第三話 物語の続きを知りたい少女
悲しい結末しか書けなかった少年が、初めて自分の物語に新しい一行を書き加えた。
それは、ほんの小さな変化だった。
けれど、その続きを楽しみにしている少女がいる。
彼女の言葉は、少年が当たり前だと思っていた物語の終わり方を、少しずつ変え始めていた。
翌朝、目を覚ました水野航平は、枕元に置いたスマートフォンを手に取るより先に、机の上へ目を向けた。
昨夜、開いたままにしておいたノートがある。
そのページには、途中まで書かれた物語の一節と、何度も消しては書き直した跡が残っていた。
――少女は、最後まで誰にも本当の気持ちを伝えられなかった。
その一文を見つめ、航平は小さく息を吐いた。
「……またこれか」
書き始めたのは、もう何日も前のことだった。
病気を抱えた少女が、残された時間の中で一人の少年と出会う。少年は彼女を救いたいと願い、少女は彼に心配をかけまいとして笑い続ける。
そして最後には、二人の願いが届かないまま、少女が静かにこの世を去る。
大まかな筋書きは決まっている。
登場人物の性格も、物語の舞台も、彼らが交わす言葉も。
あとは最後まで書き上げるだけだった。
それなのに。
昨日、あの少女に尋ねられてから、どうしても先へ進めなくなってしまった。
『この子は、最後まで幸せになれないの?』
思い出すたびに、胸の奥が落ち着かなくなる。
今まで、そんな質問をされたことはなかった。
友人に読ませれば、悲しい話だった、最後が切なかった、そんな感想が返ってくる。
航平自身も、それで十分だと思っていた。
悲しい物語を書いて、誰かの心を少しでも動かせたのなら、それでいい。
けれど、彼女は違った。
悲しさを評価するのではなく、物語の中で生きる少女の未来を心配していた。
まるで、その少女が本当にどこかで生きているかのように。
「……考えすぎだろ」
航平はノートを閉じた。
窓の外では、朝の光を受けた桜の枝が揺れていた。
春は、誰にとっても新しい季節だ。
新しい出会いがあって、新しい目標があって、これから始まる何かに期待する。
そんな季節に、自分だけが昨日と同じ場所に立ち止まっているような気がした。
しかし、学校へ行く時間は待ってくれない。
航平は制服に着替え、鞄を持ち上げた。
机の上のノートは、最後まで開かれることなく、そのまま置き去りにされた。
*
教室へ入ると、すでに何人かの生徒が登校していた。
「おはよー。水野、聞いてくれよ」
席に鞄を置いた途端、佐久間駿がこちらへ身を乗り出してきた。
「おはよう。何?」
「数学の課題、昨日やった?」
「やったけど」
「よし、助かった」
「自分でやれよ」
「いやいや、俺もやったんだって。ただ、答えが合ってるか確認したいだけで」
「その言い方、昨日も聞いた気がする」
「気のせいだろ」
「昨日も同じ課題だったからね」
横から成瀬明里が口を挟んだ。
駿は露骨に顔をしかめる。
「成瀬、お前は朝から俺に厳しくないか?」
「佐久間が朝から信用できないことを言ってるからでしょ」
「俺の何を知ってるんだよ!」
「少なくとも、宿題を他人の善意に頼って乗り切ろうとする人間だってことは知ってる」
「ひどくない!?」
そのやり取りを聞きながら、航平は鞄から教科書を取り出した。
いつもと変わらない朝だった。
駿が騒いで、明里が呆れて、周囲の生徒がそれを見て笑う。
教室の前方では、誰かが昨日のテレビ番組について話している。窓際では、週末に遊びに行く場所を相談している女子生徒たちがいた。
黒板には日直が書いた日付があり、その隅には、まだ消されていない前日の連絡事項が残っている。
そんなありふれた光景の中にいると、昨夜から頭を離れなかったことも、少しだけ遠くへ引いていくようだった。
「なあ、水野」
駿が椅子を引き寄せた。
「昨日の放課後、あの子と何話してたんだ?」
航平の手が止まった。
「……あの子?」
「ほら、早坂さん。お前のところに来てた子」
「どうして、その話になるんだよ」
「気になるだろ。昨日は名前を知ってるだけでも驚いたのに、放課後にわざわざお前を訪ねてきたんだぞ」
「別に、大した話じゃない」
「大した話じゃないやつは、そんな顔しないんだよ」
「どんな顔だよ」
「何か考えてる顔」
「いつもだろ」
「それもそうだな」
「納得するなよ」
明里が机に頬杖をついた。
「でも、早坂さんが水野に興味を持ったのは確かなんじゃない?」
「小説の話をしただけだよ」
