第一部 第十一章 ― 狂った果実
そして長い早春の一日が始まり、人々はそれぞれ各々の混乱を迎えた。
東京湾沿いの土地はその巨大な木の枝や葉に光を遮られ、その一日のほとんどを太陽の光を浴びずに過ごした。 そのため実際何がどうしてこんなに暗いのかがわからなかった。 情報はスマフォのメールに限られ、テレビ、インターネット、ラジオなど電波を使うものはほとんど利用できなかった。 もっともそれは空気中の緑の粒子が引き起こした一時的な電波障害だったが、人々の間にパニックを起こすには十分だった。 誰もがどうしていいか戸惑いどこに行けばいいのか、何を頼りにしていけばいいのかわからなかった。
もちろん、東京湾近郊の交通にもそれは影響が出た。 もっともそれは一般的な事故のためのダイヤの遅れや首都高の渋滞と言った我々が経験してきたものではなかった。 人が一人、二人と東京湾に向かって着の身気ままで歩き始め、それが昼過ぎには数万人規模の大行進となっていた。 もちろん、近郊に住む人間すべてがそうなったわけではなかった。 それは風向きにも関係したし、それぞれ人によっては敏感である人もいたし、敏感でない人もいた。 ただ、そうやって歩き出した人々は巡視船に助けられた母子や乗務員のように何かを心に見たわけではなかった。 別の何かが彼らを呼び寄せていた。
夕暮れ時、はるか遠くの水平線上の空が淡い赤色に包まれはじめ、通常であるならほんの少し間紫色に代わるころ、巨木に新たな変革が起こった。 実際、空の色ははっきりとわかる緑色に代わっており、紫色の代わりに黄色がかってきていた。
東京湾の中ほどを中心にそびえたった巨木はその根を湾中のいたるところへ伸ばし、湾上を覆いつくした枝枝とその壮大な幹を支えていた。 沿岸のいたるところには午前中から集まってきていた人々が今か今かと何かが起こるのを待っているかのように巨木を見つめていた。 その中の七割ほどは着のみ着ままでやってきた人たちだったが、残りは心配して一緒に付き添ってきていた家族や友人、あとは野次馬も幾分か混ざっていた。
みなそれぞれに疲れていた。 巨木の何かに魅了されている人々は未だに何かを待ち続けていたのだが、体力を消耗してしまった人もいて、家族や友人がその場から移動させるような場合もあった。 それでもその人たちは何やらはっきりわからないうわごとのようなことを口の中で繰り返していた。 家族や友人は最初は何を言っているのか聞き取ろうと努力をしてみたが、結局わからずじまいで、その人々を何とかごまかして連れ帰った人もいれば、どういっても言うことを聞かないので簡単な食事と水を残して帰ってしまう人たちもいた。
そして遠くはるかかなたで日が沈み、東京湾にも完全なる闇が訪れようとしていた時だった。
巨木の枝枝の中できらりと何かが光を放った。 それは闇夜に唯一光る金星のようでもあったし、夜の川沿いをすっと飛び回る蛍のようでもあった。
その光を見た瞬間、そこで待ち続けていた人たちの顔色が変わった。 急に元気を取り戻したように、人によっては背筋を伸ばしたり、目を凝らしたりして、その光を凝視し始めた。
家族や友人たちは何事が起こったのかきょとんとした顔をした。 野次馬連中はおおっと小さく声を上げ、何か始まったなとかなんだありゃとかそれぞれに声を上げた。
その光はまぶしいようで優しく、力強かった。 その場にいた誰もが一瞬はその光のとりこになった。
着のみ着ままでその場に半日も立っていた人々はその瞬間を待っていたかのようにざわめき始め、その光に近づこうとあたりを見渡した。 その光は闇の中心にあり、高すぎるし遠すぎたので簡単には手に届かなかった。
東京湾全体を囲むように湾沿いのいたるところに人々は集まっていたが、特に湾の中心から北東に位置する砂浜は集まった人々で埋め尽くされていた。 やはり人が常に集うところとあって、木に魅了された人以上に野次馬的な人間の方が多いように思えた。
その砂浜に集まっていた人々もその妖しい光に気づくや砂浜を下り、ざぶざぶと水の中に入っていった。 皆、それぞれ腰あたりが水に浸かるまでは平気で進んだ。 ただ、水が胸のあたりまでくると、現実との葛藤があるのかそれ以上行くと溺れるという意識が働いてその場でしかめっ面をして、物欲しそうに光を眺めていた。
野次馬連中は少し違った。 もともと暇つぶしでやってきてようやく何か変わったことが起こり、単純なる好奇心からその光のもとへ行こうとしていた。 そのうちの何人かが寄り集まって何か話し始めた。 そして、海岸沿いのホテルに隣接しているヨットハーバーに走っていった。
その連中はハーバーに着くときょろきょろあたりを見回しはじめ、暗闇の中ようやく中の一人がお目当てのモノを見つけると、
