第一部 第九章 マネシツグミを殺すこと 後
「ご苦労様でした。 皆、無事で何よりです。」
「はい。」
そう夏子に言われて、いつもの沼袋なら武勇団でも語るように報告するのだが、その時は彼の心はそこになかった。
「一応ほかの三班の係員に報告は受けています。 顔にけがをされたそうですね。」
「応急措置は受けました。」
「それでは部署に戻ってください。」
夏子、沼袋、敬礼を交わす。
沼袋、一度その場を離れるが、ふと立ち止まって、夏子の方を振り返る。
「どうしましたか?」
「あの、その、えっと、いや、やっぱりいいです。」
沼袋が船橋を出ようとすると、先ほどの若い女性が赤ん坊を背負って立っていた。 赤ん坊は彼女の背でぐっすり眠っていた。
「大丈夫ですか?」
そう沼袋が聞くと、その女性は軽く頷いた。
「母がご迷惑をかけまして。」
「いえ、お二人とも、いえ、三人とも無事に救出出来て何よりです。」
「はい、ありがとうございました。 それで・・・」
「どうされました? 医務室で帰港するまでお休みになっていらして大丈夫ですよ。」
「あの母はどうしちゃったんでしょうか?」
「どういう意味ですか?」
ようやく夏子が口をはさんだ。
「あの、なんて申し上げていいかわからないんですが、うちはその母と息子と私の三人暮らしで、夫は今東北の方に単身赴任していまして、それで昨夜は特に何も変わった様子はなかったんです。 私は昼間仕事に出て、母が、洋介、息子のことを見ててくれるんですが、昨日も全然普通だったんです。 私が帰ってくると、洋介は寝ていて、母は夕食の準備をしていました。 私たち用のカレーと洋介用にカレーの具材を別に分けて食事を用意してくれていたんです。 私も手伝おうかって言ったんですけど、大丈夫よ、洋介が寝ている間にお風呂に入っちゃいなさいって。 ごめんなさい、どうもうまくまとめて言えなくて。 でも、ずっとずっと母親が変なことを言ったり、変化行動をしたりとか全くなかったんです。 第一、まだ六十になったばかりですし。 本来ならどこかでパートでもしたいんでしょうけど、洋介の面倒見るのが楽しくて仕方がないっていうもんですから。」
「つまり、お母さまには認知症の症状、例えば徘徊されたりとか記憶障害を起こされたりとか今までなかったというんですね?」
「そう、そうです。 だから、夕べ突然起きだして、あの人が呼んでるって家を飛び出した時にはびっくりしちゃって。」
「あの人っていうのは?」
「私の父です。 三年前に肺がんの末期で他界して。 母もすごいショックでしばらくは口も利けないほど落ち込んでしまったんですが、私がいい人と出会って、結婚して、妊娠したころには父の不幸がなかったかのようなほど喜んでくれました。」
「じゃあ、それでそのままお母さまを追いかけていらっしゃったわけですね?」
「まあ、母も足腰はしっかりしてますけど、もう六十になりますから私も赤ん坊を抱えて追いかけることができたんです。 もっとも少し見失ったんですが、さすがにここまで歩きでは来られませんものね。 駅でどうしようか迷ってるところで母を見つけて。」
「いったいどちらから?」
「調布に家がありまして。」
「調布って、桟橋まで二十キロ、いや三十キロ近くあるじゃないですか。」
「私も母を止めようと思ったんですが、あの人が呼んでる。 海の向こうであの人が呼んでるの一点張りで。 仕方なく、じゃあ一緒に行くから、私もどこまでいくのかわかりませんでしたが、一応財布は持ってきていたので、桟橋に来て海を見れば納得するのかと思ったんです。 ようやく桟橋について、どうするのかと思ったら、母を待っていたかのように小型船の発着所にさっきのボートがぽっかり浮かんでいたんです。 母は迷いもせずにあれだっと言い、そのままボートに乗りました。 私も行くからと言うと、母は最初は戸惑っていたものの。一人じゃ危ないって言い聞かせて、私が先にボートに乗って、洋介を手渡してもらい、そして母が乗って。 そして母は迷わずに東京湾の中心に向かってボートを漕ぎ始めました。」
「警察に連絡は?」
「いえもうその時は私も無我夢中で。 それにおかしなことに私も父親に会えると思ったら何だかうれしくなって。 そんなことは絶対にないって頭ではわかっているのに、私も父親に会いたいって。」
