第二話 親友は恋の気配を見逃さない
昨日、航平は一人の少女と出会った。
名前も知らないその少女が残した問いは、思いのほか彼の心に引っかかっていた。
そして翌朝。
そんな小さな変化を、見逃してくれるはずのない友人が一人いた。
翌朝。
「……この子は、最後まで幸せになれないの?」
目を覚ましてから、何度目になるだろう。
水野航平は、昨夜から頭の中で繰り返されている少女の言葉を思い出しながら、教室の窓際に座っていた。
春の朝。
校庭の桜はまだ花を残していて、風が吹くたびに薄い花びらが舞い上がる。
窓の外では、登校してきた生徒たちが友人と話しながら校舎へ向かっていた。グラウンドからは運動部の掛け声が聞こえ、廊下では誰かが階段を駆け上がる足音が響いている。
三年生になってから、まだそれほど時間は経っていない。
それでも、教室にはすでに新しいクラスの空気ができ始めていた。
昨日の小テストがどうだったとか、進路希望調査をまだ書いていないとか、週末にどこへ遊びに行くとか。
話題は次々と変わり、誰かの笑い声が上がる。
航平にとっても、いつもと変わらない朝だった。
ただ一つ、違うことがあるとすれば。
「……どうすればいいんだろう」
書きかけの物語のことが、どうしても頭から離れない。
机の中からノートを取り出す。
表紙を開くと、昨日まで書いていた文章が目に入った。
病気を抱えた少女。
限られた時間の中で、それでも普通の毎日を望んでいる少女。
友達と笑いたい。
行ってみたい場所がある。
好きな人に伝えたいことがある。
それなのに、航平は彼女の未来を暗い方向へ進めようとしていた。
悲しい結末を書くこと自体が、悪いわけではない。
誰かを失うことも、願いが叶わないことも、現実にはある。
けれど、昨日の少女は、まるでその結末に納得できないと言うように、航平に問いかけた。
――この子は、最後まで幸せになれないの?
「おーい、航平!」
突然、目の前に影が落ちた。
顔を上げると、佐久間駿がこちらを覗き込んでいた。
「朝から何をそんなに真剣に考えてるんだ?」
「別に」
「嘘つけ。俺が来たことにも気づかなかっただろ」
「考え事をしてただけだよ」
「へえ。何の?」
「小説」
「……小説?」
駿は目を細めた。
「お前、昨日も書いてただろ。まだ続きがあるのか?」
「まだ終わってないからな」
「いつになったら終わるんだよ」
「結末が決まれば」
「じゃあ、結末を決めればいいじゃん」
「それが簡単にできたら苦労してない」
航平がそう返すと、駿は一瞬黙った。
そして、なぜか得意げに笑った。
「なるほど。つまり、何かに悩んでいるわけだな?」
「……最初からそう言ってるだろ」
「いやあ、親友の悩みを聞いてやるのも俺の役目だからな!」
「聞いてくれるのはありがたいけど、まだ何も話してないぞ」
「細かいことは気にするな!」
「細かくないだろ……」
航平が呆れていると、横から別の声がした。
「佐久間、朝から人の机を占領しないでくれる?」
成瀬明里だった。
彼女は手に持っていた教科書を自分の机に置き、駿をじろりと見た。
「占領なんかしてないだろ。俺は航平と大事な話をしてるんだ」
「大事な話をするなら、本人の顔くらい見なさいよ。航平、さっきから困ってるじゃない」
「え?」
駿が航平を見る。
航平は無言でうなずいた。
「裏切ったな、航平!」
「事実を認めただけだよ」
「ひどい親友だ!」
「親友なら、もう少し静かにしてあげたら?」
明里の言葉に、周囲の生徒がくすくすと笑った。
駿は不満そうに腕を組む。
「成瀬、お前は朝から俺に厳しすぎないか?」
「朝だけじゃないわよ」
「そこは否定してくれよ!」
航平は思わず笑った。
二人のやり取りは、三年生になってからも相変わらずだった。
駿が何かを言えば明里が突っ込み、明里が冷静に返せば駿が大げさに騒ぐ。
仲が悪いのかと思えば、誰かが本当に困っているときには、二人ともさりげなく手を貸している。
本人たちは決して認めないだろうが。
「ところで、航平」
明里がこちらを向いた。
「昨日の小説、まだ書いてるの?」
「うん」
「結末は決まった?」
「……まだ」
