第一部 第十章 人形の家 ー 前
午前三時前にあさかぜは無事桟橋に着いた。 夏子は深水とともに下船し、愛宕署に向かった。 その間は波田の元、簡単な後片付けと点検のあと、それぞれ自分の持ち場で待機をしていた。 例の家族は三人とも疲れ切っていたのか、老女は医務室で、母親と赤ん坊は開いていた寝室でぐっすりと寝ていた。
厨房では原田が包丁を片手にぼおっと立っていた。
あれはなんやったと?
夏子や小堀が点検窓のある部屋の中である印象を体験していたと同じように原田以下、すべての乗務員がそれぞれ奇妙な印象に心を奪われていた。 ただかれこれもう小一時間立ってしまっていてそれぞれに記憶があいまいになってきていた。 さらに中には夏子や小堀のように具体的な映画のシーンのような体験をしたもののいたし、そうでなくもっと漠然とした温かかったとか寒かったとか嬉しかったとか悲しかったとかそんな記憶しかなかったものもいた。 そういった者たちはもうすでに自身が経験したことをしてそのことを頭の中で処理してしまっていたので、特に何も気に留めていなかった。
いかん、いかん、そげんことにきいばとられて。
そう思い原田は本来なら午前五時に始める作業をさっさと始めることにした。 第一、六十も手前になると寝つきが悪くなってくる。 そのくせ昼間ぼおっとすることも多くなってきている。 休みの日はどこかに奥さんを連れて行こうかと思ったりもするが、そんな夢想中にさっさと起きたばかりだというのに十時過ぎには軽く昼寝をしてしまう。 それで結局、娘が孫を連れて夕方に遊びに来た頃、ようやく目が覚めて、じゃあ寿司にでもと言って近所の行きつけのすし屋に足を運ぶ。 半分妻には悪いと思っても、孫の相手をする妻はとても楽しそうで、安心する。 そして、もうそろそろ潮時かと定年で退職することを心に決める。
そんでよかですよ。 そんで。
そんな同郷の妻の声が聞こえる。
時間は誰にでも平等に与えらられ、そして我々はそれをできる限り無駄にしないように生きている。
どこぞでそげなこと聞いたけん、じゃけん、それはほんまっと?
キャベツを千切りにしているはずなのに、また原田は夢想に浸ってしまっていた。
「原田さん、一人でずるいですよ。」
そうお茶目に言って入ってきたのは同じ主計士の岩淵まみだ。 彼女は今年入ったばかりの新人だが、海保学校を最優秀の成績で卒業した期待の新人だ。 加えて海保学校に入る前はとある有名レストランの厨房で五年働いて、調理師の免状さえ持っているのだ。 一度原田が海保に入った理由を聞いたら、
「あのカレーの味が忘れられなくて。」
と、言う返事が返ってきた。 以前友人と海保のカレーの日に遊びに来た時のカレーがすごくおいしかったのだそうだ。 残念ながらそれは原田のカレーではなかったが、それでも原田がカレーを作るといの一番に味見をし、点数までくれるのだ。 最初は多少そんな岩淵の奇行(?)にへきえきした原田だったが、慣れてしまえばなんてことはない。 少し生意気な娘が出来ただけだと思うようにさえなった。 それに第一彼女の作る料理は文句のつけようがなかった。 洋食、和食も卒にこなし、休日はいろんなレストランに行って食べ歩きをしたり、本屋をめぐって調理本を買ったりと忙しくしていた。
そういったことも原田が定年を意識し始めた原因だった。
もうよか、もうよか・・・
そんな風に自分の身の振り方を考えるのが原田の日課になっていた。
岩淵は切りかけのキャベツを見て、
「今日の朝は石狩産の焼いたしゃけ、お豆腐とわかめのお味噌汁、それと漬物、お米は大麦を混ぜた麦ごはんじゃなかったでしたか?」
「そうやった。 そうやった。 すまんな。 ボーっとしとった。」
「いいじゃないですか、キャベツはお味噌汁に入れてもいいですし、大根おろしの代わりにしゃけの添え物にしますか?」
「そうやな、みそ汁にいれるか。 最近の若い連中、野菜も食べんのもおるし。」
「それじゃ私ごはんの支度します。」
「すまんな。 だめや、おいも。 歳には勝てへん。」
「どうしたんですか、今朝は? まだ早いですし、お休みになられたら。」
「そう思ったんやけど、よう寝付かれん。 どしたんやろうな。」
「でも年のせいじゃないと思いますよ。」
原田は図星を突かれてドキッと岩淵を見た。 岩淵はクスリと笑って、お米を研ぎ始めた。
「なんじゃ、からかってるのか?」
「いえ、私も寝むれなくて。 船が止まっちゃった時、船長と小堀さんがプロペラの様子を見に行って、その時・・・」
それを聞いて原田は胃がきゅうっと締め付けられるような痛みを覚えた。 嫌なことを思い出した時に感じる痛みだ。
「岩淵は何を見たん?」
「原田さんも?」
「いや、おいは何を見たっちゅうかよう覚えておらんのよ。 ただ、なんちゅうかその気色悪いちゅうか、後味の悪いちゅうか、いろんなもんをまとめて食べて、胃がどうしていいかわからんちゅうか・・・」
「私が見たのはその昔の記憶と言うか、思い出と言うか、でもちょっと違うような、何か原田さんが言ったみたいに何かと混ざってしまったような・・・」
「ええから何を見よったん?」