「そこへ我々が到着したわけですね?」
「そうです。 もう母も手がしびれてきて、こんな運動したこともないのに、それでもあの人があの人がって、泣き叫びながらオールを必死に漕いで・・・」
そこまで言うと、その女性は肩を震わせ、むせび泣き始めた。
いろいろこの人にもあったのだろうと夏子は思った。
「わかりました。 改めてお話をお聞きすることになると思いますが、とりあえず今はお休みください。 確か寝室が一つ空いていたはずね。 班長、彼女を連れて行ってもらえますか。」
「了解しました。 あの、それと、あとでちょっとよろしいですか?」
「何でしょう?」
「少し気になることがありましたので。」
「わかりました。 では帰港したのちに私のところへお願いします。」
「了解しました。」
沼袋は夏子に敬礼し、そしてその女性を連れて行った。
夏子はその二人を見送ると、気を取り直すように背伸びをして、そして帰港することに集中しようとした。
「こちらあさかぜ、こちらあさかぜ、東京マーチス、応答願います。」
救出作業を報告しようとまた連絡を試みたが、応答はなかった。 ノイズさえも聞こえなかった。
巡視船あさかぜはレインボーブリッジの下を通り抜け、元居た横浜港へ向かっていた。 なぜか帰りは月の光さえ見えないほど暗くなっていた。
現在、午前二時。 天候は良好のはずなのに。
夏子の耳には巡視船の進行する波しぶきの音だけが聞こえていた。 しかしその音さえも大いなる暗闇に飲み込まれてすぐに消え去った。
「なんやのあれ?」
波田が前方を指して何のためらいもなくそう言った。
「何のことだ?」
そう深水は双眼鏡を覗き、目を凝らした。
「なんだありゃ?」
「いったいどうしたっていうの?」
夏子は少しイラついてそう聞いた。
「いえ、その何かが前方にあるのですが・・・」
「壁みたいなやな。」
「壁って? ちょっと待って、何あれは? このまま行ったらぶつかるわ。 面舵いっぱい!」
「面舵いっぱい!」
そう繰り返して波田は一気に左に舵を切った。 あさかぜ全体が右方向に急旋回し始める。 例の壁のような物体はあさかぜが起こす波を受け、大きなしぶきを放った。
「深水さん、赤外線サーチでほかに障害物がないか確認、二班一同甲板にて肉眼で障害物の確認! 波田さん、緊急事態です。 臨機応変に。」
「了解!」
右に大きく曲がったあさかぜはその勢いで例の物体の方へ横流されている。
「船長、惰性で流されています。」
「急速全開、前方に注意。」
「前方にも障害物。」
「何ですって? 後方確認。」
「後方には何も見えません。」
「後方に急速全開、後方確認も怠りなく。」
「了解。」
波田の操作であさかぜの原動力のプロペラが逆回転を始めた。 ゆっくりと横流しになっていた船体が後方に進み始める。 例の物体に船体の一部がかする。
夏子以下、皆、一瞬不安が顔に宿る。 が、あさかぜはその一瞬を過ぎると何事もなかったかのように後方に航行し続けた。
「船体確認。」
「船体に異常なし。」
「後方約二百メートル先に障害物確認。」
「桟橋方面に戻るわ。 四方確認。 ここでターンできる?」
「大丈夫です。」
「前方に急速全開、面舵九十度。」
「桟橋まで障害物は視認できません。」
「サーチライトで前方巡視船の航行範囲内を肉眼で確認しながら先行します。」
「了解!」
あさかぜは障害物の前でUターンをし、船首は竹芝桟橋の方へ向いた。
「低速で着桟します。 ここは確実に行きます。」
「了解。」
「前方サーチライト内、障害物なし。」
いったい、今のは何だったの? 不安が皆に広がらないように心の中でそう夏子は思った。 もっとも、それはあさかぜの乗務員誰もが思っていたことだった。
取り敢えず着桟して、そこからセンターに直接電話で連絡、同時に愛宕署に連絡して救命者の保護の協力要請、それから都知事に東京湾の異常状況の調査のための海上自衛隊の出動要請・・・
夏子がしなければいけないことを頭で反芻させている途中、あさかぜがぐいっと何かに引っ張られたように止まった。 低速で航行していたもののその勢いのせいで船体が軽い地震にあったように揺れた。 そして、乗務員の何人かはそのせいで床に転げ落ちた。