明里はそれ以上、無理に尋ねなかった。
「そっか。まあ、焦って決める必要はないんじゃない?」
「そうだな」
「でも、締め切りがある課題は別よ。今日の英語の提出物、忘れてない?」
「……あ」
航平の手が止まった。
明里は呆れたように目を閉じた。
「忘れてたのね」
「いや、忘れたわけじゃない。今、思い出しただけだ」
「それを忘れていたって言うのよ」
「航平! お前もか!」
駿が突然声を上げた。
「俺も昨日、英語の課題をやろうと思ってたんだ!」
「やろうと思ってただけで、やってないの?」
「……はい」
「威張って言うことじゃないでしょ!」
二人そろって机に突っ伏した。
明里は深いため息をついた。
「三年生になったんだから、もう少ししっかりしなさいよ……」
「はい、先生!」
駿が勢いよく顔を上げた。
「誰が先生よ!」
教室に笑い声が広がった。
ちょうどそのとき、始業のチャイムが鳴った。
「ほら、席に戻って!」
明里に追い払われ、駿は自分の席へ戻っていった。
航平も慌てて教科書を取り出す。
机の上のノートを閉じる直前、もう一度だけ書きかけの物語を見た。
まだ結末は決まっていない。
けれど、昨日より少しだけ、そのことが気になっていた。
*
午前中の授業は、慌ただしく過ぎていった。
英語の授業では、先生が指名した生徒が教科書を読み上げ、数学の授業では黒板に書かれた問題を巡って何人かの生徒が頭を抱えた。
そして、二時間目が終わった休み時間。
「終わった……」
駿が机に突っ伏した。
「まだ午前中だぞ」
航平が言うと、駿は顔を上げずに答えた。
「数学が終わった時点で、俺の一日は終わったんだ」
「じゃあ、午後は何をするんだよ」
「魂を抜かれた状態で過ごす」
「それは普段とあまり変わらないんじゃない?」
明里が通りかかりながら言った。
駿は勢いよく顔を上げた。
「成瀬! お前、俺のことを何だと思ってるんだ!」
「騒がしい人」
「もっとこう、知的な表現があるだろ!」
「騒がしくて、落ち着きがなくて、課題をよく忘れる人」
「説明が増えただけじゃねえか!」
航平は笑いながら、鞄から小さなノートを取り出した。
「お前、休み時間まで小説を書くのか?」
駿が尋ねる。
「少しだけ。昨日の続きを考えたいから」
「そんなに悩むなら、いっそ主人公を助ければいいんじゃないか?」
「……簡単に言うなよ」
「だって、お前が書いてるんだろ?」
駿の言葉は、あまりにも単純だった。
だからこそ、航平はすぐに返事ができなかった。
自分が書いている。
自分が決める。
それは分かっている。
けれど、文章を書き進めていると、登場人物が何を望んでいるのか、自分でも分からなくなることがある。
作者が好きなように動かせばいいのだろうか。
それとも、彼女が望んでいることを最後まで描くべきなのだろうか。
「……少し考えてみるよ」
航平が答えると、駿は満足そうにうなずいた。
「そうそう。悩んだら、とりあえず飯を食え!」
「まだ昼じゃないけど」
「腹が減る前に食べる。これが人生の秘訣だ!」
「ただ食い意地が張ってるだけでしょ」
明里が冷たく言い放った。
「成瀬、今日のお前はいつにも増して容赦がないな!」
「いつも通りよ」
そんな会話をしていると、廊下から藤本先生の声が聞こえた。
「佐久間、成瀬。廊下で騒がないように」
「すみません!」
二人の声が同時に響く。
先生は教室の入り口から中を見渡し、航平の机に置かれたノートに目を留めた。
「水野。小説か?」
「はい」
「授業中は授業に集中すること。休み時間に書くのは構わないが、提出物も忘れないようにな」
「……はい」
「進路のことも、そろそろ考えておけよ。自分の好きなことを大切にするのはいいが、それだけで将来が決まるわけじゃないからな」
藤本はそう言って、次の教室へ向かった。
航平はノートを閉じた。
好きなことを大切にする。
それだけで将来が決まるわけではない。
当たり前の言葉だ。
けれど、自分の好きなことが何なのかさえ、時々分からなくなる。
小説を書くことは好きだ。
登場人物の気持ちを考えるのも好きだ。
それなのに、どうして自分は、彼らを幸せにする結末を書くことが苦手なのだろう。
