどんな物語につながっていくのか。


引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。

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