「小説?」
「昨日、落とした原稿を読まれてさ。結末について聞かれたんだ」
「へえ。どんな結末?」
「……悲しい結末」
その言葉を口にした瞬間、航平は昨日の彼女の表情を思い出した。
悲しい結末、と説明したとき。
彼女は、納得したようには見えなかった。
「水野の書く話って、そんなに悲しいの?」
明里の声には、からかうような響きがなかった。
「まあ、そうだな」
「自分で書いてて、つらくならない?」
「ならないわけじゃないけど」
航平は少しだけ考えてから答えた。
「書いてる間は、その人物がどうしてそうするのかを考えることのほうが多いから。悲しいかどうかは、書き終わってから気づくこともある」
「……何か、作家っぽいこと言うね」
「作家じゃないよ。ただの趣味」
「そういうところが、逆に作家っぽいんだって」
明里が笑う。
駿は腕を組み、妙に感心した顔をしていた。
「なるほど。つまり水野は、物語の中では他人の気持ちが分かるけど、現実では自分の気持ちが分からないタイプか」
「何でそうなるんだよ」
「今、成瀬が言ったことを聞いて、俺もそれっぽいと思った」
「お前、話を聞いてたのか?」
「半分くらい」
「半分しか聞いてないのに、よくそんな結論を出せるな……」
航平が呆れていると、始業を告げるチャイムが鳴った。
駿は慌てて自分の席へ戻り、明里も教科書を開く。
いつものように、担任の藤本先生が教室へ入ってきた。
「おはよう。席について。朝の連絡を始めるぞ」
先生は出席を確認し、提出物について説明したあと、進路希望調査の用紙を配り始めた。
「三年生になったばかりだからといって、まだ先のことだと思わないように。進学するにしても就職するにしても、自分が何をしたいのか、少しずつ考えておくこと」
航平は配られた用紙に目を落とした。
進学。就職。将来。
どれも、いずれ考えなければならないことだった。
けれど、今の自分には、将来どころか、書きかけの物語の結末すら決められない。
「分からないことがあれば、遠慮せず相談しに来るように。最初から明確な目標を持っている人ばかりじゃないからな」
藤本先生はそう言って、教卓に用紙を置いた。
「大事なのは、分からないことを分からないまま放置しないことだ」
その言葉に、航平はわずかに顔を上げた。
分からないことを、分からないまま放置しない。
昨日から自分がしていることそのものではないか。
どうして、あの少女の言葉が気になるのか。
どうして、いつもなら迷わず書けるはずの結末に、筆が進まないのか。
答えはまだ見つからなかった。
授業が始まり、先生の説明とチョークの音が教室を満たしていく。
航平はノートを開き、板書を写しながら、何度も意識を目の前の授業へ戻した。
考えたところで、今すぐ答えが出るわけではない。
そう自分に言い聞かせた。
それでも、ノートの端に無意識に書きかけていた一文を見つけたとき、彼は思わず手を止めた。
――それでも、彼女は笑っていた。
物語の中の少女のことなのか。
それとも、昨日出会った少女のことなのか。
自分でも、よく分からなかった。
*
昼休みになると、教室は一気に賑やかになった。
弁当箱を開ける音。購買へ走る生徒の足音。机を寄せる音。誰かの笑い声。
窓の外からは、運動部の掛け声が聞こえてくる。
航平は自分の弁当を取り出し、駿と橘蒼太の席へ向かった。
「今日、購買の焼きそばパン買えたやついる?」
駿が尋ねると、蒼太は無言でパンを掲げた。
「うわっ、マジか! いつの間に!」
「始業前」
「俺も行ったんだけどなあ。あと一歩だった」
「その一歩の間に、俺は買った」
「お前、そういうところだけ妙に冷静だよな」
「そういうところだけって何だよ」
蒼太は淡々と返し、パンの袋を開けた。
航平も弁当を広げる。
普段なら、昼休みはこんな話をしながら終わっていく。ときどき駿が誰かの話題を持ち出し、明里がそれを否定し、蒼太が短い一言で会話を終わらせる。
それだけの時間が、航平は嫌いではなかった。
「そういえば、水野」
駿が箸を止めた。
「昨日の話、まだ続きがあるんだけど」
「何の話だよ」
「早坂さん」
「まだその話をするのか」
「だって、気になるだろ」
「お前が気になってるだけだろ」
「そうとも言う」
駿は悪びれずに笑った。
「でもさ、早坂さんって、普段からあんな感じなのか?」
「どんな感じ?」
「人の書いた小説に、あんなに真剣に突っ込んでくる感じ」
「知らないよ。昨日初めてちゃんと話したんだから」