「……水野?」
駿の声で我に返った。
「何?」
「先生がいなくなったぞ」
「見れば分かるよ」
「また考え込んでたな」
航平は苦笑した。
「少しだけな」
駿はそれ以上、からかわなかった。
「ま、無理するなよ。お前が悩んでると、俺まで気になってくるからさ」
「それは悪かったな」
「本当だぞ。俺の貴重な休み時間が、お前の小説のせいで消えていく!」
「結局そこかよ」
二人は笑った。
やがて、次の授業を知らせるチャイムが鳴った。
航平はノートを鞄にしまい、教科書を開いた。
今はまだ、答えが出なくてもいい。
そう思うことにした。
*
昼休み。
弁当を持った生徒たちが、教室のあちこちに集まっていた。
窓際の席では女子たちが菓子を分け合い、廊下側では男子たちが週末の予定を話している。
航平は自分の席で弁当箱を開けた。
向かいには駿、隣には蒼太が座っている。
「そういえば、水野」
蒼太が箸を動かしながら尋ねた。
「進路希望調査、もう書いた?」
「まだ。大学に行くかどうかも含めて、少し考えてる」
「そうか。俺も学部を決めきれてないんだよな」
「橘も迷ってるのか?」
駿が意外そうに尋ねた。
「そりゃ迷うだろ。三年生になったばかりなんだから」
「俺は将来、世界を旅する男になる!」
駿が突然宣言した。
蒼太は箸を止めた。
「……その前に、英語の課題を提出したほうがいいと思う」
「旅先で英語を覚える!」
「その前に、国内の駅で迷いそうだけどな」
航平が言うと、蒼太がうなずいた。
「去年の校外学習でも、集合場所を間違えていたし」
「お前ら、過去の話を持ち出すな!」
駿は弁当箱を抱え込むようにして抗議した。
「俺は成長してるんだ!」
「何が成長したんだ?」
「……身長?」
「自信がないなら言うなよ」
航平は笑った。
蒼太も小さく笑っている。
こうして友人たちと食事をする時間は、何も特別なことがなくても楽しかった。
ただ話して、笑って、午後の授業に備える。
それだけで十分な日もある。
「ところでさ」
駿が、箸を置いて航平を見た。
「昨日の女の子の話、もう少し聞かせてくれよ」
「……まだ気にしてたのか」
「気になるだろ。お前があんなに考え込んでるんだから」
「そんなに考え込んでない」
「今朝からずっと窓を見てたじゃん」
「桜を見てただけだよ」
「桜を見ながら、女の子のことを考えていたんだろ?」
「何でそうなるんだ!」
蒼太が淡々と口を挟んだ。
「否定が速いな」
「橘まで……」
駿は楽しそうに笑った。
「それで、どんな子だったんだ?」
航平は少し考えた。
「髪は暗い茶色で、肩より長かったと思う。話し方は、はっきりしてた」
「ほうほう」
「俺の原稿を拾ってくれて、それを読んで……質問してきたんだ」
「どんな質問?」
航平は少しだけ視線を落とした。
「『この子は、最後まで幸せになれないの?』って」
駿の表情から、からかうような笑みが少し消えた。
「……それ、昨日の病気の女の子の話か?」
「うん」
「そっか」
駿は弁当の蓋を閉じ、考え込むように腕を組んだ。
「髪が暗い茶色で、長め……」
しばらくして、彼は「あっ」と声を上げた。
「もしかして、早坂さんか?」
「早坂?」
航平が聞き返す。
「早坂結衣さん。三年の別のクラスにいる子だよ」
「……知ってるのか?」
「知ってるっていうか、去年の文化祭の準備で見かけたことがあるんだ。あちこちの教室を回って、委員の仕事を手伝ってたからな。名前も、そのときに聞いた気がする」
「仲がいいのか?」
「いや、ほとんど話したことはない。顔と名前が何となく一致するくらいだ」
駿はあっさりと答えた。
「同じ学年だし、文化祭の準備で見かけた人くらいは覚えてるだろ?」
航平は黙り込んだ。
早坂結衣。
昨日まで、名前も知らなかった少女。
その名前を口にすると、廊下で向かい合ったときの表情が、頭の中によみがえった。
「……早坂、結衣さん」
「おいおい」
駿がすかさず身を乗り出した。
「今、名前を繰り返したよな?」
「聞いた名前を確認しただけだ!」
「へえー。もう名前を覚えたんだ?」
「聞いたばかりなんだから覚えるだろ!」
