第一部 第十章 人形の家 ー 後
巡視船あさかぜを襲ったものは地震でも爆弾でもなく、例の小さな芽から巨大な木になった物体の根であった。 そもそもあさかぜが遭遇した障害物は徐々に大きくなりつつあったその木の根っこであり、それが東京湾を埋め尽くすかのように四方八方に伸びて、その一つがあさかぜの横やりを突いたのだった。
あさかぜの受けた衝撃やその時発せられた衝撃音は深い闇に飲まれ、なぜか遠くに響くことはなかった。
あさかぜの乗務員の半分は浅い眠りからたたき起こされ、床に放り出され、けがをしたも中にはいた。 船橋にいた波田は恐らく外から迫りくる異常に一番早く気が付いたが、全くの想定外のことにただあっけにとられ、その場に転げ、頭を打たないように両手でかがみこむことで精いっぱいだった。
波田は船橋の端から端へと飛ばされ、体全体に打撲を受けた。 幸い頭は打たず、その代わりに頭を抱えていた手の甲をあたりの硬いものにぶつけ、痛みがそこに集中していた。
激しい揺れが収まるまで四、五分はかかった。 船全体から照明が消えていた。 波田は頬に濡れた床を感じた。 その揺れが緩やかに感じられる頃、波田は反射的に両手を床について立ち上がろうとした。 その瞬間、両手の甲に激痛が走った。
「あがぁ!」
波田は痛みで叫んだ。 そして、わかっていたはずなのにと自嘲し、痛みが激しいのに笑いがこみ上げてきた。 数分して痛みが多少和らいだころ、波田は両手を胸に抱えるようにし、両足でバランスを取りながら立ち上がった。 そして、船橋の前方にある船内アナウンスメントのスイッチを肘で入れ、
「各所安全確認、医務室・・・」
返事がなかった。
「機関室、機関室・・・」
やはり返事がなかった。
そんな余裕がないのか、それとも・・・ 波田は一瞬頭に浮かんだ最悪の出来事を頭の奥へ押しやり、
「安全確認、応答せよ。」
「こちら・・・ 厨房・・・」
息も絶え絶えに岩淵がそう言った。
「岩淵か? 状況を・・・」
スピーカーから岩淵の痛々しい息遣いが聞こえる。
「大丈夫か?」
「は、はい・・・ 私は何とか、体全体を壁か床にたたきつけられたようで、それに左腕が折れてるのかすごい痛みが・・・」
「わかった。 救急車を呼ぶ。 無理するな、動けなければそのまま待機。」
「了解・・・ でも・・・」
岩淵の激しい息遣いが嗚咽に変わっていった。
「どうした? どうしたんだ?」
「は、は、原田さんが・・・」
「わかった。 救急車が来るまでそのまま待機。」
原田さんが・・・
波田は手の痛みをこらえながら、地上の連絡用の無線を手にした。 その時、遠くから救急車の音が聞こえ、それが徐々に近づいてくるのがわかった。
夏子は陸に上がると、近場の公衆電話から管制センターに連絡を入れた。 管制センターによると竹芝桟橋に向かう途中であさかぜの位置が突然確認できなくなり、ドローンでそこまでのあさかぜの航路を追跡を試みたもののドローンからの映像もすぐに途切れ、視界のはっきりする明け方を待ってヘリで探索するところだったという。 夏子はその電話で自身が体験した異常な現象を説明したが、あさかぜが桟橋に無事帰港していることおよび救命作業も無事完了したことを踏まえ、未明まで待機となった。 それと念のために救急車の要請もした。 自衛隊と都知事への協力要請もとセンターには伝えたが、それもやはり現場の確認をしてからということで、夏子たちにはあさかぜで勤務時間終了の八時まで待機、引継ぎの人員を寄港中の桟橋まで送ることに決まった。
夏子は異常事態の緊急性がどうにも伝わらなくてひどくもどかしさを感じたが、同時に自分自身、事の次第がどれだけ尋常ではないのか把握できていなかったので、センターの指示に素直に従うことにした。
「船長、どうぞ。」
そう言って深水は夏子に温かい缶コーヒーを差し出した。
「ありがとう。」
夏子は缶コーヒーを受け取ると、両手で転がすようにその温かみを感じた。 深水はそれを見て、自分の缶を開け、ぐいぐいと飲み始めた。 夏子も深水の様子を見てようやく笑みを浮かべ、自分の缶も開けて一口飲んだ。
「慌てて飛び出て来てジャケットも忘れちゃったけど、やっぱり夜明け近くはまだまだ寒いわね。」
「そうですね。 まだ春先ですからね。 桜もまだですからね。」
「桜はもう終わったんじゃなかった?」
「いえ、まだですよ。 まだなはずですよ。」
「そうだった? そうだったかな?」
「いやんなっちゃいますね。 忙しすぎて。」
「まあ好きでやってることだから。」
「いえ、僕はそんなに好きとは・・・」
「そうなの?」
「仕事が嫌なわけじゃなくて、いつも妻に嫌味言われるのが嫌で。」
「そう、頭では奥様も理解してらっしゃるんでしょうけど。」
「だからあと少しやったら地上勤務にしてもらおうかと、子供も大きくなるし。」
「それもいいかもね。」
「あ、そういえば、おめでとうございます。」
「何であなたも知ってるの?」
「いえ、その原田さんが・・・」
「ったくあの人も口が軽いっていうか、おしゃべりなんだから。」
「でもみんな知ってますよ。 でも、みんな心配もしてるんです。」
「何を?」
「結婚したら海保辞めちゃうんじゃないかって。」
「そんな時代じゃないわよ。 それにね、私の相手の人、お見合いだったんだけど、小さなころから子供育てして、料理を作ったりするのが夢なんだって。 だからそう言った人間ですけどよろしいですか? なんて言うから、私、笑っちゃって、じゃあ、私も仕事一筋で行きますよって言ったの。 そしたら彼、僕たちパーフェクトマッチじゃないですかなんて真顔で言うから、私もそうですねって。 彼の親御さんは恥ずかしいような顔して、私の母はおかしいのを顔色を変えずに繕って、ただただ仲人さんは変な顔してたわ。」
「じゃあ、よかったじゃないですか。」
「そうね。 よかったのね。」
そう言って夏子は笑った。 深水もつられて笑った。 二人とも気が緩んだせいかようやくあたりの様子に気が付いた。
「でも今日はなんか暗いですね。 そろそろ水平線が白みかけてもおかしくない時間なのに。」
「そういえばそうね。 とりあえず船に戻りましょう。」
夏子は残りのコーヒーを飲み干そうと顔を上げた。 海の方角を向いていたのだが、何やらうっすらと巨大な影が見えた。
「あれはいったい・・・」
深水は思考が停止したかのように言葉が続かなかった。
二人の目の前に突如として巨大な木が立っていた。 二人にそれが木とわかるまでずいぶんと時間がかかったのだが、わかったとたん二人とも言葉も思考も失い、何もしなかったし、何もできなくなってしまった。