近場に捕まるものがあった夏子たちはそれぞれに反応して倒れはしなかった。
「波田さん、どうしたの?」
「わかりません。」
「障害物?」
「いえ、前方および左右を確認しましたが、何もありません。」
「エンジンの故障? そんな訳は・・・」
「機関室、何か異常がありましたか?」
「いえ、出力に問題はありません。 ただプロペラが回転していません。」
「どういうことですか?」
「動力は伝わっているのですが、プロペラが全く反応しません。」
「制御パネル上はどうなっています?」
「異常なしと、ただ、プロペラのシャフトの温度が急上昇しています。 一度エンジンを止めないとシャフトに亀裂の入る可能性が・・・」
「エンジン停止。」
「了解。」
夏子の指示とともに波田がスロットルをアイドルに戻し、そして機関室でエンジンのスイッチが切られ、すっとエンジン音が消えた。 その瞬間、静けさが訪れた。
「機関室、プロペラの確認をお願いします。」
「プロペラ確認了解。」
機関室で、機関士長の流山が完全にエンジンの止まったことをパネルで確認し、
「小堀機関士、点検口からプロペラの異常の確認。」
「了解。」
「私も行きます。 波田さん、深水さん、全方向の障害物および異常事象の確認を続けてください。」
夏子はそう言い終わるか言わないかのうちに船橋を出て、船の後方へと向かった。 動揺を隠せないのは私だけなのだろうかと夏子は思ったが、船橋を出るときにちらりと見た深水と波田の顔はどこか青ざめていた。 そしてそれは自分たちは未知の体験の真っただ中にいるのだと物語っていた。
船体の最後部で小堀機関士がすでにプロペラ点検口へ降りるパネルを外し、夏子を待っていた。 普段の小堀は気難しく冷静な面持ちをしていたが、その時はどこか興奮を抑えているような顔をしていた。 彼のきりっとした口元もどこか震えていた。
「船長から。」
そう言って、小堀はパネルを夏子のために抑えた。 夏子は頷く代わりに目でそれに答え、そしてさっと下に降りた。 軽く相打ちを打とうと口を開けたのだが声が出なかった。 小堀が慣れた手つきでそれに続いた。
数メートル下には畳二畳程度のスペースがあり、その中心に円形の点検窓があった。 夏子はその傍らに跪き、小堀は照明のスイッチを入れると窓下にあるプロペラがくっきりと映し出された。
夏子の目には点検窓から照らされたプロペラには特に異常がないように映った。 ただ、なにやらそこから見える海水は緑色がかっていた。 藻か何かのようにも見えたし、照明のせいなのかとも思った。
小堀は窓を覗いてなぜか怪訝そうな顔をした。
「どうしました? プロペラに何か?」
「いえ、視認した限りでは異常は認められません。 ただその水の色の緑が濃いような・・・」
「やっぱり、あなたも・・・」
「船長もですか? ここの照明は無色のLEDランプでプロペラをはっきりと映し出すためについているので、水の色が映ることはないんですが。 まあ水温が上がってプランクトンの量が増えているのかもしれません。 そのせいで緑っぽく見えるのかと。」
「じゃあ緑の藻か何かが窓ガラスに張り付いている?」
そう夏子が言った瞬間、その窓に張り付いた藻のような物がぼわっと緑色の光を放った。 それはまるで淡い輝きを放つ蛍の光のようだった。 そして二人のいる空間にゆっくりとその緑色が侵食し始めた。
何だろう? そう夏子が思った時にはすでに彼女の心の中にある印象が生まれ、その印象に彼女の心は奪われ、彼女自身もう巡視船にいることさえ忘れていた。
その印象はある映画の一シーンのようだった。 夕暮れの中、その日の光でセピア色に染まったドレスを着た四才くらいの幼女がよれよれのかっぽう着姿の女性に手を引かれ遠く細長い川沿いの土手の上を歩いていた。 舗装はされていたもののもう何十年も手入れがされていないその道はひび割れから雑草が勢いよく顔を出していた。 もちろん、土手の表面は深い雑草の茂みで覆われ、川の岸もはっきりと見えなかった。