「だよなあ」
駿は何かを思い出すように、少しだけ目を細めた。
「去年の文化祭準備で見かけたことはあるけどさ。クラスが違ったから、話したのも挨拶くらいだったと思う。あのとき、いろんなクラスの手伝いに回ってたんだよ。早坂さん、頼まれたら断れないタイプなのかもな」
「へえ」
「顔と名前が一致するくらい。別に、仲がいいわけじゃないぞ」
「誰もそんなこと聞いてないけど」
航平が言うと、駿は一瞬だけ黙った。
「……お前、最近ちょっと冷たくない?」
「いつも通りだよ」
「それが冷たいんだって」
蒼太がパンを食べながら口を挟んだ。
「佐久間が勝手に盛り上がってるだけだろ」
「橘まで!」
「水野は昨日、早坂さんと初めてまともに話した。早坂さんは水野の小説に興味を持った。それだけの話じゃないか」
「それだけ、かあ」
駿は頬を膨らませた。
「何だよ。もっとこう、運命の出会いとか、偶然落ちた一枚の原稿から始まる恋とか、そういう展開があってもいいだろ」
「現実を小説と一緒にするなよ」
「小説を書いてる本人がそれを言う!?」
「俺の書く小説に、そんな都合のいい展開はない」
航平が答えると、蒼太が小さく笑った。
「じゃあ、現実で起きたらどうする?」
「……何が?」
「小説みたいな出会い」
航平は箸を動かす手を止めた。
すぐに答えが出なかった。
昨日、原稿を拾った少女。
結末に疑問を抱き、登場人物が幸せになれないのかと尋ねた少女。
確かに、普通の出会いとは少し違っていたのかもしれない。
けれど。
「どうもしないよ」
航平は弁当の蓋を少しずらした。
「出会い方がどうであれ、そのあと何を話すかのほうが大事だろ」
駿と蒼太が顔を見合わせる。
「……お前、たまにすごくまともなことを言うよな」
「たまにって何だよ」
「いつもはまともじゃないみたいじゃん」
「そこまでは言ってない」
「言ってるだろ!」
駿が声を上げたところで、近くの席から明里がやってきた。
「何、また佐久間が騒いでるの?」
「またって何だよ!」
「今日だけで三回目」
「数えてるの!?」
「数えたくなくても目立つの」
明里は呆れたように息を吐き、それから航平へ視線を向けた。
「ところで、水野。早坂さんに小説を読ませるんでしょ?」
「……何で知ってるんだよ」
「佐久間がさっきから、教室中に聞こえる声で話してるから」
「俺、そんなに大きな声だった!?」
「今もね」
駿は慌てて口を押さえた。
明里は航平の隣の机に手を置く。
「読んでもらうなら、ちゃんと最後まで書いたほうがいいんじゃない?」
「分かってるよ」
「なら、頑張りなさい」
そう言って明里は自分の席へ戻ろうとしたが、ふと思い出したように振り返った。
「あと、佐久間」
「何だよ」
「早坂さんのことを必要以上にからかうのはやめなよ。本人が困るでしょ」
「俺は水野をからかってるだけだ!」
「それが一番面倒なんだけど」
「何でだよ!」
昼休みの教室に笑い声が広がった。
航平も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
自分の周りには、こうして余計なことを言ってくる人間がいる。
けれど、彼らがいるから、考えすぎてしまう自分も、いくらか現実に引き戻されるのだろう。
ふと、航平は教室の時計を見上げた。
昼休みが終わるまで、まだ時間がある。
それなのに、頭の片隅では、昨夜閉じたノートの続きが気になっていた。
少女は、最後まで誰にも本当の気持ちを伝えられなかった。
その一文の続きを、どうすれば書けるのだろう。
*
午後の授業は、午前中よりも長く感じられた。
窓から差し込む光が少しずつ傾き、教室の空気がゆっくりと暖かくなっていく。
先生の説明を聞きながら、航平はノートに必要なことを書き留めていた。
しかし、ふとした瞬間に、意識が別の場所へ飛んでしまう。
物語の少女は、どうして本当の気持ちを伝えられなかったのだろう。
少年に心配をかけたくなかったから。
自分がいなくなったあとも、彼に前を向いて生きてほしかったから。
それらは、すべて航平が考えた理由だった。
けれど、本人に尋ねたわけではない。
そもそも、物語の登場人物に直接尋ねることなどできないのだから、作者が理由を決めるしかない。
そう思って、これまでは迷わずに書いてきた。
それなのに、昨日の少女は、まるでその決め方そのものに疑問を投げかけたようだった。
――この子は、最後まで幸せになれないの?