「私はあの一人っ子で、ある事情があって実の親ではなくて、母方の叔母に育ててもらったんですが、その人はあまり愛情とは関係のない人で、ひどい人ではなかったんですが、ひどく実務的で私を叱る訳でもほめるわけでもなく、私が生きる最低必要限のことはしてくれました。 ただ叔母は病気っていうか、そのいわゆる自閉症だったんだろうと今では思います。 他の人との挨拶もそっけなかったし、すべてが測りで計ったように行われました。 私はそれが息苦しかったようには思いませんでした。 叔母しか幼女の私には頼れる人はいませんでしたし、それが当然なんだと思っていましたし、それで良かったこともたくさんありました。 まあ、悪かったこともあったのかもしれませんが、叔母は気にしなかったので私も気にしない性分になったようです。」
「そっから岩淵が見たっちゃんは何ばい?」
「でも見たっていうよりはその時の記憶と私の心持が混ざり合ったようで、たぶん、そんなことは一度も経験してなかったと思います。」
「で?」
「あの、昔の女性がよく着ていた作業着みたいなの・・・」
「かっぽう着?」
「はい、そうです。 それを着た叔母が幼いころの私の手をつないで川の土手の上を歩いて行くんです。 いつまでも、どこまでも。」
「それを見たんね?」
岩淵は軽くうなずいた。 ただそこから先を続けていいのか少し迷っているような顔をしていた。
「何ね?」
「いえ。」
岩淵は大きく深呼吸をして話し始めた。 原田には彼女の顔がやや紅潮しているように見えた。
「続けます。 叔母はそんな人でしたから、私が疲れているとかあまり気にしない人で、まあ、あまり遠出もしませんでしたけど、それでずっと歩いて歩き続けて、とうとう私が倒れたっていうか、転んだっていうか・・・」
そこまで言い切って岩淵はうつむいた。
「どうしたばい?」
「あの、あの・・・」
岩淵はひくひくっと鼻をすすったかと思うと肩を小刻みに震わせ、大きく息をしようとしてそれにむせついた。
「何ね?」
岩淵は突然決壊したダムのように泣き始めた。 自身は止めよう、止めようと体を両手で抑えたりしているのだが、かえってひどくなっていった。
「ごめんだざい・・・」
涙声で言葉がはっきり出てこない。
「よか、よかよ。」
原田も号泣している女性の面倒をみたことなどなかったが、自分の娘と岩淵が多少重なって見えた。 しらずしらずのうちに小さい時の娘の頭を撫でるように岩淵の頭を撫でていた。
「泣きんしゃい、よかけん。 たっぷり泣きんしゃい。」
それを聞いたせいか岩淵はもっと大きく声を上げて泣いた。 原田はただただ静かに岩淵が泣いているのを見守った。
ひとしきり泣いて岩淵も落ち着いたのか、右手の甲で涙を拭って、
「そのさっきの続きですが、その私の見た記憶の中では叔母は泣いている私を跪いて抱き寄せ、ごめんなさい、ごめんなさいって泣きながら私に謝っていました。」
「そうか・・・ でも何でそんなもん見たんかな?」
「多分ですけど、私も心のどこかで叔母に抱きしめてもらいたいとか、そう言った気持ちが強くあったんだと思います。」
「大変やったんやな。」
「すみません、ご迷惑を・・・」
「よか、よか、よか・・・ もうええ、正規の時間まで休んでいろ。」
「いえ、もう大丈夫です。 麦飯は少し手間がかかりますから、今から準備しないと。 それに明日あさっては休日ですし。」
「わかった。 じゃあよろしく頼むぞ。」
「はい。」
岩淵は笑顔で敬礼して、作業に取り掛かった。
原田は落ち着きを取り戻した岩淵を見てほっとし、自分もキャベツの千切りを続けようと包丁を手にした。 すると頭がくらくらっとした。 ぐるぐると頭が回り始めたようなそんな気がし始めた。
寝不足や、横んなるか・・・
原田は包丁を置くや、今度は体全体が大きく揺れた。
「原田さん!」
岩淵の叫び声ではっとした。
おいの頭やなかったんや。
がしゃん、がしゃんと食器や厨房の中のものが容赦なく床に落ち、船体が徐々に大きく揺れていた。
「原田さん!」
そういう岩淵はもうすでに揺れのせいで立っておられず、床にしゃがみこんで厨房のテーブルの足にしっかりとしがみついていた。
原田はなんとかバランスを保とうとしたが、揺れはひどくなる一方で、両手を広げようが何をしようがその激しい揺れには勝てなかった。
バーン!
船体を揺さぶるような衝撃が船全体を一気に突っ走った。 何か大きなものが当たったようだ。
その衝撃で原田はポーンと壁の方に投げ出され、厨房の棚に頭をぶつけ、そのまま食器や何やらで埋まった床に転げ落ちた。
岩淵もその衝撃でテーブルの足をつかんでいた手が取れ、近くの壁に飛ばされ、がんっと頭を床に打ってそのまま気を失ってしまった。
原田は後頭部から血を流しながら、仰向けで低くうめいていた。
船体はいまだに揺れていたが、先ほどのとてつもない衝撃を最後にだんだんと揺れが収まっていった。
「いわ・・ぶ・・・ちぃ・・・」
原田は全身を襲う激しい痛みで気が遠のく中、岩淵の名を呼んだ。 返事はなかったが、原田は声を絞り出して何度も彼女の名前を呼んだ。
そのうち痛みが薄れてきて目の前が白くなってきた。
死ぬんやろか?
そう原田には思えた。
白さは光に変わり、まぶしいほどに輝きを見せた。
おかあちゃんより先とは言ってたけど、こんなすぐやなか。 おかしいて。
白い輝きは原田のすべての感覚を奪ってしまった。 原田は痛みもなく、悲しみもなかった。
すまんな、かあちゃ・・・
原田の意識はそこで切れた。 そして、白から黒い闇へと変わった。