「俺だったら三回くらい聞かないと覚えられないけどな」
「それはお前の記憶力の問題だろ」
蒼太が静かにうなずいた。
「確かに、佐久間は人の話を聞いているようで聞いていないことがある」
「橘、お前まで俺を裏切るのか!」
「裏切る以前に、味方になった覚えがない」
駿は大げさに頭を抱えた。
「このクラス、俺に厳しすぎないか!?」
「自分の言動を振り返ってみたら?」
いつの間にか、明里が弁当箱を持って近づいてきていた。
「成瀬! いつからいたんだよ!」
「『早坂結衣さん』って名前を聞いたあたりから」
「ほとんど最初からじゃねえか!」
「声が大きいから聞こえるのよ」
明里は航平のほうを向いた。
「それで、その早坂さんがどうしたの?」
航平は、昨日の出来事を簡単に説明した。
廊下でぶつかったこと。
原稿を拾ってもらったこと。
そして、物語の結末について質問されたこと。
明里は、いつものように駿をからかうこともなく、最後まで話を聞いていた。
「なるほどね」
彼女は少し考えてから言った。
「その子、物語のことを真剣に考えたんじゃない?」
「……そうなのかな」
「だって、ただ文章を読んだだけなら、そこまで気にしないかもしれないでしょう?」
明里は航平のノートをちらりと見た。
「航平の書いた文章に、何か感じるものがあったのかもしれないわね」
「何か……」
「うん。悲しい結末が嫌だったのか、それとも、その女の子が本当に生きたいと思っているように感じたのか。理由は本人にしか分からないけど」
航平は黙って聞いていた。
昨日の少女は、物語の中の女の子が生きたいと願っていることに気づいていた。
自分が書いた文章を読んで、そこまで感じ取ったのだろうか。
「……一度、聞いてみたいな」
気づけば、そう口にしていた。
駿の目が輝いた。
「おっ?」
「何だよ」
「いや、今、自分から聞いてみたいって言ったよな?」
「物語の感想を聞きたいだけだ!」
「はいはい、そういうことにしておくよ」
「本当にそうなんだって!」
明里は笑いをこらえながら、弁当箱を閉じた。
「佐久間、あんまり航平をからかわないの」
「俺は応援してるんだぞ!」
「何を?」
「それは……」
駿は一瞬だけ言葉に詰まり、すぐに笑った。
「まあ、いろいろだ!」
「適当ね」
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
生徒たちは弁当箱を片づけ、教科書を取り出し始める。
航平も立ち上がりながら、もう一度だけ名前を思い出した。
早坂結衣。
今度会ったら、昨日の問いについて、もう少し話してみたい。
そう思った自分に、少しだけ驚いていた。
*
午後の授業は、午前中よりも長く感じられた。
昼食のあとの眠気と戦いながら、航平はノートを取っていた。
窓から入る風がカーテンを揺らす。
黒板に向かって説明を続ける教師の声。
ペンを走らせる音。
誰かが小さくあくびをする音。
どれも、いつも通りの教室の風景だった。
それなのに、授業が終わるたびに、航平は無意識に時計を見てしまった。
自分でも理由は分からない。
彼女にもう一度会いたいのだろうか。
いや、昨日の問いに答えられなかったことが気になっているだけだ。
そう考えることにした。
最後の授業が終わると、教室は一気に騒がしくなった。
「終わったー!」
駿が両手を上げる。
「今日の俺は、よく頑張った!」
「授業を受けただけでしょう」
明里が冷静に言った。
「授業を受けることだって立派な努力だ!」
「その努力を課題にも向けなさい」
「……はい」
「返事だけはいいのね」
航平は笑いながら、プリントを鞄にしまった。
ホームルームの時間になると、担任の藤本が教壇に立った。
「帰る前に連絡事項だ。進路希望調査は明日まで。まだ書いていない人は、家でしっかり考えておくように」
教室のあちこちから、小さなため息が聞こえた。
「三年生になったばかりで、まだ先のことが決まっていない人もいるだろう。焦る必要はない。ただ、自分が何をしたいのか、何に興味があるのかは考えておくこと」
藤本は出席簿を閉じた。