もし、あの少女が自分の物語の登場人物だったら。
もし、彼女が本当に目の前にいて、続きを尋ねてきたら。
航平は、何と答えるだろう。
チャイムが鳴った。
「水野、帰るぞ」
駿に声をかけられ、航平は我に返った。
「もうそんな時間か」
「お前、さっきからずっと難しい顔してるぞ」
「そうか?」
「そうだよ。授業中も何度か呼ばれてたのに気づかなかっただろ」
「……悪い。何か考えてた」
「小説?」
「まあな」
駿は鞄を肩にかけながら、少しだけ真面目な顔になった。
「書けないなら、いったん休んだら?」
「休んでるつもりなんだけどな」
「頭の中でずっと考えてるなら、休めてないだろ」
思いがけない言葉だった。
駿はいつもふざけているように見えるが、ときどき、こちらが予想もしないことを言う。
「……そうかもな」
「だろ? だから今日は帰ったらゲームでもしようぜ。負けたほうがジュースな」
「お前が勝つ前提なのかよ」
「当然」
「じゃあ、やらない」
「何でだよ!?」
「勝てる気がしないから」
「そこは男らしく勝負しろよ!」
騒ぎながら廊下へ出る駿を見て、航平は苦笑した。
しかし、教室を出る直前、鞄の中のノートが気になった。
今日は、少しだけ続きを書いてみよう。
そう思った。
結末を変える必要があるかどうかは、まだ分からない。
ただ、昨日から止まったままの物語を、もう一度開いてみたかった。
*
その日の夜。
夕食を終えた航平は、自室の机に向かっていた。
机の上には、ノートと筆記用具。それから、学校で使っている教科書が数冊積まれている。
まずは、いつものように物語を読み返した。
病気を抱えた少女。
彼女を救いたいと願う少年。
限られた時間の中で交わされる会話。
どの場面も、自分では悪くないと思っていた。
文章に大きな問題があるわけではない。
人物の行動にも、理由はある。
それでも、最後の数ページを読むと、昨日までとは違う感覚が残った。
少女が自分の気持ちを隠す場面。
少年が、その隠された気持ちに気づけない場面。
そして、何も伝えられないまま、二人が別れる場面。
航平は、最後のページを開いた。
そこには、すでに書き終えていた結末がある。
――少年は、彼女が残した言葉を胸に、ひとりで生きていくことを決めた。
以前なら、これで十分だと思えたはずだった。
失ったものは戻らない。
どれだけ願っても、過去は変えられない。
だからこそ、残された人間は、その悲しみを抱えたまま生きていく。
航平は、そういう物語を書きたかった。
けれど。
「……それだけで、いいのかな」
声に出してみると、思った以上に小さな声になった。
少年は、本当にひとりで生きていくしかないのだろうか。
少女を失ったあと、誰かと出会うことはないのだろうか。
彼女との思い出を大切にしながら、別の誰かと笑うことは、許されないのだろうか。
悲しみを忘れずに生きることと、悲しみだけを抱えて生きることは、同じなのだろうか。
考え始めると、疑問が次々に浮かんできた。
航平はペンを持ち直した。
新しい文章を書こうとした。
しかし、最初の一文字すら浮かばない。
幸せな結末を書けばいい。
簡単に言えば、そういうことなのかもしれない。
けれど、どうすれば幸せなのかが分からなかった。
病気が治ること。
二人が一緒にいられること。
伝えられなかった言葉を、最後に伝えられること。
どれも、物語の中では実現できる。
それでも、ただ望んだものを与えるだけで、本当に幸せな物語になるのだろうか。
航平はペンを置いた。
「……難しいな」
思わず笑ってしまった。
いつもなら、悲しい結末はいくらでも書ける。
登場人物が何を失い、何を諦め、どんな思いを胸に抱えて生きていくのか。
そのことなら、いくらでも考えられる。
それなのに、幸せについて考え始めた途端、何も分からなくなってしまう。
まるで、自分の知らない言葉を使って文章を書こうとしているようだった。
航平はノートの余白に、小さく書き込んだ。
――幸せとは、何だろう。
書いてから、すぐに消そうとした。
あまりにも抽象的で、物語の文章としては使えそうになかったからだ。
しかし、消しゴムを手に取ったまま、しばらく動けなかった。
昨日、少女が尋ねたのは、物語の結末についてだった。
どうして、登場人物が幸せになれないのか。
どうして、悲しいことばかり起こるのか。
彼女は、ただ物語の中の少女を心配していただけなのかもしれない。
それでも、航平には、もう一つ別の質問をされたような気がしていた。
――あなたは、幸せな結末を書けないの?