「あった、あった、こっち、こっち!」
と、一緒に行った皆を呼び寄せた。
その輩はヨットに囲まれた桟橋を海の方へ向かって走り始めた。 端に着く少し手前に水面に降りる階段があり、もちろんそこには入れないように鍵がかかっていたのだが、五人のうち三人は軽くそれを飛び越え、下にくだった。 残りの二人は少し遅れてやってきた。 その二人は男女のカップルで女の方がうまく扉を飛び越せずにいたので、男が何とかカギを壊してでも入ろうとした。 しかし、思ったよりも鍵が頑丈で開かなかった。 それで仕方なく互いに顔を見合わせ、お互い悟ったように頷いてそのまま二人して水に飛び込んだ。 飛び込んだ後、そのまま三人が行った方に泳いでいった。
階段を下った先に救助用のジェットスキーが三台置いてあり、最初に降りてきた一人がさっさと飛びまたがり、何かごちゃごちゃいじくったかと思うとエンジンをうならせて飛び出していった。 続いて降りてきた他の二人も二台目を同じようにエンジンをかけて、飛び出した。 水に飛び込んだ二人はびしょびしょの体で何とか三台目のジェットスキーに乗ったが、いくらごちゃごちゃいじくってもジェットスキーはうんともすんとも言わなかった。 男が情けない顔で女を見たが、女は光のことなどどうでもよかったらしく、男にしがみついた。 そしてその二人はそこまで来た理由を忘れてしまったかのようにそこでイチャイチャし始めた。
二台のジェットスキーは暗闇の中、器用に目の前に現れる木の根を避けつつ、光のある方へと向かっていった。 水しぶきが例の光を受け、輝いては消えていった。
その様子を海に入っていった人たちは何だかうらやまし気に見ていたが、光が一層強くなるにつれて、それはただ単なる羨望だけではないことが分かった。 水の中の人たちの目の中にはその光しか映っておらず、その光に引き込まれていくのを決意しているようにも思えた。 そのうち、その中の一人が泳ぎ始めた。 すると周りにいた数人も同じように光に向かって泳ぎ始めた。 今までゆっくりと水の中を歩いていた人々皆がそれにつられて、水を手でかきはじめ、終いには誰も歩くことなどせずにどんどんと海に飛び込んで、水をかいたり、けったりした。
それが瞬く間に東京湾全体で待っている人々に移り渡った。 桟橋で待っていようが、崖の上で待っていようが、皆気にもせず、家族や友人が止めるのも気にせず、続々と海に飛び込み始めた。 落ちた瞬間に岩や防波堤などに頭をぶつけてそのまま沈んでいくものもいた。 泳ぎ疲れて、溺れていくものもいた。 そんな様子を見ても誰も止められなかったし、止めようともしなかった。
それはある種の地獄絵だった。
それでも半数位はうまく水面から突き出た根に捕まったり、またがったり、その上を歩いたりして光を求めて進んでいった。 皆それぞれが光にたどり着きたい、たどり着かなければならないと言った使命感に突き動かされていた。
ジェットスキーに乗っていった若者たちは水面から飛び出た根がいくつもこんがらかったように絡まりあってしまって結局それ以上進めなかった。 それでも数キロはまだ中心まであるように見えた。 ただ単に暗くてたった一つのまぶしい光だけを求めていくのも馬鹿らしく感じてきた。 ジェットスキーをすり合わせて、どうするか話し合っていた時、何かポンっとものが開くような音が聞こえた。 そして、あたりに少しだけ光が増した。
三人が空を見上げるともう一つ光が別の場所に現れた。 もともとあった場所とは違う反対側でそれは輝きを放った。
その音は静かでもっとさくっと言ったようなで何かが開いた時に出る音だった。 そして光を放った。 三人は何だろうと見上げた。 その音は枝の全く別の場所から聞こえ、光を放った。 一つ、二つ、そして三つとどんどんその音とともに東京湾全体に広がった枝枝からその音が聞こえ、終わりのないシンフォニーのように奏でられ、それぞれが光を放った。
湾岸から光を求めて進んでいった人々もその幾重にも現れ出でる光に目が釘付けになった。 もちろん水際で残された人々も同じくそれを呆けたように見つめていた。
いつの間にかその光は枝枝全体に広がり、数えきれないほどになり、まるで豪華なクリスマスツリーのようだった。 いくつもの光は重なり合い、光の集合体となり、一見まぶしく感じられたが、なぜか目をつぶらなくてもよく、白く温かく優しい月の光のようだった。 皆が皆その光を見つめ、そしてそのとりこになり、その光を見続けた。
すると今度はその光の中から一枚の花びらがきらきら、ゆらゆらと空気に身をゆだねるように海面に落ちてきた。 最初にそれを見たのはジェットスキーに乗っていた三人だった。 三人はきらきらと揺らめく花びらが自分たちの近く水面に落ちるのを見ると、そのうちの一人が水に飛び込んでそれを手にした。