「それから、今週は委員会活動もある。担当者は忘れないように。以上だ」
「起立、礼!」
ホームルームが終わり、生徒たちは部活動や帰宅の準備を始めた。
航平も鞄を肩にかけ、机の中を確認した。
ノート。
教科書。
筆箱。
提出物。
忘れ物はない。
「航平、帰ろうぜ!」
駿が声をかけてきた。
「今日は部活ないのか?」
「今日は休み。だから、お前の話をじっくり聞いてやろうと思ってな」
「まだその話を続けるつもりなのか……」
「親友の恋愛相談は、俺の大切な使命だからな!」
「恋愛相談なんてしてない!」
「はいはい」
駿はまったく信じていない顔で笑った。
明里も帰り支度を終え、二人のところへやってきた。
「まだ騒いでるの?」
「騒いでない!」
「今の声、廊下まで聞こえてたわよ」
「そんなに大きくない!」
「じゃあ、もう少し小さな声で話してみなさい」
「……ぐっ」
航平はとうとう吹き出した。
そのときだった。
「……あの」
教室の入り口から、控えめな声が聞こえた。
何人かの生徒が振り返る。
入り口には、一人の少女が立っていた。
暗い茶色の髪。
肩より少し下まで伸びた髪が、彼女の動きに合わせて揺れている。
彼女は教室の中を見回し、誰かを探しているようだった。
そして、航平の姿を見つけると、少しだけ表情を明るくした。
「あ……いた」
航平は息を止めた。
昨日の少女だった。
駿が航平の肩を叩く。
「……おい」
「何だよ」
「もしかして、あの子?」
航平は答えられなかった。
代わりに、駿が少女のほうへ歩いていった。
「どうしたの? 誰かを探してる?」
少女は少し緊張したように背筋を伸ばした。
「あの、水野航平くんっていますか?」
駿の動きが止まった。
ゆっくりと振り返り、航平を見つめる。
「……お前、何したんだ?」
「何もしてない!」
「いや、だって名前まで呼ばれてるじゃん!」
「昨日、名前なんて教えてないぞ!」
その言葉を聞いて、少女が慌てて口を開いた。
「あ、ごめんなさい。昨日、原稿を拾ったときに、表紙に名前が書いてあったから……」
「ああ、なるほど」
航平はようやく納得した。
そういえば、ノートの表紙には自分の名前を書いていた。
昨日は原稿を拾い集めることばかり考えていて、そこまで気にしていなかった。
少女は改めて頭を下げた。
「突然ごめんなさい。少し、話したいことがあって」
「……俺に?」
「うん」
駿が航平の顔を覗き込む。
「へえ。話したいことだってさ」
「佐久間、黙ってろ」
「まだ何も言ってないだろ?」
「顔に書いてあるんだよ!」
少女は二人のやり取りを見て、小さく笑った。
その笑顔を見て、航平の緊張が少しだけほぐれた。
「えっと……どうしたんだ?」
航平が尋ねると、少女は鞄から一枚の原稿用紙を取り出した。
「これ、昨日のものだと思うんだけど」
航平は目を見開いた。
差し出されたのは、彼が書いた物語の原稿だった。
「これ……!」
「ごめんね。昨日、返したと思っていたんだけど、別の紙が自分のノートに挟まっていて。家に帰ってから気づいたの」
航平は原稿を受け取った。
そこには、彼が書いた文章が続いていた。
昨日、少女に読まれた一枚とは別の場面だ。
どうやら、床に落ちた紙の一枚が、彼女の持っていたノートに紛れ込んでしまったらしい。
「わざわざ届けに来てくれたのか?」
「うん。大事なものだと思ったから」
「ありがとう。助かったよ」
航平が礼を言うと、少女はほっとしたように笑った。
「よかった。なくしたら困るかなって思って」
「……本当にありがとう」
航平は、もう一度礼を言った。
少女は少しだけ照れたように視線をそらした。
その様子を見ていた駿が、にやりと笑う。
「なるほどねえ」
「佐久間、変なことを考えるなよ」
「俺は何も考えてないぞ?」
「絶対に嘘だろ」
「お前、俺のことを信用してないのか!?」
「普段の行動を思い出してみろ」
「ひどい!」
廊下から、明里の声が飛んできた。
「佐久間、まだ帰ってなかったの?」
「お前、どこから現れるんだよ!?」
「教室の前を通っただけよ。そしたら、あんたの声が聞こえたの」
「俺はそんなに声が大きくない!」
「はいはい」