幼女はどこかしら夏子を思い起こさせたが、それほど似ているわけではなかった。 ただ、もうしばらく歩き詰めのようで、足運びがたどたどしかった。 彼女の真っ赤なほっぺには涙の筋が流れそして渇き、もうずいぶん前に泣くのもあきらめてしまったかのようだ。 その代わりに時折目蓋が閉じ、かくんっと首を前方に落とし、それで起きる。 だが、小さな彼女にとって眠さと戦おうというような気力もなく、早く眠ってしまいたいという気持ちが強いようで、今度は目をつぶりながら歩き始めた。
かっぽう着の女性はしばらくそれに気が付かなかった。 幼女の足取りが少し重くなったようだったが、自身も疲れていてともかく先に進まねばいけないという気持ちでいっぱいだったので、幼女を半分引きづっているような感覚を覚えて初めて幼女が眠っていることに気が付いた。 そこでその女性はようやく立ち止まり、幼女の体を軽く揺さぶった。 幼女は軽く目を開けたものの瞬きをゆっくり繰り返し、またしっかりと目を閉じてしまった。 その女性は今度はもっと激しく揺さぶってみたのだが、幼女の体からは自身の姿勢を保つ力がなくなっていて、首が揺さぶられるたびに少し揺れるだけだった。 そして、かっぽう着姿の女性はその場に落ちるように跪いて、幼女の体を抱きしめた。 自身もどうしていいかわからず、体が小刻みに震え始めたかと思うと、目から涙があふれ、あっと言う間に泣き崩れてた。 なぜか知らないが声を殺して泣いていた。
夏子が気が付くと、周りはまたその場所の照明に照らされ、窓から緑色の藻のようなものは消えていた。 夏子はその印象の中の女性がしたように跪き、体を震わせて泣いていた。 慌てて夏子は手の甲で涙をふき取った。 隣を見ると機関士の小堀が今起きたばかりというような顔であたりを見ていた。
「小堀機関士、小堀さん?」
そう呼ばれてようやく小堀は夏子の方を振り向いた。
「あの、ここはあさかぜの中ですよね。」
そう自問自答するように小堀は言った。
「そうだけど、あなたも見たのね?」
「見たというか、まるっきりどこか別の場所にいたような・・・」
「そう、私も本当は見たというよりはその場の空気にでもなっていたかのように、川の土手で母子が手をつないで・・・」
「自分はどこか外国の小さな町にいたような、そこで火をともしたたいまつを手にした大勢の人が掘っ立て小屋のようなぼろ家を取り囲んで、中に向かって出てこいとか、殺してやるとか叫んでいて・・・」
「あなたもその一人だったの?」
「いえ、自分はその小屋の中にいて、部屋の片隅でおびえている背の高い体つきのがっしりした男性が肩を震わせて、怖くて泣こうにも声を出せずにひくひくっと言っているのをただ黙ってみていたというか、船長のおっしゃったようにその場の空気にでもなったというか・・・」
二人ともそういうと黙ってしまった。 何かが二人の身に起こったのは確かなのだが、それがいったいどんな風に、またはなぜ起こったのか、加えて自身たちが見たという体験はいったい何なのか? いろいろな疑問が二人の心を錯綜して、ただただ混乱の中にいた。
夏子が点検窓を見るときれいにプロペラが照明で映し出されていた。 緑色のかけらも見えなかった。
夏子が船橋に戻ると、波田も深水もたった今起きたような顔をして持ち場にいた。
「機関室、もう一度エンジンをかけてみて。」
「エンジン始動。」
その掛け声とともに、波田が手元のスイッチを入れる。 そして、機関室では船橋から電源を確認したうえで、エンジン始動の作業を開始した。
「燃料注入。」
「エンジン点火。」
「出力確認。」
機関士たちが手際よく作業をし、船体がエンジン音とともに小刻みに震え始める。
船橋では夏子の隣で波田がモニター上でエンジンが正常に作動していることを確認し、夏子にうなずいた。
「竹芝桟橋の大型船舶専用の桟橋に緊急帰港、港に降り、陸上から管制センター及び管轄警察署に連絡し、これからの指示を仰ぎます。」
「桟橋に向け、出発します。」
「出発。」
波田がゆっくりとスロットルを押す。
「プロペラ異常なし。」
そう小堀の声がスピーカーから聞こえる。
「低速前進、障害物に気を付けてください。」
「了解。」
あさかぜは前方にサーチライトで照らし出された桟橋に向かってゆっくりと航行し始めた。
夏子の頭にはまだ例の印象のかけらのような物が残っていたが、彼女はそれをとりあえず押し殺して、無事に桟橋につくことだけに集中した。 あさかぜ乗組員全員がそんな風に考えていた。