航平は目を閉じ、長く息を吐いた。
「……書けるよ」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
すぐに書けるかどうかは分からない。
本当に納得できる結末になるかどうかも分からない。
それでも、書けないと決めつけるのは、まだ早い気がした。
航平はノートを閉じずに、もう一度ペンを持った。
そして、結末の一文の下に、新しい言葉を書き足した。
――それでも、少年は明日を迎えた。
たった一行。
それだけだった。
けれど、今までの物語にはなかった一行だった。
少年は、少女を失った。
その事実は変わらない。
それでも、彼の人生がそこで終わるわけではない。
航平は、その先に何があるのかを考えた。
すぐには答えが見つからなかった。
それでも今夜は、ノートを閉じる気にはならなかった。
*
翌朝。
教室へ入った航平は、席に着く前に、窓の外へ目を向けた。
昨日よりも、桜の花びらが少なくなっている。
風が吹くたび、枝に残った花が揺れ、校庭へと舞い落ちていった。
「おはよう、水野」
声をかけられて振り返ると、明里が鞄を机に置いているところだった。
「おはよう」
「昨日、ちゃんと眠れた?」
「どうして?」
「何となく。ずっと考え込んでるみたいだったから」
「……まあ、少しは」
「小説、進んだ?」
航平は少し考えた。
「一行だけ」
「一行?」
「一行」
明里は、何とも言えない顔をした。
「それ、進んだって言っていいの?」
「自分でも分からない」
「まあ、何も書かないよりはいいんじゃない?」
「そうだな」
明里はそれ以上追及せず、教科書を机に置いた。
そのとき、駿が教室の扉から顔を出した。
「おーい、水野! 今日こそ昼休みに勝負だからな!」
「何の?」
「昨日のゲームの続き!」
「昨日はやってないだろ」
「だから今日やるんだよ!」
「話が飛躍してるな……」
「いいから、約束な!」
「約束してない!」
駿が大げさに騒ぎ、明里がまた呆れた声を上げる。
いつもの朝。
いつもの教室。
それなのに、航平の心には、昨日までとは少し違う感覚があった。
昨夜、彼は一行だけ新しい文章を書いた。
たった一行で、何かが大きく変わったわけではない。
それでも、物語を最後まで悲しいままにしなければならない理由は、どこにもないのかもしれない。
そう思えたことが、少しだけ嬉しかった。
始業のチャイムが鳴り、藤本先生が教室へ入ってくる。
航平は教科書を開き、今日の授業に備えた。
物語のことは、また放課後に考えればいい。
今は目の前の時間を過ごそう。
そう決めた、そのときだった。
教室の前の扉が、控えめに開いた。
「失礼します」
聞き覚えのある声がした。
何人かの生徒が、そちらへ顔を向ける。
扉のそばに立っていたのは、早坂結衣だった。
昨日と同じ、落ち着いた色合いのカーディガン。肩にかけた鞄。少しだけ緊張しているようにも見えるけれど、その目はまっすぐ教室の中を見ていた。
結衣は教室を見回し、やがて航平を見つけた。
そして、彼の席へ向かって、小さく手を振った。
「水野くん。おはよう」
航平は一瞬、言葉を失った。
「……おはよう。どうしたの?」
「ちょっと聞きたいことがあって」
結衣はそう言って、鞄の中から一冊のノートを取り出した。
表紙には何も書かれていない。
しかし、彼女が大切そうに抱えているのを見て、航平には、それが何なのか分かった。
「昨日の話、覚えてる?」
「もちろん」
「じゃあ、聞いてもいい?」
結衣は少しだけ身を乗り出した。
「水野くんは、あの物語の続きを書いてる?」
航平は、昨夜書いた一行を思い出した。
――それでも、少年は明日を迎えた。
まだ、誰かに読ませられるようなものではない。