「なんだかこれめっちゃきれいじゃね。」と手にした一人は「俺もらい。」とはしゃぐように近くの根に捕まりそのまばゆい花びらを手にし眺めた。
すると別の一人が、
「そんなんお前にやるよ。 見てみろ。」
そう顎で上空を指した。
今度は数えきれないほどの花びらがひらりひらりと牡丹雪のように落ちてきた。 三人とももう言葉が出なかった。 ジェットスキーに乗った時にはなかったある種の感情が彼らの心に生まれ始めた。
みやびなりけり
巨木の枝枝から優美で優しい光を放ちながら舞い降りる花びらはまさに他の言葉では表せないものであった。 見上げるものそれぞれの心に深く静かに浸透するその感覚、人間が生きる世界はすべて美しいもので形成されているという疑いのない事実、そしてそれを理解し、愛おしむ精神の存在、そういった事象をすべて肯定する目の前に存在する美。
それはジェットスキーの三人だけではなく、巨木の不思議な力に呼び寄せられて集まってきた人々、それを心配してやってきた家族、友人、その場に集まったすべての人間の共通項となりつつあった。
誰もがただその驚くほど息を呑むほどの美しさに目と心を奪われていた。 その場にやってきた半数以上の人間は溺れたり、頭を打ったりして命を失っているというのに、そんなことはもうどうでもよくなっていた。 みな、ただただその景色を眺め、あらば一体化したいと願っていた。
花びらがひとしきり舞って、東京湾の水面を埋め尽くした光景はまさに天上の風景とも見えた。 もう東京湾内、湾岸近辺にいる人々の心は一つになっていた。 自らその空間を埋め尽くす一部となりたいと願っていた。
静かな時が流れた。 人々が見上げる巨木の枝枝は暗闇に消え、唯一、水面を埋め尽くした花びらがかすかな光を放っていたがそれも次第に弱くなり、徐々に空間に闇が戻り始めた。
闇と静けさに包まれた人々に不安が訪れたかと言うとそうではなかった。 もちろんあたりは何も見えなくなってしまったし、波の音ですら聞こえなかった。 ただ、人々は次の事象を待っていた。 花びらの次に来る何かを当然のごとく待っていた。
どのくらいの時間が経ったろうか。 静けさの中で人々の吐息の音だけが低く響き渡り始めた頃だった。 ぽちゃんと何かが水に落ちた音がした。 それもまた例のジェットスキーの三人組のそばだったのだが、何かが転がり落ちて、巨木の根をたどり、そして水の中に転がり落ちたのだった。
三人は取りつかれたようにその落ちた物体をめがけて水に飛び込んだ。 その物体は光を放つわけでもなく、特に何の変哲もないまん丸と膨らんだ桃のような果物だった。 三人のうちの一人がそれをつかむとそのままそれにかぶりつくと、その果汁が口の中ではじけるように広がり、そのまま喉の奥に流れ込む、するとその瞬間、その男の顔に恍惚感が訪れ、口を大きく開き、一瞬のうちの呆けてしまったかのような歓喜の顔になった。
その実の中には桃とは違って無数の小さな種がちりばめられていた。 そうしているうちに仲間がその実を横取りし、そして大きくかぶりついた。 すると同じように一瞬のうちのオーガズムを迎えてしまったようなそんな顔つきだった。 三人目もその最初の二人のことなどお構いなしにその果物にかぶりつき、瞬時に訪れた恍惚感に溺れていた。
喉から流れ込んだのはその果物の実や果汁だけではなかった。 小さな黒い粒つぶの種が無数に入り込んだ。
三人とも数分の間、ぼおっとしていたがそのうち目が覚めたかのようにあたりを見回した。 三人が三人とも水の中に何もしないのに浮いていることを不思議に思ったが、なぜかそんな疑問を持つのがおかしいとさえ思っていた。
ただ、すぐに彼らは自分たちが浮いているわけでないことを自覚した。 三人のうちの最初に果物にかぶりついた男は自分の下半身のあらゆる毛根から細かな植物の根が生えてきていたことに気が付いた。 もちろん彼自身それが植物の根と言うことを実際の目で確認したわけでも触って実感したわけでもなかった。 彼自身の心の中に自分の体中から根が生えだし、そして体が硬直しはじめ、そして口や目から木の芽が飛び出してきている印象が生まれていた。
ただ、それは彼らの心の中で起こっただけではなく、実際に彼らの身にも起こっていた。 最初の一人はすでに木と化しており、二人目も三人目もあっという間に同じ運命をたどった。
そこには恐怖はなく、永遠の平安で満ちていた。
すると東京湾一面にぽちゃん、ぽちゃんと音が鳴り始めた。 そして、人々はそれを待っていたかのように水に飛び込み、そしてその実を食した。
その場に集まっていた人間がすべてそうした。