明里はそう言ってから、入り口にいる少女に気づいた。
「あれ……早坂さん?」
少女も彼女を見た。
「成瀬さん?」
「やっぱり早坂さんだ。久しぶりね」
「うん。久しぶり」
二人は軽く笑い合った。
航平は驚いて明里を見た。
「成瀬、早坂さんと知り合いだったのか?」
「知り合いというほどでもないけど、去年の文化祭の準備で一緒になったことがあるの。別のクラスだけどね」
「そうだったのか……」
明里は結衣に向き直った。
「今日はどうしたの? 航平に用事?」
「うん。昨日の原稿を返しに来たのと、少し聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
駿がすかさず反応した。
「何だ何だ!?」
「佐久間、あなたには聞いてないでしょう」
「気になるだろ!」
「気になっても黙っていなさい」
「厳しすぎる!」
結衣は困ったように笑った。
航平は額に手を当てた。
「……ごめん。いつもこんな感じなんだ」
「ううん。楽しそうで、いいと思う」
その言葉に、航平は少しだけ戸惑った。
楽しそう。
自分たちにとっては、ただのいつものやり取りだった。
けれど、初めて見る人には、そう映るのかもしれない。
「それで……」
航平は結衣に向き直った。
「聞きたいことって?」
結衣は、手元の原稿用紙に目を落とした。
「昨日、あなたの小説を読んで思ったの」
彼女はゆっくりと顔を上げた。
「どうして、あの女の子をあんなに苦しませるの?」
航平は言葉を失った。
駿も明里も、今度は茶化さなかった。
結衣は慌てて付け加えた。
「あ、ごめんなさい。責めたいわけじゃないの。ただ……あの子、本当に生きたいと思っているように見えたから」
彼女は原稿用紙の端をそっと指でなぞった。
「友達と笑ったり、好きな人と約束した場所へ行ったり。そんな普通のことを、すごく大切にしているように感じたの」
航平は黙って聞いていた。
「だから、どうしてなのかなって思ったの。あの子がそんなに生きたいと思っているなら、どうして最初から悲しい結末に向かっていくんだろうって」
教室の外では、部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえていた。
夕方の光が、窓から差し込んでいる。
航平は、昨日と同じ問いを聞いていた。
けれど、昨日とは少し違った。
昨日は突然の質問に答えられなかった。
今日は、彼女がどうしてその質問をしたのか、少しだけ分かる気がした。
「……まだ、結末は決めてないんだ」
航平は正直に答えた。
結衣は目を瞬かせた。
「決めてないの?」
「うん。どうすればいいのか、分からなくなってる」
「そうなんだ……」
彼女はしばらく考えた。
そして、少しだけ笑った。
「じゃあ、まだ間に合うね」
「え?」
「だって、結末を決めてないなら、あの子が幸せになる可能性もあるでしょう?」
航平は、すぐには答えられなかった。
幸せになる可能性。
そんなことは、最初から分かっていたはずだ。
自分が書いている物語なのだから、どんな結末だって選べる。
それなのに、彼女の口からその言葉を聞くと、なぜか今まで考えていたこととは違う意味を持っているように感じられた。
「……そうだな」
航平は、ようやく答えた。
「まだ、間に合うのかもしれない」
結衣はうれしそうにうなずいた。
「うん」
それから、少し恥ずかしそうに笑った。
「なんだか、勝手なことばかり言っちゃってごめんね。私、小説のことは詳しくないから」
「いや……」
航平は首を横に振った。
「聞いてくれて、ありがとう」
結衣は少し驚いたように目を見開いた。
それから、柔らかく微笑んだ。
「どういたしまして」
その表情を見て、航平は昨日と同じことを思った。
この少女は、いったいどんな人なのだろう。
どうして、見ず知らずの自分が書いた物語に、こんなにも真剣に向き合ってくれるのだろう。
知りたいと思った。
けれど、何から尋ねればいいのか分からなかった。
そんな航平の様子を見ていた駿が、突然手を叩いた。
「よし!」
「……何だよ」
「せっかくなんだし、もう少し話していけば?」