結末も、答えも、何も決まっていない。
けれど、昨日までの自分とは、ほんの少しだけ違っていた。
「……書いてるよ」
そう答えると、結衣の顔がぱっと明るくなった。
「本当?」
「ああ。でも、まだ途中だから」
「そっか」
結衣は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、続きを読ませてもらえるのを楽しみにしてるね」
その言葉に、航平は少しだけ困った。
彼女が期待しているのは、悲しい物語の続きなのだろうか。
それとも、その物語に生きる少女が、幸せになれる可能性なのだろうか。
まだ、分からない。
けれど。
「……期待しすぎないでくれよ」
航平がそう言うと、結衣は首を横に振った。
「ううん。期待するよ」
「どうして?」
「だって、水野くんが書く物語だもの」
あまりにも自然な言葉だった。
まるで、そう答えるのが当たり前であるかのように。
航平は返事に困り、視線をそらした。
その様子を、少し離れた席から見ていた駿が、にやりと笑う。
「……へえ?」
「佐久間、何も言うなよ」
「まだ何も言ってないけど?」
「その顔がうるさいんだよ」
「顔に文句を言われても困る!」
明里が二人の間に割って入った。
「早坂さん、朝からごめんね。こいつら、いつもこんな感じだから」
「ふふっ。楽しそうだね」
「楽しくはない!」
駿が即座に反論する。
「少なくとも、私は楽しくない」
「成瀬は俺に厳しすぎるだろ!」
結衣は声を立てて笑った。
その笑い声に、教室の空気が少しだけ明るくなった気がした。
やがて藤本先生が、出席を取るために教卓へ戻った。
「早坂、用事は済んだか?」
「あ、はい。すみません、失礼しました」
「構わない。次の休み時間にまた来るなら、授業の邪魔にならないようにな」
「はい。ありがとうございます」
結衣は軽く頭を下げ、教室を出ていった。
扉が閉じる直前、もう一度だけこちらを振り返る。
目が合うと、彼女は小さく笑った。
航平も、ほんのわずかに頷いた。
そして扉が閉まったあと、駿がゆっくりとこちらを向いた。
「……水野」
「何だよ」
「お前、今、笑った?」
「笑ってない」
「いや、笑ったって」
「気のせいだ」
「へえー」
「その声をやめろ」
明里は呆れながらも、どこか楽しそうだった。
「いいじゃない。別に笑ったって」
「……授業が始まるぞ」
航平は逃げるように教科書を開いた。
先生の声が聞こえる。
黒板に文字が書かれていく。
窓の外では、桜の花びらが風に乗って舞っていた。
いつもと変わらない学校の朝。
けれど、航平の机の上には、昨夜書いた一行の続きを待つノートがある。
そして、その続きを楽しみにしている少女がいる。
物語がどこへ向かうのかは、まだ分からない。
悲しい結末になるのかもしれない。
思いがけない終わりを迎えるのかもしれない。
それでも、航平は昨日より少しだけ、先のことを考えてみたいと思った。
物語の続きを知りたいと願う少女。
その願いに、どう応えればいいのか。
今の彼には、まだ答えられない。
だからこそ、書いてみよう。
彼女が読むことになる、次の一行を。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
結衣の「期待するよ」という言葉に、航平はまだどう応えればいいのか分かりません。
それでも、今までなら書こうともしなかった一行を、彼は自分の意思で書き加えました。
悲しい結末の先に、何が待っているのか。
そして、物語の続きを知りたい少女と、それを書こうとする少年が、これからどんな時間を重ねていくのか。
二人の小さな変化を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。