航平は目を見開いた。
「お前、何を勝手に……」
「だって、せっかく来てくれたんだぞ。原稿を返すだけなら、もう終わってるだろ?」
「それは……」
「佐久間」
明里が、いつもより少し低い声で呼んだ。
「何よ?」
「今は黙ってなさい」
「えっ、何で!?」
「二人が話してるんだから、邪魔しないの」
駿は不満そうに口を尖らせた。
「……お前だって気になってるくせに」
「それとこれとは別よ」
「本当かあ?」
「何か言った?」
「何も言ってません!」
結衣は、二人のやり取りを見ながら楽しそうに笑っていた。
航平は、どうすればいいのか分からなくなった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
昨日までは、ただの知らない少女だった。
今日は、名前を知った。
書きかけの物語について話した。
そして、彼女が自分の物語をどう感じたのか、少しだけ知ることができた。
「……あのさ」
航平は、少し勇気を出して口を開いた。
「もしよかったら、今度……続きを読んでもらってもいいかな?」
言ってから、自分でも驚いた。
自分から誰かに小説を読んでほしいと頼むことは、あまりなかった。
まして、結末さえ決まっていない物語だ。
結衣は一瞬、目を丸くした。
「いいの?」
「うん。まだ途中だけど」
「……読みたい」
彼女は、はっきりと答えた。
「あなたがどんな結末を書くのか、気になるから」
航平は小さく笑った。
「分かった。完成したら、声をかけるよ」
「約束ね」
「うん、約束」
二人は、短くうなずき合った。
その様子を見ていた駿が、明里の耳元で小声を出した。
「……なあ、これってさ」
「何も言わない」
「まだ何も言ってないだろ!」
「顔に書いてあるのよ」
「お前、俺の顔が読めるのか!?」
「毎日見てるからね」
「何でだよ!」
「同じクラスだからでしょう!」
航平はとうとう笑い出した。
結衣もつられて笑った。
夕方の教室に、四人の声が響く。
特別なことが起きたわけではない。
告白をしたわけでもない。
二人の間に、突然、何か劇的な関係が生まれたわけでもない。
ただ、昨日出会った少女が、今日、自分の教室を訪ねてきた。
そして、また会う約束をした。
それだけのことだった。
それでも航平にとって、その日は、昨日までとは少し違う一日になった。
帰り際、結衣は教室の入り口で振り返った。
「水野くん」
「ん?」
「その女の子が幸せになれるといいね」
航平は、少しだけ目を見開いた。
それから、静かにうなずいた。
「……うん。俺も、そう思う」
結衣は微笑み、今度こそ廊下へと歩いていった。
航平は、その背中が見えなくなるまで見送った。
「……航平」
隣から、駿の声が聞こえた。
「何だよ」
「お前、今、すごくいい顔してたぞ」
「は?」
「いやあ、青春だなあ!」
「うるさい!」
「照れるなって!」
「照れてない!」
「はいはい。そういうことにしておくよ!」
明里がため息をついた。
「佐久間、帰るわよ」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい!」
「……本当に疲れるわね」
「お前にだけは言われたくない!」
二人が廊下へ出ていく。
航平は一人、机の上に残ったノートを手に取った。
ページを開く。
そこには、まだ結末の決まっていない物語があった。
けれど、昨日までとは少し違う気持ちで、その文章を眺めることができた。
――まだ間に合うね。
少女の言葉が、心の中で繰り返される。
航平はペンを手に取った。
そして、物語の続きを書き始めた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
昨日の出会いをきっかけに、航平は初めて、書きかけの物語について誰かと向き合うことになりました。
そして、名前も知らなかった少女の名前を知ることになります。
一方、航平の周りには、彼の変化を見逃してくれそうにない友人たちがいます。
彼らの騒がしい日常も含めて、これから少しずつ描いていきます。
次の物語も、読んでいただけたら嬉しいです。




